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日本の作曲家 (1914-2006) ウィキペディアから
ほぼ独学で作曲家となった[1]。日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか[出典 4]、音楽教育者としても知られる[5]。北海道出身[出典 5]。
1914年(大正3年)、北海道釧路町(釧路市の前身)[6]幣舞にて、警察官僚の伊福部利三、キワの三男として生まれる[8]。小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る[11]。同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた[12][8]。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという[12]。また、このころから父親に『老子』の素読をさせられる[13][8]。
1926年(大正15年)、12歳。札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)に入学。中学時代に後の音楽評論家で、生涯の親友となる三浦淳史と出会う[14]。初めは絵画に熱中し、1年上の佐藤忠良(彫刻家)らと美術サークル「めばえ会」を結成[13]。地元で展覧会も開いたという[13]。その後音楽に関心を持ち、ヴァイオリンを独学で始める[15]。さらに三浦に「音楽やるには作曲やらないと意味がない」とそそのかされ、本格的に作曲も始めた[15]。
1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科学校(森林科学科)に入学[10][8]。文武会管絃学部のコンサートマスターとなる[16]。さらに、同オーケストラ内で最新の音楽への関心が強い同志3名(有田学、小岩武、工藤元)とともに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成する[17]。工藤は当時札幌師範学校教諭で、大正期に函館で「アポロ音楽会」を主宰した工藤富次郎の長男であった[17][18]。ギター曲『JIN』作曲[注釈 2]。独唱曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』を作曲[注釈 2][注釈 3]。このころ後の作曲家早坂文雄と出会う。
1933年(昭和8年)、19歳。アマチュアギター奏者であった次兄・勲のために、ギター曲『ノクチュルヌ』を作曲[17][8][注釈 2]。さらに、三浦が文通していたスペイン在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランドのために『ピアノ組曲』を書き上げる[19]。これは、コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて作曲したものであるが[19]、後年、管弦楽版、箏曲版、弦楽オーケストラ版などを編曲するなど、ライフワーク的な作品となる。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという[19]。
1934年(昭和9年)、20歳。次兄の勲、三浦、早坂、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーらとともに、「新音楽連盟」を結成[17][8]。代表は伊福部の長兄の宗夫がつとめた[17]。同年9月、「国際現代音楽祭」を開催[17]。イーゴリ・ストラヴィンスキー、ダリウス・ミヨー、マヌエル・デ・ファリャ、エルヴィン・シュルホフ、エリック・サティなど、時代の最先端をいく作品を演奏・紹介した[16][17]。また、この演奏会で伊福部はソリストとして、シュルホフの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』を日本初演している[17]。楽譜の入手は伊福部と、当時アメリカの音楽家と文通するなど、最新の音楽事情に精通していた三浦が中心に行っており、主に丸善を通してフランスのデュラン社・イギリスのチェスター社から購入していた[17]。なお、伊福部は上記の他にもヤナーチェクの『六重奏曲』の楽譜を入手していたが、当時はその価値がわからず演奏会で発表することはなかった[17]。伊福部はこのことを後年まで悔やんでいたという[17]。また、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーとしても、札幌・旭川など道内各地で演奏旅行も行った[17]。
「新音楽連盟」の演奏会は上記の一度きりであったが、20年後の1954年に当時北大生であった谷本一之(のち北海道教育大学学長)らのグループ「ノイエ・ムジーク」が、同大学の中央講堂で「新音楽連盟」の演奏会を継承するとして「現代音楽の夕」を開催している[20]。谷本は事前に先輩の伊福部らに許可を求める手紙を送ったが、伊福部からは「御役に立つなら第二回でも第三回でもご使用ください。 〜(中略)〜 選曲や、演奏の上で多少、不適当なものがあったとしても、その支障を超える気力が重要です」と激励の返信があったという[17][20]。
