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片側の目または視力を失った身体障害 ウィキペディアから
隻眼(せきがん)もしくは独眼(どくがん)は、片側の目そのものや視力を失った身体障害の状態をいう[1][2]。
病気(腫瘍など)の内因の他、事故や戦闘中の負傷など外因、奇形による先天的な要因の場合もある。外因により視力を失った際、多くは反対側の眼にも失明を及ぼすため、片目を喪失した者のうちで隻眼となるのは多数ではない。目が失われたために義眼を入れたり、眼帯などで隠し、自らの威厳の誇示を兼ねることがある。「隻」とは「対になっている物の片方」を数えるときに用いる助数詞である。
現実の隻眼の人物は、正常な位置にある2眼のうち1眼が失明しているケースがほとんどである。片目失明の原因は、先天性であることは少なく、病気や外傷など後天性の原因が主である。他に、両目失明ののち片目だけ治療(角膜移植など)するケースもある。
神話上のサイクロプスなどのような、顔の中心線上に一つの目を持つケースもなくはないが、単眼症という重度の先天障害であり、死産かさもなくば生後まもなく死亡する。
一つ目の動物は、大型動物では奇形以外では見られないが、ミジンコなど一部のプランクトンが、中心線上に1つの眼を持つ。ただしこれらは肉眼では確認困難なため、神話伝承とは無関係と思われる。なおミジンコは、大きな複眼の下にごく小さな単眼を持つため、厳密には眼が上下に2つあることになる。
日本の障害者認定制度では、片目失明というだけでは視覚障害者認定はされない。ただし実際には、他眼(見える方の目)にも障害があること、他眼に過度の負担がかかることが多く、その場合はそれに応じた認定がされる。最も軽い6級の認定条件は、一眼の視力(矯正視力。以下も同じ)が0.02以下、他眼の視力が0.6以下で、両眼の視力の和が0.2以上(0.2以下だと5級になる)である。6級より上の認定条件は全て、両眼の視力の和か両眼視野が基準になっている。
運転免許証の取得条件は、普通自動車については健常者とほとんど違いがなく、片目の視力が0.3未満なら、他眼の視力が0.7以上(これは健常者と同じ)で、視野が150度以上が必要となる。ただし、大型、第二種等は取得できない。
眼球を摘出したか眼球が萎縮した場合は、義眼が使われることが多い。視力を回復する機能はなく、あくまで萎縮した眼球、眼窩の保護や美容目的である。まぶたなどの周辺組織も失われたときは、義眼床手術も必要になる。
義眼を入れても完全に自然な外観にすることは難しいため、義眼を入れた上でさらに眼帯、サングラス、ガーゼなどを併用する人も多い。眼帯などは、義眼を使っていなくても美容上問題のある場合(義眼が必要だが入れていない場合、あるいは、眼球は外見上正常だが周辺組織に傷がある場合、など)にも使われる。
ここでは、なんらかの著名性または重要性があると思われる(日本でのみ有名、なども含む)隻眼の著名人を列挙する。隻眼といわれているだけで実際にはそうではなかった人物や、隻眼でなかった可能性のある人物も含む。
なお、漢字文化圏において、隻眼と関連性の高い「眇(すがめ)」という語があるが、「片眼が極端に小さいこと」を意味するほか、斜視のように隻眼に該当しない別の語義も複数あるため、この語が史書等に記されていることのみで事実認定されているわけではなく、事実認定されるものではない。
世界中に伝わる神話や伝説、民話のなかには非常に隻眼の登場人物・形象が多い。隻眼なのは人間に限らず、神々や怪物はもちろんのこと、蛇や竜であったり、魚や蛙であることもある。
