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日本のテロリスト、宗教家、政治活動家 (1955年-2018年) ウィキペディアから
麻原 彰晃(あさはら しょうこう、1955年〈昭和30年〉3月2日 - 2018年〈平成30年〉7月6日)[1][電 1]は、宗教活動家、オウムソング作曲家、真理党党首 、元死刑囚。本名は松本 智津夫(まつもと ちづお)。
宗教団体「オウム真理教」を創設し、初代教祖として政治活動、宗教活動、文化活動をおこなった一方で坂本弁護士一家殺害や信者リンチ殺人などの多くの犯罪(オウム真理教事件)に加担した。後に一連の事件で逮捕され、他の一部の信者と共に死刑に処された。
熊本県八代市出身。宗教団体オウム真理教の元代表・教祖(宗教法人格が付与されていた時期の代表役員[2])であり、日本で唯一の「最終解脱者」を自称していた[3]。また視覚障害者で、6歳より盲学校に通っていた。数々のオウム真理教事件を起こした宗教団体オウム真理教の創始者。宗教的に殺人を肯定し、自らの信者を利用して国家転覆を最終目標とする一連のオウム事件を起こし、1995年(平成7年)5月16日に地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕された。
逮捕されてからは徐々に奇行が増え、意思疎通が困難となった[4]。1996年(平成8年)3月27日に警視庁本庁舎から東京拘置所に移送され[5][6]、2006年(平成18年)に死刑確定、2018年(平成30年)7月6日に死刑が執行された[電 1]。検察からは「わが国犯罪史上、最も凶悪な犯罪者というしかない」と評されている[7]。
オウム真理教での地位は尊師、省庁制においては神聖法皇。1996年(平成8年)6月19日以降は、教団内部での地位は開祖[8]。2000年(平成12年)にオウム真理教が宗教団体「アレフ」(現:Aleph)に改組されてからの公式呼称は「旧団体代表」[電 2]。
1955年3月2日午前3時34分、麻原彰晃こと松本智津夫は、熊本県八代市高植本町[注 1]の「松本畳店」を経営する畳職人の家庭の四男(男6人女3人の9人兄弟の第七子)として生まれた[9][10][11][電 3][12]。先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目の視力は1.0程度だった[11]。12歳年上の長兄は全盲、五男も弱視だった。藤原新也は、「麻原兄弟の視覚障害が水俣病の影響であり、それゆえに同じく視覚障害を起こすサリンを使ったのではないか」[注 2]という仮説を立て、全盲の長兄に事件後インタビューしている[電 4]。長兄の証言によると、彼も智津夫の視覚障害に関し同様の疑いを持ち、「水俣病患者として役所に申請」したことがあるが、却下されたという[13]。
祖父は熊本県出身で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた。麻原の父は現在の大韓民国全羅北道益山郡春浦面で生まれ、終戦後、共に朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた。盲学校の教諭も見たことがないほどの非常に貧しい家だった[14]。両親は働きづめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った[15][16][17]。智津夫はいたずらっ子で農機具を盗んだり壊したりしていた。その度に兄や姉から尻を叩かれたり外に放り出されたりしていた[18]。テレビアニメが大好きで、視聴中は智津夫が尊敬していた長兄にもチャンネル権を譲らなかった[18]。
1961年(昭和36年)4月、一旦は八代市立金剛小学校に入学するが[19]、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住[20][電 5][注 3]。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ[22]、転校の際には泣いて嫌がったという[23]。近所では口減らしではないかと噂が流れた[18]。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った[15]。
当時オウム同様の閉鎖社会であった盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配、全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり[24]窃盗を命じたり[25]、全盲の生徒相手に落とし穴を仕掛けたり[26]、リンチをさせたり[27]、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていたという。寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」「撃ち殺すぞ」と言った[28][29]。生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」と語ることもあった[30]。凶暴なので退学させろとの声も出ていた[18]。金への執着が強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた[15]。
