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日本の女性、元オウム真理教最高幹部 (1958-) ウィキペディアから
松本 知子(まつもと ともこ、1958年8月17日 - )は、オウム真理教元最高幹部(同宗教法人の責任役員[1]、出版事業を行っていた株式会社オウム社長)にして、麻原彰晃(本名:松本智津夫)元死刑囚の妻。ホーリーネームはマハーマーヤ、のちにヤソーダラーへ変更となる。旧姓は石井(石井久子とは縁戚関係はない)。家庭裁判所への申請を経て、戸籍名を松本 明香里(まつもと あかり)と改名[2]。
千葉県立木更津高等学校卒業後、浪人し、代々木ゼミナール代々木本校に通う。予備校時代にとなりの席の麻原彰晃と知り合い結婚。麻原は髪が長い女性が好きといわれており、当時は知子の髪も長かった[3]。オウム時代は在家信徒として扱われていた[4]。
麻原彰晃は知子を、「気が強く曲がったことが嫌いで内弁慶、はっきりものを言い、虫も殺さないやさしい性格で子供を大事にする貞操観念の強い性格」と評した(麻原彰晃の取調べ中に、麻原が検事に話した雑談による)。
当時、松本家は千葉県船橋市に住み、3女をもうけ貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。 後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方知子は蚊を平気で殺していた[5]。ヘビが苦手で麻原からヘビを見せられて気絶したこともある[6]。
自著『転換人生』の中で20代に許容量をはるかに超える精神的葛藤のために、精神の異常が現れ始め、神経症に罹ったと告白。その後、対人恐怖症・外出恐怖症を発症、強迫神経症もひどくなる。三女によれば、1982年に麻原が薬事法違反で逮捕されたことや、宗教にのめり込み家に戻らなくなったことと関係しているという。このため、家庭でも精神不安定が目立ち、外で愛想のよい笑顔を浮かべた日に限って家庭では些細なことで怒りを爆発させていた。夫婦喧嘩の末に家出をすることもあり、「もう勝手にして!こんな家、出て行くわ」と叫びながらも実際に家を出るまで怒鳴りながら部屋と玄関の間を何往復もしていた。しかし、3姉妹の中で知子についていくものはなく、三女の麗華が気の毒になり何度か家出について行った。夕食の時間に戻らなかった時には麻原は、インスタントラーメンを作ろうとし湯を煮詰めて鍋を焦がしたことがあり、それ以降は長女にラーメン作りを依頼するようになる[5]。
夫である麻原彰晃との間に男2人、女4人の子をもうける。夫がオウム真理教を立ち上げる中で、妻として献身的にサポート。1987年9月に入信。夫が薬局を開設していた千葉県船橋市に居住していたが、1988年10月に富士山総本部のある静岡県富士宮市へ子供を伴い移住、大師となる。
1988年の秋に独房修行を命じられて以後、温厚な性格から人が変わったようになる[7]。
1989年10月には正悟師、1991年6月には石井久子、三女松本麗華(アーチャリー)に続き3人目の正大師となり、教団内でも重きをなしていった。教団が省庁制を採用した後は、「郵政省」大臣となった。
1995年5月16日に夫である麻原彰晃が逮捕された後は教団代表代行として教団の存続に務める。しかし同年6月に薬剤師リンチ殺人事件に関与したとして逮捕された。 逮捕された事により子供達が親不在となり散り散りとなった。教団代表代行は村岡達子が引き継いだ。
1990年の第39回衆議院議員総選挙には真理党候補として旧東京1区から出馬し、「投票率の低下や人口動態により、特定世代の影響力が顕著に弱まる現行選挙のあり方を聖域なく議論し、子どもに投票権を与えて、親がその投票を代行する」と述べ、ドメイン投票方式の導入を主張し、落選した。
1994年に発生した薬剤師リンチ殺人事件のポア(殺害)決定会議に参加していたとして、1995年に逮捕・起訴される。
裁判では、松本知子が夫の麻原に口を出せる存在であったかが争われた。松本知子と弁護人側は、麻原は愛人(ダーキニー)で教団幹部の石井久子と浮気し、松本知子を監禁したり、松本知子の両親のために作っていた部屋を石井の部屋にしてしまうなど、ひどい扱いを受けていて夫を止めることはできなかったとした[8]。四女の証言によると麻原の愛人は教団内に100人おり、夜毎、セックスをするために、尊師の部屋によばれる女性は異なり、正妻である知子は、毎夜、尊師が愛人たちとセックスしている部屋の前で通過儀礼の間中うろうろしていた[9]。
1999年2月18日の控訴審の控訴趣意書で「麻原が当時もっとも気にかけていたのは、被告人が激しい精神混乱に陥るという事実をもはや教団内の一部の秘密としてとどめることができず一般信者にも知られ、さらにはその根本原因たる麻原の放埓な女性問題が明るみに出てしまうことであった。(中略)しかし、教団の教祖たるもの、妻の精神状態さえ十分にコントロールできないことが暴露されれば、その権威は失墜する。(中略)本件当日、O(被害者)とYの教団施設侵入を知った麻原は、この機会に「ポア」の名の下にこれら両名を殺害し、その現場で意のままに振る舞う自らの姿を被告人の目のあたりに見せつけて、さらなる恐怖心を与えようとしたのであった」と主張した。
