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日本の和太鼓集団 (1969-) ウィキペディアから
鬼太鼓座(おんでこざ)は、1971年に結成されたプロの創作和太鼓集団である。組太鼓を「コンサート形式(舞台興行)で演奏する」という新しい太鼓演奏スタイルを全国に広めた最初期のグループ。結成当初は佐渡を本拠として共同生活を送り、徹底した走り込み、褌姿での演奏、現代音楽の採用といった新奇な手法で国内外で注目され、現代和太鼓ブームの火付け役となった[1]。現在は埼玉県秩父郡東秩父村および静岡県富士市を拠点に活動している。
学生運動により大学中退後、民俗学者宮本常一の影響で日本放浪をしていた田耕(でんたがやす、本名・田尻耕三)の発案により、佐渡に「北前船により広がった文化を再構築する」ための四年制大学『日本海大学』と、日本の民俗芸能や工芸を学ぶ『職人村』」設立の資金獲得を目的に結成され、当初は太鼓をはじめとした日本の伝統芸能を海外で演奏することで資金を獲得して7年後の大学設立をもって解散する予定だった[1][2][3]。本拠地となった佐渡では、現地の郷土芸能「鬼太鼓」を「おんでこ」と呼ぶため、「鬼太鼓座(おんでこざ)」と名付けた。結成当時は、宮本常一のほか、多数の同世代の文化人や活動家・芸術家などが田耕に協力・支援した。
練習にマラソンを取り入れ、1975年にボストンマラソンに参加、全員完走後、ゴール地点で大太鼓を披露するパフォーマンスで話題となる。ボストン交響楽団指揮者だった小沢征爾に誘われて共演し、以降ほぼ毎年欧米を中心とした海外公演を行なう。
田耕が「わらび座」という民族歌劇団に一時期関係していたこともあり、鬼太鼓座の演目は日本古来の民族伝統芸能的傾向が強く、「屋台囃子」や「大太鼓」といった代表曲のほか、小澤に紹介された現代音楽家・石井真木が鬼太鼓座のために書き下ろした新打法による和太鼓曲も手がけ、舞台芸術としての和太鼓を飛躍させた[4][5]。1981年に分裂し、鬼太鼓座は長崎県に移り、佐渡に残った座員により「鼓童」が結成された。
1990年から3年に及ぶアメリカ大陸一周マラソンツアー以降、鬼太鼓座はより独創的なパフォーマンスを展開していく。「アジアのオーケストラを作る」という田の発想の元、二胡、洋琴などのゲストを多用する期間が2000年頃まで続いた。
田耕の発案により全国より集まった若者達は、最初は太鼓とは無縁の素人ばかりであり、この初発の太鼓の右左分からない集団に太鼓を指導したのは、当時の舞台興行太鼓の先駆け的存在で、日本最初のプロ和太鼓奏者である高山正行が担当した。
ただ当初の大太鼓は現在の形とは違い、「太鼓の右側に立って左を利き腕に斜め打ち」という福井の伝統スタイルをそのまま取り入れていたが、当時に大太鼓を受け持っていた林英哲が後に、現在の「太鼓の正面から打つ」スタンスに改良した。
鬼太鼓座に奇抜さを求めた田耕に、座って太鼓を叩くことを高山正行が提言。これが屋台囃子を始めるきっかけとなり、秩父埼玉の現地保存会で本格的な指導を受ける。
ボストンマラソン完走後、そのまま舞台に上がり三尺八寸の大太鼓演奏でデビューをかざった鬼太鼓座はボストンの地元マスコミに大きく取り上げられ、以降、日本国内外の公演も順調に進んでいったが、その後リーダーの田耕とメンバーとの間で意見やポリシーの相違が次第に表面化した。
そして、その亀裂が決定的になったのは、映画『ざ・鬼太鼓座』の制作である。田耕は当時の鬼太鼓座を記録に残したいと映画制作を発案、自ら資金を調達しほぼ独断で企画を進め、松竹、朝日放送の協力を取り付け、3年の歳月をかけて映画を完成させる。しかし、実際に完成した映画は田耕の構想していた物とは全く異なった物であり、映画の内容を巡って、田耕は制作サイドと激しく対立し、結果的にこの映画はお蔵入りとなる(以降上映会などでの上映を除いて一般公開はされず、ソフト化もされてこなかったが、2017年1月、加藤泰監督生誕100年企画として再上映され、翌月ソフトが販売された)。