27歳の智津夫は「男の子と遊ぶとすぐに喧嘩になってしまうから、女の子とよく遊んだんです。お医者さんごっこをやって、女の子の性器に砂をいれて、評判を落としたりしましてね。」と打ち明けている[31]。
一方、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述べている[32]。
盲学校で演劇『みにくいアヒルの子』の主演をして演劇が好きになり、自作自演していた。『源氏物語』では女生徒を侍らせ、恋愛劇『ちぎれた愛』では「好きだ、好きだ、好きなんだー」と絶叫した[27]。
成績は中程度であったが、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」[33]と熊本大学医学部を志望するようになり[34]、高等部3年の3月に同医学部を目指すが当時は視覚障害者では医師免許が取れなかったこともあり諦め[35][電 3]、高等部専攻科に進学する[35]。
体格が良く、当時の教師によると高等部3年の時には身長175センチ体重80キロはあり[36]、部活動は柔道に打ち込んだ[37]。1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得[38](一連のオウム事件の裁判が進むと講道館より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。
毛沢東や田中角栄などにかねてから傾倒し[35]、鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の自民党の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった[電 6][38][39]。なお、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している[40][電 3]。菓子で買収もやっていた[41]。後の真理党の時のように先生の陰謀だと言い出したこともあった[42]。19歳の時には盲学校の自治会で破壊的な主張を繰り返し、大混乱に陥れた[43]。
東京大学文科1類受験を目指すため、1975年(昭和50年)3月末に東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住するが、9月には八代市の実家に戻る[45]。1976年(昭和51年)1月、熊本市春日(現在の同市西区春日)に移住し長兄の漢方薬店の助手を務める[46]。鍼灸は上手だったとの患者の証言がある[47]。3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市黒髪町(現在の同市中央区黒髪)に下宿するが、5月にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝う[48]。1976年(昭和51年)7月20日、長兄の店の元従業員が兄を侮辱したため頭部を殴打し負傷させ、9月6日、八代簡易裁判所にて1万5千円の罰金刑を受ける[49]。この頃既に「弁護士か宗教家になりたい」と語っていた[18]。
1977年(昭和52年)春(22歳)に再上京し、代々木ゼミナール(東京都渋谷区)に入学[49]したが、東大受験は3度諦めている[電 3]。広瀬健一によると世間で言われているように麻原がこれを挫折と捉えていたかは不明で、自動小銃密造事件の際には広瀬らに大学受験の思い出を楽しそうに語っていたという。また、理系学問に興味があった[電 7]。英語や中国語も独学でやっていた[18]。
1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナールで知り合った石井知子(後の松本知子)と結婚し、千葉県船橋市湊町に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院[50]。同年9月15日「松本鍼灸院」を廃し、同市本町 に診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業[51]。同年12月、船橋市新高根に新居を購入し移住[52]。
この頃、鍼灸師として「病気の人を完治させることができない、無駄なことをしているのではないか」と悩み、無常感を抱き、四柱推命や気学を研究し始める[53]。だが運命を知っても運命を変えることはできないと考えて見切りをつけ、台湾鍼灸、漢方、断易、六壬を経て、奇門遁甲と仙道にたどり着き、神秘体験を経験する。さらなる修行を求めて以前は嫌いだったという宗教に近づき、GLAの高橋信次の書籍、中村元や増谷文雄の翻訳仏典により、阿含経そして阿含宗に出会う[54]。
1980年(昭和55年)7月、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される[55]。同年8月25日(25歳)、根本仏教系の新宗教団体阿含宗に入信[56]。
