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2インチVTR(2インチ・ヴイティーアール、英語:2-inch video tape recorder)は、2インチ(50.8mm)幅の磁気テープに映像を記録する規格であり、4個のビデオヘッドにより記録再生を行ったので4ヘッドVTR(英語:Quadruplex)とも呼ばれる。オープンリール方式である。
世界初の実用・商業用ビデオレコーダの規格であり、1956年にアメリカのアンペックス社によって開発され、アメリカのテレビ局で採用された他、日本などの各国のテレビ局でも採用され、放送用VTRの主流となり、1インチ方式が普及する1980年頃まで世界中の放送局で録画に使われ続けた。
この規格のビデオレコーダー(テープ方式なのでビデオテープレコーダ)の最初のものはアンペックス社の「VR-1000」である。大きなジュークボックスほどの大きさがあった。後にソニーがこの方式で試作した試作機などではその数倍のサイズの巨大なものであった。トランジスタ化が進んだ最終モデルの製品でも事務机程度のサイズがあった。当初はモノクロームの記録・再生のみであった。
なお、2インチVTRのテープは最初から生産終了までつねに大変高価だったので、テープが使いまわされることが多々あり、これに録画された映像は、たとえ貴重なものでも保存されず消去されてしまったものも多い。
1957年後半にアメリカのRCA社独自のカラー化改良によりカラーテレビ信号の記録再生が可能になり、すぐにアメリカのNBCで実用化された。アンペックス社製のVTRは1957年末にはCBSで23台、ABCで11台が稼働していた。
1959年初め、アンペックス社はRCA社のそれとは別の新しいカラー記録方式を開発。アメリカのRCAもこれに合意し、これがカラー録画の標準フォーマット(後にローバンド記録方式と呼ばれる)となる。このVTRはすぐにアメリカのNBCで使用された。なお、前記のRCA社が独自に開発したのは標準方式と違うためにこのVTRでの再生はできない。現在、RCA社独自開発のカラー再生機はアメリカに2 - 3台程度あるのみである。
ローバンド記録時代はテープの記録トラックに添ってカッターで手切り編集していたが、これは技術的に大変難しく手間もかかり、日本では1箇所繋ぐだけでも当時の料金で3万円と非常に高価だった。
1963年、アンペックス社がフレーム単位でのレコードコントロールが可能なEDITEC(電子ビデオ編集機)を発表、1964年にはカラーハイバンドVTR「VR-2000」を発表。ハイバンド記録方式が開発されたことにより高画質化が実現し、この方式で映像を相互コピーしても画質の劣化が以前のローバンド方式よりも非常に少なくなったため、ある程度のコピー編集が実用化される様になった。
1971年にタイムベースコレクタが登場してからは、本格的な電子編集が可能になり、1972年にはスーパーハイバンド記録方式が開発され、画質が向上しタイムコードの記録もできる様になった。
2インチ(50.8mm)幅のビデオテープをテープ移動方向に軸を持つ円筒面に磁性面を沿わせて走行させる。この円筒面と同軸に、4個のビデオヘッドを90度おきの放射状に取りつけたディスクを14400rpm(240Hz)で回転させる(図1)。テープの円筒への巻きつけ角度は90度強であり4個のヘッドを次々に切り替えることにより常時いずれかのヘッドがテープと接し、セグメント化した記録トラックを形成できる。テープ上下端への記録は不安定になることと、音声およびサーボ制御トラックを設けるため、実際の記録幅は約1.8インチほどとなっている。図2にテープ磁性面から見た記録の配置の概念図を示す。図の色分けは4個のヘッドがそれぞれ記録する分担を示す。音声トラックおよびコントロールトラックについては後述。
