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日本の小説家・ノンフィクション作家(1937−2015) ウィキペディアから
佐木 隆三(さき りゅうぞう、本名:小先 良三〈こさき りょうぞう〉、1937年〈昭和12年〉4月15日 - 2015年〈平成27年〉10月31日[1])は、日本の小説家、ノンフィクション作家で、北九州市立文学館名誉館長、九州国際大学元客員教授。当初は純文学作家として活動したが、直木賞受賞の『復讐するは我にあり』以降は犯罪ノンフィクションで人気を博し、後年は法廷のルポルタージュでも広く知られる。旧朝鮮咸鏡北道穏城郡生まれ[2]。
両親とも広島県出身で、父親は農家[3]。一旗あげようと田畑を売り払って朝鮮に渡り、良三は朝鮮で生まれる[2][3][4]。1941年(昭和16年)、銀山の所長をしていた父が呉の海軍に召集されたため[4][5]、一家で日本に引き揚げた[4][5]。母の郷里で広島市から北へ40km、中国山地の山あいの寒村である広島県高田郡小田村(現:安芸高田市甲田町)で育つ[4]。1945年(昭和20年)、終戦間際の7月に父がフィリピンミンダナオ島ザンボアンガで戦死。8月には原爆のきのこ雲を見る[4]。終戦後は生活困窮のため、広島市へ母がヤミ米を運んだりした[3]。
1950年(昭和25年)、母の親戚を頼り八幡市(現:北九州市八幡東区)へ移る[2][5]。1956年(昭和31年)、福岡県立八幡中央高校卒業後、八幡製鐵(現:日本製鉄)に就職[3]。1960年(昭和35年)、八幡製鐵労組(労働組合)の活動をはじめ、安保闘争の直前から日本共産党に入党、組合活動を活発化させるが、まもなく共産党を離れ、共産党を批判する小説を書く。1961年(昭和36年)、『大罷業』を『別冊日曜作家』に発表。1964年(昭和39年)に、八幡製鐵を退職。一方で同年、後年の代表作『復讐するは我にあり』のモデルとなった西口彰による連続殺人事件の裁判を一度だけ傍聴している。以後、作家活動に専念する。
同人誌などに小説を書き始め、『新日本文学』や『文學界』に発表。長崎造船の中里喜昭とともに、労働者作家として注目を浴びる。
1967年(昭和42年)、東京都中野区東中野に移り東京での作家生活を始める[3]。1971年(昭和46年)、のちに野坂昭如、中上健次らが足しげく通った新宿ゴールデン街の文壇バー「花の木」の名物ママとなる広田和子と離婚[6]、沖縄へ引っ越して2度目の結婚。コザ市(現在の沖縄市)の外人アパートに住み、沖縄復帰闘争の活動家たちとかかわり復帰問題に深く関与した。11月17日の沖縄返還における沖縄返還協定批准阻止闘争による沖縄ゼネストで、作家だからデモの首謀者に違いないと琉球警察に疑われ1972年1月に逮捕される[5]。その後12日間、留置所に勾留されたが無実と判明して釈放された。留置所での様々な犯罪者たちとの出会いが転機となって、犯罪小説にのめり込んでいった[5]。1973年(昭和48年)、2年住んだ沖縄を離れ千葉県市川市に移住。
1978年(昭和53年)7月、銀座の路上で交差点に赤信号停止しているタクシーに乗ろうとしたところ、タクシー乗り場から乗るように言われたことに逆上。タクシーのボンネットに乗り上げて暴れてフロントガラスを破壊したため、築地警察署員に逮捕される。この時、佐木は仲間5人とともにクラブなど2軒でウイスキーボトルを2本近くあけるなど[7]、かなり酒に酔っていた。1979年(昭和54年)、『復讐するは我にあり』が松竹で映画化(監督:今村昌平、主演:緒形拳)され、同年映画賞を独占。佐木の名も広く知られることとなったが、映画化に至る経緯では新聞沙汰になるほどのトラブルが噴出している[8]。
1985年(昭和60年)には、別府3億円保険金殺人事件を題材にしたノンフィクション小説『一・二審死刑、残る疑問―別府三億円保険金殺人事件』(徳間書店)を発表。その後、同事件の被告人(当時、第一審および控訴審で死刑判決を受け上告中)が佐木の連載を読んで、「無罪放免にしてくれるなら」とさまざまな裁判資料を提出。拘置所で佐木と面会した際、被告人は冤罪を主張するも、「無罪になれば保険金が入るから謝礼する」と発言。ところが佐木は「無罪だとはこれっぽっちも思わなかった」ことから、後年被告人は逆恨みの手紙を送っている。その後、被告人は上告中の1989年(平成元年)に死亡し、裁判は公訴棄却によって終結した。
また1987年(昭和62年)5月31日には、富山・長野連続女性誘拐殺人事件を題材としたノンフィクション小説『男の責任 女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)を発表。この著書は、犯人の女MT(1998年に死刑が確定/女性死刑囚)の共犯として起訴された男性(1992年に無罪が確定)の冤罪説に立ち、男性の無実を訴える目的で出版したものである[9]。同事件の刑事裁判の第一審(富山地裁)では、同年の論告求刑公判で、殺害実行犯とされたMTは死刑を、共謀共同正犯とされた男性は無期懲役をそれぞれ求刑されていた[10]が、翌1988年(昭和63年)2月9日、富山地裁はMTを単独犯と認定して死刑に処した一方、男性については「犯行に関与していない」として無罪とする判決を宣告[11]。男性の有罪を主張した検察官と、自身への死刑を不服としたMTが控訴し、控訴審が名古屋高裁金沢支部で続いていた1991年(平成3年)9月5日には[12]、同書を加筆削除し、出版後の経緯を織り込んだ文庫本[13]『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)を出版[14]。控訴審終結後の1992年(平成4年)にはテレビドラマ化され、『実録犯罪史シリーズ』(フジテレビ系列)の「最期のドライブ 富山長野女子高生・OL連続誘拐殺人事件」として放送された[15]が、1994年(平成6年)9月中旬には犯人MT(当時は上告中)から名誉毀損として、出版元の徳間書店とともに慰謝料500万円を求める民事訴訟を起こされ[16]、2000年(平成12年)に被告(佐木および徳間書店)側の敗訴が確定している[17]。
1999年(平成11年)8月、北九州市門司区に移る[3]。2006年(平成18年)、北九州市立文学館館長に就任し、2012年(平成24年)3月いっぱいまで務めた(満期解任後は名誉館長に)。2009年(平成21年)4月より、北九州市立大学の特任教授(非常勤)に就任。九州国際大学客員教授も務めた。2011年7月、2度目の離婚[3]。
2015年10月31日午前、佐木は下咽頭ガンのため北九州市小倉北区の病院で死去した[1][2][18][19]。78歳没。佐木のお別れの会は同年12月9日、北九州芸術劇場小劇場で行われ、佐木と長年親交があった古川薫が「無法松のように気が荒く見えて、実に心優しい男でした」と弔辞を読み上げ、故人に別れを告げた。
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