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複婚の一つ ウィキペディアから
一夫多妻制(いっぷたさいせい)は、一人の男性が同時に二人以上の妻を持つ制度[1]。
本来は「複婚」を指す「ポリガミー (polygamy)」の語が充てられるが、一夫多妻は術語としてはpolygynyという語を用いる。また、結婚と同様、婚姻についての厳密な一般的定義は不可能である以上、文化人類学/歴史学的に一夫多妻の結婚状態として扱う範囲も定義によって変容する。その点で「一夫多妻制」という言葉を用いる際は「一夫多妻」以上に制度的・法律的側面を強調することになるが、一般にはほとんど区別されない。
ヒト以外の動物にも一夫多妻制は確認されており、生物学的にいうと、一夫一婦制や乱婚制との関係は、雄(男性)から雌(女性)への繁殖投資の有無と深く関係していると考えることができる。
一夫多妻制を営む動物の雄は、配偶関係にある雌に対して保護や食物の供給を通じて投資を行わず、より多くのエネルギーを、より多くの雌と配偶行動をとることにつぎ込むことで自らの遺伝子を持つ子孫をより多く残す繁殖戦略をとるものが多い。乱婚制との違いは、なわばりなどの手段によってより多くの雌を囲い込み、そこからライバルの雄がそれらの雌と配偶関係を持つことを排除する、すなわち雌という繁殖資源の資源防衛を行う点にある。つまり、繁殖に費やすエネルギーの投資をより多くの雌を獲得することだけに注ぐのではなく、雌の囲い込みとライバルオスの排除に相当量投資することで、より確実に自らの子孫を残そうとしているわけである。このような繁殖戦略を取る動物としては、繁殖期に非常に多くの雌を囲い込み、ライバルオスを激しい闘争によって排除して交尾にはげむ、チンパンジー、ゴリラなどの霊長類やゾウアザラシやアシカ、ライオンなどが代表的なものとして挙げられる。
一夫多妻制の動物において、遺伝子に選択圧がかかり、淘汰される方向性は、個々の動物のより細かい繁殖システムによって異なる。囲い込まれる雌の側が雄の特定の形質を選択して選ぶ動物の場合、雌によってより好まれる形質を発現する遺伝子が選択されることになる。一方、ゾウアザラシのように、繁殖に適した地理的条件の場所を雄が激烈な闘争によって独占する動物の場合には、雄の闘争能力にかかわる遺伝子に強い選択圧がかかる。ゾウアザラシの巨大な雄は、こうした選択圧によって誕生したと考えられている。
一方、ヒトの場合には、婚姻制度と遺伝子の選択圧の方向は単純には決められない。例えば前近代の一夫多妻制では、しばしば女性の側からの男性の選択は認められておらず、家と家との取り決めなど共同体の意思が重視された。そのため女性の好みの形質の淘汰が起きたとは考えられない。また先述のようにヒトの一夫多妻制を実現する基礎条件は、男性側の社会的地位、経済的地位の高さによる女性とその子供への投資能力であるが、こうした地位の実現に関わる遺伝的な素質に関しても、その時代や社会による変動が大きく、一概に論じることは困難である。
一夫多妻制は世界的にかなり広範に観察されるが、その成立要因については多様な説が並立しており、単純に論ずることはできないものの、原始的な成立要因という論点においての婚姻適齢期の両性の人口不均衡を原因とする説は否定されている。
一夫多妻制を形態の面から観察する場合、「姉妹型一夫多妻制」と「非姉妹型一夫多妻制」に大きく分けることができる。
姉妹型一夫多妻制は一人の男性が姉妹を妻として娶る婚姻の形態である。姉妹型一夫多妻制は社会的階層分化の進展にともなって減少する場合が多く、原始社会で多い一方で古代から減少する。姉妹型一夫多妻制が婚姻する双方の両親の結合を重視する社会において、婚姻を社会的紐帯の非常に重要な要素とみなし、社会的安定性の担保としたためと考えられる。社会の階層分化や権威の発達にともない、このような結合の重要性が比較的減退していき、姉妹型一夫多妻制が一般的にはあまり見られなくなってゆく。古代においても経済的に上層に位置する人々のあいだでは遺制を残していることもあるが、中世に入るとほとんどみられない。
一方、非姉妹型一夫多妻制は、単に妻たちが姉妹ではないというだけであって非常に広範なものであり、一概に論ずることはできない。冒頭の語義定義にあるように、婚姻の定義の範囲によって妻が一人で妾が複数という状態を一夫多妻制とみるかどうかが変容するからである。法的・制度的側面から考慮した場合、妾を持つことが事実上認められている状態であっても一夫一妻制となる一方、社会的・人類学的側面から考慮した場合は一夫多妻制となる。この際着目すべきは、妻たちのあいだに存在する差異であるが、これも正妻と妾らという形態のほかに、多数の正妻、また正妻以下順次序列のある形態などさまざまである。したがって婚姻と同様、一夫多妻制についても、個別社会的文脈からの把握が中心とならざるを得ない。
