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幼女・少女への恋愛感情 ウィキペディアから
ロリータ・コンプレックス(Lolita Complex)とは、幼女・少女への恋愛感情(少女愛)。また、その恋愛感情を持つ者である。
この項目には性的な表現や記述が含まれます。 |
ロリータはウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』に由来し、登場人物である中年の男性が愛する年の離れた少女の愛称である。
Lolita(ロリータ)とComplex(コンプレックス)から成る和製英語であり[1]、ロリコンと略されて使われることが多い。
現在の日本においては、ロリコンは俗称であり明確な定義はなされていないが、一般に侮蔑語、差別語として使用されている傾向がある[2]。また実年齢による定義もないため、身体的に成熟しているかは主観的な判断をともない、ロリコンの対象と見なされる年齢は、新生児から成人以上にまで及ぶ可能性がある[注釈 1]。
日本では1970年代から1980年代前半にかけて、性的に未熟な幼女・少女を描写した写真やビデオやマンガが大量に出版され、俗に「ロリコン・ブーム」といわれる社会現象となった[4]。それらの消費者は主に思春期から青年前期の男性とされ、心理的な発達の未熟さから同年代の女性ではなく空想上の幼い少女に憧れるという解釈や、当時は性的に成熟した女性の性器やヘアの描写は法的に規制されていたが、性的に未熟な少女については対象外であったためポルノグラフィとして流行したともされる[4]。
欧米で言うロリータ・シンドロームやペドフィリアとは近いが別の概念であり、日本特有の用語だったが、海外へはオタク文化の広まりとともに、アニメやマンガなど二次元の少女に対する性愛を指す「lolicon」の語で取り入れられている。なお英語で「Lolita」と言った場合、「ロリコン」を指す言葉ではなく、ゴスロリなどやはり日本のロリータ文化に由来する「Lolita fashion culture」のことを指す場合もあるために注意が必要。
日本でロリータ・コンプレックスという言葉がいつどのようなきっかけで使われるようになったか、明確には判明していない。言葉自体は1969年に出版された『ロリータ・コンプレックス』(ラッセル・トレーナー)の邦訳が日本での初出とされているが、それは「少女が中年男性に関心を抱く」という意味で用いられているものであり、ここで説明している概念とは正反対のものである[5]。
澁澤龍彦が1972年に発表した『少女コレクション序説』では、トレーナーの『ロリータ・コンプレックス』における「ロリータ現象」を論じながら、「むしろ視点をハンバート(編注:ナボコフ『ロリータ』の主人公である幼児性愛者)、いや、ナボコフ自身の側に置いて眺めるべき問題ではなかろうか」[6]と、「ロリータ現象」を少女視点ではなく男性視点で捉えるべきではという意見を述べていて、これを現在の用法の発祥とする見解がある[5]。1974年に和田慎二が『キャベツ畑でつまずいて』のなかでロリータ・コンプレックスという言葉をすでに用いており、これが初出とは判明していないが、ここで説明している概念を表すものとしては初期の用例とされている[5]。なお、1973年の萩尾望都『ポーの一族』~『メリーベルと銀のばら』にも同じ言葉が見られ、要するに1973年時点では既に用語としては少女漫画でも普通に使われるレベルで世間に定着していた模様。
「ロリコン」という略称の発祥もはっきりしておらず、おそらくはマザーコンプレックス(マザコン)同様の過程で作られた略称であることと、1970年代後半頃から用いられ始め、1980年頃から急速に広まったということが判明しているのみである[5]。一説には、アンダーグラウンドなロリコン雑誌で用いられたことを発祥元とする見解もあるが、定かでない[5]。「ロリコン」の用語は、1982年の「ロリコン・ブーム」によって世間に定着した。
1982年、「ネクラ」「(ほとんど)ビョーキ」とともに「ロリコン」が若者の流行語となり[8]、新聞や雑誌で特集が組まれるほどになった。1982年当時、「ロリコン」は「ネクラ」とともに日本じゅうの若者をむしばむ「ビョーキ」だと言われて[9]嫌がられる場合もあったが、「ナウい」と言われて持て囃される場合もあった。
