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日本の漫画家 (1949-) ウィキペディアから
萩尾 望都(はぎお もと、本名同じ[1][3]、1949年5月12日[1][3] - )は、日本の漫画家[1][3]。女性[3]。女子美術大学客員教授、日本SF作家クラブ名誉会員、日本漫画家協会理事、日本芸術院会員。
はぎお もと 萩尾 望都 | |
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萩尾望都(2008年) | |
生誕 |
1949年5月12日(75歳)[1] 日本・福岡県大牟田市 |
職業 | 漫画家 |
称号 |
紫綬褒章 文化功労者 漫画家の殿堂 旭日中綬章 日本芸術院会員 |
活動期間 | 1969年 - |
ジャンル | 少女漫画 |
代表作 |
『ポーの一族』 『トーマの心臓』 『11人いる!』 『半神』 『残酷な神が支配する』[2] |
受賞 |
第21回小学館漫画賞 (『ポーの一族』,『11人いる!』) 第11回星雲賞コミック部門 (『スター・レッド』) 第14回星雲賞コミック部門 (『銀の三角』) 第16回星雲賞コミック部門 (「X+Y」) 第1回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞 (『残酷な神が支配する』) 第27回日本SF大賞 (『バルバラ異界』) 第40回日本漫画家協会賞・文部科学大臣賞 第12回センス・オブ・ジェンダー賞生涯功労賞(『なのはな』および全ての作品) 2017年朝日賞 2024年アングレーム国際漫画祭特別栄誉賞 |
サイン |
福岡県大牟田市生まれ。1969年に「ルルとミミ」でデビューする[4]。1972年から『ポーの一族』を連載、1976年に同作および『11人いる!』により第21回小学館漫画賞を受賞した[5]。同時期に連載された『トーマの心臓』も人気となり[4]、少女漫画に革新をもたらし黄金時代を築いたとして、竹宮惠子や大島弓子、山岸凉子らと共にその生年から「花の24年組」と呼ばれた[6]。
作品のジャンルはSF、ファンタジー、ミステリー、ラブコメディー、バレエもの、サスペンスものなど幅広い分野にわたる。1997年には『残酷な神が支配する』で第1回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞、2006年には『バルバラ異界』で第27回日本SF大賞を受賞した[4]。2011年には第40回日本漫画家協会賞・文部科学大臣賞を受賞[4]。2012年春に少女漫画家では初となる紫綬褒章を受章した[7]。2019年秋に女性漫画家では初となる文化功労者に選出された[8][9]。2022年に日本人で7人目となるアイズナー賞「コミックの殿堂」を受賞[10]、旭日中綬章を受章[11][12][13]。
1949年、福岡県大牟田市白川町に生まれる[14]。4人兄弟の次女(姉・妹・弟)[15]。父は三井鉱山の関連会社の社員[16]。「望都」は本名で、両親がそれぞれの思いを持って名付けられた。名前の由来には諸説ある[17][注 2]。4歳の頃に熊本県荒尾市の父親の会社の社宅に引っ越して、小学校2年生の5月まではそちらで暮らしたのち、また大牟田市の社宅に戻る[21]。
2歳頃から絵を描き、4歳で漫画や本を読み始めるが[22]、教育熱心な両親により、漫画を読むことを禁止されていた[20]。幼稚園では時間の許す限り絵を描き、小学校では3年生のころ、彼女の絵の才能を伸ばそうとした両親の勧めで絵の塾に通い油絵を学ぶ[23]。小学校2年のときに学級文庫ができ、『ヘレンケラー物語』や『アルセーヌ・ルパン』、『青い鳥』、『不思議の国のアリス』などを夢中になって何度も読み[24][注 3]、また図書館に入り浸りギリシャ神話や世界名作全集、児童向けのSFシリーズなどを読んでいた[20]。さらに、親戚の本屋に遊びに行っては漫画を読み、模写していた[20]。
1962年、大牟田市立船津中学校に入学する[注 4]。中学入学後、漫画を描く友人、原田千代子(後の漫画家・はらだ蘭)と知り合い[23]、漫画を描くための知識や漫画家になるためには作品を投稿する必要があることを知り、2人で貸本雑誌などに投稿した[22]。中学2年生[注 5]のときに大阪府吹田市に引っ越すが、その後も原田との文通は続く[23]。
高校は大阪府立吹田高等学校に入学する[25]。高校2年生の終わり頃に手塚治虫の『新選組』に強く感銘を受け、本気で漫画家を志し[17][20][26][24][注 6][注 7][注 8]、漫画雑誌[注 9]への投稿を始める[30]。
高校3年生のときに福岡県大牟田市小浜の社宅に引っ越す[25]。校区があり福岡県立大牟田北高等学校に転校するが、競争が激しくなじめなかったと言う[31]。原田千代子の紹介で漫画同人誌「キーロックス」に同人漫画家として参加する[32][33]。「キーロックス」は福岡県立大牟田南高等学校の生徒3、4人および卒業生を合わせた8人くらいからなるグループで、肉筆回覧誌を作っていた[34]。
