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日本の歌手、声優 (1948-2022) ウィキペディアから
水木 一郎(みずき いちろう、本名:早川 俊夫(はやかわ としお)、1948年〈昭和23年〉1月7日 - 2022年〈令和4年〉12月6日)は、日本の歌手、作詞家、作曲家[注釈 1]、声優、タレント、ナレーター。身長170センチメートル。血液型はO型。イエローバード所属。
2007年のジャパン・エキスポから | |
基本情報 | |
出生名 |
早川 俊夫 (はやかわ としお) |
別名 |
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生誕 | 1948年1月7日 |
出身地 | 日本 東京世田谷区 |
死没 | 2022年12月6日(74歳没) |
学歴 | 世田谷高等学校卒業 |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | |
レーベル |
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事務所 | イエローバード |
共同作業者 | JAM Project(2000年 - 2022年) |
公式サイト | ICHIRO MIZUKI OFFICIAL WEBSITE |
アニメソング界の帝王と呼ばれるほか、アニキ(ANIKI)の愛称でも親しまれていたが、これはNHKの『おかあさんといっしょ』において、2代目うたのおにいさんを務めたことに由来する。自分の持ち歌を「ANIKING」ヴァージョンとして再録音もしている。別名義として「松本茂之」「山本一郎」「早川としお」「たつきよういちろう」「ミズキング」を使用する事もある[注釈 2]。
東京都世田谷区出身。世田谷区立梅丘中学校[2]、世田谷高等学校卒業。晩年は神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の近くに在住していた。デビュー時のキャッチフレーズは歌謡界のプリンス。
実家がレコード店を経営していたため音楽環境には恵まれ[3]、幼少期からジャズなどを聴いていた。特にアメリカの音楽には強い影響を受けていた。だが、本人は当初「どうせ日本人なんだから落語でもやるか」ということで落語家を目指し、学生時代には「落語会」を開いていた[4]。
1964年、ジャズ喫茶に入り浸っているうちに顔なじみになったザ・ドリフターズの桜井輝夫の勧めで、当時新宿区歌舞伎町に存在したジャズ喫茶「ラ・セーヌ」で催されたコンクールでジョニー・シンバルの「僕のマシュマロちゃん」を歌い優勝、これが本格デビューのきっかけとなる[5][6]。
1965年、作曲家・和田香苗の門下生となる。この時期、弘田三枝子の前歌などを務めた[6]。
1965年[7]、早川昭名義でテレビ西部劇『シェナンドー』の日本版主題歌「シェナンドー」をレコーディングする。この曲は当時、宣伝用フォノシートが製作されたが一般発売はされなかった[8]。2018年、デビュー50周年記念アルバム『Just My Life』に収録され、初めて一般発売された。
1968年に歌謡曲歌手としてカンツォーネ調の「君にささげる僕の歌」でレコード・デビューするものの、売上が芳しくなかったこと、マネージャーとの不仲も災いして一時歌手を退く。『徹子の部屋』に初出演をした際に語ったところによると、同じレコード会社(日本コロムビア)の先輩歌手で万城目正門下(『万城目正歌謡音楽院』出身)で『すすきのブルース』(1964年)などのヒット曲を唄った九条万里子と結婚することになったため、新人の水木が身を引いたという。その後、生活のためナイトクラブやキャバレーで歌い始める。
歌手を辞めて作曲家へ転向しようとしていた矢先[5]の1971年、堀江美都子の担当だった日本コロムビアのディレクター・木村英俊の勧めでアニメ『原始少年リュウ』のオープニングテーマ「原始少年リュウが行く」を歌唱。以降、活動の中心をアニメソングへと移していく[9]。水木はアニメソングを歌うことについては、以前から映画音楽を歌いたいという思いがあったこともあり、抵抗はなかったとのこと[5][6]。「最初の歌がつまらない歌だったら、以後アニメソングを歌うつもりはなかった」と述懐している。アニメソング歌手に転向した当時は「漫画の歌」と言われ、「歌謡曲と同じ土俵に立てなかった」と言う[10]。このように、後述のようにアニメソングだけで何十万枚売れても音楽番組に出られないという時期もあった[10]。
