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日本の建築家 (1941-) ウィキペディアから
安藤 忠雄(あんどう ただお、1941年(昭和16年)9月13日 - )は、日本の建築家。一級建築士(登録番号第79912号)。安藤忠雄建築研究所代表[1]。東京大学特別栄誉教授[2]。文化功労者。文化勲章受章。21世紀臨調特別顧問、東日本大震災復興構想会議議長代理、大阪府・大阪市特別顧問。コンクリート打ちっ放し建築を主に住宅や教会、ホテルなど国内外に数々の作品を発表。「住吉の長屋」(1976年)、「光の教会」(1989年)、「ベネッセアートサイト直島」(1992年 - )、「淡路夢舞台」(2000年)、「こども本の森 中之島」(2020年)などの代表作が知られる[1][3]。
安藤忠雄 | |
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2004年撮影 | |
生誕 |
1941年9月13日(83歳) 大阪府大阪市港区 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 大阪府立城東工業高等学校 |
職業 | 建築家 |
受賞 |
日本建築学会賞作品賞(1979年) 毎日芸術賞(1987年) 日本芸術院賞(1993年) プリツカー賞(1995年) 高松宮殿下記念世界文化賞(1996年) RIBAゴールドメダル(1997年) AIAゴールドメダル(2002年) 京都賞思想・芸術部門(2002年) UIAゴールドメダル(2005年) ジョン・F・ケネディセンター芸術金賞(2010年) 後藤新平賞(2010年) |
公式サイト |
www |
所属 | 安藤忠雄建築研究所 |
建築物 |
住吉の長屋 光の教会 地中美術館 |
大阪府大阪市港区生まれ、同市旭区出身。三人兄弟で弟が2人いる。双子の弟は、北山創造研究所(都市コンサルタント業/商品デザイン業)を主宰する北山孝雄。下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた)。一人娘だった母親の実家・安藤家を継ぐため、生前からの約束に従い祖父母の安藤彦一・キクエの養子となる。大阪の下町にある間口2間、奥行き8間の長屋で育つ。
大阪府立城東工業高等学校卒業。月給1万円の時代に、4回戦のファイトマネーが4千円という報酬に魅せられ、高校在学中の17歳の時にプロボクサーのライセンスを取得し[4][5]、フェザー級でデビュー。リングネームは「グレート安藤」。以後、10試合ほど行い6回戦まで行った[6][7] が、所属ジムに来ていたファイティング原田の練習を見て、身体能力の桁が違うとその才能に圧倒され、1年半ほどでボクシングからは引退する[8][9]。
もともと、中学生の頃、自宅の建て替えを担当した大工や、中学時代の数学教師からの影響で、建築に興味を持っていた[8]。このため卒業後、前衛美術を志向する具体美術協会に興味を持つ。
経済上の理由で大学には通えなかったことから建築学の専門教育は受けておらず、毎日15時間以上独学し、建築科の学生が通常4年かけて学ぶ内容を1年で習得して建築士試験に1発で合格した[10][注釈 1]。また、水谷頴介の建築設計事務所でのアルバイトもしていた。
木工家具の製作で得た資金を手に、24歳の時から7ヶ月、欧米、アフリカ、アジアへ放浪の旅に出る。ヨーロッパからの帰路、南仏マルセイユで数週間待たされた後、帰国の船に乗り、アフリカの象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルに立ち寄り、インドのボンベイ(現:ムンバイ)で下船する。安藤は“何かに導かれるように”汽車に乗り、ベナレスに向かった。ガンジス川で牛が泳ぎ、死者が火葬に付される傍らで多くの人々が沐浴するさまや、強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地、生と死が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、「生きることはどういうことか」を自問し続けた。「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、ゲリラとしての生き方を決心する。1965年、24歳のときである。この放浪中に安藤が撮影した写真は、ルイス・I・カーンの作品集などで使われている。