この時期には文字通り、ロリコンをテーマとする漫画・雑誌・アニメ・写真集などがブームとなり、盛んにリリースされた。時代としては、アイドルの伊藤つかさがデビューした1981年(昭和56年)ごろから、有害コミック騒動が起こった1991年(平成3年)ごろまでの期間に当たる。
1982年、内山亜紀の『あんどろトリオ』が『週刊少年チャンピオン』に掲載され、『がきデカ』『ドカベン』に続く看板作品となったことがマスコミで話題となり、「ロリコンブーム」として取り上げられる[10][11][12]。同時期には、「2大ロリコン雑誌」とされる『レモンピープル』(あまとりあ社)と『漫画ブリッコ』(セルフ出版)が創刊。ロリコン同人誌のアンソロジーである『ロリコン白書』(白夜書房)とブーム当事者が総決起した川本耕次編集のムック本『ロリコン大全集』(群雄社出版)が刊行された1983年頃がブームのピークである。当時はまだ「劇画」調の絵柄が主流だった中、新しい感覚と絵柄を持った多数の若いクリエーターが、「ロリコンブーム」に乗る形で同人からプロにデビューした。
ブームの最盛期は、とりあえず何でも「ロリコン」と付けて売られていたが、1980年代後半になると「ロリコン漫画誌」の後を受けた「美少女漫画誌」が多数創刊され、また「ロリコン漫画誌」でデビューした漫画家が一般誌・少年誌で連載を持つなどして、このような絵柄が珍しくもなくなり、ブームは落ち着く。1988年には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が発生し、1989年に犯人である「M君」の逮捕を経て、「有害コミック騒動」が勃発。その結果、1991年には業界においてロリコン・コミックの自主規制が開始され、ブームは終息する[13]。
創作物に関しては、一般流通で販売された作品の他に、「フェア」(イベントのこと。具体的に言うとコミックマーケット)や「まんが専門店」において「頒布」の形式をとって流通した「ファンジン」(現在で言う同人誌)があり、それぞれ研究の対象となっている。当時のロリコンブームの担い手は大学生であり、特に大学の漫研やアニメ研をはじめとする「同人」による「同人誌」(これが本来の意味の「同人誌」)がブームの中心を担った[14]。中には吾妻ひでおなど当時の第一線のプロの手によるロリコン同人誌も存在する。1981年当時、漫画専門誌『ふゅーじょんぷろだくと』傘下の漫画・同人誌専門店「ふりー・すぺーす」でロリコン特集を企画した編集部員の緒方源次郎(現・小形克宏)によると、購買層としては高校生が中心で、次いで大学生だったという[15]。中には修学旅行で上京したと思しき高校生もおり、東京の同人誌即売会や同人誌専門店がブームの中心ながら、アニメ雑誌や漫画雑誌の特集、商業出版されたロリコン同人誌のアンソロジーなどを通じて、影響としては全国に波及していた。
しかし、ロリコンブームの火付け役と考えられる吾妻ひでおや沖由佳雄の同人誌『シベール』(1979年)をはじめ、当時の同人誌はほとんどは商業出版されておらず、研究者が自力で発掘する必要がある上に、発行者や発行年すら不明の物も多く(ある程度絵柄で判断できるが、プロデビュー後と全く違う絵柄の人もいる)、ロリコンブームの実態についてはよく解っていない。コミックマーケットの代表である故・米沢嘉博の遺族が2009年に明治大学に寄贈した、推計十数万冊に及ぶ「明治大学 米沢嘉博記念図書館」の蔵書が特筆すべき同人誌のコレクションで、研究者による解読を待っている。
ブームの中心を担ったクリエーターとしては、吾妻ひでおや内山亜紀、両者をロリコン漫画家として見出した編集者の川本耕次などがいる。同時代的な評価としては、同じく当時の流行語である「ビョーキ」「ナウい」などと絡めて批評した物や、ナボコフの『ロリータ』と絡めて批評した頓珍漢な物も多いが、一方で米沢嘉博は、若者の表現の幅を広げたという意味でブームに対してポジティブな評価をしている[16]。コミックマーケットの代表として、または一般誌のライターとして、あるいはロリコン専門家「曽呂利太」として、同時代にロリコンブームを擁護した米沢の功績は大きい。
なお、1970年代から1980年代にかけては実写の少女写真集もブームとなった。これは、現在は「児童ポルノ」として、単純所持が違法になっており、入手することも参照することもできず、したがって論じることもできない。かつては国立国会図書館にも所蔵されており、参照することができたが、除籍されたらしい。
