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日本の小説家 (1948-2019) ウィキペディアから
橋本 治(はしもと おさむ、1948年〈昭和23年〉3月25日 - 2019年〈平成31年〉1月29日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。
イラストで注目され、『桃尻娘』(1977年)で作家としてデビューすると博学や独特の文体を駆使し、古典の現代語訳、評論・戯曲など多才ぶりを発揮する。作品に『桃尻語訳 枕草子』(1987 - 1988年)、『蝶のゆくえ』(2004年)、『初夏の色』(2013年)などがある。
東京都杉並区の商家の息子に生まれる[1]。1951年3歳の時に世田谷区に転居し、杉並区の小中学校を経て1963年都立豊多摩高校に入学[2]。1966年に同校卒業後予備校に通う[2]。
1967年、東京大学文科III類入学[3]。在学中に歌舞伎と出会い、大学で唯一の友人であった船曳建夫とよく一緒に歌舞伎を見に行った[4]。歌舞伎研究会に入り[3][4]、出演だけでなくパンフレットや舞台美術も手がけた[3][4]。1968年(昭和43年)大学2年次に[注釈 1]、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打った東京大学駒場祭のポスターで注目される(当時は東大紛争のさなか)[1]。
1973年、東京大学文学部国文学科卒業、卒論は『四世鶴屋南北の劇世界』、専攻は北斎[5]。イラストレーターを経て、 1977年の小説『桃尻娘』(第29回小説現代新人賞佳作[6][注釈 2])を振り出しに、文筆業に転じる。該博な知識と独特な文体を駆使して、評論家・随筆家として活躍する一方で、古典文学の現代語訳・二次創作にも取り組んだ。
学生時代から編み物を始め、1983年までの15年間に60枚もセーターを編んだ[7]。製図を作ってから精密に編み込まれたセーターなどが話題を呼び、「男の編み物」を出版するに至った。編み込まれた題材は、デビッド・ボウイのアラジン・セイン、山口百恵、浮世絵など。モデルは、糸井重里、野坂昭如、早川タケジらが務めた。
1984年度のフジテレビのイメージキャラクターをおかわりシスターズと共に務めたことがある。
1991年に米国で出版された現代日本文学のアンソロジー『Monkey brain sushi』に「愛の牡丹雪」の英訳が収録された[8][注釈 3] 。
1992年、小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師を務めた。1993年、雑誌「芸術新潮」で連載「ひらがな日本美術史」を開始。1995年、雑誌「WIRED」の創刊2号(1995年3月号)で大友良英とトークセッション。1999年11月9日 - 23日には、東京・三軒茶屋シアタートラムで篠井英介の一人芝居『女賊』の作・演出を務めた。
2004年、文化論『上司は思いつきでものを言う』がベストセラーになった[10]。
2005年、雑誌「芸術新潮」での連載「ひらがな日本美術史」が終了。2009年1月、「新潮」2009年2月号に「巡礼」が一挙掲載される[11]。橋本の小説が文芸誌に掲載されたのはこの作品が初めてであった。バブル崩壊期に不動産がらみの借金を負い、毎月100万円が返済に消えてゆくと告白した[12]。
2009年から2010年にかけて刊行した『巡礼』『橋』『リア家の人々』は「戦後3部作」と呼ばれた[10]。
2010年に免疫性の難病である顕微鏡的多発血管炎になった[13]。
2011年1月5日~2月27日に千葉県立中央図書館で行われた企画展示「千葉の文化、再はっけん!~『八犬伝』の楽しさ紹介します~」において、『南総里見八犬伝』から生まれた現代の作品として橋本の『ハイスクール八犬伝』5巻、6巻が展示された。2013年11月16日、東京都立西高等学校で「役に立たないことの大切さ」と題して講演会を行った[14]。
2018年に作家デビュー40周年記念として『草薙の剣』を出版し[13]、野間文芸賞を受賞した[15] 。同年6月に上顎洞癌の診断を受け[10]、手術のために入院し、10月に退院した[13]。同年11月の野間文芸賞受賞会見は体調不良で欠席し[16]、12月の贈呈式では編集者が受賞スピーチを代読した[10][注釈 4] 。