1977年のローズガーデン(兵庫県神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める浜野商品研究所(1992年、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。
1970年代には個人住宅などの小規模建築、1980年代には商業施設、仏教寺院やキリスト教会などの中小規模の建築の設計が多かった。1990年代以降は、公共建築、美術館建築、海外の仕事も増えている。
手掛ける建築では、コンクリートを多用する。その理由について「コンクリートは20世紀を代表する材料で、なおかつ誰にでも手に入る材料だ。私は誰にでも手に入る材料をもって、誰にでもない世界を創りたいと思う」と2021年に語っている[11]。
大阪市の桜之宮公園から中之島公園を結ぶルートに桜を植樹する運動を提唱し、「桜の会・平成の通り抜け」実行委員長。3000本を植樹し、「造幣局の通り抜け」とともに「平成の通り抜け」として大阪に新たな桜の名所をつくろうとするもの。
東京都庁からは「緑の東京募金実行委員会」委員長に任命され、東京湾の埋立地に植樹する「海の森」プロジェクト[19] を、呼びかけ人の一人として推進している。
梅田スカイビルを建築した積水ハウスは2013年6月17日に、安藤の発案で、同ビル内に高さ9メートル、長さ78メートルに亘って約50種の草木を植樹する内容の「緑の壁」計画を発表した[20]。ビル緑化の取り組みの一つとされていたが、同日にビルの庭園の設計を担当した造園家の吉村元男が、当該計画は庭園のデザインの統一性を損ね、かつ著作権侵害にあたるとして、同月19日に同社に対し、工事中止を求める仮処分を大阪地方裁判所に申請した[21]。
2012年のインタビューでは、地球の資源や環境に関して、建築家が自分の仕事について考える方法は今も昔も同じで、利用可能な資源とエネルギーの使用に取り組む方法に変化や焦点の変化はないが、若い建築家がこれについて考え始めることは重要である旨を語っている[22]。
石原慎太郎東京都知事が推進した2016年東京オリンピック招致委員会の理事に任命され、東京オリンピックデザイナー総監督をも務めることとなった[注釈 4]。
東日本大震災で親を亡くした子どもたちの学びを支援するため、文化人ら7名と共に遺児育英資金「桃・柿育英会」[23] を発足させ、実行委員長を務める。少なくとも10年間は子どもたちの成長を見守り、良好な教育環境の中で学んでいく意欲を支え続けることを主旨として、一口一万円を10年間寄付する支援者を募り、被災地の遺児・孤児へと支給していく。
子供向け図書館を私費を投じて建設し、各地の自治体に寄贈する「こども本の森」を、大阪市中之島を皮切りに、岩手県遠野市、兵庫県神戸市、北海道大学(札幌市)構内へと展開している[24]。
「こども本の森 中之島」計画は2017年に発表し、大阪市も賛同し、2019年夏頃の開館を目指して寄付を募集した[25]。自らも費用を負担するとともに、大阪財界の企業を回って寄付を募っている。「新聞や本を読まない子が増えており、活字文化の大切さを見直したい」「お金持っては死ねない」との信念に基づく活動であると話している[26]。なお、同図書館は2020年7月5日に開館した[27][28]。
2009年に胆のうがんと十二指腸癌の手術ため、胆のう、胆管、十二指腸を摘出[31]。2014年7月にはすい臓がんが発見され、膵臓と脾臓を全て摘出する手術を受け、2度の手術で5つの臓器を摘出した[32]。
『読売新聞』の取材に応じて、同紙土曜日夕刊「一病息災」で2023年11月に闘病体験が連載された。
血糖値をコントロールするため、1日6回血糖値を測定し、インスリン注射を打っている。それ以前は朝10時から夜8時までノンストップで働いていたが、医者に昼食後1時間から1時間半程度休憩するように言われ、実践。今まで読めなかった本に接し、さらに新たなイマジネーションが湧くという[11]。
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主な作品画像
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2009年10月の第121次IOC総会でブラジル・リオに敗れ、幻に終わった2016年オリンピック構想の「東京オリンピックスタジアム」(想定は都立[35]・国の施設[36] それぞれの説がある)。当時の都知事・石原慎太郎は、招致委員会の理事でもあった[37] 安藤にメインスタジアムを含めた建設計画を依頼した[38]。