1969年に『ロリータ・コンプレックス』(ラッセル・トレーナー)の邦訳が出版され、日本で様々な論考が出た。例えば、1971年にはルイス・キャロル研究家の高橋康也が「ロリータ・コンプレックス」をルイス・キャロルと絡めて論じており[17]、また1972年には澁澤龍彦が『少女コレクション序説』を発表し、「ロリータ現象」を論じている。こうした過程で、「ロリータ・コンプレックス」という用語と、その用法が定着する。(なお高橋康也は「ロリータ」の専門家として、ロリコンブームの1981年にアニメ雑誌『アニメック』のロリータ特集号に引っ張り出された)
カウンターカルチャー運動による性の解放は、バイセクシャルなどかつてのタブーを解放し、さらに一部では児童を性的対象とする究極のタブーにまで及んだ。その結果、1960年代後半より、数々の商業目的の児童ポルノ雑誌やビデオフィルムが発売されるようになった。ビデオではColor Climax Corporation社の『Lolita』シリーズ、雑誌では『Bambina Sex』『Anna and her Father』、そして『Lolita Sex』などが初期の例である[18][19][20]。一部は日本にも入ってきていたらしいが、表立って販売されたものではないため、その実体は不明である。
1960年代後半より少女ヌード写真集が一般書店の店頭に並べられ始めた。『ニンフェット・12歳の神話』(剣持加津夫・撮影、1966年)や、『少女アリス』(沢渡朔・撮影、高橋康也・訳文、1973年)などが初期の代表例だが、性的な要素はほとんどなく、建前としてはあくまで「芸術」として販売された。それでも、『プティ・フェ』(石川洋司・撮影、1979年)や『Little Pretenders 小さなおすまし屋さんたち』(山木隆夫・撮影、1979年)などはかなり売れたらしい。『リトルプリテンダー』はかなり露骨で、1985年のロリコン写真集の規制の際にもロリコンブームの火付け役としてやり玉に挙げられた[21]。
また、1979年開催のファンジンイベント(同人誌即売会)「コミックマーケット11」では、漫画家の吾妻ひでおが主宰する無気力プロによる、日本初の男性向けエロマンガ同人誌とされる『シベール』が頒布された。
この『シベール』が起爆剤となり[22][23]、黎明期のおたく文化やサブカルチャーが合流する形で「ロリコンムーブメント」が1979年ごろより起こった。もっとも、同人誌「シベール」は1981年に「終了」(廃刊)となり、これに追随するファンジンは多く現れたものの、コミケの主流は「ロリコン」ではなく「美少女もの」や「アニパロ」ジャンルになっていく [24]。
1980年頃から幼少女への性愛を扱った表現が人気を集めるようになる。ロリコンブーム最初期、商業誌において代表的なロリコン漫画家とされたのは『漫画エロトピア』や『漫画エロジェニカ』などで活躍していた野口正之と中島史雄で[25]、後の観点から言えば、まだ「ロリコン漫画」というより「エロ劇画」の色が濃かった。これらの作品は、漫画史においては「ロリコン劇画」と呼ばれる[26]。いわゆる「ロリコン漫画」の絵柄ではなく、当時の実写アイドル(いわゆる「ロリコンアイドル」)に寄せた絵柄で、当時のアニメの絵柄に親しんだ若者世代の支持は得られなかった。
商業漫画雑誌としては、1981年12月創刊の『レモンピープル』(あまとりあ社)が世界初のロリコン漫画雑誌であり、若者世代に絶大な人気を博する。これを受け、エロ劇画誌の『漫画ブリッコ』(白夜書房)が1983年5月号をもってロリコン漫画雑誌へと鞍替えする。ロリコン漫画誌の創刊ラッシュとなる中、ロリコン漫画ブームと入れ替わる形でエロ劇画ブームは完全に終息する。
1982年より野口正之から改名した内山亜紀が少年誌の『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に連載開始した『あんどろトリオ』の大ヒットを機に、マスコミも「ロリコン・ブーム」を取り上げはじめ、ロリコンという言葉は急速に一般化した。内山亜紀は一般漫画誌で活躍する一方で、同時期には露骨に幼女性愛を扱った『ロリコン・ラブ』(1983年、久保書店)を刊行している。
また、一時はマイナー誌や同人誌を主戦場にしていた中堅漫画家の吾妻ひでおも、この時期には『ななこSOS』(1980-1985、アニメ版は1983年)のヒットを飛ばした。吾妻ひでおは、内山亜紀と並んでしばしばロリコン漫画の旗手として称され、漫画評論家の大塚英志もロリコン漫画の「テンプレート」をつくりあげた彼の功績を強調している[27]。
この1980年頃から1984年頃までが「ロリコン・ブーム」の最盛期であり、多くの写真集・雑誌・特集本などが出版された。
