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ポルノグラフィティ
日本のロックバンド ウィキペディアから
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ポルノグラフィティ(英語: Porno Graffitti [注 1])は、日本の2人組ロックバンド[4]。所属事務所はアミューズ。所属レーベルはSME Records[注 2]。主な略称はポルノ、PG。公式ファンクラブは「love up!」[5]。
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概要
岡野昭仁(Vo)と新藤晴一(Gt)からなる2人組ロックバンド[4]。デビュー当初はTama(Ba)を含む3人組であった。
1994年に大阪で結成[6]。以降、ストリートライヴやイベントに精力的に出演し、バンドコンテスト等でも数々の賞を受賞[6][7]。1999年9月8日に「アポロ」でメジャーデビューを果たすと[7]、翌2000年には「ミュージック・アワー」「サウダージ」「サボテン」を立て続けにリリースし、ヒットチャートを席巻[7][8]。その後も「アゲハ蝶」「Mugen」「メリッサ」「愛が呼ぶほうへ」などヒット曲を連発[7]。2004年7月には初のベストアルバム『PORNO GRAFFITTI BEST RED'S』『PORNO GRAFFITTI BEST BLUE'S』を2作同時リリースし、2週連続でオリコンチャート1位・2位を独占するなど、記録的大ヒットとなる[7]。同2作の制作を最後にTamaが脱退し、岡野と新藤の2人体制へ移行[9]。その後も「ハネウマライダー」「今宵、月が見えずとも」「オー!リバル」「THE DAY」など、数多くのヒット曲やアルバムを送り出している[10]。ライヴバンドとしても高い評価を受けており[11][12][13][14]、メジャーデビューから毎年欠かさず単独ライヴを開催し、近年はロックフェスにも精力的に参加している[15][16]。2024年9月にはメジャーデビュー25周年を迎え、その集大成としてベストアルバム『ポルノグラフィティ全書 〜ALL TIME SINGLES〜』をリリースしたほか、因島運動公園と横浜スタジアムにて野外ライヴ『因島・横浜ロマンスポルノ'24 〜解放区〜』を開催した[17][18][19]。
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メンバー
要約
視点
デビュー当初のアーティスト名はカタカナ表記(アキヒト、ハルイチ、シラタマ)を使用。
2001年発表の7thシングル『ヴォイス』より現行の漢字表記(岡野昭仁、新藤晴一、白玉雅己[注 3])を使用している[注 4]。
現メンバー
元メンバー
サポートメンバー
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楽曲に関して
要約
視点
プロデューサー
デビュー当初から2012年までは本間昭光と田村充義の2人体制でプロデュースを手掛けていた[注 20]。
影響
岡野は邦楽ではTHE YELLOW MONKEYやユニコーンなど、洋楽ではボン・ジョヴィやガンズ・アンド・ローゼズに影響を受けている。特にガンズ・アンド・ローゼズから受けた影響は大きく、ボーカルのアクセル・ローズへの憧れから、高校3年の文化祭で演奏した際の衣装は父親の釣り用のベストだったと語っている[6]。また自身が詞曲を手掛けた「Let's go to the answer」と「東京ランドスケープ」の歌詞中にはガンズ・アンド・ローゼズの楽曲「Welcome to the Jungle」と「It's So Easy[注 21]」 がそれぞれ登場している[注 22]。
一方、新藤は邦楽ではBARBEE BOYSやチェッカーズ、中森明菜などに影響を受けている。特にBARBEE BOYSから受けた影響は大きく、新藤が初めて購入した楽器は高校1年の頃に買ったソプラノ・サックスで、KONTAのようにサックスを吹きながらボーカルをやりたかったと語っている他、高校2年の文化祭ではBARBEE BOYSのコピーバンドを組み演奏している[29]。洋楽ではガンズ・アンド・ローゼズやエクストリーム、エリック・クラプトンなどに影響を受けており、エクストリームのギタリストであるヌーノ・ベッテンコートへの憧れは強く、シグネチャーモデルのギターも所有している[注 23][29]。
また、両者共にバンドマンを志したきっかけは「中学生のときにXを聴いたこと」と述べており、新藤が初めてコピーした曲は「紅」である[30]。
制作活動
作詞
インディーズ時代からほぼ全楽曲の作詞を岡野と新藤が手掛けている[注 24]。中でも、デビュー曲の「アポロ」をはじめ、「サウダージ」「アゲハ蝶」「メリッサ」「ハネウマライダー」「オー!リバル」「THE DAY」といった代表曲の作詞を手掛けてきた新藤の詞の世界は、岡野の歌唱力と並び、ポルノグラフィティのもう一つの顔と称される[31]。
作曲