1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務[10][19]。アメリカの指揮者ファビエン・セヴィツキー(セルゲイ・クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る[21][8]。
同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールやアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった[6]。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった[注釈 4]。
パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、
との理由から、相当の驚きと困惑があったという[22]。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、大木正夫の「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた[22]。
結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった[出典 6]。賞金は300円であった。この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平と伊福部はともに新作曲派協会を結成することになる。同曲は翌1936年(昭和11年)、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演された[23]。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、そのカットした部分の楽譜は現存しないため、永遠に幻となった[21]。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている[24]。
これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する[23][8]。日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。チェレプニンは伊福部にニコライ・リムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』のスコアを渡し、筆写して学ぶことを勧めた。
なお、『日本狂詩曲』は、1936年に龍吟社からチェレプニン・コレクションとして楽譜が出版されている[25][26]。表紙のデザインは、美術にも関心が深かった伊福部自身が手がけた[26]。この楽譜は、日本国内では僅か9冊しか売れなかったが、海外での購入者の中には、モーリス・ラヴェルやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの名前もあったという[25]。
1937年(昭和12年)、23歳、室内管弦楽曲『土俗的三連画』を作曲し、チェレプニンに献呈する[27]。
1938年(昭和13年)、24歳。以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭入選[19][8]。
この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった、北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。
1940年(昭和15年)、26歳。林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に嘱託として勤務[28]。紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演[27]。
1941年(昭和16年)、27歳。札幌出身の舞踊家・勇崎アイと結婚。これが後に舞踊作品の音楽を手掛けるきっかけとなる。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。
1942年(昭和17年)、28歳。兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去[29][8]。
1943年(昭和18年)、29歳。勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲[29][8]。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し[8]、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった[29]。吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』を作曲。
1944年(昭和19年)、30歳。管弦楽曲『兵士の序楽』を作曲。『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』[注釈 5]を作曲。『管絃楽のための音詩「寒帯林」』を作曲。