そして安藤(ゼネラルマネジャーとなった[39])がスタジアム建設地に晴海を選び[38]、日建設計・日本設計・山下設計の協力の下[40]、その全体計画をまとめた[41]。2007年11月時点で安藤は、メインスタジアムの(実際の)設計はコンクール(国際コンペ)を開くべきだと思うとも提案していた[42]。2009年には、「オリンピックは、心のレガシー(遺産)だ」ということも訴えた[40]。
変わって2012年。ラグビーワールドカップ2019の日本開催が2009年7月に決定していたことや、翌2013年に決まる2020年夏季五輪の東京の再立候補を見据え、日本スポーツ振興センター(JSC)らが国立競技場の建て替えを決定。
安藤は前述2016年五輪招致の経験や実績などが考慮されて[43]2020招致委員会の評議会委員でもあり[44]、「国立競技場将来構想有識者会議」メンバーに選出されると共に、「新国立競技場国際デザイン競技」の審査委員長も務めることとなった。応募期間(7月20日 - 9月25日)が短かったため海外の著名建築家らに、安藤自身が直接メールを送ってコンクールを知らせるなど尽力した[45]。募集要項を詰めていた時点の2012年4月10日、「有識者会議」傘下「施設建築ワーキンググループ」第1回で出た70m容認案に対し、「相当な大きさです。(略)景観上の課題がある」と、安藤は難色を示していたという情報もある[45]。
同年11月7日の最終審査(安藤を含め8人が参加)では、3つの案が拮抗していた[46]。安藤は当初「34番[47]」と、中心があり選手・観客が集中できると考えた「17番のザハ案」(ただし構造フレームが落とす影には懸念)[48][49] との2つで悩み、それを打ち明けた[50]。その後の議論で「34番」の屋根の技術的不安を安藤自身が指摘し、コンサートに用いたい委員からは音漏れを心配する意見も出た[51]。
3つを対象に決選投票を実施したが、またも拮抗。休憩後の議論で安藤は理由を示さずに(当初自身が1位としていた34番を除外し)、「17番」と「2番」の2択に持っていった[52]。そして、誰かから「議論で決まらないなら委員長の判断で決定でしょうか」「委員長を2票としていいのでは」など、委ねるような発言があり、安藤は「日本の技術力のチャレンジ」という精神から17番がいいと思いますと表明。他の審査委員から賛成の声が上がったこともあり、河野理事長が締めた[53]。審査委員長メッセージとして、新国立競技場のあり方を「つくるべきは地球人の未来へと向かう灯台、希望の象徴となれる場所」[54][55] と表現していた。その後の11月15日の「有識者会議」(第3回)で安藤は、「最優秀案のほうが、それに日本の技術者が立ち向かっていくという意味ではいいのではないか」などと、選定理由を語った(当初は民主党政権下の会議資料は未公開だったが2015年8月に完全版が公開された)[56]。
2013年9月の第125次IOC総会にて、2020年五輪の開催地に東京が選ばれた。
巨額な新国立建設費に関する問題が世間を賑わせてからマスコミの取材が押し寄せたが、安藤はそれを拒否し続けた。最終的に2520億円の予算が承認された2015年7月7日開催の「有識者会議」にも欠席した(後述の会見で「大阪で講演会があったので欠席した」ことを明かした[57])[58]。
知り合い[59] であるキャスターの辛坊治郎には「何でこんなに増えてるのか、分からへんねん!」と語っていたという[60]。また、別の友人によると安藤は、文科省と日本スポーツ振興センター(JSC)に対して何度も責任をもって当初案を進めるように水面下で主張してきたという[55][59]。
下村博文文科相は2015年7月10日に、新国立のデザイン選定理由など「何らかの形で発言してほしい」と述べた[61]。それとの因果は不明だが、16日に都内で記者会見(安藤本人からJSCへの要望で実施)に出席し、記者からの質問に回答した[62]。会見で安藤は「徹底的なコストの議論にはなっていないと思いますよ」とコンペを振り返ったが[63]、一部の委員はコスト面も踏まえて真摯に審査していた[64]。
安藤は9月4日、大阪出身を理由に自身がバッシングを浴び、(東京の新国立プロジェクトから)引きずり下ろそうとされたとの、意識を語った[65]。
9月24日に公表された第三者検証委員会による本人へのヒアリング資料によると、安藤は「経験豊富な国土交通省に参加してもらい文部科学省との共同で行うべき」だと、初期段階で(関係者に)提言したことがあったという[66]。
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