インディーズ時代からTama(デビュー当初はシラタマ名義)がメインソングライターを担っており、2004年の脱退まで「サボテン」「幸せについて本気出して考えてみた」「渦」「ラック」といったシングル表題曲など、数多くの楽曲の作曲を手掛けた。また、デビュー当初はプロデューサーの本間昭光(ak.homma[注 25])から楽曲提供を受けており、長らくシングル表題曲は作詞:新藤晴一(デビュー当初はハルイチ名義)、作曲:ak.hommaの組み合わせで制作されたものが多かった[注 26]。これはデビュー曲の制作に煮詰まっていたことがきっかけで、2001年当時のインタビューで新藤は「ゆくゆくはTamaの曲を増やしていきたいという気持ちがある。それが出来るようになるために今、本間さんとやっている。」と語っている[6]。岡野は「メンバー自身で書いていない楽曲でのデビューにコンプレックスがあった」「当時の自分らとしては少なからず本意ではないところもあった」と当時を振り返っており[32]、2006年の「ハネウマライダー」のヒットを機に「自分たちだけの手で制作をしてみたい」という思いが強くなっていったという[32]。そして、2007年には現在の制作スタイルに繋がるきっかけが詰まったアルバム『ポルノグラフィティ』をリリースし[32]、2008年12月にリリースした27thシングル『今宵、月が見えずとも』からは全楽曲の作曲を岡野と新藤が手掛けている[注 27]。
編曲
1stシングル『アポロ』から32ndシングル『EXIT』(2011年3月) までのほぼ全楽曲にak.hommaが携わっていた[注 28](8thシングル『幸せについて本気出して考えてみた』からはメンバーとの共同編曲[注 29])。9thアルバムの制作を意識し始めた2011年5月頃、キャリアを重ねたメンバーの「未知なる化学反応を通じての新しい音の獲得」と「"ポルノグラフィティ"のさらなる進化への昇華」を目指したいという意向から、スタジオミュージシャンやエンジニアといった制作チームのメンバーを一新。同年9月にリリースした33rdシングル『ワンモアタイム』からは楽曲毎に異なるアレンジャーを迎え、メンバーと共同で編曲を行っている。
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エピソード
要約
視点
バンド名
「ポルノグラフィティ」というバンド名は、アメリカのロックバンド・Extremeの2ndアルバム『Pornograffitti』が由来である[20][33]。
名付け親の新藤曰く、バンド結成時に「曲でもライヴでも、スリリングできわどい感じのものにしたい」というイメージがあったことから「ポルノ」という言葉に惹かれ、その頃好きだったExtremeの作品名を拝借するに至ったという[20]。また、大阪でインディーズ活動を始めた頃に周りで活動していたバンドの名前が「女子高生尿道結石」「餃子大王」「膀胱チョップ」といった奇抜なものばかりで、「(埋もれないよう)インパクトのあるバンド名で目立たなくては」という狙いもあった[33][34]。後に新藤は「大阪で勝ち抜くためにつけた名前なんですけど、それをずっと使うことになるとは思いませんでした[33]」と振り返っている。
デビュー当初は「ポルノグラフィティ=アポロ」というイメージによって、バンド名を「アポログラフィティ」や「アポロ」と間違われることが多々あった[6][35]。実際、メンバーがデビュー日に出向いたCDショップでは"ア"行にCDが置かれており[6]、同時期に出演したラジオ番組やライヴイベントでも「アポログラフィティ」と紹介されたことがある[6]。このバンド名の誤認(メンバー曰く「アポロとの闘い」)は、翌2000年の「ミュージック・アワー」の大ヒットによって終止符が打たれたが[6]、その後は現在に至るまで「ポルノグラフティ」という誤称が多々見受けられる[注 30]。なお、これらの誤称を逆手に取って、2003年には「ワールド☆サタデーグラフティ」という楽曲を発表しており、2013年には明治とのコラボで「アポログラフィティ」をツアーグッズとして販売している[37]。
広島・因島との関係
岡野、新藤、元メンバーのTamaは上阪までの約18年間を広島県尾道市に属する因島で育ち[38]、メジャーデビュー後も故郷への愛を公言し続けている[38][39][40][41][42][43]。
特に因島はポルノグラフィティの聖地が至る所に存在し[40][44]、近年ではポルノグラフィティの活動をきっかけに他県から因島に移住する人が増加している[44][45][46]。2005年11月には因島市の尾道市への編入合併(2006年1月)に際し、「因島市のことを忘れないでほしい」というメンバーの想いを伝えるため、島内の小中高生を無料招待した限定ライヴ『ポルノグラフィティ ライブ in 因島市』を因島市民会館で開催[47][48][49][45]。小学生の部はNHK広島放送局にて生中継され、このとき会場全体で合唱した「愛が呼ぶほうへ」は近年も島内の学校の合唱曲に採用されるなど[50]、ポルノグラフィティと因島を結びつける一曲となっている[51]。
2018年9月にはデビュー20周年イヤーのキックオフ並びに尾道市市制120年記念行事として、初の凱旋野外ライヴ『しまなみロマンスポルノ'18 ~Deep Breath~』[注 31]を広島県立びんご運動公園で、同年10月には『しまなみロマンスポルノ'18 ~THE LIVE VIEWING~』[注 32]を因島市民会館より開催し、その収益全額を平成30年7月豪雨(西日本豪雨)の災害復興のための支援金として寄付している(詳細は後述)[40][57][59][58]。