1945年(昭和20年)、31歳。宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務[30][31][8]。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けた[32]。研究成果を得ないまま終戦となったある日、突然血を吐いて倒れたが[31][33]、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われ、「何せ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なものであった」と述懐している[33][注釈 6]。また、この時病臥した経験が、後に音楽に専念するきっかけとなったという[34]。航空機に伴う一切の仕事はマッカーサー上陸後、数日後に禁止となった[30]。
1946年(昭和21年)、32歳。自宅で静養中、知人から映画音楽の仕事の誘いがあり、栃木県の日光・久次良町に転居[35][8]。その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任[出典 7]。独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』作曲。
この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われた[6][8]。特に芥川は2回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三[6][8]、矢代秋雄[6]、池野成[8]、小杉太一郎[8]、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育てた[要出典]。
またこのころ、『管弦楽法』の執筆に取り掛かっていたが、トランクに入れていた原稿やメモを、乗っていた電車からトランクごと落としてしまった[37]。翌日探しに行ったが、原稿はほとんど散逸してしまっており、このために『管弦楽法』をまとめるのに5年はロスしたという[37]。
1947年(昭和22年)、33歳。東京都世田谷区玉川等々力町に転居[38][8]。東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当[出典 8]。伊福部はこの作曲依頼について、「おそらく私が山林官で、山奥の生活を知っているだろうということであったのだろうと思っています」と語っている[30][39]。
この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図したことが認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。[要出典]
バレエ曲『エゴザイダー』作曲。
同年、『交響譚詩』などの業績により、第1回北海道新聞文化賞を受賞[40]。
1948年(昭和23年)、34歳。世田谷区玉川奥沢町に転居。『ヴァイオリン協奏曲』初演[41][注釈 7]。バレエ音楽『さ迷える群像』を作曲。バレエ音楽『サロメ』を作曲[6][注釈 8]。
1949年(昭和24年)、35歳。父・利三死去。独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』[注釈 9]を作曲。バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』を作曲。バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ)』を作曲。
1950年(昭和25年)、36歳。バレエ音楽『プロメテの火』を作曲[6]。
1951年(昭和26年)、37歳。世田谷区玉川尾山町(現尾山台)に転居。『音楽入門』(要書房)を刊行[8]。バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』を作曲[6][注釈 10]。
1952年(昭和27年)[要出典]、38歳。『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』がジェノヴァ国際作曲コンクール入選[要出典]。
1953年(昭和28年)、39歳。東京音楽学校の音楽科講師を退任[8]。バレエ音楽『人間釈迦』を作曲[注釈 11]。『管絃楽法』(音楽之友社)を刊行[8][注釈 12]。ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。
1954年(昭和29年)、40歳。『ゴジラ』の音楽を担当[出典 9]。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けた。
管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』を作曲[6][注釈 13]、三浦淳史に献呈[43]。
1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明や岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。
1956年(昭和31年)、42歳。『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』を作曲。毎日映画コンクール音楽賞受賞[8]。仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』作曲。独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』を作曲。