NTSC方式は60フィールド/秒で記録するため、1フィールドを縦方向に16のセグメントに分けて記録することになる(垂直ブランキング区間を含む)。ヘッドとテープの相対速度は約40m/sに達し、約13MHzまでの磁化反転を記録できた。回転ヘッド機構は凹型のガイド(フィーメールガイド)側から真空ポンプを用いてテープを吸引し、安定したヘッドとテープの接触を保つようになっていた。このヘッド機構は極めて精密な加工組み立て精度を要する。磨耗したヘッドの交換は精密な測定器を持つ工場で行う必要があるため、ユーザーはヘッド機構単位で予備を持つのが普通だった。回転ヘッドの他に、テープ送り機構として供給・巻取リールメカニズム、キャプスタンとピンチローラ機構、テープの弛みを押さえて張力を安定させるためのテンションアーム機構、音声およびサーボ信号を記録するための固定ヘッド等を備えた。
映像信号のような広帯域(NTSCで数10Hz〜4.2MHz)の情報を磁気記録するには、ベースバンド信号のままでは困難である。これは磁気記録では記録する周波数に比例して記録再生出力が高くなり、たとえイコライザ回路を使用してもフラットな周波数特性が得られないためである。このため2インチVTRの出現以前のVTRでは多チャンネル記録方式、すなわち多数の固定ヘッドに信号を分割し1組のヘッドあたりの帯域を押さえようとしていた。
しかし、AMPEX社の開発チームはビデオ信号を周波数変調してテープに記録する方式を発明した。FM変調の周波数偏移は初期のローバンド機で約4 - 6MHz、カラー用のハイバンド機は約7 - 10MHzであり周波数特性はイコライザで補償することができた。
なお、このAMPEX社の開発チームのリーダーはチャールズ・ギンズバーグ(Charles Ginsburg)だった。また、このチームにはまだ学生だったドルビー研究所の創設者レイ・ドルビーが加わっていた。
音声信号の記録はオーディオテープレコーダーと同等の技術で、固定ヘッドでテープの端部に長手方向記録を行った。
ビデオ信号に同期したコントロール信号を記録するコントロールトラックを音声トラックと同様な方式で記録し、再生時にはコントロール信号を元にキャプスタンの送り速度を制御するとともに回転ヘッドとの同期を取り正しいタイミングでビデオヘッドが記録トラックをトレースできるような制御を行った。
これらの広帯域信号の記録技術および精巧なメカニズムの制御技術には真空管を用いた、当時の電子回路としては特に高度なものだった。後に電子回路はトランジスタや集積回路で置きかえられたものの、基本的な技術は変わることなく用いられた。しかも、その後の1インチVTRも信号処理やテープ走行制御の基本技術は本方式を継承発展させたものであり、この技術が先進的なものだったことを物語っている。AMPEXは基本特許を広範に取得したため、芝電気(現:日立国際電気)やNECなどの国内メーカーは自社生産を行うためライセンス料を支払って技術導入をしていた。一方、家電メーカーはアンペックスの特許にとらわれずにVTRを生産できるようにヘリカルスキャン方式の開発に注力し、EIAJ統一I型、3/4インチのU規格(Uマチック)などを経て1/2インチのベータマックスやVHSを生み出した。
日本でも、2インチVTRが導入される以前から、VTRの試作を行っており、1955年頃よりオーディオテープを使用した画像記録が研究されており、1956年の技研公開で展示された[1]。1958年5月にはNHK技研により8ヘッドのうち4ヘッドを使用したVTRの試作機が発表された。
しかし、2インチVTRがアメリカの放送局で納入・実用化されたのを受け、日本国内でも導入され始めるようになる。
先ず最初に、1958年4月28日に、当時の大阪テレビ放送(OTV、後に朝日放送へ吸収合併される)が大阪本社、東京支社がそれぞれ1台ずつ導入され[注 1]、続いて、当時のラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)が同年5月29日に2台、在京局で初めて導入し[2][3][4]、同時期にNHK技研も導入した。OTV、KRT共にアメリカのアンペックス社製の白黒専用で、当時の価格で1台2500万円だった。以後、在京・在阪局を中心に順次導入が進み、1959年3月時点では、27台のVTRが稼働していた。日本での導入に伴い、試作する企業も現れ、1958年8月にソニーが実験機を公開。1959年3月には、芝電気も同規格のVTRを実用機公開した。