これまで発表されてきた楽曲の中には、因島に実在する地名が登場する「Jazz up」「狼」「Aokage」、歌詞が全編広島弁の「邪険にしないで」[注 33]、ひろしま男子駅伝大会テーマソングとして書き下ろした「Rainbow」[62]、非公式カープ応援歌として書き下ろした「みんなのカープ」[注 34]といった広島にゆかりある楽曲が多数存在する。そんな中、2023年にはG7広島サミット応援ソング「アビが鳴く」を発表[66][67]。広島の県鳥をタイトルに冠した同楽曲は、戦争や平和への想いをテーマに書き下ろし[68][69]、広島県とのコラボプロジェクト・ポルノグラフィティ×広島プロジェクトの第1弾として"ひろしまの魅力"を詰め込んだメッセージビデオも制作された[38][70]。
デビュー25周年イヤーに突入した2023年9月8日には、コラボプロジェクト第2弾として嚴島神社で一夜限りのアコースティックライヴを開催し[71][72]、世界文化遺産を舞台にした奉納演奏の模様がTikTok LIVEにて無料配信された[73][74]。2024年9月にはコラボプロジェクト第3弾として、因島では初の一般客を入れての野外ライヴ『因島・横浜ロマンスポルノ'24 ~解放区~』を因島運動公園で開催[41][75]。また、ライヴ開催の前後にはコラボプロジェクト第4弾として、因島全土を使った展覧会『島ごとぽるの展』を1か月半にわたり開催[18][75]。同イベントは因島の島⺠・企業・⾃治体協力のもと、因島やしまなみ海道・瀬⼾内海の魅⼒の発信、新たな価値創造のきっかけ、また地域の活性化を⽬的に開催され[18]、期間内は島全体が大勢のファンで賑わいを見せるなど[75][76][77][78]、今では島そのものが聖地になりつつある[17][44]。
雨バンド
自他共に認める雨バンドであり、野外ライヴではよく雨が降ることで知られる[79][80][81]。
特に2006年の初開催を皮切りに、計10公演を行ってきた横浜スタジアムで雨に見舞われることが多く[注 35]、中でも2008年9月7日に行われた『横浜・淡路ロマンスポルノ'08 〜10イヤーズ ギフト〜』では開演後に雷を伴うゲリラ豪雨が横浜スタジアムを直撃[84]。雷雨の影響で新藤のギターやNAOTOのヴァイオリンの音が出なくなる場面が何度もあり[85]、曲中に岡野のマイクが故障し、マイク交換が終わるまで観客が歌を繋ぐ場面もあった[86][87]。同公演は「伝説の豪雨ライヴ[動画 1]」と呼ばれており[88]、一部模様が同ライヴの映像作品に特典映像として収録されるなど、雨バンドと呼ばれるポルノグラフィティの逸話となっている[85]。
野外ライヴのみならず、屋内でのライヴでも天候に恵まれないことが多く、2013年12月から2014年3月にかけて開催されたアリーナツアー『13thライヴサーキット "ラヴ・E・メール・フロム・1999"』は大半の公演で雨が降り、名古屋公演と徳島公演では雪が降ったという。ツアー最終日の福岡公演も雨が降ったため、ライヴMCでは岡野がこのことを自虐として語った[89]。また、ライヴの雨対策として『神戸・横浜ロマンスポルノ'14 〜惑ワ不ノ森〜』ではテルテル坊主キット、『しまなみロマンスポルノ'18 〜Deep Breath〜』では「#雨など降らぬ」とプリントされた特製ポンチョをグッズとして販売したが、いずれも公演中に雨が降っている。
これら数多くの雨に関するエピソードを受け、新藤は「もう片方だからね、雨男なのは[90]」「雨なのは岡野君だけ[91]」と主張しているが、岡野は「プライベートで野球をやろうと8回企画して、8回とも中止になった晴一のほうが雨男[92]」「彼が大雨男[93]」と反論しており、その後もたびたび雨男のなすり合いが行われている[91]。
チャレンジグッズ
チャレンジグッズは「売れてはいけない」をモットーとした定番グッズで[94][95][96]、その始まりは2007年に「ギターストラップ」をライヴグッズとして販売した際に、メンバーが「そんなもの売れる!?」「すごくチャレンジングで面白い!」と感じたことがきっかけである[95]。
「ギターストラップ」以降も、「折りたたみ自転車」「防"サイ"セット」「祝儀袋」といったチャレンジグッズを毎年のように販売。2017年に販売した「ぬか漬けキット」は用意していた数量が初日で完売するほどの人気商品となり[95]、それを受けて2019年には「デ・ウス(臼と杵)」を販売したが、こちらも即完売となった[95]。近年も「グリーンバックセット」「人体模型」といったチャレンジグッズを販売しており、グッズ発表のたびにSNSなどで話題を呼んでいる[96][97]。
メンバー曰く、チャレンジグッズはただ高いものや技術的に新しいとか珍しいものを作るということではなく、「こんなものライヴグッズで売る!?」という遊び心を求めており[98]、担当スタッフは「メンバーの想像を超えるものを提案することに必死になってきました[95]」と語っている。
社会貢献活動
長年にわたって取り組んでいるのが介助犬支援である[99]。2002年に新藤がファンクラブ会報の自身のコーナーで介助犬トレーナーと対談したことがきっかけで支援を始め、同年末に開催した『SPECIAL LIVE 2002-2003 "BITTER SWEET MUSIC BIZ"』からはライヴ会場に介助犬育成募金箱を設置し、募金額の全額を日本介助犬協会に寄付している[100]。また、毎年開催されている『介助犬フェスタ』にも積極的に協力している[101][102]。