1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」[注 4]を開局、1982年(昭和57年)に無許可の医薬品[注 5]を販売し四千万円を稼いだものの、「効き目がないどころか下痢をした」などと告発され同年6月22日に薬事法違反で逮捕、20万円の罰金刑を受ける[58][59]。
妻の神経症
妻の松本知子と三女の松本麗華によれば、知子は、1982年に麻原が薬事法違反で逮捕されたことや、宗教にのめり込み家に戻らなくなったことなどが原因で、許容量をはるかに超える精神的葛藤のために、精神の異常が現れ始め、神経症に罹ったと告白(自著『転換人生』にも書いている)。その後、対人恐怖症・外出恐怖症を発症、強迫神経症もひどくなる。このため、家庭でも精神不安定が目立ち、外で愛想のよい笑顔を浮かべた日に限って家庭では些細なことで怒りを爆発させていた。
知子は夫婦喧嘩の末に家出をすることもあり、「もう勝手にして!こんな家、出て行くわ」と叫びながらも実際に家を出るまで怒鳴りながら部屋と玄関の間を何往復もしていた。しかし、三姉妹の中で知子についていくものはなく、気の毒に思った三女の麗華が何度か家出について行った(松本麗華の本人談)[60]。
1982年(昭和57年)、経営塾などをやっていた人物である西山祥雲に弟子入りし「彰晃」の名をもらい[61]、「松本彰晃」を名乗る[62]。
1983年(昭和58年)夏、身体を清浄なものとする阿含宗の教義などが、本来の阿含経とかけ離れていると感じ脱会[63]。東京都渋谷区桜丘に、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、本名の松本智津夫から「アシュラ・シャカ」という意味が込められている麻原彰晃へと改名する[64][65]。
1984年(昭和59年)2月、学習塾「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更し、5月28日には株式会社オウムを設立[66][注 6]。石井久子によると、当時の麻原は中性的なヨーガの先生といったところで、宗教的な感じはせず命令するタイプでもなかった[68]。
1985年(昭和60年)、神奈川県の三浦海岸で修行中に「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたという[電 8]。秋には空中浮揚したと称する写真が雑誌『ムー』『トワイライトゾーン』に掲載された[電 9]。また、「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」という記事を『ムー』に掲載。岩手県にヒヒイロカネ探しに行った際、酒井勝軍の知り合いという老人から、酒井が隠していたというハルマゲドン予言を聞いた。それはハルマゲドンの時には日本から「神仙民族」が出現し、救世主となるというものであった(酒井がほんとうに語っていたのかについての真偽は不明)[69]。
1986年(昭和61年)4月、税制上の優遇に目をつけて、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称[70]。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す[71]。すでに「武力と超能力を使って国家を転覆することも計画している。その時は、フリーメイソンと戦うことになるだろう」などと語っていたという[72]。
当時、麻原は妻の知子と3人の娘と共に千葉県船橋市に住み、家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にちゃぶ台を置き、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使うほど愛着を持っていた。当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。
このころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合っていた。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の知子は麻原が滅多に帰宅しないことなどから精神不安定となり、麻原に向かってなじるようないさかいがあったが、麻原はほとんど抵抗をしなかった。三女麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、麻原の著書の代筆を深夜まで行っていた。後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」や「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、妻の知子は当時は信仰心を有していなかっためか、蚊を平気で殺していた。また、麻原はその頃、家族とともに発展途上国を中心によく旅行をしたが、子たちに「世界には食べ物を食べられない子も、屋根のあるところに住めない子もいるんだ。食べ物を粗末にするのはやめようね」などと諭したりしていた[60]。
