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同一の施設に複数のスクリーンがある映画館 ウィキペディアから
シネマコンプレックス(英語: cinema complex)は、同一の施設に複数のスクリーンがある映画館である。シネコン、複合映画館とも呼ばれる。
モデルは北米発祥のマルチプレックス (multiplex) またはシネプレックス (cineplex) と呼ばれる映画館である。劇場構造はそれに準じた作りになっており、ロビー、チケット売場、売店、映写室等の設備を複数のスクリーンで共有している。
世界的に見るとメガプレックス (megaplex) と呼ばれる20スクリーン以上の例もある。最多の上映スクリーン数はアメリカカリフォルニア州のAMCオンタリオミルズ30(約5700席、1996年12月13日開館)などの30スクリーンで、座席数はスペインマドリードのキネポリスマドリード(25スクリーン、約9200席)が最も多い。
日本国内の場合、7スクリーンから多くても13スクリーンを1つの映画館内に集約していることが多く、国内最多の上映スクリーン数を有するユナイテッド・シネマ豊橋18ですら18スクリーンである。これは、日本の主要な映画配給チェーンが13しかないため[1]、メジャー作品はおおよそ14作品以上同時に配給されない事情によるものである。
各スクリーンの客席数は80 - 500席程度で、大小組み合わせることが多く、集客力の見込める作品は客席数の多いスクリーンで上映し、封切りから時間の経った作品や、集客力の落ちた作品は客席数の少ないスクリーンで上映する方式をとる。ただし、作品を抱き合わせた2 - 3本立てでの興行は通常は行われず、完全入替制を採用しているため、単一または複数の作品を退場せずに連続して見ることはできない。
大抵の場合、ショッピングセンターやスーパーマーケットのテナントとして運営されている。これは、ショッピングセンターとシネマコンプレックスの双方の集客効果を狙ったものである。また、ショッピングセンターの駐車場が利用出来るため、シネマコンプレックスは自動車で来場する客層の取り込みに成功した。
日本に、現代型のシネマコンプレックスが登場した1990年代は、ロードサイド店舗に設置されることが多かったが、2000年代に入ってからは従来のロードショー館を置き換える形で繁華街に作られることも多くなってきた。シネマコンプレックスの登場に伴い、1億2千万人前後で推移していた日本の映画人口は、1億6千万人以上にまで回復した。一方で、2001年以降はシネマコンプレックスが増加しているにもかかわらず、映画人口は横ばいとなっているため、飽和状態になっているとも言われている。
なお、本項では慣例に基づき映画館(施設)内に設置された上映室を「スクリーン」と記述する。また、単一または複数のスクリーンを包括する映画館を「サイト」と記述する。
シネマコンプレックスについて法令等での明確な定義はなく、統計や書籍によって条件が異なっている。
例えば、通商産業省が1998年(平成10年)にまとめた『映像産業活性化研究会報告書』では、
と定義されている[2]。
また、日本映画製作者連盟が毎年1月に発表する日本映画産業統計[3]では、
とされている。
このように様々な定義があるが、おおよそ共通する条件として下記のようなものが挙げられる。
なお、シネマコンプレックスという言葉自体は1980年代から使用されており[4][5]、1990年代前半までは複数のスクリーンを持つことだけを条件にシネマコンプレックスとしていた[6][7]。1990年代後半以降、マルチプレックスと同義とみなされるようになり、前述のような定義で使われること[8]が多くなってきている。そのため、本項でも歴史的な記述を除きそれに従って述べる。
シネマコンプレックスは、前述の定義以外にも従来の劇場と比べて次のように異なる点がある。ただし以下に挙げる事項は、全てのシネマコンプレックスに当てはまるものではない。逆に、従来館でもこれらの特徴を取り入れた例もある。
日本国内の映画館のスクリーン数に占めるシネマコンプレックスの割合は、日本映画製作者連盟がシネコンのスクリーン数を別途記載するようになった2000年時点では4割強だった。2002年には5割を超え、2009年以降スクリーン数においてシネマコンプレックスは日本国内の映画館の8割以上を占めている。一方で、1993年のワーナー・マイカル・シネマズ海老名(現イオンシネマ海老名)の開業以降18年連続増加を続けていた日本国内のスクリーン数は、2011年には減少に転じた[10]。1990年代において新しい手法であったシネマコンプレックスも目新しさをなくし、既に飽きられているという指摘もある。観客の映画館離れが深刻だとも言われており、商業施設の集客設備として開業していたシネマコンプレックスは曲がり角に差し掛かっている[11]と言われたが、2019年3月発表時点で2011年から250スクリーン増加している。[12]
2020年12月末現在、日本の全映画館は581サイト、3,616スクリーン。うち、シネマコンプレックスは354サイト、3,192スクリーンである[13]。日本で最も多くのスクリーンを運営する映画興行会社はイオングループ傘下の企業を統合したイオンエンターテイメントであり、同一ブランドのシネマコンプレックスとしてはイオンシネマが最も多い。一つの施設としてスクリーン数が最多なのは、愛知県豊橋市のホリデイ・スクエア内にあるユナイテッド・シネマ豊橋18(旧AMCホリデイ・スクエア18)で、18スクリーンを有する。
シネマコンプレックス名称 | 運営企業 | サイト数 | スクリーン数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
イオンシネマ | イオンエンターテイメント株式会社 | 95 | 815 | イオングループ。2013年3月にワーナー・マイカル・シネマズを統合 |
TOHOシネマズ、他 | TOHOシネマズ株式会社 | 70 | 671 | 東宝系。提携館および同社運営主幹の共同事業のサイトを含む[注釈 2]。 |
(上記以外の東宝系) | 関西共栄興行株式会社 | 1 | 5 | 東宝の完全子会社による運営サイト[注釈 3]。 |
ユナイテッド・シネマ、 シネプレックス | ローソン・ユナイテッドシネマ株式会社 | 40 | 385 | ローソン傘下。 |
MOVIX、他 | 株式会社松竹マルチプレックスシアターズ | 23 | 243 | 松竹系。同社運営主幹の共同事業のサイトを含む[注釈 4]。 |
T・ジョイ | 株式会社ティ・ジョイ | 22 | 218[注釈 5] | 東映系。同社運営主幹の共同事業のサイトを含む。 |
109シネマズ | 株式会社東急レクリエーション | 19 | 175 | 東急系。同社運営のムービルを含む。 |
シネマサンシャイン | 佐々木興業株式会社 | 14 | 122 | |
コロナシネマワールド | 株式会社コロナワールド | 10 | 102 |