2019年1月29日午後3時9分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去[18]。尾崎紅葉著『金色夜叉』を種本にした翻案小説『黄金夜界』が遺作となった。
2020年1月末、東京都内で橋本を「偲ぶ会」が開催された[19][20]。発起人は岡田嘉夫らがつとめ[20]、出席者には糸井重里[19]、内田樹[19]、加藤登紀子[20]、関川夏央[19]、高橋源一郎[20][19]、養老孟司[19]らがいた。
没後に遺族より直筆原稿を含む資料が、県立神奈川近代文学館へ寄贈された[21]。同館では2024年に「帰って来た橋本治展」を開催している[21]。
橋本がイラストレイター[注釈 5]を生業として考えたのは、浪人生時代の当時18歳だった[22]。その後、東京大学在学中の1968年(昭和43年)、美術サークルのほかにデザイン研究会と歌舞伎研究会に所属する中で[3]、第19回駒場祭ポスター応募した原画が採用された[1]。
1974年7月にポリドールレコードから発売された「昭和枯れすゝき」のレコードジャケットのイラストを切り絵で手がける[23][24]。テレビドラマ演出家の久世光彦は、この曲を雀荘の有線放送で聞いてドラマの挿入歌として使うことを決めるが、曲を探し当てた際に見たジャケットイラストを高く評価し、作者である橋本を探しあてて、そのドラマのタイトルバックのイラストを依頼した[25]。同年10月に放送開始した「時間ですよ 昭和元年」がそれであり、1977年11月に放送開始した「せい子宙太郎」のタイトルバックも久世の依頼による[26]。久世は駒場祭のポスターも気にいり(作者の橋本を知る前に)「時間ですよ」の健ちゃん(堺正章)の部屋に貼ってドラマに登場させており、視聴者から問い合わせが多かったという[25]。
『桃尻語訳枕草子』(上・中・下巻)では、『枕草子』を読みやすく翻訳することを目指し、原文に忠実に訳しつつ、背景となっている平安時代の貴族の生活の註を詳しく入れた[27]。
『窯変源氏物語』(全14巻)では、光源氏の一人称の書き言葉に翻訳した[28]。3年間軽井沢の山中にこもって執筆し[29]、400字詰め原稿用紙で9700枚の量になった[4]。谷崎源氏の版元である中央公論社から出版したことについて、橋本は「そこ以外から出す気はなかった」と述べている[4]。
『双調平家物語』(全15巻)は400字詰め原稿用紙で8400枚の量になった[4]。執筆に際して、合計数十メートルにもなる巻物の年表と系図を作成した[4]。既製の系図にはない女性の名前も調べ上げて加えた[4]。
2005年に筑摩書房から創刊された「ちくまプリマー新書」の発案に関わる。「最初は教科書を書いてくれっていう話」[30]の依頼を受けたが、「子供に必要なのは雑然たる知識」だから、「一冊本を読めたって思える程度の薄さ」の「いろんな副読本」をシリーズにしてはどうか、と逆に提案する形で企画書を書いた[31]ことにより、初歩読本・入門書という「プリマー」を関した若者向け新書の創刊になった。
橋本は奇抜な服装で大学に通っていた。母の美代子が編み古しの毛糸で橋本のためにセーターを編んだところ、橋本は編み方に興味を示した。編み方を教えると、自分でやり始めて病みつきになった[29]。「編み物とは、同じことを繰り返していれば線が面になっていくという新鮮で魅力的な作業である」と述べている[32]。
自分が着たいセーターがなかなか見つからず、自分で編もうという気になった[32]。自分流にデザインするようになり、模様はどんどん複雑になっていった[29]。着るセーターが全部手製という時期もあった[32]。褒められると人にあげてしまうため、橋本の手元には残らなかった[32]。
橋本は読書しながら編み物をした[29]。学生の時、本が嫌いだったが、編物をすると手が動き、リズムが出るので本を読むのがはかどったという[33]。卒論を書く際には、机にじっと座って本を読むことが生産的だと思えず苦痛で、安心するためにセーターを編んだ[34]。
服装で抵抗するなんて大人らしくないというような考えは信用せず、自分でセーターを編んで着ることを、日常的な抵抗として意義があることと考えていた[35](p20)。
「小説現代」1978年12月号に「私のコレクション オリジナルセーター」というグラビアが掲載され、橋本のニットコレクションが初めて披露された[36]。その後取材依頼が続き、「週刊宝石」1982年12月17日号では「毛糸と針の錬金術師 橋本治のニット展覧会」と題して8ページの特集が組まれた[36]。この記事が1983年11月の『男の編み物、橋本治の手トリ足トリ』刊行につながった[36]。