1987年(昭和62年)7月(32歳)にはヨガ教室では無く宗教法人だったら税制面で優遇される事に目を付けた麻原は、ヨーガ系でいきたいという大半の信者の意向を押し切ってまでも仏教の団体でいくとして[73]、「オウム神仙の会」から「オウム真理教」へ改め[74]、布教活動を展開。自著、オカルト雑誌への広告記事を利用し徐々に信者を獲得していった。同年、日本テレビ『鶴ちゃんのプッツン5』に超能力者として出演。さらにダライ・ラマ14世と親交のあるペマ・ギャルポに接近。「自分の修行がどの程度のものなのかチベット仏教の長老に見ていただきたい」と申し出、ダラムサラの宗教・文化庁を紹介される[75]。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を数回行っており、接見の様子を宣伝に利用することとなる[76][77]。
麻原は既にオウム神仙の会時代の1987年にはタントラ・ヴァジラヤーナやポアといった暴力肯定の教えを説いていたとされる[電 9]。さらに、阿含宗のスパイがいないか調査させるなど、後につながる行動が始まっていた[78]。
1988年(昭和63年)、7月に莫大な布施によりインドでカール・リンポチェと会うことに成功する。麻原の神秘体験中心主義はリンポチェにはあまり褒めてもらえなかったが、この際に麻原はリンポチェからヴァジラヤーナの暴力肯定の教えを説法され大きな影響を受け、帰国後には「これからは、ヴァジラヤーナの掟だ!」と叫びなから新実智光ら男性幹部に暴力をふるっていた[79]。9月には教団初の死亡事故が起きたのも、この当時教団は東京都に宗教法人認可の手続きを行っており、この事故が明らかになる時点で宗教法人との認可が当然却下されるので[80]、この時点で麻原はこの事故を弟子たちに隠蔽させた(詳しくは、在家信者死亡事件を参照)。この件に対して麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」と語った[電 10]。この頃からヨハネの黙示録解読に熱中し始める。同年10月28日、「当初、初めは、わたしはね、凡夫を救済するのがわたしの役割だろうと考えていた。しかし、近ごろわたしは心が少しずつ変わってきている。(略)動物化した、あるいは餓鬼化した、あるいは地獄化したこの人間社会というものの救済は不可能なのかもしれないなと。そして、じゃあどうしたらいいかというと、新しい種、つまり、今の人間よりも霊性のずっと高い種、これを残すことがわたしの役割なのかもしれないなと。」と説法した[電 11]。
1989年(平成元年)、男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件を指示。坂本弁護士事件では当初からオウム真理教の関与が疑われた。
1990年(平成2年)2月の第39回衆議院議員総選挙では、真理党代表として東京4区(5人区)から出馬[注 7]、オウムソングを歌うなど独特の選挙パフォーマンスで注目を集め「泡沫候補とか言っているが、今に見てろよ」と語っていたが[電 12]、結果は1783票で落選[電 13]。「今回の選挙の結果は、はっきり言って惨敗、で、何が惨敗なのかというと、それは社会に負けたと。(略)つまり、選挙管理委員会を含めた大がかりなトリックがあったんじゃないか」「今の世の中はマハーヤーナ[注 8]では救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナ[注 9]でいく」として、ボツリヌス菌やホスゲン爆弾による無差別テロを計画する[判 1][電 14]。
坂本弁護士一家殺害事件への捜査から教団が狙われる事を運良く逃げ切った麻原だが、1990年(平成2年)10月に国土法違反事件で強制捜査を受けたため、武装化の中断を余儀なくされる。この時、「世界的に名を残す宗教にオウム真理教はこれから発展していくんじゃないかなと。ただまあ、それだけになる条件をひとつだけ備えていませんけどね。・・・それは何かというと、それは教祖の逮捕です」と妙な予言をした[82]。
1991年(平成3年)から1992年(平成4年)にかけてはマハーヤーナ・合法路線に切り替え、文化活動や、インド・チベット・ラオス・スリランカ・ロシア訪問、テレビ朝日『朝まで生テレビ!』『ビートたけしのTVタックル』・フジテレビ『おはよう!ナイスデイ』・日本テレビ『とんねるずの生でダラダラいかせて』への出演、雑誌や新聞への登場、島田裕巳・荒俣宏・中沢新一・栗本慎一郎・田原総一朗・ビートたけしらとの対談、大学での講演などを精力的に行い知名度を高める[電 15][電 16]。
かくして新新宗教ブームの代表として人気者となっていた麻原だが、一方で、麻原自身はこのような穏健路線は「邪悪な世界への誘惑」であり、「救世主としての使命を妨げている」と感じており「この流れにのってはいけない」と言ったと上祐史浩は語っている[電 17][83]。1993年前後から「またヴァジラヤーナを始めるぞ」として徐々に武装化を再開した[判 2]。