シネマコンプレックスを運営する各社の資本関係は大きく変わりつつある。2009年9月30日に松竹マルチプレックスシアターズの資本から三井物産が撤退し、松竹の完全子会社になった。2011年3月1日には同社に松竹が映画興行事業を移管した。これにより9大都市ロードショー館は松竹、ローカル館は松竹マルチプレックスシアターズと言う体制から他社と同様に全国を同一会社で運営することになった[15]。2013年2月28日にはワーナー・マイカルからタイム・ワーナー(現ワーナー・ブラザース・ディスカバリー)グループが資本を撤退し、イオンの完全子会社となった[16]。同年7月1日にはワーナー・マイカルを存続会社とし同じくイオンの完全子会社であるイオンシネマズを合併し、イオンエンターテイメントとなった[17][PR 1]。また、屋号もワーナー・マイカル・シネマズからイオンシネマに変更した。日本上陸当初は多くの外資系のシネマコンプレックスが存在していたが、これにより外資系資本は全て撤退したことになる。2012年3月9日にはユナイテッド・シネマが住友商事から投資会社のアドバンテッジパートナーズ傘下のユナイテッド・エンターテインメント・ホールディングス株式会社(以下、UEH)に売却された[PR 2]。2013年3月29日には角川シネプレックス株式会社が同じくUEHに売却され[PR 3]、同年6月1日にユナイテッド・シネマ株式会社を存続法人として合併した[PR 4][PR 5]。これにより、ユナイテッド・シネマはイオンエンターテイメント、TOHOシネマズに続く第3位のスクリーン数を持つ興行会社となった。ユナイテッド・シネマはその後2014年8月にローソンがグループ内でプレイガイド(ローソンチケット)やCD・DVDソフト販売店(HMV)を運営しているローソンエンタテインメントの子会社を通じて株式を取得しローソングループの傘下となり、2024年3月1日に社名をローソン・ユナイテッドシネマ株式会社に改めている[PR 6]。
2001年以降、映画人口は1億6千万から7千万人程度でほぼ横這いの状態が続いている一方で、2010年までスクリーン数が増加し続けたこともあり、各社の経営状態は厳しくなった。各社はこれに対応するためオペレーションの見直しによる人件費の削減を行なっている他、家賃の見直しも進んでいる。
出店競争が激化していた時期は出店条件が吊り上がり、中小興行会社は出店出来ない状況が続いていた[18]。一方、これらの時期に出店を進めた大手各社は固定費削減のため、2008年頃から家賃の値下げ交渉を進めた。ディベロッパー側の収益にも関わるため難しい交渉となっているが、シネマコンプレックスの初期の劇場は特に収益性が悪化しているため、場合によっては撤退も視野に入れて進めている。また、劇場の不動産自体をグループ会社が所有する企業にとってこの施策は不動産事業の収益悪化にもつながるため困難を極めた。この課題の解決のため、東宝の不動産経営部の専務である中川敬が2010年から2012年までTOHOシネマズの社長を兼務するなどの人事も見られた[19][20][21][22][23]。
これらの見直しや後述する設備のデジタル化を見送り従来の興行会社が撤退した映画館では、集客のためにディベロッパー自身が事業主となって経営し、興行会社に運営委託する例も現れてきた。例えば、2010年1月31日に閉館したMOVIX六甲の跡地は神戸ファッションプラザが事業主となった。オーエスが番組編成業務を受託し、子会社のオーエス・シネブラザーズ株式会社が運営を行いシネウェーブ六甲として2010年7月31日に再開館した[24]。また、2012年8月31日に閉館したTOHOシネマズトリアス久山の跡地はラサール不動産投資顧問株式会社が経営し、ユナイテッド・シネマが運営を受託し2013年3月1日に再開館した。ユナイテッド・シネマは同劇場をローコストオペレーションのモデルケースとしたいとしている[25]。しかし、これらの経営も順風ではなく、シネウェーブ六甲は2011年11月30日に閉館している。
近年は前述のコスト削減のための見直しや、新たな観客獲得のための動きが見られている。また、急速にデジタルシネマが普及した。
コスト削減の例としてチケット販売の自動券売機化が進んでいる。TOHOシネマズでは2012年5月から6月にかけて自動券売機の導入を本格的にすすめた[PR 7][26]。また、ユナイテッド・シネマもトリアス久山に自動券売機を5台導入し、有人窓口は設置しない方向である。これにより効率化を図るとしている。しかし、前売券の取り扱いもあるため、完全な無人化は難しいのが課題となっている[25]。その後、前売り券の多くがムビチケカードとなり、ウェブ予約と劇場での自動券売機の双方での使用が可能となっている。
新たな観客層獲得のため、試験的に鑑賞料金を変更する動きも見られる。ワーナー・マイカルは2010年1月9日から4月9日まで海老名と釧路の2サイトで1000円均一とした。しかし、従来の契約のままだと値下げにより配収が減少する可能性がある。結果、配給契約の条件が折り合わず『ラブリーボーン』や『LIAR GAME ザ・ファイナルステージ』が上映中止となった[27]。また、TOHOシネマズは2011年4月(一部3月)から2012年春までの予定とし、7サイトで試験的な料金変更を行った。一般料金を1500円、18歳未満を1000円に値下げする一方、シニア割引を60歳から65歳に引き上げる、レイトショーを廃止するなど、複雑な割引をやめ料金を均一化した。しかし、全国平均と比べ5%程度動員が減る結果が得られ、高校生料金は1000円と据え置いたが、それ以外は予定より早く2011年11月末に試験を中止した[28][29]。その後、2013年6月1日より高校生料金を1000円とする料金変更のみ全国に広げている[PR 8]。また、ティ・ジョイはTOHOシネマズの試験サイトと競合する広島、鹿児島の2サイトで、2011年4月7日から翌年3月31日まで高校生料金を1500円から1000円に値下げした[30]。
上映機材のデジタル化は2010年から2012年の2年間で一気に進み、2012年12月時点で全スクリーンの88%に導入されている。デジタルシネマプロジェクターは当初、ワーナー・マイカルやティ・ジョイを中心に導入されたが、コスト負担が大きくそのペースは遅かった。しかし、現在では35mmフィルムのノンリワインド映写機から置き換わってデジタルシネマプロジェクターが主流となった。導入の進んでいたティ・ジョイは主要各社では一番早く、2010年7月までに全スクリーンへの導入を完了した。TOHOシネマズは、2011年3月17日に開館したTOHOシネマズ甲府ではデジタルシネマプロジェクターのみを設置するなどの施策をとり、2011年に全劇場のデジタル化を完了した。2012年には定期借地等、運営期間の限りがあるものや一部の小規模興行会社を除き、おおよそのシネマコンプレックスでは導入が完了している。2013年3月5日に開館したワーナー・マイカル・シネマズ春日部(現イオンシネマ春日部)のようにデジタル化により映写室を廃止した劇場も現れてきた[PR 9]。
この背景にはバーチャル・プリント・フィー(以下、VPF)による導入スキームの変化があったことが要因として挙げられる。VPFとはVPFサービス会社が興行会社の代わりにデジタルシネマ機材の購入費用を一括支払いし、配給会社が導入費用の70%までを、興行会社が残りの30%をそれぞれ10年間かけて作品ごとまたは月ごとにVPFサービス会社に対して償還していく仕組みのことである。映画館のデジタル化により配給会社はプリント代や輸送費が削減できメリットを受ける一方、興行会社は機材入れ替えのコスト負担が大きくデメリットが大きかった。しかし、VPFの導入により興行会社の負担が軽減されたため上映機材のデジタル化が進んだ。ただし、それでも一定のコスト負担はあるため、導入を見送り閉館を選択する劇場もある[31]。