以降、『超人バロム・1』『変身忍者 嵐』『アストロガンガー』『マジンガーZ』[注釈 3](1972年)、『バビル2世』『ロボット刑事』(1973年)、『仮面ライダーX』『グレートマジンガー』『がんばれ!!ロボコン』(1974年)、『仮面ライダーストロンガー』『宇宙の騎士テッカマン』『鋼鉄ジーグ』『アクマイザー3』(1975年)、『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)など、アニメ・特撮作品の主題歌・挿入歌を数多く歌い、アニメソング歌手としての評価を確立。
アニメソング歌手に転向してからの最初の4年間で、約150曲の子供向け番組のテーマ曲を発表し、そのレコード売上は平均約10万枚[12]、累計約600万枚[12][13] に達した。1973年発売の『マジンガーZ』の主題歌レコードは70万枚[14]の大ヒット。1978年発売の『宇宙海賊キャプテンハーロック』主題歌レコードは当時アニメソングとしては驚異的な初回プレス15万枚[15]。同曲では、アニメソングとしては異例の68人のシンフォニー編成をバックに吹き込んだ。これらの逸話から、「アニメソングの女王」こと堀江美都子と並び「アニメソングの帝王」と呼ばれるようになる。
当時、アニメだけでなく、自身の歌手としての原点でもあるアメリカン・ポップも披露。後にそれを知った平尾昌晃からラジオ番組に呼ばれ、オールディーズを歌ったこともある。また、アニメ関係の仕事と並行して、1976年4月から1979年3月にはNHKの子供番組『おかあさんといっしょ』において、うたのおにいさん(2代目)を3年間務めた。またこの頃の一時、30歳(1978年1月7日で30歳の誕生日)になったらアニメソングは卒業と考えていたという[16]。水木はうたのおにいさん就任時より妻子持ちである(これは後輩の7代目坂田おさむと8代目速水けんたろうも同様)。
1982年、自らが吹き込んだ主題歌レコードのトータルセールスが700万枚以上という記録を樹立し、『ギネスブック』に掲載された[17]。
1983年1月、前年リリースの「ロマンティックアゲイン」(コミック『エロイカより愛をこめて』イメージソング)でコロムビア「ゴールデンディスク賞」「ゴールデンLPテープ賞」を受賞。
1986年4月〜1987年3月放送の特撮ヒーロー番組『時空戦士スピルバン』の主題歌を歌うとともに、主人公の父親「ベン博士」役で本編に出演。
小堺一機、関根勤のラジオ番組『コサキン無理矢理100%』を発端として[注釈 4]「雄叫び」系アニメソングが注目を浴び、初のベスト・アルバム『OTAKEBI参上! 吠える男 水木一郎ベスト』を1989年6月にリリース。「雄叫び」ブームはさらに広まることとなり1990年5月には『水木一郎OTAKEBI2』をリリース、このアルバムでは懐かしのアニメ・特撮主題歌だけでなく、新曲であるアニソン17曲メドレー「懐かしくってヒーロー〜I'll Never Forget You!〜」を収録、同年11月にはシングルカットもされている。
1990年9月1日から1992年8月21日にかけて『水木一郎大全集』Vol.1〜5を発売するなど、数々の作品集を発表。以降、1992年に24曲メドレー「懐かしくってヒーローPartII〜We'll Be Together Forever!〜」、1994年に青春ドラマ主題歌メドレー「SEISHUN FOR YOU〜青春の詩〜」をリリース。
アニメタルなどによって、1960年代後半から1980年代を中心とした往年のアニメソング(アニソン)が再注目され始めたことも追い風となり、1990年代に入ってから(正確な表現ではないものの)「21世紀にかつてのアニソンを歌い継ぐ」といったスローガンのもと、中核となって、堀江美都子、影山ヒロノブ、ささきいさおなどと共に、コンサートを開催し続け、かつてのロボットアニメやSFアニメの主題歌を中心に歌っている。