災害支援として、東日本大震災が発生した2011年にはチーム・アミューズ!!のスペシャルチャリティーソング「Let’s try again」に参加[99][103]。同年9月には、東日本大震災で甚大な被害を受け、船が不足している被災地沿岸部に「漁船"ポルノ丸"を贈る」という目標を掲げた『つま恋ロマンスポルノ'11 〜ポルノ丸〜』を、翌月には『東北ロマンスポルノ'11 〜ポルノ港〜』として震災後初の東北でのライヴをZepp Sendaiで開催[104]。両ライヴで募った義援金とチャリティグッズの収益金の総額1105万2314円が漁船及び備品の購入資金に充てられ、2012年10月に宮城県山元町に"まるぽ丸"と名付けられた漁船が贈られた[104][105]。2018年7月に西日本豪雨が発生した際には、同年9月に開催した『しまなみロマンスポルノ'18 〜Deep Breath〜』のライヴとオリジナルグッズの収益金及びライヴ会場に設置した樽募金、同年10月に開催した『しまなみロマンスポルノ'18 〜THE LIVE VIEWING〜』の収益金の総額4555万4250円を、2019年4月に被災三県(広島・岡山・愛媛)に支援金として寄付した[106][107]。
アミューズが長年取り組んできたエイズ啓発運動「Act Against AIDS(AAA)」にも協力しており、毎年12月1日の世界エイズデーに行われていたチャリティコンサートには計15回参加し、不参加年にもライヴ会場でAAAオリジナルグッズを販売するなど[108]、貢献を続けてきた。
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ファンクラブ
オフィシャルファンクラブはlove up! で、2000年4月1日に発足[109]。
バイオグラフィ
1990年 - 1993年
- 高校でのバンド活動
- ポルノグラフィティの原型は因島高校1年次の1990年に新藤晴一が中心となって結成したNO SCORE[注 38]というバンドである[6]。このバンドは新藤が「KONTAのようにサックスを吹きながらボーカルをやりたい」と、同校に通っていた従兄弟らを誘って結成したBARBEE BOYSのコピーバンドで、当初は新藤がボーカルを務めていた[6]。高校2年次には「文化祭でコーラスとして参加してくれないか」という新藤の誘いで、同級生の岡野昭仁が加入し、1991年秋の文化祭がNO SCOREの初ライヴなった。結成当初から新藤がボーカルを務めていたが、コーラスとして加わった岡野の方が歌が上手く、文化祭後にドラムスの従兄弟から「おまえ、ギターやらん?」と遠回しにクビを宣告されたため、新藤はギターに専念し、岡野がコーラスからボーカルに昇格した[注 39][29][6]。その後は週一回のペースで活動していたが、高校3年の文化祭を前にベースが受験で抜けてしまったため、新藤の幼馴染で、弓削商船高専に通っていた白玉雅己(Tama)が新たなベースとして参加することになった[6]。3人が初めて揃った文化祭ではX、ZIGGY、BOØWY、聖飢魔IIなど全10曲を演奏し、友人がスモークや風船を使った演出をしてくれるなど温かい雰囲気のライヴだったという[6]。1993年春に岡野・新藤らが因島高校を卒業し、NO SCOREは卒業式直後の校内ライヴを以って事実上の解散となった[6]。
後にメンバーは高校時代を振り返り、岡野は「高校2年の文化祭での初ライヴは今考えても下手くそだったし、ひどい出来だったけれど、そこで貰った後輩からの声援に大きな夢を抱くようになった[113]」「わしらの勘違いの始まり[113]」、新藤は「ポルノグラフィティの原型は因島高校の文化祭の部活で、そこから地続きだ[114]」と述べている。
- 高校卒業後の1年間
- 高校卒業後、岡野は浪人のために大阪の予備校に入り寮生活を始める[6]。新藤は福山市の専門学校に入学し、同市内で一人暮らしを始めるも学校には実質2か月ほどしか通わず、今後のことを考えた際に漠然と「大阪でバンドをする」という考えが浮かんだという[6]。高専4年に進級したTamaが因島でバンド活動をしていたことから、新藤は福山から因島まで通ってバンドに参加させてもらい、この頃からTamaとオリジナル曲を制作するようになる[注 40][29]。ボーカルはオーディションを開催するなど、色々な人と模索しながら活動していたがうまくいかず、次第に「やっぱり昭仁とやりたい」という気持ちが固まっていったという[6]。夏には広島県内の複数のコンクールに出場し始め、グランプリや賞を獲得[6]。両者共にこの頃からプロを意識するようになったといい[6]、Tamaは関西の音楽学校への入学の意思を固め、それを聞いた新藤も「昭仁もいるし、大阪でバンドを組もう」と上阪を決意する[29][6]。
1994年 - 1997年
- ポルノグラフィティ結成、大阪でのインディーズ活動
- 1994年春に岡野が大阪学院大学、Tamaがアン・ミュージック・スクール京都校にそれぞれ入学し、新藤も大阪へと移り住む[6]。他のNO SCOREのメンバー2人も大阪に住んでいたことから、メンバー5人全員が大阪で再会を果たすこととなった[6]。5人で再びバンドを結成したが、生活固めに忙殺されてほとんどバンド活動はできず、2人が脱退した[6]。夏頃から岡野・新藤・Tamaに、Tamaと同じ音楽学校に通っていたドラマーの中尾天成を加えた4人でポルノグラフィティとして新たにバンド活動を始めた[6]。10月には梅田バナナホールで初ライヴを行い、11月頃からはライヴハウスでのライヴ活動の傍ら、デモテープをライヴハウスやレコード会社に持ち込むなどしていた[6]。