設備のデジタル化により、上映コンテンツ自体の変化も現れている。Other Digital Stuff(以下、ODS)と呼ばれる映画以外のコンテンツを上映することも増えてきた。TOHOシネマズやティ・ジョイではパブリックビューイングや舞台演劇の上映が行われている[32]。2008年10月25日に全国上映としては日本初のフル3D実写映画『センター・オブ・ジ・アース』が公開されて以降、RealDなどのデジタル3D映画の上映も増えた。2009年公開の3D映画である『アバター』のヒットにより一気に普及に弾みがついている。ただ、2010年頃までは3D映画は一定の興行成績をあげていたが、近年の興行では期待ほどの成績をあげておらず陰りを見せている[33][34][35][36][37]。2010年代後半以降、3D映画の3D上映はIMAX・4D・ドルビーシネマといった特別なスクリーンでの公開が殆どとなり、それ以外の一般スクリーンでの3D版公開は大幅に削減されている。
マルチプレックスの発祥である北米では、主に1960年代から複数スクリーン化の傾向が見られた。日本でも映画館の複数スクリーン化傾向は古くからある。当初はこれらの映画館をシネマコンプレックスと呼んでいたため、いくつかの映画館が日本初のシネマコンプレックスを名乗っている。
以下、シネマコンプレックスとマルチプレックスの歴史について記述する。
日本では1930年代に大劇場時代が到来すると、その地下や高層スペースにもう1つの劇場を設置する映画館が現れはじめた。例えば、日本劇場の地下にニュース映画専門館として1935年12月30日に開館した第一地下劇場などがそれである。これらは当時新興勢力であった東宝の経営手法であったが、良いものは真似をするという姿勢で松竹にも取り入れられていった[38]。だが、一般的には「1つの映画館(施設)に、スクリーンは1つ」であった。
1950年代になると映画館の全盛期が到来し、映画館の新設や建て替えが多数発生した。これに伴い、「1つの施設内に、複数のスクリーンを持つ」劇場が徐々に増えてきた。また、1000席程度のスクリーンの中に壁を入れて左右に仕切ったり、1階席と2階席との間に床を入れて上下に仕切ったりすることで、複数のスクリーンに分割するケースも見られた。
これらの運営システムは、個々の建物として存在する従来の映画館と変わりがない。入替制は導入しておらず[注釈 6][39]、それぞれのスクリーンには独立した館名が付けられ、配給チェーンとスクリーンが固定化されており、「複数の映画館が1つの建物の中にある」状態だった。
1981年10月、ヘラルド・エースの原正人が日本でもシネコンの時代が来るだろうと[40]、ビジネス上の付き合いがあった東映の鈴木常承取締役営業部長に話を持ち掛け、ヘラルド・エースの主催で32人の劇場関係者とジャーナリストを連れて、アメリカ、カナダ、ヨーロッパのシネコンを視察に回った[40]。原としては、日本では劇場システムが大きすぎて、全国公開できるような作品でないと上映できず、小品でも良質な映画をたくさん上映できる方法はないか、と考えシネコンに期待していた[40]。しかし当時の日本では建築基準法の規制が厳しく、発想が早すぎたが、原はこれをミニシアターの発想に繋げている[40]。
1984年3月30日に「シネマコンプレックス日本初登場」と銘打ってキネカ大森が開館する[41]。設立した株式会社西友文化事業部によれば、欧米の映画館の動向を調査した結果、動員で上映館を入れ替えられたりインターロック上映をすることが出来たりする複合映画館の形態に行き着いたとしている[42]。同館は流通系店舗のテナントであること、入替制を採用していることなど現在のシネマコンプレックスに近い。一方で、スクリーン数が3と少ないこと、ロードショー、名画座、アート系と言うように各スクリーンの特色を定めている[43]ことなどが、現在のシネマコンプレックスとは異なる。また、現在は上映作品の傾向からミニシアターと認識されることが多い。
この時期から同館と同様に郊外のショッピングセンターに、複数のスクリーンを持つ映画館をテナントとして迎え入れるところが現れはじめた[注釈 7][44]。また、シネマコンプレックスという言葉も使われはじめるようになる。
施設名称 | 開館日 | 所在地 | スクリーン数[注釈 8] | 備考 |
---|---|---|---|---|
名宝会館 | 1955年12月23日[45] (改装日) | 愛知県名古屋市 | 4 (改装後) | 1935年11月3日開館の名古屋宝塚劇場を何度かにわたり、分割、増築して複数スクリーン化。 1972年5月に再改装し、以降3スクリーン[46]。 |
横浜東宝会館 | 1956年3月27日 | 神奈川県横浜市 | 4 | 「映画のデパート」[47]と称す。1980年に改装し、以降5スクリーン。 |
渋谷東急文化会館 | 1956年12月1日 | 東京都渋谷区 | 4 | 老朽および地下鉄副都心線建設のため2003年閉館・解体。 |
相鉄ムービル | 1971年3月5日 | 神奈川県横浜市 | 5 | 「日本で初めて5館をパックした映画館ビル」[48]と称す。 |
小牧コロナ会館 | 1981年7月11日[注釈 9][49] | 愛知県小牧市 | 3[49] | 「日本初のシネマコンプレックス」[50][51]と称す。 1997年7月12日に小牧コロナシネマワールドへ改装。 |
キネカ大森 | 1984年3月30日 | 東京都品川区 | 3 | 西友大森店内に設置。「シネマコンプレックス日本初登場」[41][52]と銘打って開館。 |
池袋シネマサンシャイン | 1985年7月6日 | 東京都豊島区 | 5 | 1994年12月に改装し、以降6スクリーン。 2019年7月19日に「グランドシネマサンシャイン」(12スクリーン)へ移転開業。 |
チネチッタ | 1987年7月25日 | 神奈川県川崎市 | 5 | スクリーン数は「チネグランデ」を除く。 「日本初のシネマ・コンプレックス」[53]と称す。 |
シネシックス[54] | 1988年3月25日 | 千葉県船橋市 | 6 | 当時唯一のアメリカ型ショッピングセンターとされた[54]ららぽーと船橋ショッピングセンター内に設置。 2004年7月にTOHOシネマズ船橋ららぽーとへ改装。 |
他にも後年になってからではあるが、小牧コロナ会館とチネチッタが日本初のシネマコンプレックスを称している。
小牧コロナ会館は、スクリーンで統一された名称が付けられていないこと[注釈 10]、入替制が導入されていないこと[注釈 11]などが、現在のシネマコンプレックスの概念とは異なる。なお、同館を運営するコロナグループはこの時期に同様の劇場を愛知県江南市[注釈 12]、春日井市(1983年3月19日開館)、半田市(1986年7月26日開館)、豊川市(1989年7月15日開館)にも展開している[57]。