さらなる飛躍のために1997年3月末日を以て日本コロムビアとの専属契約を解き、フリーとなる。まだ、フリー宣言後初のアルバム『スーパーロボット大戦ボーカルコレクション』(ファーストスマイルエンタテインメント)がオリコンチャート23位を記録[18]。同年8月には、アニメソングを21世紀に残すべく、水木を筆頭に日本のアニメソング界を担ってきた歌手たちが赤坂BLITZに集結。一大ムーブメントを巻き起こした「スーパーロボット魂」ライブの幕開けとなった。以後、進化し続ける同ライブを牽引、アニメジェネレーションにおけるカリスマ的存在感を示す。
1998年4月、文化放送のラジオ番組『ラジオ・スーパーロボット魂』放送開始。パーソナリティを務める。翌1999年、歌手生活30周年記念のベスト盤CD『兄尊』をリリース。タイトルは、「アニメソング」の略称「アニソン」と水木の愛称「アニキ(兄貴)」をかけたもの。同年3月18日放送のアニソン番組『快進撃TVうたえモン』では『人造人間キカイダー』が紹介された際にキカイダーの主題歌ではなく『ハカイダー』のテーマが流れ、紹介と同時に水木本人がハカイダーのテーマを熱唱した。同番組では水木のキャラクターがウケ大きく取り上げられ、歌手活動30周年と重なったこともあり「水木一郎世界征服計画」という企画がスタート。同年8月30日から31日にかけて、『うたえモン』同企画の一つとして山梨県の河口湖ステラシアターにおいて「24時間1000曲ライブ」を敢行。終盤の生放送での変わらぬ声の響きに「本当に24時間歌い続けたのか」という電話が番組宛に殺到するという逸話を生んだ。しかし、その3日後の9月3日〜9月4日に出演予定のイベント『松本零士〜幻想軌道1999〜』で「キャプテンハーロック」を歌唱予定だったが、当該のライブで声が嗄れてしまったことで生出演出来ず映像のみ出演という経緯になったことから、この24時間ライブがとても過酷だった事が窺える。同年にはこちらも『うたえモン』同企画の一つとしてTHE ALFEEの高見沢俊彦プロデュースによる「Golden Rule ~君はまだ負けてない!~」がリリースされた。
2000年7月17日に影山ヒロノブ・遠藤正明・さかもとえいぞう・松本梨香と共に、アニソンユニット・JAM Projectを結成。2002年8月からは、自身の多忙なスケジュールにより参加が難しくなったことから「非常勤」を宣言している。
2001年2月2日には「香港キャラクターショーケース2001」にてライブを実施。香港のファンからも絶大な「アニキコール」を受け、会場が一体となって日本語で大合唱する光景を目の当たりにする。ファッション誌、芸能誌などジャンルを問わず多くの媒体で記事が組まれ、現地での関心の深さを知ることとなる。同年10月にはテレビ朝日の番組『トゥナイト2』に出演。「我らがアニキ 水木一郎の魂!!」と題した大特集で、通常の2倍の視聴率をマークする。同月開始のNHKの少年ドラマ『料理少年Kタロー』では主題歌「熱くるしいぜ」を担当し、ゲスト出演時には劇中でも歌唱。同曲は、アニソンデビュー30周年記念アルバム『アニキ自身』と同時発売された。
2002年3月にはテレビ朝日の番組『徹子の部屋』に2度目の出演。同月に水木バージョンで新録した中日ドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ!」が開幕よりナゴヤドームで流れる。同年6月にはナゴヤドームにて始球式を行い、スタンドの観客とともに「燃えドラ!」を大合唱。選手の名前を歌詞に織り込んだ「燃えよドラゴンズ!2002」は雄叫び入りでリリース。
2003年3月には世界的カリスマDJ・ディミトリ・フロム・パリスのオファーを受け、「ぼくらのマジンガーZ(Black Version)」を新録。この曲を収録したビクターエンタテインメントからのアルバム『Cruising Attitude』が日本先行発売となる。
2007年には、初めて『みんなのうた』の楽曲とスーパー戦隊シリーズ(『獣拳戦隊ゲキレンジャー』)のED曲を歌った。また2006年に発売されたオリジナル特撮ビデオ『超忍者隊イナズマ!』の主題歌を担当(サウンドトラックは7月18日発売)し、続編『超忍者隊イナズマ!!SPARK』でも「水木昇龍斎」役で出演して「超忍者隊イナズマ! お江戸MIX」を歌唱した。
2010年、プロデューサー・塚田英明からのオファーを受けて『仮面ライダーW』第23・24話へ顔出し出演し、久々に仮面ライダーシリーズに関わることとなった。また6月には中国にて行われている上海万博のジャパンウィークにて、中国でもよく知られているアニメソングを歌唱した。