芸能界では、松本伊代や伊藤つかさなどが「ロリコンアイドル」として人気を博した[28]。1981年当時、松本伊代はまだ16歳だった。
アニメでは、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)のヒロイン「クラリス」がロリコンアニメファンに熱烈な支持を受けた。アニメファンの間では、その製作者として宮崎駿が評判となり、アニメ雑誌『アニメージュ』(徳間書店)では数度にわたって特集が組まれ、ついには漫画『風の谷のナウシカ』(1982年 - 1994年)を連載させるに至るが、この「ロリコンアニメ」ブームは一部のアニメファンの間だけに留まり、「ロリコンアニメ」が社会現象となるのはOVA『くりいむレモン』(1984年)の発売以降となる。
ピンク映画では、日活が「にっかつロマンポルノ」作品として1983年に『ロリコンハウス おしめりジュンコ』(青木琴美主演)を製作したことがある。ゲームでは、エニックス(現・スクウェア・エニックス)が1983年に『ロリータ・シンドローム』というそのまんまのタイトルのエロゲーを出している。パッケージ曰く、「そ~ですぼくはロリコン」。つまり「ロリコン」という用語がそれくらいカジュアルに使われていた。
米澤嘉博によれば、「ロリコン」の言葉がアニメファンの間で流行したのは、宮崎駿監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)のヒロインであるクラリスの人気が非常に高まったことによるものであり[29]、具体的には1980年に発行されたファンジン(同人誌)『クラリスマガジン』(さえぐさじゅん)がその発端であるという説もある[29]。
また吾妻ひでおと米澤は『月刊OUT』(みのり書房)1982年3月号の対談で、漫画ファンの間では当時ロリコンという言葉がたびたび用いられていたと証言している[30]。
少女愛を大っぴらにすることはそれまでタブーとされていたが、このロリコン・ブームによってそれが「解禁」された。劇画が主流となり可愛らしい少女キャラクターやラブコメにページが割かれることの少なかった時代にあって、ロリコンというテーマのもとでかつての正統的な少年漫画が「復権」した、と米澤はいう[30][31][32]。
その一方で、それまで半ばタブー視されていたロリコンという言葉(あるいは概念)が表舞台に登場し、「金バッジのように」堂々と自分がロリコンであると宣言する人間まで現れるようになった[30]。ロリコンという概念が、今日でいう「萌え」に非常に近い、少女を精神的に愛しむ感覚のことを指していたのである[33]。例えば『アニメージュ』1982年4月号の付録は「ロリコン・トランプ」だった。ナボコフやキャロルといった文学を引き合いに出すことも可能なロリコンという言葉は、ある意味で「トレンディ」なものだったのである[34]。
1980年代後半になると、漫画史的には、かつて「ロリコン漫画」と呼ばれたものは「美少女漫画」と呼ばれるようになるが、当時のマスコミでは1991年くらいまで「ロリコン漫画」と呼ばれていた。この時期の主要な「ロリコン漫画」の作家は、洋森しのぶ、森山塔、雨宮じゅんである。特に森山塔の『ロリコン日記 よい子の性教育』(1985年)は無名作家の処女作ながら非常に売れ、一般マスコミでも盛んに取り上げられた。森山塔『あとは寝るだけ』(1987年)の売上は20万部を超えたという。商業では『ハーフリータ』(1986年創刊)や『キャンディCOMIC』(1987年創刊)など美少女漫画雑誌が大量に創刊されたが、一方同人では、ロリコン同人誌の勢いはなくなり、やおいの時代に入った[35]。
「ロリコンアニメ」は『くりいむレモン』シリーズ(1984年-)が爆発的なヒットとなる。
1985年頃から『週刊女性』などの女性週刊誌、あるいは一般誌において、ロリコン表現に対して「少女がロリコンの欲望の餌食に」といったバッシング記事が載るようになっている。1980年代には「新人類」という言葉に象徴される世代間文化の断絶、自らの嗜好やファンタジーを突き詰めて「内閉的」とみえる文化を作り上げた特定の若者層への、一般社会からの漠然たる不安があった。
1985年4月、練馬区職員(児童厚生係)の男性が少女を暴行し、その際の写真をロリコン雑誌『ヘイ!バディー』(白夜書房)に投稿していたことが判明し、大問題となった[36][37]。1985年10月、同年8月に発売された『ヘイ!バディー』増刊『ロリコンランド8』(白夜書房)など3誌が猥褻図画頒布の容疑で摘発された。