隻眼は、字義的には本来二つあるべき目のうちの片方が失われたか、または存在しない左右非対称な形象であるが、一部においては顔の真ん中に(単眼症のように)一つだけ目が存在すると表現されることもある(キュクロープスなど)。また、隻眼という言語的イメージだけ伝承されていてそれが具体的にどのような視覚的イメージを表象しているのかについての共通理解がないことも多い。
隻眼の形象は、場合によっては身体のその他の部分も片方だけしかないことがある。たとえばスコットランドの山の巨人ファハンは隻眼・隻腕・一本脚であり、こうした形象はアフリカ、中央アジア、東アジア、オセアニア、南北アメリカなど非常に広大な範囲で伝承されている。文化人類学者のロドニー・ニーダムはこれらをまとめて片側人間(unilateral figures)と呼んだ。
このような複合的な形象のうち特に多いのは隻眼と一本脚の組み合わせである。
なぜこうした形象が隻眼なのかについて、神話はそれぞれに異なった説明を与えている。北欧神話の神オーディンが隻眼なのは、知恵を得るために片目をミーミルの泉に捧げたからである。日本の民間伝承に登場する片目の神は、何らかのミスによって片方の目が負傷したから隻眼であり、そのためその神の聖域である池に棲む魚も片方しか目がない。しかしこのような説明がある存在は多くはない。
学術的な観点からもいくつかの説が唱えられている。日本だけに限れば、柳田國男は、もともと神に捧げるべき生け贄の人間が逃亡しないように片目(と片脚)を傷つけていたのが神格と同一視されるようになったのが原因であると考えた(『一つ目小僧その他』)。 谷川健一は、隻眼の伝承がある地域と古代の鍛冶場の分布が重なることに着目した。たたら場で働く人々は片目で炎を見続けるため、老年になると片方が見えなくなる。またふいごを片方の脚だけで踏み続けるから片脚が萎える。古代は人間でも神々と同一視されていたため、鍛冶の神(天目一箇神など)がこのような姿をしているということになった。そしてこれらの神々は零落して妖怪になった(『青銅の神の足跡』)。赤松啓介の見解もこれに近い。
しかしどちらにしても、日本列島という狭い地域を越えて広大な分布を持つ隻眼・一本脚の形象を説明することはできない。ネリー・ナウマンはユーラシア大陸の様々な文化やアステカ神話に見られる隻眼・一本脚の形象を検討し、それらが少なくとも金属器時代以前にさかのぼるものであることを指摘した。隻眼の形象は雨乞いや風、火などの自然現象に関係することが多いというのである(『山の神』)。
一般的には、鍛冶の神と隻眼との関連は日本(天目一箇神)とギリシア(キュクロープス)に例があるのみである。ただし片脚あるいは脚萎えはそれよりも少し広い分布を見せている。西アフリカや北欧の伝説では鍛冶屋は小人であるとされており、むしろ広い意味での「身体の完全性の欠如」に要因を求めるべきだとする説もある(ミルチャ・エリアーデ『鍛冶師と錬金術師』)。日本とドイツの習俗を比較したA.スラヴィクは、(少なくとも一部は)古代に存在した若者戦士秘密結社の儀式が一般人に知られた結果、隻眼を含めた欠如という形象を生み出したと推測した(『日本文化の古層』)。また、松岡正剛のように、より大きな意味での弱さからこれらを考察する人も多い(『フラジャイル』)。
北欧神話が所属するインド・ヨーロッパ語族の伝承については、ジョルジュ・デュメジルが彼の三機能仮説における第一機能との関連を主張した。明確な理由は不明だが、第一機能(呪術的主権・司法的主権の二項対立がある)のうち一方は片目がなく、もう一方は片腕がない、というものである。つまり隻腕ならびに一本足が、この場合では隻眼、隻腕の組み合わせになっている。たとえばオーディンは片目がないが、テュールは片腕がない(フェンリル狼に食いちぎられた)。古代ローマの伝説的歴史ではポルセンナと戦ったホラティウス・コクレスは片目であり、スカエウォラは片腕を焼かれて失う。ケルト神話の神ルーは戦時中片目だけを開き(これは英雄クー・フーリンも同じ。