高校卒業後、福岡市内の日本デザイナー学院ファッションデザイン科に入学し、服飾デザインを学ぶ[35]。漫画の投稿は全部で10作ほど行い、そのうちの1作『ミニレディが恋をしたら』(ペンネームは「萩尾望東」)で『別冊マーガレット』(集英社)1968年5月号の「少女まんがスクール」にて金賞を受賞するが、入賞作は掲載されなかった[36]。続く『青空と王子さま』は7月号で銀賞に落ちてしまい、『マーガレット』では採用してもらえないらしいと思った[注 10]萩尾は学校の冬休みに上京して出版社を訪問する計画をたてる[38]。
休暇で上京した際に手塚プロのアシスタントをしていた原田千代子を訪問し、そこで初めて手塚治虫と出会う[23]。また原田と岡田史子を訪ねた。同郷の漫画家、平田真貴子のつてで講談社の『なかよし』編集部に持ち込みをした[39]。そこで「何か短い作品を」と言われ、忘れられないうちにと2週間で20数枚の作品を仕上げ提出[20]。その作品『ルルとミミ』が『なかよし』夏休み増刊号に掲載されてデビューした[20][23][27][注 11]。
専門学校の卒業を控えた頃、講談社の編集者に頼まれ、東京にいた竹宮惠子のアシスタントに一晩だけ赴き、上京して一緒に住まないかと誘われる[41]。その後『なかよし』編集部からの『ビアンカ』(掲載は別誌)以外のボツが続くが、次の『ケーキ ケーキ ケーキ』で自分のスタンスの描きたいものを描く方針を決める。竹宮惠子より小学館の編集者を紹介すると言われ、ボツになった5、6作の原稿を竹宮に送る[42]。1970年10月頃上京し、練馬区大泉で2年間の共同生活に入る(大泉サロン)。竹宮惠子と共同アパートで生活し、後に24年組と呼ばれることとなる漫画家たちと切磋琢磨(せっさたくま)の日々を送るが、このときに増山法恵から様々な文化的な知識を吸収する[43]。その後、描きたいSFをテーマにした作品が採用されない時期が2年ほど続くが、竹宮に伴われ小学館へネームを持ち込んだ際に『少女コミック』編集者の山本順也に可能性を認められ、「自由にわがままに思い切り描かせたい」という方針のもと、本領を発揮するようになる[32][17]。
1972年2月、『ポーの一族』シリーズ第1作「すきとおった銀の髪」が『別冊少女コミック』3月号に掲載され、以後5年間断続的に連載される。代表作『ポーの一族』は、「永遠にこどもであるこどもをかきたい」との発想から[44][注 12]、石ノ森章太郎の『きりとばらとほしと』の吸血鬼の設定の一部をヒントに構想を思いついた[45][46][注 13]ものだが、長編連載をやるには早すぎると編集から「待った」がかかったため、1972年、「すきとおった銀の髪」などの短編を小出しに描き、そんなにやりたいのならとようやく編集から了解が出て、同年8月から翌1973年6月にかけて当初の構想であった3部作(「ポーの一族」、「メリーベルと銀のばら」、「小鳥の巣」)を連載した[46]。
この時期のもうひとつの代表作『トーマの心臓』は、『悲しみの天使』というフランス映画を見に行ったところ、それがバッドエンドであったために萩尾は主人公に同情し、「救いのある話を」と着手したもので[20][44][注 14]、1974年4月から連載を開始したが、初回の読者アンケートが最下位だったため、当時の編集長である飯田から打ち切りを宣告された。しかし、直後に単行本化された『ポーの一族』[注 15]の初版3万部が3日で完売、『トーマの心臓』の評判も徐々に上がり、「もう少しで終わりになるから」と萩尾がかわしているうちに連載は33回まで続くこととなった[注 16]。
その後、単行本の人気により編集部の強い要請を受けて1974年12月『ポーの一族』を「エヴァンズの遺書」で再開、1976年5月に「エディス」で完結したが、その間に『トーマの心臓』の暗いイメージを一掃するため長編ラブコメディー『この娘うります!』を連載する[注 17]とともに、念願であったSF作品『11人いる!』を連載し、その後はレイ・ブラッドベリ原作シリーズ(後に作品集『ウは宇宙船のウ』として単行本化)、『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍原作)、『スター・レッド』と矢継ぎばやにSF作品を連載する。
1976年、『ポーの一族』、『11人いる!』で第21回小学館漫画賞を受賞、人気漫画家としての地位を確立する[注 18][5]。
一方、1977年に定年になった父親を代表として会社「望都プロダクション」を設立した[注 19]。しかし後に両親との不和が高じて大げんかとなり、2年後に会社をつぶす[52]。