その後も1987年(昭和62年)には『プチトマト』(清岡純子・撮影)42号が発禁となるなど、ロリコン雑誌に対する弾圧が相次ぎ、ロリコンムーブメントは弱体化していった。この遠因として、1987年より起こった東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件があった。
1989年、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人が逮捕された。犯人の「M君」は奇しくも、当時『魔女の宅急便』(1989年)が大ヒット中のアニメの巨匠であり、ロリコンアニメブームの火付け役でもある宮崎駿と同姓であり、マスコミでもかなりネタにされた。マスコミに公開された「アニメ」「ロリコン雑誌」「ホラービデオ」が散乱した犯人の部屋の写真のインパクトは強烈で、これ以後ロリコンに対するバッシングが苛烈になった。その勢いは漫画にも波及し、「有害コミック騒動」が勃発。その結果、1991年には業界においてロリコン・コミックの自主規制が開始され、ロリコンブームは終息する。
ロリコン弾圧により、写真分野は決定的な打撃を受けた。1989年以降日本国内での撮影が困難になり、東南アジアやロシアに撮影の場所を移したが、1999年の児童買春・児童ポルノ禁止法により、日本国内における販売も禁止され、壊滅状態となり、以降はジュニアアイドル産業に場を譲った。しかし、着衣のイメージビデオにもかかわらず、小中学生に小さなTバックの水着や肌着を着用させローアングルから撮影したDVDが児童ポルノと認定され、2007年に心交社が摘発を受け逮捕されるなど、さらなる締め付けが続いた。2014年の「改正児ポ法」施行に伴い、「ジュニアアイドル」DVDに対する締め付けがさらに強化され、実店舗からは撤去された。ネット上でもほとんどの大手書店では販売が終了した。
「少女写真」の愛好家は古くから存在していたが、1970年代から1980年代にかけてのロリコンブームに便乗する形で、少女のヌード写真集が多数発売され、「ロリコン写真集」として脚光を浴びた。「芸術」を標榜した物もあったが、基本的には性的な目的で消費された。
当時はロリコン写真雑誌が盛んに刊行されており、1985年当時、大手の『ヘイ!バディー』は8万部、増刊『ロリコンランド』は2万部、ライバル誌『ロリコンHOUSE』(三和出版)は4万部の発行部数があったという[38]。その理由の一つとして、「性器の無修正写真が見られる」というのがあった[39]。当時は陰毛の有無が「わいせつ物」の基準であり、陰毛のある成人女性のヌードは法的に「わいせつ物」とみなされ、強く規制されていたが、陰毛の無い少女のヌードは「わいせつ物」とはみなされなかったため、一般紙のグラビアに載るほどメジャーな存在であった(なんせ「ロリコン・ブーム」なので)。しかし、『ロリコンランド8』の発禁事件において「少女のワレメもわいせつ」との判決が下され、少女の局部の無修正写真が禁止された。役目を終えた『ヘイ!バディー』は同年11月号をもって自主廃刊した。
なお、1970年代以前からの少女写真の愛好家は、1980年代以降に現れた「ロリコン」と自分たちを同一視されることを嫌がっていた(少なくとも、少女写真評論家はそのように公に論じていた)。例えば、1980年代から1990年代にかけて少女写真評論家として重きをなした飯沢耕太郎は、「少女」とは「性交不可能な年齢」[40]と定義して性的なイメージを排除し、1989年の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件後のロリコンバッシングの時代において、(少女の写真と髪の毛を一緒にコレクションしていた)ペーター・アルテンベルクのような少女写真愛好家には「M君(編注:連続幼女誘拐殺人事件の犯人)のような密室の陰湿さはない」とし、少女写真コレクターと「少女ヴィデオとかロリコン漫画」「セックスしちゃう方」を愛好するM君のような人間が混同されることを拒絶した[41]。
もっとも、外部から見れば同じ穴の狢であった。「ロリコン漫画」が1990年代初頭のバッシングを乗り越え、2000年代以後も出版が許可されているのに対し、当時の飯沢が擁護した実在少女の裸体写真は全て「児童ポルノ」とみなされ、1998年の児ポ法施行以降、飯沢の『少女古写真館』(2001年)や『少女アリス』(2003年復刊)などごくわずかの例外を除いて出版が禁止された。2014年の改正児童ポルノ禁止法禁止により、単純所持も禁止された。