チネチッタは「総合映画館ビル」として開館当時のメディア[58][59]には紹介されている。やはり入替制が導入されていないこと[60]、複数フロアに渡っているためロビーなどが共有されていないことなどが、現在のシネマコンプレックスの概念とは異なる。しかし、1996年ごろから同社の企業沿革や地元自治体の広報誌[61]などを中心にいくつかの文献で同館を「日本初のシネマ・コンプレックス」とする記述が見られるようになった。
また、池袋シネマサンシャイン(後のシネマサンシャイン池袋)についても、開館時の雑誌記事ではシネマ・コンプレックスと言う用語を用いて紹介しており[5]、一部の関係者が日本初のシネマコンプレックスと見ることもあった。しかし、これも映写室などが共有されておらず、配給チェーンとスクリーンを固定化した運営を行っており、現在シネマコンプレックスと呼ばれる映画館とは異なる[7]。さらには、シネシックスを日本初とする例も見られるが[62]、スクリーンごとに東宝と松竹という別々の経営母体で運営されており、集客に応じてスクリーンを変更できる柔軟性がなかった。
いずれにせよ、後述するマルチプレックスが日本国内に上陸する以前から、日本独自のスタイルでこれに近い形の興行形態が存在しており、当初はこれら複数スクリーンを持つ映画館をシネマコンプレックスと呼んでいた。ただ、1990年代に見られるような爆発的な普及は起こらなかった。
その要因の1つとして「入場者数の改竄を懸念して同一窓口で複数作品のチケットを扱うことを配給会社が嫌っていた」とも言われるように、因習に縛られ運営システムを変えるまでには至らなかったことが挙げられる[63]。また、当時の映画館が主に建てられていた市街地は地価が高く、収益を上げるのが難しいと考えられていた点も挙げられる[64]。さらには、興行場法、建築基準法、消防法の3法とそれに付随する条例が現在より厳しく、スクリーンの増設がコスト的に難しかったことも挙げられる。そこで、全国興行生活衛生同業組合連合会が1990年頃からこれらの規制緩和を求め各法の所管省庁に対して働きかけを行った[65]。その結果、1992年に規制緩和の方針が決定し、先行して1993年7月1日から東京都では建築安全条例と火災予防条例が改正されている[66][67]。だが、そのころには既に旧来型のシネマコンプレックスの時代ではなく、外資系を中心とした後述のマルチプレックスの普及に一役買うことになるという皮肉な結果となった。
一方、北米初の2スクリーンを持つ映画館は、1947年にカナダの首都オタワに開館した。 ナット・テイラーが築20年の施設を拡張したエルジンシアターである。他にも1960年代中盤から後半にかけて2スクリーンの映画館が開館している。1965年、ジョージア州イーストポイントに開館したマーチンズ・ウェストゲート・シネマズなどが挙げられる。ナット・テイラーは、マルチプレックスの発明者とされる。後の1979年4月19日にシネプレックス・オデオンを設立し、同年中に、当時世界最大であった18スクリーンのトロント・イートン・センター・シネプレックス(2001年3月閉館)を開館している。
1963年にマルチプレックスの先駆者となるアメリカン・マルチ・シネマ(現AMCシアターズ)のスタンリー・ダーウッドは各映画の上映開始時間を慎重に管理し複数スクリーンを数名で運営する方法を確立した。1960年代はテレビの普及に伴い、アメリカであっても映画人口は減少気味であった。しかし、1970年代これらマルチプレックスがショッピングセンターに併設される形で各地に展開されたことで、再び上昇に転じた。マルチプレックスがショッピングセンターでの購買につながるかどうかについては当初から疑問視する考え方もあったが、ショッピングセンターを認知させる効果があると認められ、コア施設の扱いを受けた[68][69]。
以来、複数スクリーンの映画館が北米では当たり前のものになり、多くの従来館は複数のスクリーンに改装されていった。複数スクリーンが1つのロビーを共有する形態であった。1スクリーンの映画館(従来館)は市場からほとんど撤退した。残った従来館は一般に、アート系映画や小規模製作の映画、映画祭などの上映に使用されている。例えば、カリフォルニア州サクラメントの市街地にあるクレストシアターなどが挙げられる。
この流れはヨーロッパにも広まっていく。1972年にはアルバート・バートとローズ・クライズによって、トリオスコープハッセルト(現キネポリスハッセルト、当時3スクリーン)が開館した。現在、同サイトを経営するキネポリスはこれをヨーロッパ初のマルチプレックスとしている。また、1981年には10スクリーン(当時)を備えるキネポリスヘントが開館した[70]。
定義により異なるが、通常20スクリーン以上のマルチプレックスはメガプレックスと呼ばれる。 一般的に、世界初のメガプレックスは1988年にベルギーのブリュッセルに開館したキネポリスブリュッセル(25スクリーン、7,500席)であると考えられる。 アメリカ初のメガプレックスは1988年に改装したミシガン州グランドラピッズのスタジオ28(20スクリーン、6,000席、2008年11月23日閉館[71])である。
1983年、イギリスではユナイテッド・シネマ・インターナショナルが設立。1985年にマルチプレックスに参入し、5年間で約1200スクリーンから1.5倍に増加させた。世界規模で展開する興行会社が次に参入を考えたのが日本市場であった。1991年10月8日、ワーナー・ブラザース・インターナショナル・シネマズはニチイと合弁で日本にワーナー・マイカルを設立する。
1993年4月24日神奈川県海老名市に日本初の本格的マルチプレックスであるワーナー・マイカル・シネマズ海老名が開館した。同社は北米やイギリスと同様にマルチプレックスという用語を用いていたが、日本市場では以前から存在する複数スクリーンの映画館と同様に、シネマコンプレックスと呼ばれた。そして、シネマコンプレックスの定義自体が後にマルチプレックスのことを指すようになる。そのため、現在では同館を日本初のシネマコンプレックスとすることが多い。日本国内のスクリーン数は減少傾向であったが、この1993年を底に増加に転じた。
ワーナー・マイカルの進出当初は業界内では失敗するものと思われていた。従来館が既に撤退していた海老名[注釈 13]には大きすぎる映画館だと考えられていたからである[74]。その後開館した同社のサイトについても同様であった。しかしながら、ワーナー・マイカルは主要他社が参入する1996年までに7サイトを開館し、年商は44億円以上、1スクリーン当たりの興行収入も当時の全国平均を上回る9200万円という成功を収めた[6]。
この成功を機に外資の参入が相次ぎ、国内各社もシネマコンプレックスの建設に取りかかる。
外資系のAMCエンターテインメントとユナイテッド・シネマ ・インターナショナル・ジャパン(以下、UCIジャパン)は1996年、東宝と松竹は1997年、東急レクリエーションは1998年にそれぞれ自社系列のシネマコンプレックスを開館させた。1999年にはさらにヴァージンシネマズ・ジャパンが参入し外資系シネマコンプレックスは4社に増えている。
サイト名称 | 運営企業 | 開館日 | 所在地 | スクリーン数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