また、カラーVTRは、1959年10月23日に、日本テレビ(NTV)がアメリカのRCA社から1台購入したのが最初で[5]、当時は約3千数百万円したという。同局は同VTRを、翌々月(12月)の3日からスタジオ収録と番組送出の双方で稼働を開始している[6]。1960年2月にはNHKがアンペックス社のカラーアダプターを付けたカラー化を2台行い、同月より稼働開始。同月27日には、この日の東京教育テレビのカラーテレビ実験放送枠で、自局初のカラーVTR収録による番組「ミュージカルショー『春夏秋冬』」を放映した[7][8][9]。その後、1964年発表のカラーハイバンドVTR「VR-2000」は1966年にNHKとTBS、1967年に日本テレビ、読売テレビ、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)と順次導入。1968年には、国産ハイバンドVTRの芝電気 SV-7700が開発された。
1960年頃からは、芝電気(現:日立国際電気)やNECでも国産化されるようになり、東芝もアメリカのアンペックス社と提携して1964年に合弁会社「東芝アンペックス」を設立して、アンペックス社製のライセンス生産を国内で行うようになった。なお同社は1982年9月、業績不振を理由に解散している。
この2インチVTRは、1974年に1インチVTRが登場するまで、放送局の録画再生用の主力機器だった。
装置は大型で重く、設置場所が限られた。環境変化にも敏感で、注意深く防塵・空調された環境を必要とした。装置そのものも高価である上に機器のメンテナンス料も高く、テープ消費量も多くコストも膨大だった。
1インチ時代以降のVTRで収録された番組の保存率が比較的高いNHKですら、2インチ時代では放送済みのテープは原則として映像を上書き消去した後、他の番組の収録のために再利用しており、1970年代以前の放送記録の多くが保存されていない理由の一つでもあった。1960年代からNHK番組に出演していた眞理ヨシコによれば「君たちの給料(ギャラ)じゃ録り直しが出来ないぞ」という趣旨の弁を制作スタッフから脅しの様に言われ、一発録りが強制であり[26]、他のタレントもこぼれ話で同様の弁を述懐することがある。
現在、『NHKアーカイブス』で放送される1970年代中盤前後の番組の中には、当時のテレビ番組を家庭用ビデオ(VHS・ベータ・Uマチック等)で録画したものをコレクションしていた番組の制作関係者・出演者・視聴者から寄せられ、映像補正された作品もかなりある。なお、『若さとリズム』という1965年のカラー番組については、奇跡的に局内で発見された2インチのカラービデオテープを元に修復された素材(第1回/1965年10月16日放送)が2006年に放送されたが、この2インチVTRの再生に使われたNHK放送博物館に置かれた局内唯一の再生機が2009年に設計寿命経過により故障して使用不能となった。
1958年に日本で初めて2インチVTRが使われ始めた時は、録画・再生用のテープはアメリカの3M社製(Scotchブランド)の輸入品しかなかった。2002年に刊行された『TBS50年史』(東京放送:刊)の122ページには同局で初めてVTRを購入した際のことが記述されており、その中に、テープは当時30分の物が10万円と極めて高かった為(現在の貨幣価値に換算すると数倍-10倍程度)、当初は30分テープ7本と1時間テープ3本で運用したとの記述がある[4]。