しかし検察側は、杉本繁郎、井上嘉浩の「麻原は恐妻家だった」との証言[10]をもとに、松本が謀議に参加し、殺害を容認した旨を主張。1998年5月14日の第一審では懲役7年の判決を受け、1999年9月9日の控訴審・2001年6月26日の上告審では、遺族への謝罪と賠償を理由に懲役6年に減刑された[11]。和歌山刑務所にて服役し、2002年10月15日に出所。
この事件に関しては、のちの1999年11月にジャーナリストの青沼陽一郎と11月1日から16日までの間に数度の書簡(約60枚)をかわし、雑誌上で公開された。その中で松本は、事件は井上、杉本らの嘘の証言に基づく判決であり、殺害謀議には参加しておらず冤罪であることを強く主張している。井上も杉本も取り調べ調書から法廷証言に至るまで供述証言に多くの変遷が見られるにも関わらず、上申書ならびに弁解録取書、取り調べ当初の警察官調書が取り調べられず、それどころか開示はおろか存在すらも知らされないままに反証が行われ、判決に至っている。争うべき証言の信用性が十分に証明できないままに判決が出されたと主張している。また、事件当初の松本は出産40日前の身重であったが、オウム内で精神病、精神異常と言われ事件の2カ月前から独房修行で隔離され、事件当日の数時間だけ引きだされ事件後はそのまま独房に戻されたとしている[11]。
1995年(平成7年)3月、一連の強制捜査が始まったころ、捜査
出所後は教団に戻っておらず、2006年半ばまでは教団との関わりは薄いと見られていた。ところが、2006年7月20日、アレフ信者の容疑にかかわる家宅捜索の報道[13]を通じて、松本知子と三女を中心として松本家が信者からの資金援助を受けていたことが明らかとなり、加えて、8月に四女が教団との関係を断つためとして、松本家を離れて江川紹子に未成年後見人になることを依頼し、江川が承諾したことが報じられ[14]、こうしたなか、教団が2002年12月以来松本家に「松本知子作の絵画の使用料」を名目として継続的に資金提供してきたことまで報じられた。
こうした経緯を経て、2006年9月20日、教団が契約に基づいて2002年12月以来松本家に月40万円を絵画の使用料として支払ってきたことを、分裂状態の反代表派に属するアーレフ広報部、上祐派広報部の双方がともに認める見解を発表した[15]。以後の支払いを打ち切るか継続するかについては、両派で意見が対立し合意に達しなかったため、契約は継続されているという。
なお、上祐史浩は2007年3月発表のインタビュー[16]において、絵画の使用料契約が当初から実質的に生活援助であったことや、その後信者から松本家への資金提供の流れがあったことを認め、また反代表派の信者が松本知子を含む松本家の人々と個人的接触をしてその意向が教団に反映される、といった形で松本家が実質的に教団に影響を与えていると述べ、四女の告発を事実として認めている。
2007年3月20日の報道[17]によると、教団元信者の男性から松本家の子ども4人が住居提供を受け、海外旅行や私立学校への入学などの大きな出費をする一方で収入の裏付けとなる勤労実態がないことから、公安当局は男性が1000万円以上になる生活費を丸抱えしており、男性が隠れ信者の可能性があるとみているという。また、アーレフ広報部が生活支援については否定する一方、以前から報じられている松本知子への絵画使用料については認め、見直しを含めた検討をおこなっているとしていると報じている。
2010年6月には茨城県龍ケ崎市内の一軒家が知子らの居住用として会社名で確保されている。この建物はY2PC(ワイワイピーシー)というパソコン販売会社の社員からの多額の布施を得た資金で取得され、名義も本人名ではない。同社は、有限会社オフィス・ワイという上記「オウム裁判対策協議会」を作った山際永三や山中幸男が役員を務めている。社員らは、実質教団信者であり、自らの銀行口座を上位の信者に管理され、教団財政とは別にそのほとんどが知子への布施になっている。そのほか、生活資金としては、知子の絵画賃借料名目でアレフから1か月40万円が内密に支払われていた[18]。
2012年1月24日の報道[19]によると、2009年に刑事事件で服役後に出所した信者の受け入れについて、2010年に死刑が確定した元教団幹部と信者の養子縁組などについて、それぞれ教団の信徒が当人と三女に対して承諾を求める文書を送付し、伺いを立てており、依然として教団への影響力を保っていると報じている。
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