- 1995年夏には南港で行われたアマチュアバンドの野外イベントに出演。その際にSMEの新人発掘担当者から名刺を手渡され[6]、新藤が「そのあとの実質1年半から2年弱のアマチュア生活で、すごく大きなモチベーションになった[29]」と振り返るように、バンドとして自信を深めるきっかけとなった[注 41]。秋頃からは大阪城公園(通称:城天)でストリートライヴを始め、11月からは心斎橋筋2丁目劇場[注 42]で若手芸人によるお笑いの合間にライヴを行うようになった[6][115]。この頃は寝る間も惜しんでライヴ活動とバイトに明け暮れる日々で[29]、イベント出演も合わせ月に十数本のライヴをこなし、徐々に人気が出始めているのを実感していたという[6]。12月には吹田のフリーバードで初の単独ライヴを開催し、80人を動員[6]。なお、このライヴから中尾に代わり、メンバーがよく通っていた楽器屋兼スタジオで働いていた織畠英司が新たなドラマーとしてメンバーに加わった[6]。
- 1996年7月には心斎橋ミューズホールで二度目の単独ライヴを開催し[6]、そこで手応えを感じたことから、夏にはアマチュアや若手バンドを対象とした複数のコンテストに出場[6]。この頃には「東京へ行きたい」という気持ちを既に持ち始めており、「上京前に大阪で何か形を残したい」と意気込み臨むも最高成績は2位であった[6]。11月にはNHK主催『ニューBSヤングバトル』全国大会に大阪ブロックで出場したが、「ポルノグラフィティは今が絶頂期だから、将来性があるバンドに優勝させたい」という理由で入賞はならず、バンドの方向性を見失ってしまったという[6]。そのため1997年に入った頃はモチベーションが最悪な状態で、解散の雰囲気すら漂っていた。しかし、そのタイミングで心斎橋クラブクアトロでの単独ライヴが決まり、さらには2年前に名刺を手渡されたSMEの新人発掘担当者から「3月に東京でオーディションがあるから受けてみないか」という連絡を受ける[6]。そして、ラストチャンスとして臨んだ『SDオーディション[116]』に合格し、SMEと契約を結ぶこととなった[6]。4月27日には先述の通り、心斎橋クラブクアトロで単独ライヴを開催。550人を動員し[注 43]、大阪でのラストライヴを成功させた[6]。5月には所属事務所がアミューズに決まったが、この頃に織畑が脱退し、岡野・新藤・Tamaの3人体制となった[6]。
1997年 - 1999年
- 上京、メジャーデビューに向けた育成期間
- メジャーデビューに向けて9月末から活動拠点を東京へ移す[29]。しかし、すぐにメジャーデビューとはならず、長い育成期間が始まった[29]。最初の1年はほとんど放牧状態で音楽活動を行っており、活動と言える活動は2週間に一回程度の曲出しがあったくらいだという[29]。その1年間はなかなかデビュー曲に相応しい曲が作れず、メンバーは「ずっと迷ったり悩んだりする日々だった」と当時を振り返っている[6]。1998年夏に田村充義と本間昭光が音楽プロデューサーに就いたことがきっかけで少しずつバンドの方向性が見え始め、12月頃からはメジャーデビューに向け本格的に楽曲制作やレコーディングを開始した[6]。
2000年代
- 2000年
- 2000年に入ると、1月に2ndシングル『ヒトリノ夜』、3月にはインディーズ時代からの楽曲を中心とした初のオリジナルアルバム『ロマンチスト・エゴイスト』をリリース。共に売上枚数は『アポロ』に及ばなかったものの、初のライヴツアー『1stライヴサーキット "tour 08452 ~Welcome to my heart~”』、初のホール公演『東京ロマンスポルノ vol.4 "横G"』を開催するなど着実にファンを増やしていく。7月には"勝負の3作目"として大塚製薬・ポカリスエット2000年度CMソング「ミュージック・アワー」をリリースし、『アポロ』を上回る売上を記録。その後も4thシングル『サウダージ』、5thシングル『サボテン』を立て続けにリリースし、共にオリコン週間シングルランキングで首位を獲得するなど、ヒットチャートを席巻[7]。年末には初の『NHK紅白歌合戦』出場を果たし、"ポルノグラフィティ=アポロ"というイメージを払拭すると同時に一躍トップアーティストの仲間入りを果たした。
- 2001年 - 2003年
- 2001年2月には2ndアルバム『foo?』をリリースし、ミリオンセールスの大ヒットを記録。3月からはニッポン放送『ポルノグラフィティのallnightnippon SUPER!』の放送が始まった他、初のホールツアー『3rdライヴサーキット "ジャパンツアー”』を開催。ツアー後の6月には6thシングル『アゲハ蝶』をリリースし、自己最高の初動売上を記録した他、3作連続となるオリコン週間シングルランキング首位を獲得。最終的には約92万枚の売上を記録し、同年度のオリコン年間シングルチャート10位にランクインする大ヒットとなった。翌2002年には9thシングル『Mugen』が同年開催の日韓ワールドカップのNHK放送テーマソングに起用され、10月には『5thライヴサーキット "BITTER SWEET MUSIC BIZ"』の追加公演として初の日本武道館ライヴを4日間にわたり開催した。翌2003年の下半期はシングルのリリースラッシュを敢行。8月の11thシングル『音のない森』リリースを皮切りに、『メリッサ』『愛が呼ぶほうへ』『ラック』を立て続けにリリースし、12月からは"20代の集大成"として『6thライヴサーキット "74ers"』を開催した。