親との関係を見つめるため心理学を勉強し始め、内なる親から解き放たれるために、1980年に親殺しをテーマにした『メッシュ』の連載を開始[52][注 20]。この時期のSF作品に『銀の三角』、『モザイク・ラセン』、『マージナル』などの長編作品のほか、「A-A'」、「X+Y」などの短編作品がある。
1982年の年末に、モスクワ郊外で乗っていた観光バスとトラックが正面衝突した事故で重傷を負う[注 21]。
1985年ごろから舞台演劇やバレエへの関心が強まり、『半神』を野田秀樹と共作で脚本を手がけ舞台化した[24]。一方、『フラワー・フェスティバル』、『青い鳥』、『海賊と姫君』などのバレエものを描き発表した。
1986年公開のアニメ映画『時空の旅人』(原作:眉村卓)でキャラクターデザインを担当した[54]。
『スター・レッド』(1980年)、『銀の三角』(1983年)、「X+Y」(1985年)で、それぞれ星雲賞コミック部門を受賞する。
80年代から引き続き『ローマへの道』や『感謝知らずの男』などのバレエものを描くとともに、1992年には厳格だった母親との対立を基にした『イグアナの娘』を発表し[55][注 22]、さらに同年、サイコ・サスペンス長編作品『残酷な神が支配する』の連載を開始する。この時期のSF作品には『海のアリア』、『あぶない丘の家』がある。
『残酷な神が支配する』終了後、1年間の休載後、2002年、SF作品『バルバラ異界』の連載を開始する。『バルバラ異界』終了後、『ここではない★どこか』シリーズや『あぶな坂HOTEL』、『レオくん』、田中アコ原作による『菱川さんと猫』(ゲバラシリーズ)などを連載する。
2011年、引退を考え短編数編でフェイドアウトする予定だったが[56]、東日本大震災で終末を表すものは止められ描けなくなり、原発事故から『なのはな』[注 23]と放射性物質を擬人化した原発3部作[注 24]、『福島ドライヴ』[注 25]を発表するとともに、現代社会を厭い歴史漫画『王妃マルゴ』を開始、引退を延期する[56]。また、小松左京の『お召し』を原案とする『AWAY-アウェイ』[注 26]を連載する。2016年には「ハギオ モト」名義による『天使かもしれない』で漫画原作を初めて担当する(作画は波多野裕が担当)[58]。また、連載終了から40年ぶりに『ポーの一族』の新作「春の夢」を発表する[59]。
2011年から女子美術大学芸術学部アート・デザイン表現学科メディア表現領域客員教授に就任[60]。
2012年春、少女漫画家としては初の紫綬褒章を受章する[7]。
2013年、単行本『なのはな』および作者の全作品で第12回センス・オブ・ジェンダー賞生涯功労賞を受賞する[61]。
2017年、漫画家としては、手塚治虫、水木しげるに続いて3人目、女性漫画家としては初の朝日賞を受賞する[62]。
2018年、『なのはな』と『なのはな -幻想『銀河鉄道の夜』』により、震災からの復興と岩手県の文化振興に貢献したことが評価され、第3回マンガ郷いわて特別賞を受賞する[63]。
2019年、デビュー50周年を記念して「萩尾望都 ポーの一族展」が松屋銀座[64]、名古屋パルコ[65]、阪急うめだ本店[66]で開催される(2020年には長島美術館[67]、2021年には久留米市美術館でも開催[68])。
2019年秋、漫画家としては、横山隆一、水木しげる、ちばてつやに続いて4人目、女性漫画家では初となる文化功労者に選出される[8][9]。
2021年、12万字書き下ろしの出会いと別れの“大泉時代”を、現在の心境もこめて綴った70年代回想録『一度きりの大泉の話』(#エッセイ集を参照)を出版[注 27]。2019年から断続的に連載されてきた『ポーの一族』シリーズ最長作品「秘密の花園」が完結。
2022年にアイズナー賞で優れた功績を残している漫画家を選出する「コミックの殿堂」に、日本の漫画家では2018年の高橋留美子以来の殿堂入りを果たす[71]。同年秋に旭日中綬章を受章[11][12][13]。
2023年4月、筋力がいるペンの使用を止め、デジタル作業でiPadとCLIP STUDIO PAINT(クリップスタジオペイント)で人物などを描き、原稿用紙に印刷してアナログ作業でサインペン、修正液、スクリーントーンで仕上げて漫画原稿にしている[72][注 28]。
2024年1月、フランスのアングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞を受賞する[74]。同年2月、日本芸術院会員に選出される[75]。マンガ分野では3人目の選出となる[76]。
映画監督押井守のファンで、1番好きな作品に『天使のたまご』を挙げている[78]。
「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫にあやかり、「少女漫画の神様」とも称えられる。
萩尾から影響を受けたと語る人物を記す。
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