禁止後もアンダーグラウンドには存在し、時折日本で逮捕者が出ている。1980年代以降、児童ポルノは多くの国で禁じられ、これらの雑誌は消滅するが、現代ではダークウェブや法規制が不十分な発展途上国にコンテンツ供給網が移行している[42]。また、1980年代から児童ポルノの制作地は東南アジア、南アジア、さらには南アメリカが活発になり、日本を筆頭とする先進国から後進国への児童売春ツアーなども行われるようになった。1987年には、ペドフィリアを擁護する論壇誌『Paidika: The Journal of Paedophilia』が発刊された。
1980年代前半に「ロリコン漫画」が流行した。のちの「美少女コミック」の元祖に当たる。
米澤嘉博によると、日本初のロリコン漫画雑誌は1981年12月創刊の『レモンピープル』(あまとりあ社)だとされている[43]。当時の主力作家はやはり内山亜紀と吾妻ひでおであった。
1983年、エロ劇画雑誌であった『漫画ブリッコ』(白夜書房)が1983年9月号をもって、それまで毎号掲載してきた少女ヌードの写真グラビアを読者からの不評によって廃止した。さらには表紙絵を南伸坊から谷口敬に交代し、リアルな写実劇画からも決別して、より記号的な漫画をメインとする創作誌となった。これが日本で2番目のロリコン漫画雑誌とされる。
この『レモンピープル』と『漫画ブリッコ』が、当時の2大ロリコン漫画雑誌とされる。いわゆる「エロ漫画雑誌」であるが、当時の漫画はまだまだ劇画調が主流で、このようなかわいい絵柄の漫画は少なかったこともあり、エロ抜きで支持者がおり、女性読者や女性執筆者も少なくなかった。
米澤が注目するのは『レモンピープル』の1982年9月号である。この号では、読者による誌上討論という形で「ロリコンにエロは必要か」というテーマの是非が争われていたのだ。ただし、ここでの「エロ」とはそれまで主流であった劇画調のエロティシズム描写のことである[44]。大塚英志はロリコン漫画とエロ劇画との最大の違いを「犯す主体」の喪失だとしている[45]。
漫画やアニメの幼女・少女キャラクターを自由に物語化して表現することも同人誌活動の間で普及していく。こうした現象は評論家の注目を集めるようになる。1983年、評論家の中森明夫は『漫画ブリッコ』の誌上コラム『おたくの研究』(「『おたく』という用語の発祥地」として後に有名になる)において、これらの趣味をロリコンと評し、そのなかでも生身のアイドル少女に執着するものと、漫画やアニメの創作キャラクターなどに執着するグループとに分けている。しかし中森の研究論に対し、読者からはおたく差別的だとして批判され、のちに編集長の大塚英志によって連載は打ち切られる事となった。
『漫画ブリッコ』は1985年に廃刊し、『漫画ホットミルク』に移行。この頃には『プチ・パンドラ』(1984年創刊)や『ハーフリータ』(1986年創刊)やなどフォロワー雑誌が大量に創刊され、市場の拡大とともにこのような絵柄の漫画が珍しくもなくなり、「美少女コミック」と呼ばれるようになった。
一般誌としては、徳間書店アニメージュコミックス『美少女まんがベスト集成』として1983年より刊行された「プチアップルパイ」がある。『漫画ブリッコ』 の大塚英志を編集長とし、ロリコン色を強めた。『プチアップルパイ』の主要作家だったかがみあきらは1984年に死去し、早坂未紀は引退。『プチアップルパイ』最終号の編集後記には、「ロリコンブーム」に便乗して創刊されたことが明記されているが、あさりよしとおやちみもりをなど『プチアップルパイ』の残ったメンバーを主軸に1985年に『月刊少年キャプテン』が創刊される頃には「ロリコン漫画」のブームはピークを過ぎており、『少年キャプテン』は「ロリコン雑誌」でも「美少女雑誌」でもなく「少年誌」に分類される。幼女の宇宙的な日常を描いた『少年キャプテン』の看板作品『宇宙家族カールビンソン』(あさりよしとお)なども、普通に「少年漫画」に分類される。
後に『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』(1991年-1997年)で知られる藤原カムイなども、1983年頃の『プチアップルパイ』『漫画ブリッコ』で活躍した「ロリコン漫画」の主要な作家に分類される。本来なら「ロリコン」というジャンルに留まらないたくさんの作家が「ロリコンブーム」に乗って頭角を現し、「ロリコン漫画」と呼ばれた。