Tamaの脱退
- 1月の"74ers"ツアー終了後、Tamaが「自分の思うことを追求してみたい」と脱退の意向をメンバー・スタッフに表明[117]。そこから約半年に渡ってポルノグラフィティの活動をストップし、何度も話し合いが重ねられた[117][118]。その間、5月13日に大阪城ホールで開催されたライヴイベント『REQUESTAGE 2』に出演したが、結果的に同ライヴが3人体制での最後の表立った活動となり、6月22日にTamaがlove up! 会員に宛てた手紙で脱退を表明。翌日には公式サイトで「7月リリースのベストアルバムの制作を最後にTamaがポルノグラフィティを離れ、今後は岡野、新藤の二人で活動していく」と正式に発表された[9]。
- メンバーはTamaの脱退を以下のように振り返っている。
- 「最初から彼の意志は固かった[118]」
「Tamaのことを考えると無理やり引き留めることが、彼の人生にとってどうなんだって感じだった」
「(初期の)スタッフと一緒に見るポルノの成功例は"ダウンタウンさんやタモリさんの隣に立っていること"だって、ある程度の意思疎通をしてやってたんです。少なくとも、僕や昭仁は、きっと。結果的にはTamaがちょっとそれとは違ってたのかもしれないけど[29]」—新藤晴一 - 「10年一緒にやってきて、同じように時間を積み重ねてきたわけだけど、そのなかで個人が目指す理想っていうものと、バンドに対する理想っていうものが違ってきたんだから。気づいたらそうなってたんだから、これはもうしょうがないことだと思ったんですよね[117]」
「バンドという運命共同体から一歩離れて、ひとりの人間として付き合ってきたTamaっていうのを考えたら、やっぱりTamaが決めたようにするのがいいんだと思って[117]」—岡野昭仁
- 2004年 - 2009年
- 2004年7月28日、初のベストアルバム『PORNO GRAFFITTI BEST RED'S』『PORNO GRAFFITTI BEST BLUE'S』を2作同時リリース。オリコン週間アルバムランキング(8月9日付)で1位・2位を独占すると、その後3週連続で2作同時TOP3入りを果たす。同一アーティストによる3週連続のオリコンアルバムチャート2作同時TOP3入りは、イエロー・マジック・オーケストラ以来、24年2か月ぶりの快挙で、2作合わせて200万枚以上を売り上げる記録的大ヒットとなった。
- デビュー5周年を迎えた2004年9月8日、15thシングル『シスター』をリリースし2人体制での再スタートを切ると、12月には『5th Anniversary Special Live "PURPLE'S"』を開催した。翌2005年3月には5thアルバム『THUMPχ』をリリースし、同作を引っ提げたホールツアー『7thライヴサーキット "SWITCH"』を開催。ツアーの合間には楽曲制作、シングルのリリース、ライヴイベントへの出演など精力的に活動し、11月には故郷・因島で島内の小中高生を無料招待した限定ライヴ『ポルノグラフィティ ライブ in 因島市』を開催した。12月には日本武道館5DAYSを敢行し[119]、全56公演に及ぶ"SWITCH"ツアーを締めくくった。
- 2006年7月、初のスタジアムライヴ『横浜ロマンスポルノ'06 〜キャッチ ザ ハネウマ〜』を横浜スタジアムで開催。8月には事務所の大先輩である桑田佳祐が提唱した大型野外フェス『THE 夢人島 Fes.2006』に出演し、サザンオールスターズや福山雅治、BEGIN、加山雄三、Mr.Children、GLAYら豪華アーティストとの競演を果たした。11月には6thアルバム『m-CABI』をリリースし、翌2007年3月からは初のアリーナツアー『8thライヴサーキット "OPEN MUSIC CABINET”』を開催[120]。ツアー期間中には早くもアルバム制作に取り掛かり、同年8月に7thアルバム『ポルノグラフィティ』をリリース。11月からは「ロックバンドとしての原点回帰」をテーマに、ライヴハウスをメインに据えた『9thライヴサーキット "ポルノグラフィティがやってきた"』を開催し、史上初となる全国6ヶ所のZeppでの4DAYS公演、ライヴ公演47都道府県制覇を達成した[121]。
- 翌2008年9月にデビュー10周年イヤーに突入すると、『横浜・淡路ロマンスポルノ'08 ~10イヤーズ ギフト~』を横浜スタジアムと国営明石海峡公園で開催。10月にはベストアルバム『PORNO GRAFFITTI BEST ACE』『PORNO GRAFFITTI BEST JOKER』を2作同時リリースし、2004年の『BEST RED’S』『BEST BLUE’S』に引き続きオリコン週間アルバムランキング1位・2位を独占する大ヒットを記録。2009年2月からはポルノグラフィティ史上最大規模のツアーとなる『10thライヴサーキット "ロイヤル ストレート フラッシュ”』を開催し[11]、全29公演で22万人を動員した他、ライヴ通算400公演[注 46]、ライヴ通算観客動員数100万人を達成した。9月8日にメジャーデビュー10周年を迎え、翌日には28thシングル『この胸を、愛を射よ』、ビデオクリップ集『COMPLETE CLIPS 1999-2008』を同時リリース。11月28日には初の東京ドームライヴ『東京ロマンスポルノ'09 ~愛と青春の日々~』を開催し[122]、メジャーデビュー10周年を締めくくった[7]。