1993年(平成5年)には「すべての魂をポアするぞ」などと発言し再びヴァジラヤーナ・非合法路線を本格的に再始動、オウム真理教放送など一部を除いてメディアへの露出も減り、信者に兵器の開発や敵対者の暗殺を指示し多くの事件を起こす[判 2]。ほとんどの事件は村井秀夫などの弟子に指示する形で行っていたが、薬剤師リンチ殺人事件や亀戸異臭事件では実際に現場に立ち会った[判 1]。後に女性信者殺害事件にも立ち会ったことが発覚している。信者の運転する炭疽菌噴霧トラックに乗り込み都内を巡り、フリーメイソン認定した建物めがけて炭疽菌をばらまいていたこともあった[84]。
サリン開発にも力を入れており、サリン70トン量産計画の早期実現を命令していた。この他、自動小銃密造など多数のオウム真理教の兵器開発を推し進めた[判 2]。
また、この頃からアメリカ軍による毒ガス攻撃やQ熱の症状を訴え、「毒ガスでやられて死んじゃう」などと被害妄想が激しくなる。電磁波攻撃対策として専用車に金属ネットを張らせたり[電 18][85]、肝癌になったと言って超音波検査をしたりしていた[86]。占星術にも熱中し、コンピュータプログラムを作らせて教団運営に持ち込んだ[電 19]。
1994年(平成6年)からは麻原は急速に子供らに対し頻繁にスキンシップを繰り返すようになる。時には三女(麗華)にキスをしたり、抱きしめたりすることもあり、遊園地や食事に連れていく機会も増えたという[60]。同年6月に松本サリン事件を起こしている。
1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災の支援と称して神戸市長田区を訪れたが、長田区に遊ぶところがないと分かると帰ってしまったという[87]。3月13日にはトイザらス岡崎店で、3月15日には彦根市のファミレスで信者を連れて出歩いていたのが目撃されている[88]。
40歳を迎えた1995年の3月18日、村井秀夫、井上嘉浩らと強制捜査の延期方法をリムジン内で謀議、地下鉄にサリンを撒くという提案に賛同、20日に地下鉄サリン事件が起きる[判 1]。
その後、尊師専用車を東京に移動させ偽装工作を行ったが[電 20]、5月16日に山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)のオウム真理教の教団施設「第6サティアン」内で地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕された[89]。
捜査本部は当初、「麻原は1階と2階の間の部屋に隠れていて末期がんで死にそうになっている」という遠藤誠一の供述を元に該当箇所を捜索したが見つからず、第6サティアンの南側入り口1階から2階への階段天井部分に造られた隠し部屋(高さ約50cm、幅103cm、奥行き335cm)で、現金960万円の札束と寝袋を抱えて隠れていた所で発見された[電 21]。
麻原は以下のように供述した。
麻原は釈迦やシヴァ神の「啓示」として遠藤誠に弁護を頼んだが拒否され[94]、横山昭二が麻原の私選弁護人となった(後に解任)。横山に宛てた「麻原ノート」には、「多くの人たちが死に、また傷害を負ったことは事実です」「今回の事件の幕引きについては、私個人は自己の一身をこのようにいじめながらなげうって、いじめながら人生の終わりを迎えたいと考えているのです」「外にいる弟子たちの修行の場を取り上げるようなことはどうかやめてください」などと書いた[電 22]。
逮捕前からすでに麻原逮捕後の教団の存続について計画を建てており、当初は弁護士を通じて獄中指示を出していた[95]。
最終的には東京地方検察庁により17事件(殺人26人と逮捕監禁致死1人。LSD・メスカリン・覚醒剤・チオペンタール密造事件は後に取り下げ)の教唆犯で東京地方裁判所に起訴される[96]。
弁護側は、事件は「村井元幹部を中心とした、弟子たちの暴走によるもので、松本智津夫自身は一切指示をしていない」と無罪を主張。
当初、第一審の初公判日程は1995年(平成7年)10月26日に設定されたものの、麻原は初公判前日の10月25日に私選弁護人の横山昭二を解任[97]。東京地方裁判所は期日を取り消し、渡辺脩、安田好弘ほか国選弁護団を選任したが、初公判は延期を余儀なくされた。国選弁護団は弁護士会から依頼があったので引き受けただけであるが、「何故麻原を弁護するのか」とバッシングを受けた[98]。
1996年(平成8年)4月24日、第一審の初公判(阿部文洋裁判長)が開かれ、1996年(平成8年)4月24日に東京地方裁判所で初公判が行われたが、48席の一般傍聴席に対して、日本の刑事裁判史上最多の12,292人が傍聴を希望して、傍聴券の抽選場所の日比谷公園には長蛇の列ができた[電 23][99]。日本テレビはこの時点から、「麻原-」から「松本-」と本名で報道するようになった。その後、民放全局・産経新聞・中日新聞(東京新聞)などを除くほとんどの新聞社も本名で報道するようになった。NHKは結審まで「麻原-」を使用していた。
裁判では初公判で阿部は「全世界がこの事件に注目している。判決は5年以内に出したい」と述べ、事件ごとの並行審理を提案したが、弁護団側が拒否したため、一事件ずつの審理となった。また、弁護団が月4回の開廷ペースに反発。審理をボイコットなどで長期裁判の様相を見せ[100]、一時は第一審の結審までに30年はかかるという噂も流れた[101][注 10]。