またルーの祖父は片目が邪眼だった)、一本脚で戦士たちを鼓舞したが、ヌァザは戦争中片腕を切断された。ケルトの事例については邪眼との関連が強いことから、戦闘時の呪術に関係するものだという説も提出されている (Jacqueline Borsje, 'The Evil Eye' in early Irish literature and law) 。他にもデュメジルは隻眼と隻腕に類するものとして、インド神話の神サヴィトリとバガの例を挙げている。ある重要な祭祀においてサヴィトリは両腕を失い、バガは両眼を失う。もっともデュメジルは、インドの例においては呪術、司法の二項対立と、眼と腕との関係が逆転しているとして不審がっている。
ほかにも隻眼は男根の象徴であるとする説(民俗学者アラン・ダンデスのWet and Dry,the Evil Eyeや堀田吉雄『山の神の研究』など)、太陽の象徴であるとする説(古典学者アーサー・バーナード・クックのZeusvol.2やその追随者たち)など多くの仮説が存在するが、いずれも決定的なものではない。
先述のロドニー・ニーダムは、片側人間の分布が広すぎることから考えて、これは人間の心理における一つの元型である、と唱えた。ただし小松和彦はニーダムの仮説を「安易に心理学に頼りすぎている」として斥けている(『異界を覗く』)。
日本民俗で片目の動物としては、魚、特にフナの説話が多く語られる。
宮崎県の都萬神社の御手洗の池の魚は木花開耶姫命の玉の紐が落ち、フナの眼を貫き、片目になったという。出羽金沢の厨川のカワハゼは後三年の役の時、鎌倉景正が傷ついた眼をここで洗ったので、そこに棲むカワハゼはすがめであるという。
武蔵野島の浄山寺門外の池に棲む片目の魚は延命地蔵が茶畑で傷ついた眼をそこで洗ったからであるという。阿波福村の池に棲む片目のフナ、コイその他は月輪兵部が池の主の大蛇の左眼を射たためであるという[6][注 1]。伊予の山越では片身のフナを焼き、弘法大師に出すと、あわれに思い、小川に放つと、蘇生し片眼のフナとなり泳ぎ去ったという。名古屋の闇森の池の片眼フナは瘧の呪いになるという。備前、備中、備後、和泉の魚、越前、越中、越後、伊勢の魚鼈、摂津、越前、越中、越後のフナ、上野、美作のウナギ、甲斐、遠江のドジョウなどにも片眼のものがある。
片眼の蛇の説話も少なくない。佐渡金北山の蛇は順徳天皇行幸以来片眼であり、近江では旱魃の時に水喧嘩を救うために片眼の娘が川の穴に飛び込んで蛇体と化して、その因縁で片眼のコイがいるという。
羽後のカジカ、信濃のイモリ、美作のカモなどは片眼説話がある。
高皇産霊神が天目一箇神を作金者に定めてから、御霊神社の祭神、御手洗の池の魚、池の主は片眼で、池の主は人との交渉が多かった大蛇であった。伊勢に一目龍、肥後に一目八幡があり、やまのかみ、雷神は片眼である。一目の妖怪は山城八瀬村の山鬼、土佐の山爺、有名な一つ目小僧がある。
片目魚の起源について、柳田国男は信仰上から意図的に片目を潰したものと解釈したが、その伝承が池に結ぶつく事が多い点や大川に移ると元通りに直る伝承がある事などから、窒素ガスを多量に含んだ池水に棲息する魚がガス病で、目が気泡状になったものを片目に捉えてしまったとする説が、末広恭雄の「片目魚」(『魚と伝説』 新潮社 1964年)において主張されている。この説から坂本和俊も『一つ目小僧の原像 -製鉄関係神の神格化の構造と考古学研究の視点-』(1994年)において、柳田説には疑わしい部分があるとし、一つ目小僧の起源が天目一箇神という説は認めるものの、職業病によって片目片足となった者が神格化された事については賛成できないとしている。
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