1958年(昭和33年)、44歳。合唱頌詩『オホーツクの海』を作曲[注釈 14]。
1960年(昭和35年)、46歳。北海道大学合唱団委託作品、独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』を作曲。バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』を作曲。
1961年(昭和36年)、47歳。合唱曲『北海道賛歌』を作曲。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」』を作曲。
1965年(昭和40年)、51歳。母・キワ死去。
1967年(昭和42年)、53歳。ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』を作曲(1990年に二十絃箏用に編曲)。
1968年(昭和43年)、54歳。『管絃楽法』(音楽之友社)の上巻増補改訂版と下巻を刊行。
1969年(昭和44年)、55歳。ギター独奏曲『箜篌歌』を作曲[注釈 15]。
1970年(昭和45年)、56歳。大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がける。ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』を作曲[注釈 16]。
1972年(昭和47年)、58歳。吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』を作曲[注釈 17]。バレエ音楽『日本二十六聖人』を作曲。
1973年(昭和48年)、59歳。邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』を作曲。
1974年(昭和49年)、60歳。東京音楽大学作曲科教授就任[6]。
1976年(昭和51年)、62歳。同大学長就任[44][6]。マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」』を作曲[6]。
1979年(昭和54年)、65歳。『ヴァイオリン協奏曲第二番』を作曲[6]。二十絃箏曲『物伝舞』を作曲。
1980年(昭和55年)、66歳。リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』を作曲[注釈 18]。紫綬褒章受章[6]。芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展4 伊福部昭」が開催される[45]。
1982年(昭和57年)、68歳。二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』を作曲[44][6]。
1983年(昭和58年)、69歳。管弦楽曲『SF交響ファンタジー』を作曲[6]。ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」が開催される。また、音楽グループ「ヒカシュー」のメンバー(当時)の井上誠によって、トリビュートアルバム『ゴジラ伝説』全3作がリリースされ、若い世代にも伊福部の名前が知られるきっかけとなった[46]。
1985年(昭和60年)、71歳。『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を作曲。東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。
1987年(昭和62年)、73歳。勲三等瑞宝章受章[47]。
1989年(平成元年)、75歳。
1990年(平成2年)、76歳。管絃司判『鞆の音』を作曲。
1991年(平成3年)、77歳。『ゴジラVSキングギドラ』で13年ぶりに映画音楽を担当[出典 10][注釈 19]。以後、『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)を除き、『ゴジラvsデストロイア』(1995年)までのゴジラシリーズ(平成VSシリーズ)の音楽を手掛けた[6]。
1992年(平成4年)、78歳。独唱曲『摩周湖』を作曲。
1993年(平成5年)、79歳。交響的音画『釧路湿原』を作曲。
1994年(平成6年)、80歳。独唱曲『因幡万葉の歌五首』を作曲。
1996年(平成8年)、82歳。日本文化デザイン賞大賞受賞。
1997年(平成9年)、83歳。二十五絃箏曲『胡哦』を作曲。「伊福部昭音楽祭」(札幌交響楽団、札幌コンサートホールKitara。北海道文化放送・北海道新聞社主催)開催[49]。『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』が55年ぶりに再演される[49]。
1999年(平成11年)、85歳。二十五絃箏曲『琵琶行』を作曲。
2000年(平成12年)、86歳。独唱曲『蒼鷺』を作曲。独唱曲『聖なる泉』を作曲。妻・アイ死去。
2002年(平成14年)、88歳。「伊福部昭米寿記念演奏会」(新交響楽団、紀尾井ホール)。
2003年(平成15年)、89歳。チェンバロ独奏曲『小ロマンス』を作曲。文化功労者顕彰[50]。