1959年になると、TDKと富士写真フイルムの2社がテープの試作に成功。放送技術研究所の協力も受けながら量産化の準備としたが、塗布ムラやドロップアウトの問題もあり[11]4年後の1963年後半になってNHKに納入された[27]。1964年に初めて国産ビデオテープが富士フイルムから発売され、翌年にはソニーからも国産の同テープが発売された。発売当初から発売終了(1980年頃)まで、1時間用のテープが1本約10万円もしたが、それでもアメリカの3M社製の輸入品に比して安くなった。
その後東芝の1ヘッドヘリカルVTR、日本ビクターの2ヘッドヘリカルVTRの発表が相次ぎ、東京オリンピックを控え、大量のVTRの導入の必要があった。NHK内の技研、施設局、現業技術局の専門家を動員したVTR調査会が設置され、4ヘッドVTRとヘリカル走査の1ヘッドVTR(東芝)、2ヘッドVTR(日本ビクター)を実体調査し、国際的な互換性を重点に考え、放送用としてはアンペックス型の4ヘッドVTR規格の採用を決定した。1964年、アンペックス互換機をNHKの標準機とし、東京オリンピック終了後地方局での使用のため30台を芝電気とNECに発注した。
静止画やスローモーションの再生は原理上できなかった。1960年代までは本格的な電子編集が可能な機種は存在せず、番組収録時は録画開始から終了までテープを回し続けなければならず、1シーンでも失敗すれば最初から撮り直しとなった。止むを得ず編集が必要な場合は、上司の決裁を仰いだ上でテープの記録部分をルーペで確認しながら見当を付けて剃刀の刃でテープを切断して貼り合わせていた。
『ジャズ旋風』(三一書房)によると1959年8月からアンペックス製VTR編集機が導入され編集が可能となったがテープに磁気鉄粉を刷毛で塗って編集パルス(編集可能な限定された点)を肉眼で探し出し、髭剃り用フエザーの片刃で切って スプライステープで貼ってつないでいた。編集個所で映像が乱れたり、ノイズが出るリスクがあり、スプライ個所のあるテープは放送には再使用しなかった。1時間番組での編集個所は4箇所に限定されていた。スプライスのない部分を15分番組で再使用できるからである。編集費は1箇所15000円で 4箇所編集すれば60000円となり、カミソリの入ったテープは再使用できないのでテープを番組で買い上げていた計算となる。編集個所のないテープは20〜30回使用された。ローバンド機時代はこれが唯一の編集方法であり、おおまかなコピー編集は、ハイバンド機の登場を待たねばならなかった。1961年頃より、VTR使用の番組が増えたが生放送でスタートした気分が持続していて放送後のVTRテープを保管しておく習慣はまったくなかった。2次使用を考えた人も全く居なかったから特殊な番組以外は残っていないとのことであった。
1967年時点では、NHKではどんな番組でも放送後1週間は保存で、民放でもレギュラー番組は原則として1か月保存だが、それ以後の処理は厳正にしていた。スペースがなく、テープ自体の値段も高価で経営の合理化にも響く上、30分のテープで7万円、100回の利用価値があった。NET(現:テレビ朝日)ではこの2年半前まではできる限り保管していたが、3万巻を超えてスペース上の限界となり、放送素材保存廃棄委員会を設けて厳しく審査するようになったとしている。公開番組や歌謡番組、29分未満の番組などは必然的に消していた。保存廃棄の基準は人気作品で再放送が考えられるもの、資料価値になりそうな話題作、というのが条件であった。また、TBS『歌謡曲ベストテン』などは商品価値はその場限りのものと判断されて廃棄されていた[注 3]。保存作品にはドラマ関係がやはり多いが、「せいぜい本数にして1局1500〜1600本がいいところ」(TBSの話)となると限度があり、保存されていくのは必然的に大型ドラマ中心となっていた。2年程度の保存も全体の100倍、永久保存となると1000本に1本の割合であった[28]。
このように当時のVTRは、番組制作には生放送番組の同時収録以外には非常に使いにくく、業界では時代劇・刑事ドラマ・特撮作品などのドラマやドキュメンタリーなどを映画と同じくフィルムで制作していた。また、報道やスポーツ関係の映像資料の保存にも、キネコで記録したフィルムが活用された。例えば、1963年12月31日に放送された『第14回NHK紅白歌合戦』では、映像の記録媒体としてキネコフィルムが使われた。この他にもNHKの『新日本紀行』など、フィルム収録であったために、当時の映像が多数現存している番組がある。