2011年7月6日、全国納豆協同組合連合会 の公認ソング「ヒーローは Never ねば Give Up!」を発売[19]。同日発売のももいろクローバーZのシングル「Z伝説 〜終わりなき革命〜」にも特別参加し、同9月2日開催の東映まんがまつりDVD発売記念イベントで共演した[20]。7月10日、イオンモール石巻で開催された、東日本大震災復興支援イベント「がんばれ東北! Never ねば Give Up!!」で超神ネイガーと共演し、「ヒーローは Never ねば Give Up!」を歌った[21]。8月24日、セルフカヴァー曲を中心に構成したアルバム『THE HERO 〜Mr.アニソン〜』を発売。タイトルは、福島第一原子力発電所事故などの後処理・修理・復興で働いている現実世界の「ヒーロー」たちにインスパイアされたという[22]。8月27日、Animelo Summer Live 2011 -rainbow-にサプライズ・ゲストとして参加。9月21日、『おかあさんといっしょ』などで歌った童謡を集めたアルバム「水木一郎 キッズ ソング・ベスト!」を発売。
2016年、第12回東京アニメアワード功労賞を受賞[23]。
晩年は歌手活動を続ける一方、「水木一郎ヴォーカルスクール」を主宰、後進の育成に力を注いでいた。卒業生として貴日ワタリをはじめとする「ザ☆カインズ」メンバー、平山佳代子をはじめとする「アップルパイ」メンバー、『海賊戦隊ゴーカイジャー』主題歌の松原剛志[24]、菊池志穂、小西寛子などがいる。前述の松原が「海賊戦隊ゴーカイジャー」の主題歌を歌うのが決まった際、水木は「やったな!」と喜んだという[25](水木自身も挿入歌の歌唱で参加)。
2021年4月25日、声帯不全麻痺の症状が出ているという事をTwitterで公表[26]。
2022年7月26日、前述の声帯不全麻痺に伴う検査を行った結果、リンパ節や脳への転移を伴うステージ4の肺がんを患っていたことを公表した。
これらに関しては放射線および抗がん剤による治療で病変が落ち着く状態になったこと、2022年に入って新たな肺がんが見つかったものの6月に手術し経過が良好で月1回の通院で済むまで回復しており、音声機能については以前と同じように歌えるよう声帯への薬剤注射を受け、言語聴覚士によるリハビリを開始しており、運動機能も理学療法士による指導を受けながら自宅で筋トレやリハビリを行っていることも明らかにしている。既に2021年から徐々に活動を再開しており、今後は闘病とコロナ禍の影響で延期となっていたアニメソングデビュー50周年企画を進め、「生涯現役」を目標に活動を続けていくことを表明していた[27][28]。7月30日になんばHatchで行われた『ANIME JAPAN FES 2022 大阪』が、がん公表後初の復帰ステージだった[29]。
2022年11月8日に中野サンプラザで開催された日本歌手協会主催の『第49回歌謡祭』には車椅子姿で登場し、「マジンガーZ」を熱唱した[30]。同月27日にはよみうり大手町ホールで堀江美都子と『ふたりのアニソン』を開催。これが水木の最後のステージとなり、この時点で既に長時間ステージにとどまれないほどに悪化していたため、鈴木美潮が司会進行、歌唱サポートとして谷本貴義、高取ヒデアキ、串田アキラがゲスト出演した[31]。12月2日には渡辺宙明の追悼コンサートに出演予定だったが当日体調不良を訴えドクターストップがかかり救急搬送[32]。その後自宅療養していたが、同月6日に再び救急搬送され、肺がんにより搬送先の東京都内の病院で死去した。74歳没。訃報は12月12日に公表された[33][34][35]。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
ここでは1,000曲を越える持ち歌の中から、特に代表的な楽曲、また比較的近年発表された楽曲を紹介する。
ほか多数
ほか、特番へのゲスト出演など多数
ほか、TBSラジオ・文化放送・ニッポン放送など各局番組に出演
CMソングに関しては前述の項目を参照。
その他、以下に挙げるような多彩な活動を展開している。
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