先述のように一夫多妻制は概念史的に論ずることは困難であり、個別具体的な社会的文脈から把握せざるをえない。したがって本節では各文化での一夫多妻制のあり方を記述する。婚姻は生活の重要な要素であり、生態的・地域的な要素と同様に宗教的規範として規制が行われる分野である点に注意が必要である。
一夫多妻制社会の具体例として採り上げられることが多いのがイスラーム社会である。ここではイスラームにおける一夫多妻制を説明するが、イスラーム世界は地域的には非常に多様な世界からなり、それらの地域が必ずしもイスラーム的規範のみから婚姻制度を確立しているわけではなく、地域的慣行なども影響する点は注意が必要である。これらについては地域別の婚姻制度についても参照。
イスラームにおける一夫多妻制は法源をコーランとするイスラーム法的制度である。男性は4人まで妻を娶ることができる。しかしコーランの規定上、夫は妻を保護し扶助を与える義務があり、またそれぞれの妻の間に差異を設けることは決して許されない。これらの条件を満たせないときは一夫一妻が奨励され、夫が義務を怠ったりそれぞれの妻の扱いに差異を設けた場合は離婚申し立てと賠償の根拠となりうる。ただし、この妻を平等に扱う規定に対しては、実際のイスラームの歴史において特に強調されるようになったのは、近代に入り女性の人権を擁護する動きが強まってからである。近代以前は、(イスラームに限ったことではないが)やはり女性の権利は制限されていた。 なお、東京イスラミックセンターのWebSiteの「イスラム教入門」では、「人間の男性の性の能力は一夫一妻制を遥かに超えており、不自然な姿である」としている。
4人までと明言されているが正当な理由があれば5人以上の妻を持ってもよいとされている。実際にイスラム教国の王侯貴族には5人以上の妻が公式にいることはめずらしくなく、5人目以降の妻の子であっても継承権などにおいて差別されることはない。 正当な理由かどうかの判断はウラマーによって行われ、5人目以降の妻を持つ場合にはウラマーに申し出て正当な理由であることを証明するファトワーを発行してもらう必要がある。
イスラーム社会で一夫多妻制が制度として確立したことに対して、イスラーム法学者からはウンマ(イスラーム共同体)の初期(イスラーム帝国時代)の社会状態が背景にあると説明されることが多い。正統カリフ時代は戦争が相次ぎ、女性は故郷に残されたまま寡婦となることもあった。この際の経済的扶助手段として導入された、とされる。また教義面からはイスラームは宗教的に結婚と社会的再生産を奨励するため、女性の結婚する権利を重視する。しかしながら戦時など一時的に男女間の人口不均衡が起こった際に女性が結婚できにくくなる可能性があり、この際に女性の結婚権を保障するために一夫多妻制が導入されたとも説明しうる。また前近代もしくは発展途上国において、男性による女性への選好の容認および血統主義の観点から、一夫一妻制で子をなせない場合に男性が妻以外の女性と子をなすことが想定され、これを制度化することにより、男性優位的な婚姻制度に一定の安定性を持たせたものともいえる。
一般的にはオリエンタリズム的な乱脈で淫靡なイメージがイスラームの一夫多妻制から想起されているが、現在の日本の学会の主流見解ではこのようなイメージの大部分は外部世界の偏見や無知、また悪意ある宣伝に基づいたものであるとされている。イスラームにおける婚姻制度は法的に極めて厳格であり、二人以上の妻をもつ場合の男性の経済的負担は非常に大きいものとなる。したがって一定以上の社会的地位と経済的実力を持たない限り二人以上の妻を持つことは困難である。歴史的にイスラーム社会においても二人以上の妻をもつのはごく限定的なものであり、それ以上は大商人などの非常に限られた層だけであったことが明らかになっている。
近代に入ると、社会の安定に伴って一夫多妻は減少し、さらにヨーロッパ法の導入にともない、イスラーム社会においても一夫一妻がほとんどとなった。これに対しては当初の理念的としては女性差別の制度ではなかったとしつつも、社会秩序維持上必ずしも必要な制度ではない、もしくは時代にそぐわないとしてムスリムが大多数の国家でも一夫多妻の婚姻にかかわる審査を非常に厳格化している国も存在する。2009年時点において、現在法律によって、完全に一夫多妻制を禁止している国としては、トルコとチュニジアが挙げられる。
クルアーン第2章によれば、預言者ムハンマドには4人を超える妻が認められていた。実際には22人が確認されており、正式に結婚したのが16人、妾が4人、その他が2人となっている。これは、イスラム教の教義として認められている。