ワーナー・マイカル・シネマズ海老名 (現イオンシネマ海老名) | 株式会社ワーナー・マイカル (現イオンエンターテイメント株式会社) | 1993年4月24日 | 神奈川県海老名市 | 7 | |
シネマシティ | シネマシティ株式会社 | 1994年10月8日 | 東京都立川市 | 6 | |
AMCキャナルシティ13 (現ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13) | AMCエンターテインメント | 1996年4月20日 | 福岡県福岡市 | 13 | |
マイカル松竹シネマズ本牧 (後のMOVIX本牧、閉館) | 株式会社マイカル松竹 | 1996年6月29日 | 神奈川県横浜市 | 7 | マイカル (90%)、松竹 (10%) の合弁。 |
OTSU7シネマ (現ユナイテッド・シネマ大津) | ユナイテッド・シネマ ・インターナショナル・ジャパン株式会社 | 1996年11月2日 | 滋賀県大津市 | 7 | |
天神東宝 (後のTOHOシネマズ天神本館、閉館) | 東宝九州興行株式会社 | 1997年3月15日 | 福岡県福岡市 | 6 | |
MOVIX六甲 (後のシネウェーブ六甲、閉館) | 株式会社松竹マルチプレックスシアターズ | 1997年3月20日 | 兵庫県神戸市 | 7 | シネマーク・インターナショナルとの合弁。 |
109シネマズ港北 | 株式会社東急レクリエーション | 1998年4月25日 | 神奈川県横浜市 | 7 | |
ヴァージンシネマズトリアス久山 (後のTOHOシネマズトリアス久山、現ユナイテッド・シネマトリアス久山) | ヴァージンシネマズ・ジャパン株式会社 (現TOHOシネマズ株式会社) | 1999年4月23日 | 福岡県久山町 | 7 | |
イオンシネマ久御山 | イオンシネマズ株式会社 | 1999年6月29日 | 京都府久御山町 | 7 | |
T・ジョイ東広島 | 株式会社ティ・ジョイ | 2000年12月9日 | 広島県東広島市 | 6 |
各社の出店戦略は様々であった。
AMCエンターテインメントは当初九大都市ロードショー地域を中心にメガプレックスを計画していたが、後に地方都市の郊外型ショッピングセンターにも出店するようになった。UCIジャパンは地方の県庁所在地クラスの都市を中心に出店を計画していった[6][63]。また、ワーナー・マイカルは親会社マイカルのショッピングセンターに併設する形で計画を進め、九大都市ロードショー地域である本牧の出店はマイカル松竹に譲り大手映画会社との摩擦を避けた[75]。後に親会社自体が駅前再開発に参画していった[76]ため駅前立地型も増えていく。
東宝グループは有楽町マリオンやシネシックスでの成功を元に、番組編成のしやすい東宝邦画系と洋画系の1・2番手の3スクリーンで組み合わせる劇場展開にこだわり続けた[77]ため出遅れた。1997年頃からこの方針を転換し、5 - 6スクリーンのシネマコンプレックスを展開しはじめたが[78]、そのころ開館した天神東宝は当初は定員入替制の導入をしておらず立ち見を出していたり[79][80]、浜大津アーカスシネマはスタジアムシートを導入しておらずフラットな床だったり、サービス面で見劣る部分があった。1998年12月5日にやっと本格的な郊外型のシネマコンプレックスとされる鯖江シネマ7を開館させたが[81]、ワーナー・マイカルにスクリーン数で国内1位の座を明け渡し、外資系他社の買収を模索するようになる[82]。
一方、松竹は国内興行会社としてはマルチプレックスへの対応が早かった。1990年から海外情報の収集を進め、1995年4月にはマルチプレックスシアター開発委員会を設立。二条駅周辺区画整理事業用地内(現BiVi二条)[注釈 14]への1号店進出を計画した。1996年5月には松竹マルチプレックスシアターズを設立し、2000年までに10地区100スクリーン、国内のスクリーン数が3000を越えた時点で1割に当たる300スクリーンの目標を掲げた。しかしながら、ノウハウ吸収を目的として合弁契約をしたシネマーク・インターナショナルとは開発スタンスの違いが原因で合弁契約を解消したり、競合会社の増加によりテナント契約が困難を極めたりしたため、出店計画に若干の遅れが発生した[83][84][85]。 東宝系の興行各社や松竹マルチプレックスシアターズは、新設される地方のショッピングセンターを中心に出店計画を立てていった。当時各地で開発していたイオン系のショッピングセンターも多く含まれた。
逆に、ヴァージンシネマズ・ジャパンは初期に計画された名古屋ベイシティを除き、イオン系のショッピングセンターへの出店計画は行っていない。ジャスコ久御山ショッピングセンター(現イオンモール久御山)の出店決定が目前と思われていたにも関わらず、同社と同一のコンセプトで子会社のイオンシネマズを出店させたからとされる。また、後に関東、関西の駅ビルを中心に出店計画を行っていくようになった[86]。一方、イオンシネマズは親会社のショッピングセンターに併設する形で計画を進めていった。
1999年UCIは住友商事、角川書店と合弁で新法人ユナイテッド・シネマ株式会社を設立し、1999年10月1日開館のユナイテッド・シネマ岸和田以降に開館したサイトはUCIジャパンではなく同法人での運営とした。住友商事は1985年にアスミックの設立にも参画しているため、この合弁で製作・配給から興行まで関わる企業となっている。また、AMCエンターテインメントは1999年7月に日本法人の株式会社日本AMCシアターズを設立し、劇場運営を移管している。
シネマコンプレックスが各地に展開していくにあたり、従来その地方で興行を行っていた企業の反発を招いたり、シネマコンプレックス間での競争が発生したりしはじめた。
当時は大津市や横浜市の例に見られるように、配給会社から配給を受ける上映権を得るために争うことが多かった。しかしながら、従来は7割程度を占めていた従来館中心のロードショー館の興行収益比率がシネマコンプレックス中心のローカル館に押され、2000年には5割近くまで落ち込んでいた。このため配給会社はシネマコンプレックスにも配給を行うようになり、洋画系については2000年以降、おおよその地域ではこのような争いは見られなくなっていった[64]。そして、大半の競合地域では、単純に集客力を争っていくようになり、後に邦画3社が従来館中心からシネマコンプレックス中心へと軸足を動かす要因にもなっていく。
1999年から2001年1月の間にシネマコンプレックスは急増する。この2年1ヶ月の間に主な興行会社だけで、ワーナー・マイカルが24サイト、ユナイテッド・シネマが7サイト、松竹マルチプレックスシアターズが7サイト、東宝および東宝系の六部興行が6サイト、ヴァージンシネマズ・ジャパンが5サイトの出店をしている。これは、1998年に「大規模小売店舗立地法」が成立したため、旧法である「大規模小売店舗法」の基準で計画されたショッピングセンターが旧法の期限である2001年1月までに駆け込み出店したためである。ショッピングセンターに併設されるシネマコンプレックスは結果的に急増する形になった。