1981年、田耕は「鬼太鼓座」メンバーと別れ、一人佐渡をあとにした。その際に田耕は「鬼太鼓座(おんでこざ)」の商標権、太鼓道具等を引き上げたが、メンバーたちはその時すでに決まっていた舞台スケジュールをとりあえず「鬼太鼓座」名義でこなすことになる。しかし、田耕が新しい鬼太鼓座で活動を始めたため、旧メンバーらは1981年に自らの名称を「鼓童」とし、新たに楽器購入にあたり地元地銀から融資を得て、「鼓童」として日本国内外での数多い公演をこなし現在に至る。
佐渡をあとにした田耕は、新しいメンバーを集めて、自らが所有していた「鬼太鼓座(おんでこざ)」の商標権と、和太鼓などの楽器を用い、長崎を拠点に事実上の「第二期鬼太鼓座」を組織。今福優をはじめとする一流の太鼓プレイヤーが次々に誕生する。2000年より富士山の麓静岡県富士市の合宿場を拠点として富士山の麓、静岡県富士市宮島に移転、「富士の山 鬼太鼓座」となる。田耕は、2001年4月に交通事故で他界したが、その後は松田惺山が音頭取となり、代表取締役の細川和子の私財を投じて「第四期鬼太鼓座」となる。
「第五期鬼太鼓座」では、2006年にクロアチア・イタリア・スイス・ドイツにてヨーロッパツアー、2008年にはバルカン半島・イタリアを巡る。2008年の国立劇場での40周年特別公演を皮切りに「鬼魂一打(きこんいちだ)」特別ライブツアーを展開。2009年11月の「天皇陛下御即位20年をお祝いする国民祭典」、 同月末ポルノグラフィティ東京ドームライブに出演する。
「第六期鬼太鼓座」では、2012年3月に、東日本大震災一年を機にアメリカ・フランス・中国等にて東北の芸能と共に世界一周公演を行う。同年4月からは富士合宿所に加え埼玉県東秩父村にて合宿生活を行っている。
鬼太鼓座の活動の根源にあるのが、「走ることと音楽とは一体であり、それは人生のドラマとエネルギーの反映だ」という鬼太鼓座独自の「走楽論」。現在でも鬼太鼓座は合宿所にて徹底した走り込みを行う。
「珈琲カップは、受け皿こそが演出を引き立たせている」という論を繰り広げた田耕は、舞台芸術としての太鼓芸能にこだわりを持ち、「大太鼓を屋台に載せる」という当時には例に稀な斬新な演出を組んでいった。
褌ひとつで舞台に上がり、観客に背を向けて大太鼓を打つ姿が海外で注目され、褌姿の和太鼓演奏のイメージが1970・80年代に定着したが、本来伝統的な和太鼓演奏に褌だけで演奏するスタイルは記録にはなく[8]、結成当時の鬼太鼓座が、はじめてサントリーのCMに出演する際、当時の座に太鼓指導をしていた川崎肇が「はだかで太鼓を打つ」ことを提案。その後、田によると1974年に鬼太鼓座が西大寺 (岡山市)の会陽(裸祭)で演奏をする際に、田の指示により初めて褌姿の太鼓を披露した。そのときの写真を翌1975年のフランス公演のポスターで使用したところ、公演会場の代表でフランス人ファッションデザイナーのピエール・カルダンから「西洋の観客にアピールするにはふんどしが良い」とアドバイスされ、舞台上で褌で大太鼓を叩くというスタイルを公演期間の途中から始めたという[8]。当初、裸同然であることに観客は困惑してか拍手はなく、その様相に恥じらう女性客も激減したが、衝撃的な姿が話題を集めて人気を博し、以降この演出が定着した[8]。また観客を背にして大太鼓を打つスタイルは、俳優ジャン・ギャバンの"背中で演ずる"からヒントを得て、田耕が演出したとされる。[要出典]
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