2004年(平成16年)、90歳。「文化功労者顕彰お祝いコンサート」開催(第一生命ホール)[51]。「伊福部昭 『卆寿』を祝うバースディ・コンサート」開催(日本フィルハーモニー交響楽団、サントリーホール)[52]。
2005年(平成17年)、91歳。11月、幼少期を過ごした北海道音更町で、「伊福部昭音楽祭 in 音更」(札幌交響楽団、高関健指揮)開催[53]。『管弦楽のための日本組曲』、『リトミカ・オスティナータ』(ピアノ:川上敦子)、『シンフォニア・タプカーラ』などが演奏される[53]。
晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や二十五絃箏など箏の改良楽器およびその合奏のための作品が多い。1997年(平成9年)にそれまで戦時中に失われたとされていた『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜がNHKの資料倉庫から発見される[49]など、晩年になってから多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれた。
2006年(平成18年)、前年ごろから体調を崩し始め、1月19日に腸閉塞のため東京都目黒区の病院に入院するも、2月8日夜に多臓器不全のため死去。91歳没[54][55]。葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。従四位に叙された[6]。
遺作は結果として、2004年(平成16年)初演の二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ — バレエ・サロメに依る』である。しかし、川上敦子に献呈する予定だった『土俗的三連画』のピアノリダクション版、ならびに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃箏曲『ラプソディア・シャアンルルー』(「シャアンルルー」はアイヌ語で十勝平野の意)は、病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったという[56][57][6]。
伊福部の死去に対して、「日本の作曲界を牽引した功績はとても大きい」(作曲家・池辺晋一郎)、「映画音楽の大山脈をなした方でした」(映画監督・熊井啓)など、各界から追悼のコメントが寄せられた[58]。
2007年(平成19年)、サントリーホールにて「第1回伊福部昭音楽祭」が開かれた。
2008年(平成20年)、『完本 管絃楽法』(音楽之友社)を刊行。杉並公会堂にて「第2回伊福部昭音楽祭」開催[59]。コンサートの他、シンポジウム「伊福部昭が残したもの - 未公開映像に見る伊福部昭の素顔」が開かれた[59]。
2013年(平成25年)、5月2日、杉並公会堂にて「伊福部昭生誕99年 白寿コンサート」(伊福部昭生誕99・100年音楽祭実行委員会〈現・伊福部昭百年紀実行委員会〉主催)が開かれた[60]。6月1日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて「伊福部昭 生誕100年記念プレコンサート」が開催。舞踊音楽『プロメテの火』が50年ぶりに再演された[61]。
2014年(平成26年)。生誕100周年を迎えるこの年は、数多くの記念コンサート・イベントが行われた[62]。またメモリアルイヤーを記念し、多くのCDがリリースされた[63]。コンサート・イベントについて、主要なものを以下に述べる。
2019年(令和元年)、アメリカ映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』において、伊福部の作曲した「ゴジラのテーマ」が海を越えてアレンジ版となって使用された。
伊福部家は因幡国の古代豪族・伊福部氏を先祖とする[93][8]。本籍地は鳥取県岩美郡国府町(現在は鳥取市に編入)[8]。明治前期まで代々宇倍神社の神職を務めたとされ、昭の代で67代目[8]。祖父・信世の代に明治維新となり、神官の世襲が廃止されたことにより父・利三は北海道に転居し、警察署長や音更村(音更町の前身)村長を務めた[11][94]。
長兄の伊福部宗夫は北海学園大学建設工学科教授、次兄の伊福部勲は技術者として日本夜光塗料研究所に勤務していたが30歳で早世した(昭の「交響譚詩」第2楽章は亡き勲への追悼曲)[95][96]。工学博士で北海道大学電子研究所教授や東京大学先端科学技術研究センター教授を歴任した伊福部達は甥(長兄・宗夫の次男)[86]、放送作家の伊福部崇は従孫である。なお、伊福部家の人物としては宗教家・文芸評論家・詩人の伊福部隆彦も知られている。
映画音楽は300本以上の作品を手掛け、日本を代表する映画音楽の作曲家の1人である[出典 15]。
映画音楽の作曲にあたっては、
からなる映画音楽効用四原則を理念としていた[8]。
映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』は、監督の谷口千吉にとっても、また主演の三船敏郎にとってもデビュー作であった。その『銀嶺の果て』の打ち上げの席で、小杉義男に、「あんた、監督さんにあんなふうに口答えするなんてどういうつもりなんだ」と、論争したことをとがめられた。しかし小杉が離れたあと、志村喬がやってきて、「音楽の入れ方で監督と論争する人は初めてだ。これからも大いに頑張りなさい」と励まされた。[要出典]