2001年1月18日にはロウズ・シネプレックス・エンターテインメントが京都市二条の二条駅周辺区画整理事業用地内[注釈 14]に出店することが京都市より発表された[94]。外資系シネマコンプレックスとして5社目の参入だったが、同年2月15日に同社は日本の民事再生法にあたる連邦倒産法第11章を申請し破綻[95]。参入は実現しなかった。
アメリカで連邦倒産法第11章を申請したのはロウズ社だけではなかった。アメリカでは1990年代にシェア獲得のためメガプレックスの出店競争が過熱した一方、年間観客数は14億人程度と横ばいであったため、採算性が悪化していた。各社とも不採算スクリーンの閉鎖を行ったが、出店の資金負担に耐えられず1999年から2001年の間に相次いで連邦倒産法第11章を申請することになった。日本でも前述の通りシネマコンプレックスが急増していたため、先行きが不安視されるようになる[96]。
興行会社 | 申請日 | 備考 |
---|---|---|
マン・シアターズ (Mann Theatres) | 1999年9月17日 | 後にコロラド・シネマズとカーマイク・シネマズに買収される。 |
カーマイク・シネマズ (Carmike Cinemas) | 2000年8月8日 | 再建後独自ブランドを維持。 |
エドワーズ・シネマズ (Edwards Cinemas) | 2000年8月28日 | 後にリーガル・エンタテインメント (Regal Entertainment Group) 傘下に統合。 |
ユナイテッド・アーティスツ・シアターズ (United Artists Theatre Circuit) | 2000年9月6日 | 後にリーガル・エンタテインメント傘下に統合。 |
ゼネラル・シネマ (General Cinema Corporation) | 2000年10月11日 | 後にAMCシアターズ (AMC Theatres) 傘下に統合。 |
ロウズ・シネプレックス・エンターテインメント (Loews Cineplex Entertainment) | 2001年2月15日 | 後にAMCシアターズ傘下に統合。 |
しかしながら、日本での急増の流れは一旦歯止めがかかる。AMCエンタテインメントはアメリカでの厳しい状況に対応するため、アメリカ国内への投資に集中させた。そのため、日本での出店は2000年7月8日に開館したAMCイクスピアリ16以降、全く行われなくなった[97]。また、2001年9月14日にマイカルが民事再生法を申請、同年11月22日には会社更生法へと申請を切り替えた。この影響での神奈川県の川崎駅北口地区第3西街区(現川崎DICE)への出店など、子会社ワーナー・マイカルの複数の出店計画が白紙撤回された。このため、これ以降約3年間、同社は移転を除き新規出店を行うことはなかった。他の各社も大規模小売店舗立地法が施行されショッピングセンターの開発が減少したため、特に郊外型の出店数は落ち着くようになった。
2001年以降になると、邦画3社がシネマコンプレックス中心に大きく舵を切り、郊外型に代わり大都市のロードショー館が続々シネマコンプレックスのスタイルへ変化していくことになった。京都四条河原町では京都松竹座、SY松竹京映、京都ピカデリーが2001年11月22日に閉館し、翌日MOVIX京都が開館。東京有楽町では日本劇場、日劇東宝、日劇プラザが2002年3月2日に日劇PLEX(後のTOHOシネマズ日劇)に、大阪梅田の北野劇場、梅田スカラ座、梅田劇場は2002年11月23日にナビオTOHOプレックス(現TOHOシネマズ梅田)に生まれ変わっていった。
一方、邦画3社がシネマコンプレックスへと舵を切ったことで、系列館として番組配給を受けていた従来館は閉館を余儀なくされる状況に追い込まれていった。例えば、2003年3月6日の札幌シネマフロンティアの開館に当たっては、帝国座会館やニコー劇場を経営していた天野興業株式会社が同年2月末で番組提携契約を打ち切られ[98]、同年9月5日に自己破産を申請している[99]。外資系シネマコンプレックスとの競争にさらされながらも生き残っていた従来館は、これ以降各地から姿を消していくことになった。
予約システム
シネマコンプレックスは基本的に定員制をとっているため、利用客は見たい映画が完売して見られないと言うリスクがある。そのため、インターネット普及以前はワーナー・マイカルの一部などいくつかのシネマコンプレックスで電話予約が行われていた[100]。しかし、映画館側の運用が煩雑で、需要が高い繁忙期に対応しきれない問題があった。このため、1997年頃までに電話予約は廃止された[101]。
その後、2000年にアレックスシネマがeメールを使用して席の予約をし、現地で支払うというシステムを導入。2002年にはヴァージンシネマズ・ジャパンがインターネットで支払いを行うチケット販売システム『Vit』を導入したのを皮切りに、インターネットでの販売が主流になっていった。
座席指定
ワーナー・マイカルやAMCエンターテインメントは、座席指定を行わない定員入替制を採用していた。また、一部を指定席にし一般料金より高めの料金設定をする劇場も見られた。しかし、1996年11月にUCIジャパンが開館したOTSU7シネマは全席指定制を採用した。そのため、1998年9月26日公開の『プライベート・ライアン』からワーナー・マイカルは全席指定制を部分採用する形に切り替えた。これ以降、シネマコンプレックスでは全席指定制が主流になっていった。さらに、1999年4月23日に開館したヴァージンシネマズトリアス久山(現:ユナイテッド・シネマ トリアス久山)はプレミアスクリーンとして座席幅を広くし、サイドテーブルのあるシートを採用した高付加価値のスクリーンを設置した。これにより単なる全席指定制では差別化が図れなくなり、各社とも特徴のあるサービスを行うようになっていった。
2003年以降になると、外資系シネマコンプレックスの撤退を引き金に業界再編がはじまる。
外資系各社の攻勢でワーナー・マイカルが337スクリーンを保有していたのに対し、東宝グループは284スクリーンと劣勢に立たされていた。この状況に際し、東宝は他社の買収を模索していたとされる[注釈 16]。2003年4月4日、野村證券の仲介により100億円でヴァージンシネマズ・ジャパンを買収し、シェアトップの座に返り咲いた[82][102]。
買収されたヴァージンシネマズ・ジャパンは改称しTOHOシネマズとなった[103]。東宝は同社系列の興行会社をこれ以降再編していく。2006年10月1日に東宝直営館をTOHOシネマズに移管し、続いて2008年3月1日に東宝東日本興行、中部東宝、東宝関西興行、九州東宝をTOHOシネマズに吸収合併させた[PR 10]。各興行会社が運営していたTOHOプレックスをはじめとするシネマコンプレックスは、改装しTOHOシネマズのブランドに変わった。また、TOHOシネマズ高槻、浜大津アーカスシネマ、鯖江シネマ7と言った地方のサイトの一部は独立系の興行会社に事業譲渡された。
2004年4月22日にはマイカルと松竹の合弁であったマイカル松竹シネマズ本牧が松竹ニューセレクトに事業譲渡されることが発表された[PR 11]。同年4月30日以降、同サイトは改装しMOVIX本牧として運営された[注釈 17]。
