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ひばりが1974年の第1回広島平和音楽祭に出演するにあたって、総合演出を担当していた映画監督・脚本家の松山善三が作詞を、主に映画音楽の作曲に携わった佐藤勝が作曲をそれぞれ手がけた。なお、当初は平和音楽祭の実行委員長も務めていた古賀政男が作曲する予定であったが、古賀が体調を崩したため佐藤勝の作曲となった[1]。『一本の鉛筆』と『八月五日の夜だった』は、ともに広島市への原子爆弾投下について描かれた作品である。
ひばりは父の増吉が召集されて、母の喜美枝がその間辛い思いをしていたのをそばで見て育っており、自身もまた横浜大空襲を体験していたこともあって、戦争嫌いだったという。そのようなこともあってひばりは広島平和音楽祭の出演依頼を快諾したという[2]。
リハーサルでは冷房付きの控室が用意されており、広島テレビのディレクターがひばりを冷房付きの部屋に誘導したところ、ひばりは「広島の人たちはもっと熱かったはずよね」とつぶやき、ずっと猛暑のステージのかたわらにいたという[2]。ステージの上からは「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさを忘れることができません」と観客に語りかけた[3]。
それから14年が経った1988年、ひばりは第15回の「音楽祭」に2度目の出演を果たした。当時、ひばりは大腿骨骨頭壊死と肝硬変で入退院を繰り返しており、歩くのがやっとの状態で段差を1人で上ることさえ困難な状況だった。ひばりは出番以外の時は音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという[3]。翌年の1989年6月24日、ひばりは死去した。
2006年8月27日の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』では広島テレビのローカル企画に実妹の佐藤勢津子がゲスト出演し、この曲を歌唱している。
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