1948年(昭和23年)、映画の仕事で京都に滞在していた際に、撮影所そばの小料理屋の二階で月形龍之介[注釈 22]とこたつで酒を飲んでいると、途中から入ってきた男がいた[30][1]。「またもらい酒か」などと言われながらもニコニコしながら酒をおごってもらい、名前も名乗らぬままおごり酒に酔いつつ飄逸、洒脱な話題で延々大飲した[30][1]。その際の俳優や映画会社への愚痴から、伊福部は「不遇な映画人」という印象を受けたという[30][1]。伊福部はその男と気が合い、その後も数年間、お互いの名前も分からないままたびたび会っては酒をおごらされていた[30][1]。この男こそ特技監督の円谷英二で、当時、円谷は公職追放中の身であった[30][1]。のちに映画『ゴジラ』の製作発表の現場で再会し、2人とも大変驚き、またお互いに初めて相手の名前を知ったという[30][1]。
円谷英二は特撮のラッシュ・フィルム(編集前の現像されたばかりのフィルム)を、他人に決して見せなかったが[30][1]、特別にラッシュを見せてもらい、作曲に活かしていた[注釈 23]。これも数年間にわたる円谷へのおごり酒が背景にあり、冗談めかして「なにしろ円谷さんにはそういう“神の施し”があったもんですから」と語っている[1]。また、『サンダカン八番娼館 望郷』などでコンビを組んだ熊井啓も、「作曲家はふつう、編集ずみのフィルムを見て音楽をつけるが、伊福部さんは撮影されたフィルムを全部見ていた」と証言している[58]。
『座頭市』シリーズなどで仕事を共にした勝新太郎とは、「勝っちゃん」「先生」と呼び合う仲で、後に勝が舞台で座頭市を行う際、オープニングは伊福部のボレロ[注釈 24]でなければならない、と言うことで伊福部に音楽を依頼したという。
伊福部は、映画音楽では録音テストの際、必ず自ら指揮棒を振った。伊福部と映画作品でのコンビの長かった指揮者の森田吾一によると、その際、普通の倍の長さの指揮棒を使うのが常だった。また、このテストの際の指揮のテンポが次第に遅くなって、スクリーンに映写した画面といつも合わなくなるのだが、それは伊福部が音楽の響きをチェックしていたためだという。
これも森田によると、伊福部のスコアは作曲時間の短さにかかわらず、非常に細かくしっかりと書き込まれており、曲の途中に複雑な変拍子が入るのも特徴で、この変拍子を振るのはコツがいるものだった。
怪獣映画においては、楽曲のみならず怪獣の鳴き声や足音なども伊福部が手掛けている[2][9]。『ゴジラ』では、なかなか決まらず難儀していたゴジラの鳴き声の表現に、コントラバスのスル・ポンティチェロというきしんだ奏法の音を使用することを発案したり[注釈 25][30][99]、劇中での秘密兵器オキシジェン・デストロイヤーを水槽内で実験するシーンでは、弦楽器がグリッサンドしながら高音のきしんだトレモロを奏でた後、ピアノの低音部でトーン・クラスターを奏するなど、映画の公開された1954年(昭和29年)にはまだ現代音楽界でも認知されていなかった手法を大胆に用いたことは、世界的に見ても特筆に価するものだった[99]。さらに『空の大怪獣 ラドン』では、ピアノ内のピアノ線を直接ゴムのバチで叩いたり、『キングコングの逆襲』のメインタイトル曲では、同じくグランドピアノ内の弦を100円玉でしごくという奏法を使用している[100]。怪獣の効果音で最も苦労したものとして、『キングコング対ゴジラ』の大ダコを挙げている[出典 16]。
映画監督の本多猪四郎によれば、伊福部は打ち合わせの際に映画内でどのような擬音(効果音)を用いるのか細かに尋ね、効果音と同質の音楽で相殺しないよう相反する性質の音をつけていったという[98]。平成ゴジラシリーズの監督を務めた大河原孝夫は、伊福部について演出家の意図を尊重していたといい、たとえ楽曲を用意していたシーンでも不要と判断すれば曲を外すことに異論は出さなかったという[101]。
怪獣映画においては、怪獣ごとにライト・モティーフを設け、対決シーンではそれらを紡ぎあげてバトル音楽とする手法をとることが多い[42][8]。また、怪獣との戦いの合間に人物の会話が行われるような場合でも、カットごとに音楽を区切ることはせず、1つのシーンとして楽曲を長くつけるのも特徴である[9]。
「◯◯マーチ」と通称される曲も多いようにマーチ調の楽曲も得意としているが、伊福部はマーチを書く際は軍隊行進曲にならないことを最も注意していたという[9][注釈 26]。
『フランケンシュタイン対地底怪獣』では、伊福部はフランケンシュタインのテーマ曲のためにバス・フルートという通常のフルートより低音の楽器を日本の映画界で初使用している。この楽器は当時日本には1本しかなかった非常に珍しいもので、音量の低さからオーケストラ演奏では稀にしか用いられないものだが、伊福部は「映画音楽しかできませんね」と、マイクロフォンを用いることで効果的な旋律を実現している[102]。
伊福部による怪獣映画の楽曲では、管楽器の低音を用いることが多いため、昭和期の気の知れた演奏家たちからは「チューバやトロンボーンのギャランティは倍にしてくれ」と言われたこともあったという[103]。ゴジラシリーズの楽曲については、きれいな音ではないほうが良いこともあると語っている[44]。
『ゴジラ』での「平和の祈り」など、人間の本質を表現するために合唱曲を用いることも多い[9]。一方で、本多によれば、映画『モスラ』で伊福部は「わたくしはああいう歌はダメです」といって音楽担当を辞退したという[104]。『ゴジラvsモスラ』で「モスラの歌」(古関裕而作曲)をアレンジした際は、宗教的なバックハーモニーを取り入れている[4]。
