慶應義塾大学
東京都港区にある私立大学 ウィキペディアから
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慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学。1858年創立、1920年大学設置。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。
慶應義塾大学 | |
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大学設置 | 1920年 |
創立 | 1858年 |
創立者 | 福澤諭吉 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 慶應義塾 |
本部所在地 |
東京都港区三田二丁目15番45号 北緯35度38分56.2秒 東経139度44分34.5秒 |
学生数 | 33,518 |
キャンパス |
日吉(神奈川県横浜市港北区) 三田(東京都港区) 矢上(神奈川県横浜市港北区) 信濃町(東京都新宿区) 湘南藤沢(神奈川県藤沢市) 芝共立(東京都港区) 浦和共立(埼玉県さいたま市緑区) 新川崎タウンキャンパス(神奈川県川崎市幸区) 殿町タウンキャンパス(神奈川県川崎市川崎区) 鶴岡タウンキャンパス(山形県鶴岡市) 慶應丸の内シティキャンパス(東京都千代田区) 慶應大阪シティキャンパス(大阪市北区) |
学部 |
文学部 経済学部 法学部 商学部 医学部 理工学部 総合政策学部 環境情報学部 看護医療学部 薬学部 |
研究科 |
文学研究科 経済学研究科 法学研究科 社会学研究科 商学研究科 医学研究科 理工学研究科 政策・メディア研究科 健康マネジメント研究科 薬学研究科 経営管理研究科 システムデザイン・マネジメント研究科 メディアデザイン研究科 法務研究科 |
ウェブサイト |
www |
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が1858年(安政5年)に岡見彦三の推挙による藩命から江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内の蘭学塾「一小家塾」で講師に就いたことを起源に持つ大学である[1][2][3][4][5][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り[6]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[7]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]。
1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎え、さらに1866年(慶応2年)、親藩である紀州藩(紀州徳川家)の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[8][9][注釈 4]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。1867年(慶応3年)12月、木村摂津守の世話により芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家(久留米藩)控屋敷跡を購入し、翌年の1868年(慶応4年/明治元年)4月に中津藩から預かっていた「一小家塾」[10]を移転し、新しい近代学塾として英学塾である「慶應義塾」を創設した。この創設に際しモデルとしたのは、1862年5月(文久2年4月)に文久遣欧使節としてイギリス滞在中の福澤が、医師のトーマス・チェンバースの案内で訪問した英国国教会が設立したパブリックスクールのキングス・カレッジ・スクールである[11][12][13][注釈 5]。塾名は、年号の「慶應」とパブリックスクールの訳語である共立学校を意味する「義塾」をとって定めた[11][12][注釈 6]。
1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[15][16]。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、慶應義塾の三藩(越後長岡藩、紀州藩、中津藩)を中心とした士族が十中八九であった[17]。1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[18]。同年10月には分校「大阪慶應義塾」[19]と「京都慶應義塾」(京都集書院)[20]を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた適塾(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大阪とのゆかりが深い。
1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設。1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎(高知県)の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所(兵庫県)を開校。同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正徴兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に藍謝堂(高島学校)や高山歯科医学院、耕余義塾、亮天社、三田英学校等がある。西南戦争が起きた1877年(明治10年)頃から多くの塾生が郷里に帰郷した為、慶應義塾は経営難に陥り、福澤も一時は廃塾を真剣に考えたが、義塾存続を望む門人らの尽力により1880年(明治13年)に「慶應義塾維持法案」を作成して財政立て直しを行い、翌年には「慶應義塾仮憲法」が制定され、慶應義塾は理事委員中心の組織経営へと移行した。さらに1889(明治22年)には「慶應義塾規約」が制定されて社頭と塾長の職掌が明確化されたほか、今日まで続く評議員会の制度が設けられるなどの組織改革が行われた。