また、2004年9月にUCIが撤退し、同社保有分のユナイテッド・シネマの株式を住友商事と角川グループに売却した。さらに、2005年にはAMCエンターテインメントが撤退をする。AMCイクスピアリ16を除いた4サイトと日本法人の日本AMCシアターズが7月1日にユナイテッド・シネマに売却された[97]。AMCイクスピアリ16は東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドと家賃を巡って係争中であったが、9月1日にそのオリエンタルランドに事業譲渡された[104]。同サイトはデジタル3D映画システムの導入などを行い、2006年3月1日に同社の直営のシネマイクスピアリとなっている。
この時期になると、大都市ロードショー館のシネマコンプレックス化が加速した。この動きの中では札幌シネマフロンティア(TOHOシネマズ、松竹、ティ・ジョイの共同経営)や、大阪の梅田ブルク7(現:T・ジョイ梅田)、なんばパークスシネマ(松竹、ティ・ジョイの共同経営)等、日本国内の大手映画会社による、共同経営もみられた。ただし、横浜桜木町で計画されていた共同運営の劇場開発からTOHOシネマズが撤退する事例もあり、完全に足並みがそろっているわけではない[105]。
動員もシネマコンプレックスが主体となっていった。2003年から2006年まで川崎市のチネチッタが年間観客動員数日本一に、2007年は観客動員数はMOVIXさいたま、興行収入はTOHOシネマズ六本木ヒルズが日本一になった。
大規模小売店舗法の下での駆け込み出店が行われた影響もあり、大規模小売店舗立地法が施行された後、しばらくは郊外型シネマコンプレックスの出店ペースは落ち着いていた。前述の通り、大都市ロードショー館のシネマコンプレックス化はあったが、従来館の置き換えであるため、スクリーン全体としては微増であった。2000年に2524スクリーンだったものが2003年末までに2681スクリーンになっただけで、157スクリーンしか増えていない[10]。
しかし、大規模小売店舗立地法自体が郊外型ショッピングセンターの出店を行いやすい法体系であったため、2004年以降、増加傾向に拍車がかかった。さらに、2006年にまちづくり3法が改正され、郊外型ショッピングセンター新設に抑制がかけられたため、再び駆け込み出店が行われることになった。結果的に2006年には従来館も含めると3000スクリーンを突破し、2007年には3221スクリーンとなった[10]。これは1970年頃のスクリーン数とほぼ同じである。当時の映画人口は2億5千万人程度であったが、2001年以降、映画人口は1億6千万から7千万人程度でほぼ横這いの状態が続いており[10]、飽和状態になったとも言われる。
観客数が横ばいでありながら各社の出店が続いていること、映画ソフトのレンタルやテレビでの放映までの期間が近年では短くなってきていること、インターネットによるオンデマンド配信も増えていることなど、シネマコンプレックスの経営は年々厳しくなっていった。また、後述する競合他社との差別化のための設備投資の結果、1998年頃は平均座席占有率[注釈 18]が10.2%で経営が成り立っていたものが、2004年には14.7%まで上昇していった。結果的に、興行収入からの営業利益は4.3%しか得られていない。従来館を含めると2006年には3000スクリーンを突破しているが、3000スクリーンの経営を成立させるには1億8千万人の映画人口が必要との試算もある[96]。このため、入場者の安定確保と共に飲食物など売店収入の増加などが鍵になるとされた[106]。
シネマコンプレックスの同士での競合商圏内での出店が増えたため、再編、閉館などの動きが見られるようになった。
シネマコンプレックス間での差別化を図るため、サービスや設備の個性化が進んだ[111]。
コンテンツの差別化という点では、チェーンによる独占上映が行われた。2007年4月9日にユナイテッド・シネマと東急レクリエーションが独自の番組編成を目的に提携したことを発表[PR 12]し、『アドレナリン』など複数の作品が2社の劇場を中心に上映された。2007年12月20日にはティ・ジョイ、東急レクリエーション、ユナイテッド・シネマ、ワーナー・マイカル4社に拡大した「オープン・コラボレーション」という提携を発表[112]し、『ナルニア国物語/第2章: カスピアン王子の角笛』などが4社で独占上映されることになった。
顧客サービス面の差別化ではTOHOシネマズの「ママズ クラブ シアター」などが挙げられる。小さな子供を持つ親を優先にした上映回を設定し、周りの観客に気兼ねなく鑑賞できるようにした。 サービス面の向上を図った結果、各地のシネマコンプレックスで導入されたサービスもある。例としてインターネット予約は各社で導入された。また、ポイントサービスはTOHOシネマズのシネマイレージをはじめ、各社とも導入を行った。一般にポイントサービスはヘビーユーザー向けの物だが、ワーナー・マイカルは「ティーポイント」と提携し、劇場であまり見ない層の集客を図っていた。しかし、2009年6月27日にこのサービスは終了した[113]。
座席幅が広かったりサイドテーブルが付いていたりする付加価値の高い座席も導入するところも増えた[114]。TOHOシネマズでは「プレミアスクリーン」として、1スクリーンを全て高付加価値のシートとしているほか、新宿ピカデリーではプライベートルーム型で3万円の「プラチナルーム」を設置している。他にもワーナー・マイカル・シネマズ(現イオンシネマ)の「ゴールドクラス」、109シネマズの「エグゼクティブシート」、シネマメディアージュの「スーパープレミアシート」などが挙げられる。一方で、改装時に高付加価値のスクリーンを撤去する動きもある。
2010年代に入ると、東日本大震災(2011年3月11日)をはじめとする巨大地震や、相次ぐ大型台風の被害により数日間営業休止するサイトが目立つようになり、特に東日本大震災で被災した東北・関東地方において、2週間以上営業休止に追い込まれた劇場は40サイト以上にのぼる[115]。また令和改元後の2020年(令和2年)に新型コロナウイルス感染症が世界的に流行し始めると、それに伴う緊急事態宣言により1ヵ月以上も営業休止するサイトが目立った[116]。
ここでは特に半年以上再開が滞ったり、休閉館したサイトについて述べる。
2016年4月に熊本県を中心に発生した熊本地震では、同県熊本市中央区のグランパレッタ熊本内にあるシネプレックス熊本が「ユナイテッド・シネマ熊本」と改称して2016年11月23日に再開館[125]。同市南区のゆめタウンはません内にある「TOHOシネマズはません」が2017年3月16日に[126]、同県上益城郡嘉島町のイオンモール熊本内にある「イオンシネマ熊本」が同月24日に営業再開[126][PR 15]と、復旧に半年以上の時間がかかっている。
2023年8月に発生した令和5年台風第7号の被害により、大阪府八尾市のアリオ八尾内にあるMOVIX八尾が休館し、復旧に時間がかかった[127]。同施設では屋根の一部が剥がれ、MOVIXの場内まで漏水の被害が発生[128]。イトーヨーカドーをはじめとするテナントの多くが徐々に営業を再開した[127][128]一方、MOVIX八尾は3面ライブスクリーンを新設する等の大規模な改修工事を行った結果、2024年11月15日に営業を再開。1年3ヵ月ぶりに八尾市内に映画の灯がともった[PR 16]。