後にロリィタ文化の祖とされるアイドルの戸川純も『漫画ブリッコ』を読んでいたとのことで、『漫画ブリッコ』の姉妹誌『いけないCOMIC』(1985年1月号)では藤原カムイが戸川純に漫画の描き方を教える企画が組まれた。
漫画家の武内直子は、蛭児神建が編集したアブノーマルなロリコン漫画雑誌『プチ・パンドラ』を読んでいたそうで、竹内の作品『コードネームはセーラーV』には「プチ・パンドラ」というキャラクターが登場する。
ロリコンブームの時期はゲーム業界の黎明期で規制も少ないというのあり、中小のゲーム会社からロリコンゲームが色々と出た。中には後に東証一部上場の大手となるようなところもある。代表的な作品として、エニックス(現・スクウェア・エニックス)の『ロリータ・シンドローム』(1983年)、光栄(現・コーエーテクモゲームス)の『マイロリータ』(1984年)、パソコンショップ高知(PSK)の『ファイナルロリータ』(1986年)などがある。
1986年の177事件後(エロゲが国会で問題となった)、あまり猟奇的なゲームははばかれるようになった。
ロリコンアニメの代表作として挙げられるのが、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)である。ヒロインであるクラリスの人気は高く、アニメ雑誌『アニメージュ』の主催する1981年度(第4回)アニメグランプリでも4位に入賞した。その理由として、監督の宮崎駿は「"ロリコン"人気が集中している」ことを挙げている。他のクリエーターが受賞の喜びを語る中、宮崎のコメントは渋く、当時の若い人は「ロリコンを"あこがれ"の意味で使っている」「あこがれを遊びにしている」「恥じらいがない」それゆえ「ロリコンを口で言う男は嫌い」とのこと[46]。ちなみに宮崎自身は思春期に『白蛇伝』の白娘が好きだったとのこと。
『カリ城』には、主人公による「妬かない、妬かない、ロリコン伯爵」とのセリフがあり、アニメ脚本家の小黒祐一郎によると、この作品で初めて「ロリコン」という言葉を知ったアニメファンも多かったのではないかとのこと[47]。このシーンはロリコンブームの象徴的シーンとして、アニメ雑誌『アニメック』のロリータ特集号(1981年4月号)でも表紙として採用された。
『アニメージュ』1982年4月号では、当時のロリコン族に人気のアニメキャラをカードにした「ロリコントランプ」が付録に付き、ロリコン族に大ウケした。
この節の加筆が望まれています。 |
思春期前・思春期早期の幼女・少女への性的嗜好をもつ人間は、精神医学上も小児性愛という定義がなされている[注釈 2]。対して性的に成熟した思春期後期・成人女性への性愛は概ね、精神医学では性嗜好障害とされていない。むしろ(異性愛者の)男性が性的に成熟した女性の中から若い個体をセックスの相手として好むことは普遍的傾向である[48]。女性の卵子は生後新たに作られないため、年齢とともに卵子が老化し、妊娠しにくくなっていくことが原因と考えられている[49]。また、高齢出産に比べて先天的な障害がおきにくい(ただし体が成熟しきっていない10代前半の出産は、難産のリスクが高い)。厚生労働省の人口動態統計2015年調査結果によると出生と死産を合わせ妊娠、分娩及び産褥による死因は全年齢階級で0.01%を下回り、1950年から5年毎の調査で母の年齢階級14歳以下の出生数が平均約31人程度の中で自然死産(妊娠中絶)の割合は2015年では5%を下回る。出生と死産を合わせた中の人工死産(人工妊娠中絶)は年齢階級12歳以下で約60%、15歳以上19歳以下で約13%、死産の中で人工死産(人工妊娠中絶)の割合は年齢階級12歳以下と15歳以上19歳以下では90%を越える[50][51]。
もっとも生物学的には10代後半は肉体も成熟し、子供を産むに適した時期であるといっても、高度化し未成年への人権が守られる現代社会においては18歳未満の少女は精神的に未熟で、結婚し子供を産むという人生の岐路に立つには早すぎるとみなされている。精神的に未熟な少女の子育ては困難が大きく、育児放棄や児童虐待につながりやすいともされる。特に先進国では高等教育を受けないと経済的な基盤が不安定であるため、学業を中断することになる早婚が好ましいとはされない傾向がある。また、女性の経済的自立や新生児、乳幼児死亡率の低下も少子化・晩婚化に影響があるとされる。
なお、異性に特別な関心をもつ初恋の経験は生殖可能な年齢より前に訪れる傾向があるとされる[注釈 3][52][53]が、社会的に結婚、出産とは結びつかないものとされているのでこの項では割愛する。