1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設し[注釈 7]、従来の正科・別科を普通部とした。1898年(明治31年)に幼稚舎・普通学科・大学科の一貫教育体制が確立。同時に大学科に政治科を開設した。
晩年の福澤諭吉は義塾経営の第一線からは半ば退いていたが、大学部存廃問題のような重要局面では影響力を行使し、1897年(明治30年)8月から一時塾長に復帰した[21]。福澤は1901年(明治34年)2月3日に没した。同月6日に宮中から祭粢料一千円が遺族に下賜され、7日に衆議院は哀悼決議案を議決した[22]。
1904年(明治37年)に大学部が専門学校令による専門学校となり、1907年(明治40年)に学校組織が財団法人として認可された。大学部文学科は1901年(明治34年)に一度廃止されたが3年後に復活し、永井荷風を主幹として1910年(明治43年)に創刊された文芸雑誌『三田文学』は日本の文学史上に大きな足跡を残した。
卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した[23]。1912年(明治45年)に煉瓦造の創立五十年紀念図書館が開館。そのゴシック式の建築美は慶應義塾のシンボルとなった。慶應義塾に理科系教育部門を開設したいという希望は福澤の存命中からあり、明治末から大正初期に工学科開設案が出たこともあったが[24]、最終的に医学科を開設することに決定し、1917年(大正6年)に北里柴三郎を学長[25]に迎えて医学科予科の授業を開始。翌年看護婦養成所(看護医療学部の起源)を附設した。
1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し[注釈 8]、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部からなる総合大学となり、予科と大学院を附設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ[26]、同年11月には四谷区西信濃町に慶應義塾大学病院も開院した。従来からの専門学校令による課程は高等部(当初は専門部)に改組され、1945年(昭和20年)に廃止されるまでに4,419名の卒業生を送り出した[27]。関東大震災の被害復旧の目途が立った大正末期頃から校地拡張の議が起こり、1934年(昭和9年)に日吉キャンパスを開設した。
1936年(昭和11年)に米国諸大学を視察した小泉信三塾長は工学教育の必要性を痛感し、その立案に着手したところ、塾員・藤原銀次郎も同様の企画を進め、適当な時期にこれを義塾に寄附する意向を示したため、義塾はその計画をすべて藤原に譲ることとし、1939年(昭和14年)に旧制藤原工業大学が日吉構内に開校した。その後、旧制藤原工大は当初の構想通りに慶應へ寄附され、1944年(昭和19年)に慶應義塾大学工学部となった。
太平洋戦争下の1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、戦後の1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。戦時下の空襲で三田・日吉・信濃町の各キャンパスは甚大な被害を受け、さらに終戦後まもなく米軍によって日吉を一時接収されたため、戦後の大学再建には大きな困難を伴った。
1949年(昭和24年)に新制大学が発足し、文、経済、法、工の4学部を開設。1952年(昭和27年)に新制医学部が発足した。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1972年(昭和47年)工学部が矢上キャンパスに移転。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を開設。2001年(平成13年)に看護短大を改組して看護医療学部を開設。2008年(平成20年)4月に共立薬科大学が合併したことにより、新たに薬学部・薬学研究科を設置した。
2021年(令和3年)に、高山歯科医学院を前身とする学校法人東京歯科大学と2023年(令和5年)4月を目途に歯学部統合および法人の合併に協議を開始したが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を踏まえ、統合目途を設けずに協議を継続する事とした[28]。尚、塾員小幡英之助は、1875年(明治8年)内務省より歯科専門の歯科醫術開業免許第1号を得て、築地采女町(現在の東京都京橋)に開業している。
2023年(令和5年)現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている[29]。2000年代以降に研究所や社会人教育拠点などの全国展開も行われ、丸の内・大阪の両シティキャンパス、新川崎・殿町・鶴岡の各タウンキャンパスが設けられた。
慶應義塾には、『慶應義塾の目的』という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝の紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を基に、福澤自身が書き直したものである[30]。
また慶應義塾では、塾訓である「独立自尊」を教育の基本に置く。