1982年11月に日本ヴォーグ社の「創作ニット大賞(グランプリ)」の審査員[37]、1983年5月に、西武流通グループ「全ニッポン雑巾コンテスト」審査員となる[37]。
1984年11月3日、柏ローズタウン開店5周年と柏市制30周年記念を兼ねたイベント「KASHIWA PERFORMANCE'84」が柏市民体育館で開催された[38]。プログラムの中には橋本の自作ニットのファッションショーもあり、橋本が編んだ70着以上のニットを着たタレントやモデルがランウェイを歩いた[38]。橋本はショーの演出も手がけ、会場中央に設置されたヤグラから解説をした[38]。ショーの準備のため8月一杯で作家活動を休止し、9月から編み物に没頭した[38]。
作家業が多忙になると、同じように手を動かす作業でも一人にしかあげられないセーターを編むことより原稿を書く方が優先されるようになった[39]。
1994年に雑誌で小宮悦子と対談した際には、「10年ぶりの新作」として結び文の模様のセーターを着用した[29]。
糸井重里は、借金の利息代わりにセーターをもらっており、橋本の書く文章と編んだセーターはそっくりだと述べている[40]。高橋源一郎は橋本についてセーターも文章もなんでも自分でやってしまう人だと述べている[41]。
橋本が編んだニットの柄には、人物に山口百恵[42](p2)、沢田研二[43]、デヴィッド・ボウイ[42](p4)等、他の絵画・イラストを題材としたものに「ペンギニストは眠らない[42](p6)」「がきデカ[42](p7)」「ピンクパンサー[44]」「綿の国星[45]」、「あしたのジョー[46]」、東洲斎写楽の「三代目市川高麗蔵の志賀大七」[42](p8)[47]、「伝 かつら昌院打掛の写し[42](p108)」「歌川国芳 相馬旧御所[42](p108)」「国芳筆 崇徳院[42](p108)」「国芳筆 沢村田之助の傾城敷島標[42](p109)」「モジリアニ(大きな帽子を被ったジャンヌ・エビュテルヌ)[48]」、オリジナルな柄にぼたん[42](p107)や魚の骨[42](p7)、ケシの花[42](p3)[48]、縞[49]、スミふきのタコ[44]、「キャピュレットの舞踏会」[44]、しょうぶ[44]、花見幕[42](p3)[47]、吉野山[42](p105)、遠山春霞[35](p19)、墨染桜[42](p3)、逢魔ヶ刻[42](p106)等がある。
橋本は背が高く、身長が180センチメートルあった[13]。
大学時代は爪に緑や紺のマニキュアを塗っていた[4]。おおくぼひさこは、何回目かに会ったときに二人ともモスグリーンのマニキュアをしていたため、感性に近いものがあると感じたという[53]。
天野祐吉は、橋本や村上春樹、村上龍、高橋源一郎らの話し言葉をそのまま活字にしたような文体を「言文一緒体」と評した[54]。
中島梓は橋本を「天才的な洞察力と異常な性格の悪さとまったく独善的な思考過程を持った、普通人にとってはなかなか始末の悪い天才的思想家」と評している[55]。
山形浩生は中学生の頃に『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』に出会ってから橋本の著作を読み続けており、「通俗大衆文化をストレートに日本の社会や個人にまでつなげるやりかたは常に無敵だった」と述べている[56]。
林真理子は橋本を「知の巨人」と評し、「軽やかで自由なところがすごい」「源氏物語、平家物語、といった古典を楽々と自分のものにし、新しい物語として紡ぎ出していく手腕は感嘆するばかりである」と述べている[57]。
高橋源一郎は、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』に大きな影響を受けたと述べ、小林秀雄、江藤淳、吉本隆明らが「批評の言葉」をつくったのに対し、橋本は批評の新しい言葉をつくり、批評の形を変えたと評している[58]。また、橋本の本を読まなければ作家になっていなかったとも語っている[20]。
中条省平は、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』との出会いがなければ「自分は一生少女マンガと無縁だったかもしれない」と述べている[59]。
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