ブラックアフリカではイスラム教国以外でも、宗教とは関係なく一夫多妻制である国が多い。南アフリカ共和国第12代大統領のジェイコブ・ズマが一夫多妻を実践しているのは有名であり、2009年時点で三人の妻が居て、この三人の妻は公式行事等にも交互に出席している。ただし、南アフリカ共和国全体が一夫多妻を公認しているわけではなく、その習慣がある部族(ズマの出身部族もその一つ)に限って認められているものである。
夫の下に大家族を形成することが多いアジアや北アフリカと異なり、アフリカの一夫多妻婚では、妻たちは別々に暮らしていて、妻子の家を夫が順に訪れるという形態が一般的である。この種の一夫多妻が行われる地域には母系社会もしばしば見られる。
キリスト教においては、イエス・キリストが「1人の男子と1人の女子が結婚して一体となることが神が定めたもうた秩序である」ことを公言し、そのことが『新約聖書』(マタイ伝19:4-6[注釈 1]及びマルコ伝10:5-9、ルカ伝16:18)に明記されたことで、キリスト教会では一夫一妻制が神の定めた制度であると認識され、それ以外での婚姻・性的関係は認めていない[2][3]。
近世ヨーロッパの王室では、側室は許されなかったが、公妾があり、宗教上、婚姻関係ではないが、実態としては、複数の女性と関係をもった。
16世紀のドイツ農民戦争後に台頭した再洗礼派の指導者のヤン・ファン・ライデンは、1534年のミュンスター包囲の際に一夫多妻制の導入を布告し、自らも15人の妻を所有した。理念上は旧約聖書を根拠とした原理主義的な主張だったが、最も大きな理由は、当時のミュンスターの男女比が男性1に対して女性が3倍以上という不均衡な状態にあったことにある[4]。この布告は強制力を持っており、市内の未婚の女性は強制的に結婚させられたが、市内の男女関係は混乱して諍いが多発した。
アメリカ合衆国のモルモン教においては、末日聖徒イエス・キリスト教会の第2代主管長のブリガム・ヤングによる約束の地へのモルモン開拓者の移動で信者約6千人を失い、準州ユタ(現ソルトレイクシティ)に到着した際に一夫多妻制(ポリガミー)をとったが、ウィルフォード・ウッドラフの神から中止を啓示されて1890年に廃止されたとされる。このことと引き換えにより、1895年に準州からユタ州に昇格した。ただし、合衆国上院公聴会にて第5代大管長のジョセフ・フィールディング・スミスは一夫多妻状態にあることを認めており、モルモン教主流派においては少なくとも20世紀初頭まで、またアリゾナ州など他州との州境では、近年までみられたという。20世紀半ばにモルモン教主流派から分離したFLDS(モルモン教原理主義派)は、その後も一夫多妻の教義を保持している。
日本では、江戸時代までは上流社会において男子の家督跡取を生むという名目の元で「側室制度(そくしつせいど)」があった。「室」というのは妻女を指し、普通は正室(正妻)は1人、側室は複数人だったが、例外もあって厳密なものではなかった。跡取となる息子は彼女らの内の誰かが生母となるのである。男子の跡取を生んだ側室の扱いは、時代や身分によって大きく異なり多様であった。天皇や公家・武士に限らず、富裕商人が「妾」を持つ例は少なくなかった。
明治3年(1870年)に制定された明治国家最初の刑法典『新律綱領』は、妾を妻と同じく二親等と認めることで、一夫多妻制の法整備をした。さらには妾を正妻に格上げすることも認められた。明治6年(1873年)8月の大政官指令では、戸籍上でも妾を妻の次に記載することが定められた。近代キリスト教国的な重婚の禁止を規定した民法の施行により一夫多妻制は制度的にはなくなったが、近代において地位ある男性が妻と別に愛人をもつ風潮は広くみられた。社会的地位があり、晩年まで愛人を囲った一例としては、渋沢栄一がいる(後述、「変遷・その他」)。アイヌの一部では裕福な男性が複数の妻を持つこともあったが、民法の施行により和人と同じく禁止された。
日本の大奥はオスマン帝国のハーレムと比較した場合、皇太子(嫡子)を生んだ女性が母后として絶大な権力を握ることはなく、あくまで正室=御台所の生活のための役所であり、側室の立場は弱い(山本博文 『大奥学事始め 女のネットワークと力』 NHK出版、後述書p.112)。また大奥女中の気位は高く、相手が大名でも、敬称の「殿」を抜いて、「○○守」といった具合に呼び捨てにすらしていたため、必ずしも女性の地位が低かった訳ではない[5]。
日本の一夫多妻を記録した海外の資料としては、中国の『魏志倭人伝』の他、ルイス・フロイスが豊臣秀吉について、「その諸宮殿内に200人以上の婦人を所有している」と記述したが、誤解に基づくともされる(鈴木旭 『面白いほどよくわかる 戦国史』 日本文芸社 2004年 p.207)。
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