伊福部は東宝作品の音楽を数多く手がけたが、黒澤明作品は、『静かなる決闘』1作のみである[105]。映像と音楽の弁証法的な融合を目指した黒澤にとって、伊福部の訴求力・完結性の高い音楽は相容れないものであったと考えられる[105]。伊福部自身も、黒澤作品における音楽の付けにくさについては後に証言している[106]。だが、音楽にも造詣の深い黒澤は、作曲家としての伊福部の能力を非常に高く評価しており、『静かなる決闘』における土俗的な音楽についても一定の評価をしていた[105]。また、伊福部の映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』(谷口千吉監督)は、黒澤が脚本を手がけ、製作にも関わっていたが、あるシーンに入れる音楽のことで伊福部と監督の谷口が対立した際、黒澤は全面的に伊福部を支持している[105]。この時は結局伊福部の主張が通った形となったが、出来上がった音楽は谷口をも十分納得させるものであった[105]。
書籍『東宝特撮映画全史』での寄稿「特撮映画の音楽」で[30]、特撮映画の音楽について感ずることとして、
と述べ、「音楽としての自立性を失わずに、こういった効果を万全に利用できるのが特撮映画音楽の特質の一つである」と結論付けている[30][9]。同時に「今日、テクノロジイが発達しすぎたためか、映像も音楽も無機質に流れ人間性から離れる傾向があり、今一度本来の人間性にたちかえった特撮映画の復活を望む」と締めくくっている[30]。その後のインタビューでは、作り物である特撮が生きているような感じを与えることが自身が特撮を作曲する際の心構えであるといい、普通の楽曲では作り物に見えてしまうと語っている[1]。
伊福部の特撮映画の作品別全長版サウンド・トラックのレコードは1980年代まで長らく発売されなかったが、これも「映画音楽は、映像と合わさって効果を生むものなので、一般音楽とは違うもの」との考えから許可を出さなかったものと述べている[要出典]。
自身が担当していなかった時期のゴジラシリーズについては、作品がコミック的になっていったため自身の作風ではイメージを表現しづらいとの考えから引き受けなかったと述べている[5]。また、『ゴジラvsキングギドラ』以前に2度ゴジラ映画のオファーがあったが、体調不良を理由に断っている[1]。
平成に入ってからの映画音楽では、船や汽車での別れのシーンで静かな音楽をつけていたものが、速い鉄道や飛行場ではあわず、自動車ではカーラジオの音楽を流すのが主流になるなど、時代の変化とともに映画音楽の扱いも変わってきたと述べている[107]。一方で、平成ゴジラシリーズでは観客の世代が異なっていても子供の反応は変わらず、親世代は懐かしがるため、世代間のギャップは少なく、作曲にあたって新しい手法は取り入れなかったと述べている[107]。『vsキングギドラ』では、未来人の音楽に電子音を用いることも検討したが、最終的にはアコースティックな楽曲とした[1][108]。同シリーズでは完全な新曲は少ない[42][108]。『ゴジラvsモスラ』では、伊福部はゴジラに新曲をつけることを提案したが、従来の曲を使用することを要望されたと述懐している[4]。
誕生日は5月31日であるが、戸籍上は3月5日となっている[109][8]。これは、父親が、少しでも早く学校に入れたいということで、3月5日の早生まれとして届けたからと伝えられている[109]。
それとは別に3月7日が誕生日という説も広まっているが、これは冗談が定着してしまったものである[109]。アメリカ・ボストンで『日本狂想曲』の初演をする時、主催者に生年月日を提出することになった[109]。その時、友人の三浦淳史が「3月5日だって作った誕生日なのだから、いっそラヴェルと同じ3月7日と書いてしまえ」と勧め、モーリス・ラヴェルのファンであった伊福部はその通りに書いて提出したというものである[109]。
そのためか「ゴジラのテーマ」は、ラヴェル『ピアノ協奏曲ト長調』第3楽章にある部分のメロディと似ているとの指摘がある[41]。もともとゴジラのテーマは『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)』の管弦楽トゥッティ部分からの転用[要検証]であり、この曲におけるリズム細胞の構築の仕方がラヴェルのピアノ協奏曲に良く似ている。「ゴジラのテーマ」の旋律はゴジラ第1作(1954年)より前に、映画の『社長と女店員』(1948年)や『蜘蛛の街』(1950年)でも使用されている[110]。
伊福部とラヴェルの出会いは、学生時代にある邸宅で催されたレコード・コンサートを三浦淳史と共に聞きに行ったことに始まる。伊福部は最後の演目にあったベートーヴェンのヴァイオリンソナタ『春』を楽しみにしていたが、その直前にラヴェルの『ボレロ』が予定されていた。ボレロの初演からわずか数年後のことであり、もちろんモノラルのSPレコードである。作曲者の名前すら知らなかった伊福部はその演目表を見て訝しんでいたが、実際に聴いてみてその執拗な反復が持つあまりの迫力に圧倒され、ベートーヴェンは聞かずに会場を出た、と後に語っている。
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他多数。
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