2010年代
- 2010年 - 2014年
- 2010年3月に8thアルバム『∠TRIGGER』をリリース。オリコン週間アルバムランキング1位を記録した同作を引っ提げ、過去最多公演数となる44会場56公演のホールツアー『11thライヴサーキット "∠TARGET"』を開催[7]。チケットは全公演即日完売となり、約12万人を動員した[7]。追加公演の希望が殺到したことを受け、年末には『11thライヴサーキット "∠TARGET" ENCORE』を開催し、2日間で約2万5千人を動員した[7]。
- 2011年には初の月9主題歌となる32ndシングル『EXIT』をリリース。9月には『つま恋ロマンスポルノ'11 〜ポルノ丸〜』、10月には『東北ロマンスポルノ'11 〜ポルノ港〜』、12月には『幕張ロマンスポルノ'11 ~DAYS OF WONDER~』を立て続けに開催した[7]。2012年3月には新体制で制作された9thアルバム『PANORAMA PORNO』をリリースし、同作を引っ提げ37会場42公演のホールツアー『12thライヴサーキット "PANORAMA×42"』を開催した[7]。
- 国内で精力的な活動を続けてきたポルノグラフィティであるが、2013年には海外進出を果たす[123]。7月にアメリカ・ロサンゼルスで開催された『Anime EXPO 2013』に出演すると[124][125]、8月には韓国・台湾の音楽イベントに出演した[126]。また、7月13日・14日にはアミューズ所属アーティストが一堂に会する野外フェス『Amuse 35th Anniversary BBQ in つま恋~僕らのビートを喰らえコラ!~』をポルノグラフィティが中心となり開催した[127][128]。9月にデビュー15周年イヤーに突入すると、シングル『青春花道』『東京デスティニー』の連続リリースを経て、11月には初のオールタイム・ベスト『PORNOGRAFFITTI 15th Anniversary "ALL TIME SINGLES"』をリリース。12月からはアリーナツアー『13thライヴサーキット "ラヴ・E・メール・フロム・1999"』を翌2014年3月まで開催した。
- 2014年7月には前年に引き続き『Amuse Fes 2014 BBQ in つま恋 〜僕らのビートを喰らえコラ!〜』を開催し、8月には『MONSTER baSH 2014』に初出演を果たす。9月にはデビュー15周年記念シングル『俺たちのセレブレーション』をリリースし、『神戸・横浜ロマンスポルノ'14 〜惑ワ不ノ森〜』をほっともっとフィールド神戸、横浜スタジアムで開催した。大晦日には『NHK紅白歌合戦』に11年連続13回目の出場を果たすが、現時点ではこれが最後の紅白出場となっている。
- 2015年 - 2019年
- 2015年4月には42ndシングル『オー!リバル』をリリース。表題曲は映画『名探偵コナン 業火の向日葵』主題歌として書き下ろされ、ロングヒットを記録。8月には10thアルバム『RHINOCEROS』をリリースし、オリコン週間アルバムランキング1位を記録。9月からは同作を引っ提げたホールツアー『14thライヴサーキット "The dice are cast"』を開催した。2016年には43rdシングル『THE DAY』がアニメ『僕のヒーローアカデミア』オープニングテーマに起用され、アメリカを中心に海外からも支持を集める人気曲となった[129][130]。同年7月には3年ぶりに台湾の音楽イベントに出演し[131]、9月には通算4度目となる横浜スタジアムライヴ『横浜ロマンスポルノ'16 〜THE WAY〜』を開催した。
- 2017年3月には台湾で初の単独ライヴ『PORNOGRAFFITTI 色情塗鴉 Special Live in Taiwan』を開催[132]。同年夏には『MONSTER baSH』に2度目の出演、『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』『SWEET LOVE SHOWER』に初出演を果たす[15][16]。10月には11thアルバム『BUTTERFLY EFFECT』をリリースし、11月からは同作を引っ提げたホールツアー『15thライヴサーキット "BUTTERFLY EFFECT"』を開催した。2018年9月8日にデビュー20周年イヤーに突入すると、同日に開催した凱旋野外ライヴ『しまなみロマンスポルノ'18 〜Deep Breath〜』を皮切りに、アリーナツアー『16thライヴサーキット "UNFADED"』の開催、複数の音楽イベントへの出演、シングル3作品のリリースなど精力的な活動を展開。2019年9月7日・8日には20周年の集大成して『20th Anniversary Special LIVE "NIPPONロマンスポルノ'19 〜神vs神〜"』を東京ドームで開催[133]。公演2日目の9月8日にメジャーデビュー20周年を迎えた。