なお、民放局でも、大半の局では2インチ時代の番組のVTR映像は、ごく少数しか保存されていないとされる(当時は消耗品ではなく固定資産として扱われていたため、ビデオテープが課税対象とされ、節税のために廃棄するケースも多々あった)[29]。1990年代でも保存が徹底されておらず消去されたものが多い[30]。放送局によって保存映像のジャンルに差がありTBSはドラマ、演芸や歌謡番組(『落語研究会』、『8時だョ!全員集合』、『日本レコード大賞』)、フジテレビは競馬中継(関西テレビも含む)、日本テレビはプロレス中継、テレビ東京は懐メロ歌謡(『なつかしの歌声』)、教養番組(『人に歴史あり』)が1960年代〜1970年代初めでも多数保存されている。全般的に多いのはドラマ作品で音楽番組やバラエティ番組などもあり、CS放送での再放送・ネット配信や著名な芸能関係者が死去した際の追悼番組などで見ることができる。
2インチVTRを再生可能な機器は世界的に減少している。補修部品の供給も困難になりつつあり、テレビ番組のアーカイブ化を国際的に推進する機関である国際テレビアーカイブ機構(FIAT/IFTA)では、2005年に発表した声明の中で映像資産継承のリスクの一つとして2インチVTRの問題を指摘している[31]。
FIAT/IFTAが2002年にまとめたところでは、世界の主要な放送局が保有する2インチVTRテープが約22万本存在するうち、他フォーマットへの変換作業が終了しているのは約6割弱に過ぎない[32]。残された2インチテープについても経年劣化が進んでおり、機器の老朽化と共に映像の再生が困難になるリスクが増加している。
2019年現在、日本で存在が確認されている日本製2インチVTRの実製品は以下のとおり。かつてはNHK放送博物館の1台しか現存しないとも言われていたが[27]、2010年代に入り相次いで存在が確認された。
近年では2009年4月、NHKで新たな2インチ収録のビデオテープが発見され、前述のSV-7400型で再生を試みたところ機器の老朽化のために再生ができなかったという。このため一時日本では2インチVTRが再生可能な環境が失われていた。ちなみに、このビデオデッキで再生が成功した最後の番組は、下記に記されている『若さとリズム』であり(再生は2006年)、この再生されたテープはD3-VTRのデジタルVTRにコピーし修復され2007年1月14日に総合テレビ『NHKアーカイブス』で放送された。
2014年に日本大学芸術学部放送学科教授・落合賢一らにより、同大学の倉庫に保管されていたSV-7800型1台が部品の再組み立ての上再生可能な状態にまで修復された[35]。2014年現在この1台のみ、日本国内で唯一2インチVTRを再生可能となっている(一般公開およびダビング業務は行っていない)。
国産以外の2インチVTRとしては、東京テレビセンターからレトロエンタープライズに寄贈されたアンペックスAVR-3型(1978年製造)[37][38]の存在が確認されている。日本国内にもまだ数台が現存すると推測されるが、稼動可能な状況にあるかどうかは不明である。なお、レトロエンタープライズでは海外送りでダビング作業を行っている[39]。
これらの事情から以下に掲げるのを始め、日本で2インチVTRで収録された番組作品は全て1インチ、U規格、ベータカム等のアナログVTR、D2・D3・D5・デジタルベータカム等のデジタルVTR、LTO・XDCAM等のデジタルストレージにダビングされたものが、現在放送用等の再生に使われている。
韓国は1980年12月1日からカラー本放送開始、それまでの放送波は白黒。
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