弁護側は検察側が申請した被害調書や共犯者の供述調書などの1万5687点の証拠に対し1万5472点と約98.62%に不同意。そのために171人の検察側の証人を直接出廷させて証言させることになったが、検察側の尋問時間が計206時間であったのに対し、弁護側の尋問時間は1053時間 (検察側の5倍) に及んだ。弁護士の証人尋問では「(地下鉄サリン事件に関し、営団地下鉄の地下鉄のダイヤの表について)職場のどのプリンターで印刷したものか」「(サリン患者に関する医師のカルテについて)サリンを見たことあるのか」などの尋問があった。これらにより実質的な証拠調べが遅れたと日刊ゲンダイは報じている[102]。
1997年(平成9年)12月、検察側は松本・地下鉄両サリン事件の重軽症者を約4000人から18人に減らす訴因変更を行い、2000年(平成12年)10月に薬物密造など4事件の起訴を取下げて案件を13事件に絞り込んだ。
1995年10月26日に予定されていた初公判が横山昭二弁護人の突然の解任で取り消しになった後、弁護士会より国選弁護人就任を依頼された弁護士安田好弘は、4日後に初めて麻原に接見。麻原は開口一番「あなたをお待ちしていました。あなたの名前は聞いていました」といったという。その後、月に5-10回の頻度で接見を続ける。1995年暮れ、麻原は安田に向かい、「どうすれば、私の真実を明らかにできますか」と問うたのに対し、安田は「法廷でみんなが見ている前で、空中浮揚をやってはどうでしょうか」と提案する。「法廷でやってみせれば、僕たち弁護人も納得するし、検察官、裁判官は腰を抜かして逃げてくと思うよ」と話すと、麻原は、「やってみます」と言い、1996年4月の初公判に向けて、警視庁の留置場や東京拘置所中で、『空中浮揚』の修行を重ねていたという。また、「当時麻原の好物は検察発表により高級品のメロンと報道されていたが、麻原は「本当の好物はバナナ」と話した(後述)。
麻原は接見中に、「2003年に、アメリカが日本や世界に向けて最終の宗教戦争を引き起こす」と言い出したことがあり、「自分は時間と空間を超えることができる。2003年の広島に飛んだところ、焼け野原になっていた。通りがかりの人に聞くとアメリカが原爆を落としたと広島弁で話した。これは、予言ではない、現実に行って見聞してきたことだ」と安田に向かって話した。また、接見中に停電があり、真っ暗となった際に麻原は何も気づかずに話し続けたことから、目が見えないのは本当だと思ったという[電 24]。
麻原は公判の初期や、裁判と同時期(1996年5月)に行われたオウムへの破壊活動防止法適用を議論する弁明に出席した際には、宗教的な難解な話を始めることはあったものの饒舌であり、まともな受け答えを行っていた[電 9]。
だが1996年10月18日の井上に対する弁護側反対尋問の際に、麻原は井上への尋問の中止を頑なに要求。弁護団も延期を要請したが検察と裁判所に拒否された[103]。以降、突如英語で話し始める、居眠りをするなどの行動(後述)を繰り返すようになり、しばしば裁判長から注意や退廷命令を受けた[判 1][電 25]。麻原は「退廷ですか?それはありがたい[104]」「とんでもないことをやっている教祖とは何だ[105]」などと応酬した。
当初は起訴案件の罪状認否に関しては留保したが、1997年4月24日の公判で麻原は罪状認否を行い、起訴された17事件のうち16事件で英語を交えながら以下の通りに無罪を主張した(駐車場経営者VX襲撃事件のみ留保)。「麻原は事件について語らなかった」とされることもあるが、実際には(整合性のない言葉と不自然な英語で)事件について語っており、事件をオウムが起こしたことは認めつつ弟子の責任とした[電 25][106]。
最後に麻原は、自身が原子力空母エンタープライズにいて米露の政府関係者・チベット僧・中沢新一らに語りかけている、既に釈放されており「裁判は遊び」、今日の日付は1997年4月24日ではなく1997年1月5日か6日、などと不可解な発言を付け加えた[電 25]。
麻原は「こんなくだらん裁判はやらんでいい[107]」「ここは裁判所なんかじゃない、劇場だ」「退廷させて死刑場につれていくのはOKだ」「射殺したければ射殺すればいい」「こんなばかな茶番劇のような裁判はやっても仕方ない」「こんなでたらめな裁判はやめろ、権利の侵害だ」「私はあなた方が裁くことはできない」などと度々述べ[108][109]、2002年2月25日の公判を最後に応答しなくなった[判 1][110]。
2003年(平成15年)4月24日、検察側は論告求刑公判で、麻原被告人に死刑を求刑した[111][電 26]。検察側は「わが国犯罪史上、最も凶悪な犯罪者と言うしかない」「救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で一連の事件を起こした」と論告した。検察側は「処罰感情は激烈である」として被害者遺族らの「八つ裂きに」「自分が殺してやりたい」「サリンによる死刑執行を望む」などといった発言を引用した[7]。
同年10月30日から10月31日にかけて弁護側が「一連の事件は弟子たちの暴走であり被告は無罪」とする旨の最終弁論を行い、結審した[112][113]。東京地裁で開かれた公判回数は、257回に上り、初公判から第一審の判決まで、7年10カ月を要した。
