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日本のミュージシャン、作詞家、作曲家 (1974-) ウィキペディアから
新藤 晴一(しんどう はるいち、1974年〈昭和49年〉9月20日 - )は、日本のミュージシャン、ポルノグラフィティ及びTHE 野党のギタリスト、作詞家、作曲家、作家[1]、脚本家[1]。
中学生の頃にBARBEE BOYSの影響を受けてバンドを意識し始める。高校受験期に友人からエレキギターを借り、その頃から高校に入ったらバンドをしたいという思いを抱く[2]。
1990年に因島高校に入学。入学当初は野球部に所属していたが一年で退部し、軽音楽部に入部する。また、1年生の頃(時期不明)に「KONTA(BARBEE BOYS)のようにサックスを吹きながらボーカルをやりたい」という思いからソプラノ・サックスを購入し[注釈 2]、同じく因島高校に通っていた従兄弟らを誘い、BARBEE BOYSのコピーバンド・NO SCOREを結成[2]。
2年生となったある日、同級生の岡野昭仁と一緒に行ったカラオケにて岡野の歌の上手さに惹かれ、「秋の文化祭にコーラスとして参加してくれないか」と勧誘し、メンバーに岡野が加わる。文化祭での初ライヴではBARBEE BOYSやBOØWYをコピーをしたが、後に「思い出さないようにしていた」と語る出来で、文化祭後にドラムスの従兄弟から「おまえ、ギターやらん?」と言われたことから岡野にボーカルを譲り、ギターを担当するようになった[2]。当時は高校の視聴覚室で週に一度練習をしており、XやZIGGYなどをコピーしていたという[2]。
3年生の文化祭前、保育園時代の少しの期間と小学校・中学校時代の同級生であったTamaがベースとしてメンバーに加わり、秋の文化祭ではX、ZIGGY、BOØWY、聖飢魔IIなどの楽曲計10曲を演奏し、演奏を聴いた同級生や後輩からの声援に夢を抱くようになったという。また、当時はHIDEやヌーノ・ベッテンコート(エクストリーム)、スラッシュ(ガンズ・アンド・ローゼズ)といったギタリストから影響を受けていたと述べている[3]。
1993年春に高校を卒業。NO SCOREは事実上解散となり、福山市の情報処理系の専門学校に入学する[2]。しかし、入学直後から「自分の居場所はここじゃない」という思いを抱き、2ヶ月ほどしか通わなかったという[2]。当時、Tamaが因島に残って高専に通いながらバンド活動をしていたため、新藤は福山から因島に通ってバンドに参加させてもらい、次第にTamaとオリジナル曲の制作をするようになる[2][3]。夏頃からは様々なコンテストに出場し、尾道・三原地区で行われた楽器店主催コンクールで優勝するなどしている[3]。冬頃にTamaと共に上阪を決心し、
1994年春に前年に上阪していた岡野ら、NO SCOREのメンバー5人全員が大阪で再会を果たす[2]。再びバンドを結成したが、生活固めに忙殺され、ほとんど活動しないまま2人が脱退する[2]。生活も落ち着いてきた夏頃から新たにバンド活動を始め、新藤自身がポルノグラフィティと名付ける。その後は城天や心斎橋筋2丁目劇場でのライヴやイベント出演など、精力的にバンド活動を行う[2][3]。
1997年3月に『ソニーミュージック SDグループオーディション』に合格し、ソニーミュージックと契約を結ぶ。その後所属事務所がアミューズに決定し、9月末に活動拠点を大阪から東京に移す。1998年夏頃からポルノグラフィティのメジャーデビューに向け、本格的に楽曲制作やレコーディングを開始した。
デビュー初期から2007年頃まで、Trio、DC-30、JCM系をライヴで使用していた。現在はオールド系マーシャルとDC-30の組み合わせをメインとしている。一方でKemper等のアンプシミュレータをサブとして併用しており、モデリングの可能性についても模索している。
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