シネマコンプレックスが国内に参入した当初は郊外の映画館が存在しない地域での設置が多かった。しかし、1997年頃から地方都市の駅前立地型が増え始め[注釈 19]、2001年頃からは大都市ロードショー館の置き換えとしてシネマコンプレックスが設置されるようになった。
「映画館数は商圏人口に比例する」と1950年代から言われており、シネマコンプレックスも例外ではない。シネマコンプレックスが併設されることが多いショッピングセンターは、およそ20 - 30kmが商圏と言われている[51]。シネマコンプレックス自体の商圏は、かつてそれより広い50km程度と言われていた時期もあった[129]が、近年ではショッピングセンターより狭く、車で30分程度とすることが多くなった。また、商圏人口もかつては50万人程度必要と言われていたが、近年では40万人程度にまで下げ、かつてより狭い商圏での開発が行われている[130]。
シネマコンプレックスの売り上げは、ショッピングセンターの売り上げの5%程度であり[131]、集客力もあることから、ショッピングセンターでは破格のテナント料で誘致されてきた。例えば、ヴァージンシネマズ南大沢(現TOHOシネマズ南大沢)は20年の定期借家契約を結ぶ代わりに賃料は相場の80%程度となっている[132]。結果的に出店競争が過熱し、競合する商圏内での設置が増えていった[133]。2009年以降になると、シネマコンプレックスの新規開業も1桁台が続いており、落ち着きを見せている[134]。
多くの県は県庁所在地にシネマコンプレックスが存在するが、以下の通り書類上を含め県庁所在地に存在しない、または県庁所在地しか存在しない例がある。
近年は新たな出店が落ち着いてきたが、不採算サイトの撤退が見られている。また、地域活性化のための出店など新たな動きもある。
ここでは、原則スクリーンが5つ以上あるものをシネマコンプレックスと見做す。
ディノスシネマとオーエス・関西共栄興行は大手ではないが、大手の映画会社や興行会社が出資しているためこちらに記載。
運営会社 | ブランド | 備考 |
---|---|---|
イオンエンターテイメント | イオンシネマ | イオングループ イオン子会社 |
TOHOシネマズ | TOHOシネマズ 札幌シネマフロンティア | 阪急阪神東宝グループ 東宝子会社 |
ローソン・ユナイテッドシネマ | ユナイテッド・シネマ ローソン・ユナイテッドシネマ シネプレックス | ローソン・三菱商事傘下 |
松竹マルチプレックスシアターズ | MOVIX ピカデリー | 松竹子会社 |
東急レクリエーション | 109シネマズ ムービル | 東急グループ 東急子会社 |
ティ・ジョイ | T・ジョイ 新宿バルト9 横浜ブルク13 広島バルト11 鹿児島ミッテ10 こうのすシネマ |
東映子会社[注釈 20] |
コロナワールド | シネマワールド | |
佐々木興業 | シネマサンシャイン | |
ディノスシネマ | ディノスシネマズ | 佐々木興業子会社 |
オーエス | OSシネマズ | 阪急阪神東宝グループ 東宝出資 |
関西共栄興行 | 松江東宝5 | 阪急阪神東宝グループ 東宝子会社 |
3サイト以上運営している会社。
運営会社 | ブランド | 備考 |
---|---|---|
フォーラム運営委員会 (フォーラムシネマネットワーク) | フォーラム | |
USシネマ | ||
ヒューマックスシネマ | HUMAXシネマズ | |
アレックスシネマ | ||
オー・エンターテイメント | ジストシネマ | オークワ子会社 |
セントラル観光 | セントラルシネマ ワンダーアティックシネマ | |
ザ・テラスホテルズ | ミハマ7プレックス シネマQ サザンプレックス シネマライカム | 國場組子会社 |
運営会社 | ブランド | 備考 |
---|---|---|
太陽グループ | シネマ太陽 | |
シネマセンター | シネマヴィレッジ8・イオン柏 | |
台町ティー・エム・シー | シネマ・リオーネ古川 | 東急レクリエーションと提携 |
ムービーオン | MOVIE ON やまがた | |
秋田シネマ&エンターテイメント | AL☆VEシアター | 東急レクリエーションと提携 |
名画座 | ポレポレシネマズいわき小名浜 | TOHOシネマズと提携 |
銀星座 | シネマロブレ5 シネマハーヴェストウォーク | |
イウォレ京成 | 京成ローザ10イースト 京成ローザ10ウエスト | 京成グループ |
イクスピアリ | シネマイクスピアリ | 京成グループ AMCの居抜き |
パシフィカ・モールズ | 旭サンモールシネマ | |
鷹の羽興業 | シネティアラ21 | |
シネマシティ | シネマ・ワン シネマ・ツー | |
チネチッタ | ||
金子興業 | JMAX THEATER | |
中谷商事 | 長野グランドシネマズ | |
井上 | アイシティシネマ | |
北原 | シネマライツ8 | |
岡谷スカラ座 | ||
東部事業 | ジョイランドみしま | |
静活 | シネシティ・ザート シネプラザサントムーン | |
日映 | 静岡東宝会館 藤枝シネ・プレーゴ | |
きんえい | あべのアポロシネマ | 近鉄グループ |
アースシネマズ | アースシネマズ姫路 | |
フューレック | 福山エーガル8シネマズ | |
毎日興業 | シネマ・スクエア7 | |
スバル興業 | シネマボックス太陽 | 同名の東宝子会社及び 前述の太陽グループとは無関係。 |
天文館 | 天文館シネマパラダイス | 日映、TOHOシネマズと提携 |
一部のシネマコンプレックスは以下のように複数同業者共同運営、及び他社との共同運営によるものがある。
ブランド | 経営主体 | 共同運営会社 | 備考 |
---|---|---|---|
T・ジョイ稚内 | 最北シネマ | ティ・ジョイ | [注釈 21] |
札幌シネマフロンティア | TOHOシネマズ | 松竹マルチプレックスシアターズ ティ・ジョイ | |
こうのすシネマ | ティ・ジョイ | 鴻巣市 | 鴻巣市は所有のみ。 指定管理者としてティ・ジョイが運営。 |
T・ジョイエミテラス所沢 | 松竹マルチプレックスシアターズ 西武リアルティソリューションズ | ||
T・ジョイSEIBU大泉 | 西武リアルティソリューションズ | 元々はティ・ジョイの単独運営だった。 | |
T・ジョイPRINCE品川 | 元々はプリンスホテルによる単独運営だった。 | ||
新宿バルト9 広島バルト11 | TOHOシネマズ | ||
横浜ブルク13 | 東急レクリエーション 松竹マルチプレックスシアターズ | ||
ミッドランドスクエア シネマ ミッドランドスクエア シネマ2 | 中日本興業 | 松竹マルチプレックスシアターズ | |
大阪ステーションシティシネマ | 松竹マルチプレックスシアターズ | TOHOシネマズ ティ・ジョイ | |
なんばパークスシネマ | ティ・ジョイ | ||
TOHOシネマズ西宮OS | TOHOシネマズ | オーエス | |
鹿児島ミッテ10 | ティ・ジョイ | 有楽興行 |
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