2004年(平成16年)2月27日、一連の事件を首謀したと認定して東京地方裁判所(小川正持裁判長)は「浅ましく愚かしい限り」「無慈悲かつ冷酷非情で残酷極まりない」「残虐非道極まる犯行の数々というほかはない」として求刑通り死刑判決を言い渡した[114][115][判 2][電 27]。これに対し、弁護側は東京高等裁判所に即日控訴した。
第一審を担当した国選弁護団は終了後に全員が辞任。12人の国選弁護人に支払われた弁護士報酬は計4億5200万円になった[116]。松井武と仙台在住の松下明夫の2人の弁護団が後を引き継いだ。東京高等裁判所は控訴趣意書の提出期限を2005年(平成17年)1月11日と定めた[117]。弁護団は1審判決後、松本に計36回接見したものの、弁護団の問いかけに無反応で意味不明な声を漏らし意思疎通が不可能であるとして、公判停止を申し立てた[118]。一方、東京高裁裁判長の須田贒は、2004年12月10日に麻原と面会し、「控訴趣意書は弁護士に作ってもらってもよい」「提出期限を延ばすつもりはなく、棄却もありえる」と説明した[119]。
2005年(平成17年)1月6日、東京高裁は麻原の精神鑑定を求める特別抗告を棄却しつつ、控訴趣意書の提出期限を同年8月31日まで延長することを決めた[120]。
同年8月19日、東京高裁は弁護団に対して精神鑑定の実施を伝えた[電 28]。弁護団によれば、このとき東京高裁は「鑑定形式による鑑定人の意見が出るまでは控訴棄却はしない」と明言したとされる[121]。提出期限の8月31日、弁護側は控訴趣意書の「骨子」を持参したが、高裁の鑑定への立ち会いや公開法廷での鑑定人尋問などに関する申し入れが拒否されたことを理由に提出を拒んだ[121]。9月3日、東京高裁は控訴趣意書を「直ちに提出することを強く求める」文書を弁護団に送付した[電 29]。2005年(平成17年)9月、東京高裁は麻原の精神鑑定を西山詮に依頼した[122]。
2004年(平成16年)10月以降、弁護団は独自に精神科医に依頼して鑑定を実施した[123]。中島節夫・中谷陽二・野田正彰・秋元波留夫・加賀乙彦など、計7人の精神科医はいずれも訴訟能力を否定または疑問視している[124][125][126]。一方、高裁の依頼を受けて鑑定を行った西山は「拘禁反応はあるが拘禁精神病の水準には達しておらず訴訟を続ける能力を失っていない」とし、高裁は2006年2月にこの鑑定書を受けとった[122]。
高裁はこの鑑定書への反論意見書の提出を2006年3月15日までとした[電 30]。弁護側は提出期限の1ヶ月延長を高裁に申し立てたが[電 31]、認められず[電 32]、結局期日通りに意見書を提出した[電 33]。
弁護団は2006年(平成18年)3月28日に控訴趣意書を提出することを表明していたが、東京高裁(須田贒裁判長)はその前日の2006年3月27日付で控訴棄却を決定した[122]。この控訴棄却の決定は、控訴審の審理が結審した後に下される控訴棄却の判決とは異なり、控訴趣意書が正当な理由なく期限までに提出されなかったため、刑事訴訟法の規定に従って、控訴審を開始せずに裁判を打ち切るという決定である。
これについては、弁護側が裁判引き延ばしのため控訴趣意書を出さないことで裁判所と危険なチキンゲームをやって負けたという弁護側批判[電 34]、裁判所のだまし討ちであるという裁判所批判[127]の両方がある。
弁護団はこの決定に対し、2006年(平成18年)3月30日に東京高等裁判所(白木勇裁判長)へ異議申立てを行ったが、同年5月、棄却が決定された[128]。「裁判所は『精神鑑定の意見が出るまでに提出すれば認める』と明言した」とする弁護団の主張については、「裁判所はその日のうちに見解を訂正した」として退けた[128]。
弁護側は最高裁判所へ特別抗告を行った。最高裁では死刑判決の是非ではなく、被告人の訴訟能力の有無、弁護側の控訴趣意書の提出遅れが「やむを得ない事情」に該当するかの有無、提出遅れという弁護活動の不備による不利益を被告に負わせることの可否の3点が争われた。
同年9月15日、最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は、特別抗告を棄却する決定をした[129][130]。これにより麻原への死刑判決が確定した。
27人殺人(司法の認定としては26人殺人と1人逮捕監禁致死)は死刑囚としては戦後最多である[注 11]。オウム真理教事件で死刑が確定するのは岡崎一明(2005年4月7日に確定)に続いて2人目だった[6][電 35]。
また東京高裁は2006年(平成18年)9月25日に控訴趣意書の提出遅延に関して、日弁連に対し「審理の進行を妨げた」として、刑事訴訟法に基づく処置請求を行い、担当した弁護士2人の処分を求めたが、日弁連は訴訟終結後は処置請求はできないと判断した。2008年(平成20年)9月に弁護士1人に戒告の懲戒処分が、2009年(平成21年)7月27日に弁護士1人に業務停止1カ月の懲戒処分が出た(ただし、日弁連に対する審査請求の結果、処分は戒告に変更された)。
前述のように、麻原は1審から不規則な行動・発言を繰り返し、2審では弁護士と意志疎通ができなくなった(#奇行を参照)。このことから、2審弁護団は訴訟能力は無いと主張し、刑事訴訟法第314条による公判停止を求めていた[131]。 訴訟能力があるか否か、または詐病であるか否かについて以下のように見解が分かれた。