2020年代
- 東京ドームライヴを終えてからはバンドとしての表立った活動を控え、メンバー個々のソロ活動を中心とした充電期間に突入[134][135]。新型コロナウイルスの世界的流行も重なり、2020年は初めて新曲のリリースがなく、バンド活動も12月4日に行われた配信ライヴ『CYBERロマンスポルノ'20 〜REUNION〜』のみであった。2021年上半期も引き続きソロ活動を展開していたが、8月2日に『ポルノグラフィティ 2021年 "新始動"』を発表[134]。9月22日に51stシングル『テーマソング』をリリースし、同25日からはホールツアー『17thライヴサーキット "続・ポルノグラフィティ"』を開催した。なお、9月3日には『THE FIRST TAKE』に初登場し「サウダージ」の特別アレンジを披露。同映像の総再生回数は公開からわずか2か月で1000万回を突破するなど、反響を呼んだ[136][137]。
- 2022年上半期はアルバム制作に打ち込み、8月3日に5年ぶりとなる12thアルバム『暁』をリリース[138]。同6日・7日には映像作品『Visual Album "暁"』を全国各地の映画館で上映し[139]、9月からはホールツアー『18thライヴサーキット "暁"』を年跨ぎで開催[138][139]。2023年5月には配信限定シングル「アビが鳴く」をリリース[140][141]。『G7広島サミット』の応援ソングとして書き下ろされた同楽曲を契機に広島県とのコラボプロジェクトを始動させると[142]、デビュー25周年イヤーに突入した9月8日には『PORNOGRAFFITTI 25周年イヤー突入記念 TikTok LIVE at 嚴島神社』と題し、嚴島神社でのアコースティックライヴをTikTok LIVEで無料配信した[143][144]。
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活動年表
メジャーデビュー以前
1994年 - 1999年
メジャーデビュー以降
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
2015年
2016年
2017年
2018年
2019年
2020年
2021年
2022年
2023年
2024年
2025年
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ディスコグラフィ
シングル
配信限定シングル
アルバム
オリジナルアルバム
ベストアルバム
ライヴアルバム
映像作品
ミュージックビデオ
書籍
その他の作品
インディーズ時代の作品
→詳細は「ポルノグラフィティのインディーズ作品」を参照
未音源化楽曲
参加作品
→メンバー個人の参加作品(Fairlifeなど)については、メンバー個人の項目を参照
シングル
アルバム
楽曲提供
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受賞歴
タイアップ
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ライヴ
要約
視点
単独ライヴ
- ポルノグラフィティの単独ライヴは、日本全国のホールやアリーナを回るライヴツアー『ライヴサーキット』と単発のスペシャルライヴ『ロマンスポルノ』の二つに大きく分けられる。この他にもファンクラブ会員限定ライヴイベント『FANCLUB UNDERWORLD』や単発のスペシャルライヴを定期的に開催している。
- 2006年以降のロマンスポルノとアリーナツアーでは、ライヴナビゲーターと呼ばれるライヴ毎のオリジナルキャラクターが登場している[197]。
1999年 - 2009年
2010年 - 2019年
2020年 -
その他のライヴ
- デビュー当初は複数のライヴイベントに出演しているが、本項では『PORNOGRAFFITTI LIVE HISTORY 〜1999.09-2009.05〜』で挙げられているライヴのみ記載。
出演
→メンバー個人の番組(『カフェイン11』『DISPATCHERS』など)や番組出演などについては、メンバー個人の項目を参照
ラジオ
音楽番組
NHK紅白歌合戦
- 出場回数: 13回
ミュージックステーション
- 出演回数: 79回(歴代12位 ※2024年4月時点)
日テレ系音楽の祭典 ベストアーティスト
- 出演回数: 18回(19回出演の嵐に次ぐ歴代2位)
CM
罪と罰
罪と罰(つみとばつ)は、新藤ガナリ(Vo/Ba)、キャノンボール・タマ(Gt)、桂三枝(Dr)から成るポルノグラフィティのパートチェンジバンドである[20]。
- 「仙台でメジャーデビューを目指す新人バンド」という設定があり、2002年に行われた下表の公演でポルノグラフィティに先立ちオープニングアクトを務めた[20]。
- 東京体育館公演を最後に活動休止状態となっているが、新藤ガナリ曰く「キャノンボールがやるって言えば(また)やる」とのこと。
- ライヴ映像作品『"BITTER SWEET MUSIC BIZ" LIVE IN BUDOKAN 2002』のボーナス映像には、数秒ではあるが練習風景や東京体育館公演での演奏シーンが収録されている。
脚注
関連項目
外部リンク
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