近代以前は日本人の平均寿命が50歳に満たなかったこともあり、数え年で10代半ばのうちに成人(元服)するのが常識で、特に女性に関しては結婚をもって大人の仲間入りとみなしていた。
戦国時代後期から江戸時代にかけての女性は14~15歳までに多くが結婚、また武家や公家の娘の場合はそれ以前の段階で他の武将ないしは皇族などの側室や後宮に入るのも当たり前で、少女時代というものがあまりなかったのだという[54]。実際に徳川家康の孫の東福門院は13歳の時に後水尾天皇の女御となり、16歳で最初の出産を経験している。後水尾天皇の父後陽成天皇の女御だった中和門院は11歳で入内し15歳の時に初産、大典侍局は12歳の時に覚深入道親王を産んだと言われる。
一般庶民の間でも、深刻な人口減少に陥った18世紀の東北地方では10代前半の少女婚はごく当たり前に行われていた。しかしその一方で、18世紀後半には中部地方以西では宗門人別改帳等による人口の調査研究によると女子初婚年齢が20歳を越えていたと推測される例が多い。これは江戸時代にはすでに人口増加が原因で自発的な産児抑制が起こり、晩婚化が始まっていた[55]からである。
明治に入ると、旧民法で結婚可能な最低年齢が男子17歳、女子15歳と定められる。実際に童謡『赤とんぼ』の3番で「十五で姐(ねえ)やは嫁にゆき」と謡われるなど、成人年齢(20歳)に達する前に結婚する女子は少なくなかった。
都道府県によって青少年保護条例(淫行条例)が定められ、既婚者若しくは保護者の同意を得た交際や結婚を前提としている真剣交際以外は18歳未満の青少年との淫行が禁じられている場合が多い。
淫行条例について、福岡県青少年保護育成条例事件の最高裁判決では、18歳未満の青少年に対し「不当な手段による性行為」「自分の性的欲望を満足させるだけの性行為」に及んだ場合だけ「淫行」として処罰できるとした。
また17歳の女子高生と性的関係を持った事で愛知県青少年保護育成条例(淫行の禁止)違反の罪に問われていた会社員男性(32)に対して2007年5月23日に名古屋簡裁にて下された判決では、山本正名裁判長は「一定期間に映画を見に行くなどのデートを重ねたこと、女子高生も男性に対して好意を抱いており、合意や心的交流があったうえでのセックスだったことなどから、「淫行」に相当するというには相当な疑問が残る」と述べ、「結婚を前提にしないというだけでは刑事罰との対象とはならない」「『社会通念』を基準にして判断すべき」として無罪判決を言い渡している[56]。
上記のように近代以前まではごく当たり前に扱われてきており、日本のみならず諸外国でも同様の文化は見られた。欧米でも、日本やイスラム世界同様、以前は平均寿命の低さや女性や未成年に対しての人権意識の低さなどから十代の少女を恋愛対象や結婚対象にすることは容認されていた。しかし現代では再解釈された道徳に従い、先進国では児童性愛を女児に対する人権問題として捉えるようになった。一概にはいえないが、児童ポルノ問題を経て、幼い少女を成人が欲情の対象とすることに対し対策へ向かった社会も目立つ。
イスラム教は性愛に対する戒律が厳しいが、少女婚に関しては例外的に寛容である。その理由は人生の規範とされる教祖ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが6歳の少女と結婚し、9歳の頃に性交にいたったという故事があるからである。現代でもイスラムなどの一部の国では早婚が奨励されることがある[57]。
法的にはEUの一部のように法規制が緩やかな国もあれば、イギリス・アメリカ合衆国やカナダなどの英語圏では小児や未成年への性愛や性犯罪の態度(クリントン署名による法定強姦罪厳密適用令などで、かなりの州で18歳未満の児童との性交を強姦とみなすなど)は非常に厳しいことで知られる。
ただし、禁忌の度合いと法規制は必ずしも直接的な関係にあるわけではない。これは、違法性において法益侵害と規範逸脱のいずれを重視するかが国により異なること、すなわち法体系の相違に起因する。例えば、日本では法益侵害を重視する学説が優勢であり、社会通念上重大なタブーである近親姦もこれ自体を犯罪として取り締まる法律はなく、近親婚を不許可とするのみである。それに対しコモン・ローを法基盤とする英米では社会規範からの逸脱を重く見る傾向がある。
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