上川陽子法務大臣は2018年(平成30年)7月3日付で麻原・土谷正実・遠藤誠一(以上3人は東京拘置所在監)・井上嘉浩・新実智光(以上2名は大阪拘置所在監)・中川智正(広島拘置所)・早川紀代秀(福岡拘置所)の各死刑囚7人に対する死刑執行命令書へ署名した[電 49]。
この死刑執行命令を受けて3日後の7月6日、麻原は朝食を全部食べた後の7時40分ごろに、教誨室で死刑執行を告げられた。遺体の引き取り先を聞かれた際に刑務官に対し長い無言時間の後、「ちょっと待って」「四女」と答え、最後に「グフッ」と咳払いのような音を発声した[電 50][146][147]。麻原は特に暴れたり抵抗したりはせず[電 50]、同日に前述6人とともに死刑を執行された。63歳没[電 49][電 51][電 52][電 53]。2006年9月の死刑確定から11年10ヶ月後のことであった[電 54]。
遺体の引取先に指定された四女とその代理人である滝本太郎弁護士が7月7日に麻原の遺体と対面した。滝本は「『麻原彰晃』とは思わなかった。松本智津夫として死んだと思った」と語る。また、埋葬地の聖地化を防ぐため海上に散骨することを提唱している[電 55]。一方、麻原の妻松本知子・三女松本麗華らが遺体の引き渡しを求める要求書を上川法相らに提出している。同月9日に府中市内の斎場で火葬され、当面は東京拘置所において遺骨を安置することとなった[電 56]。
法務当局が保管している遺骨と遺髪については、2021年7月に次女を引渡し先とした裁判所の決定が確定した[148]。その後、次女は引渡しを求めたが国が「次女を通じて遺骨がオウム真理教の後継団体に渡って利用される可能性があり、公共の安全や社会秩序を害することになる」として応じなかっため、引渡しを求め提訴。その結果、2024年3月13日に東京地方裁判所が国に引渡しを命じる判決を言い渡し[149]、国側が18日に控訴した[150]。
麻原には愛人が100人以上いたとされ、愛人と「イニシエーション」と称する性行為を行い[151]、妊娠させた結果、妻の知子の子である6人を含めて、12人ないし15人ほどの子がいるとされる[注 13]。麻原は在家信者なので子作りをしてもいいとされていた[152]。出生時に麻原が阿含宗にいたことや、「最終解脱」前に生まれたことが理由で知子の子の間でもステージ(階級)は異なる[電 57]。
四女によると麻原は、村井秀夫または上祐史浩と長女、上祐と次女、石川公一と三女、遠藤と四女、新実と石井久子に産ませた娘を婚姻させる計画をたてていたという[153][電 58]。また、最終解脱するにはグルの娘との合一が必要とされていた[電 58]。
当項目では、知子の子である6人を述べる。麻原の警備担当者によると、麻原は子煩悩で、おもちゃを沢山買い与えたり、クーラーを用意したりして、蜂の巣ベッドに押し込められていた出家信者達や、カビの生えたものを食べていた出家信者の子供達とは違い、格段に良い生活をさせていた[154][155]。美女3人が女中として一家の面倒をみていた[156]。
麻原一家は上祐史浩率いるひかりの輪とは対立関係にあり、ひかりの輪側は、松本知子・次女・三女は上祐の脱麻原路線に反対していた、四女は2007年時点において麻原崇拝グループを結成しようとしていたと主張している[電 59][電 60]。さらに家族内でも対立があり、特に四女と次女・三女の主張が異なるなど関係が悪化していた[電 61]。
また知子の影響下にあるAlephが次男を役員名簿に登録することについて、麗華が教団幹部に反対を呼び掛けたことが「山田らの集団」分裂の要因になったと、ひかりの輪と公安調査庁は分析している。(麗華は関与を否定した。)
戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏は、事件後も麻原について肯定的な評価をしており、以下のような見解を示している[164]。
また、 「理科系は天下の秀才であり、(麻原が説く)真理を理解することができる」とした一方、現在は麻原およびAlephに批判的な上祐氏(早稲田大学理工学部出身)については、「ただの偏差値秀才」「仲間を警察に売った裏切り者」「修行が足りない」と批判した[165]。
2020年2月21日、ニコニコ動画に投稿された日本文化チャンネル桜の動画内での我那覇真子との対談の中でも、上記と同様の見解を示し、「オウム真理教は仏教」「仏教は科学」だと主張した[166]。
麻原は自らの出版物を通して、多くの前世を持つと以下のものを称していた。
その他[170]
麻原は様々な超越神力(超能力)があることになっていた。中には信者が頭の中で歌っていた「魔法使いサリー」の曲を的確に聞き分ける、終電を逃した信者へ乗換案内する、信者にまんじゅうを残さず食べさせるなど奇妙な超能力もあった[180]。
弱視であることでは一致しているが、全盲かについて議論がある。
麻原彰晃名義のみ記載。この他、オウムの書籍には実質的に麻原の説法集であるものも多い。
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