「義塾」の「義」は社会公共のため協力して事を行うという意味があり、これを念頭に置いている[31]。大きな柱は「医療」と「研究」である。蘭学から適塾(後の大阪大学)、慶應義塾医学所、北里柴三郎による伝染病研究所、北里研究所、満鉄衛生研究所までの歴史を汲む慶應義塾伝統の学問に立脚する医学は今日、アメリカ合衆国ハーバード大学医学大学院と1890年(明治23年)以来の長年の研究リンクを持ち[32]、伝染病研究所を母体とする歴史を持つ理化学研究所と連携、協力を行っている[33]。
太平洋戦争終戦後は旧中島飛行機株式会社青年学校へ基礎学科の研究室を約十年間移し、研究活動を行っていた(のちの武蔵野分校)。グローバルCOEプログラム取得や慶應医学賞設立も行っている。大学部時代の各学科の特徴としては、四書五経などの研鑽を積んだのち[34]、数学を基礎学とした有形学から入って、無形の学へ進む編成が成されており、この伝統は当世の各学問分野においても根付いている。
実学の精神である「実証に基づく理論的、合理的な科学(サイエンス)」(窮理図解)や「自我作古」の精神等[35]から伝統的な学術研究に加え、医療、産官学連携や知財活動などを通した研究まで行っており、科学研究費補助金は全体の10%に過ぎない。
戦前には枢密顧問官へ定期的に器量人を輩出、昨今は日本人宇宙飛行士を2名出している。文系では、その他の官公私立大などが行うマスプロ教育を忌避しており、ゼミナールを中心とした少人数教育を一貫して追求している[36]。
近年における各国の調査による世界大学ランキングでは、イギリスの『THE世界大学ランキング』(2022年)で私立総合大学1位、中国の上海交通大学による『世界大学学術ランキング』で私立総合大学1位、アメリカ合衆国のトムソン・ロイター社による『The World's Most Innovative Universities』で私立総合大学1位と、日本の私立大学ではトップの教育及び研究力を堅持している[37]。
慶應義塾では新銭座時代から心身共に健康を保つ手段として学生の体育を奨励し、1892年(明治25年)の體育會(体育会)を創設[38]によって専門家を雇って指導にあたらせた。初めは乗馬が主であり、1878年(明治11年)から剣術稽古が始まり、1894年(明治27年)には神道無念流の根岸信五郎を師範に招いた。のち柔術、端艇、陸海軍操練、弓術、徒歩の各部が加わった。
1896年(明治29年)徴兵令適用により学校に兵式訓練が課せられるに至るが、これより先に慶應義塾では兵式操練が行われており、1892年(明治25年)12月、大日本帝国陸軍(旧陸軍)から銃剣その他兵器の払い下げに特別の便宜を与えられ、1897年(明治30年)には「慶應義塾生徒隊」を結成し、1898年(明治31年)春に東京府下で初めて発火演習を行った[39]。なお、1898年には陸軍の軍旗(旭日旗)を製作している高級軍装品店より特別の許可をもってこれを購入。旭日旗自体はそのままに、竿頭は塾章であるペンマーク(軍旗では菊花紋章)に、房を浅葱色(常備歩兵連隊の軍旗では紫色)に変え、さらに福澤諭吉によって「慶應義塾生徒隊」の文字が書かれ(軍旗では連隊の隊号を記入)、翌1899年3月15日に福澤別邸において隊旗授与式が行われている[40]。
1937年(昭和12年)には「慶應義塾特設防護団」が組織され、1939年(昭和14年)には中国(当時は中華民国)の上海に研究所、北京に公館を創立。中国のほか南洋への学生研究旅行団が派遣され、1941年(昭和16年)には帝都学校報国隊結成などを見、卒業年限の短縮が実施された。日露戦争では帝国軍人援護会を支援し、第二次世界大戦に突入すると学生は学窓を離れて工場、農村に生産増強の勤労奉仕に挺身し、表彰を受けた。
1941年(昭和16年)には各学部の選択科目として「国防学」を新設し、講師として軍事評論家伊藤正徳(1913年〈大正2年〉理財科卒)が招かれた[41]。
かつては、全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンの下、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務付けられていた。複数の卒業生が、自著や対談の中で単位を取るのに水泳の特訓をしたと回想している。海軍の軍人の長男(小泉信吉)を戦争で失った経験から小泉信三がこのような制度を作ったとされている。
また、かつては体育実技において複数の競技が必修となっており、男子学生の場合、武道、球技、水泳(上記)、陸上競技を半期の内に大学の定めたローテーションに従って受講する必要があった。このような高等学校式の体育の授業を行っていた総合大学はきわめて珍しい。
戦中の様子を窺うことのできる重要な資料として、大日本帝国海軍(旧海軍)との間には深い関わりがある(当時の塾長は小泉信三)。1944年3月に軍令部第三部が日吉校舎に入ると、次いで寄宿舎に連合艦隊司令部が、後に海軍省と海軍航空本部、海軍艦政本部の日吉台地下壕が構築され、日吉は実質的な海軍の中枢となった。太平洋戦争(大東亜戦争)における台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、戦艦大和の出撃(坊ノ岬沖海戦)などの命令はこの日吉台地下壕から発せられたものであった[42]。
ここまでの経緯としては、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発すると、大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)が来るようになった。授業では自由主義や共産主義は厳しく弾圧され、国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため[43]、特高などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた[44][45])。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、横須賀軍港から近いことや、空襲避難に優れていたこと、各海域からの無線の受信状態や陸からの指揮統制システムに優れていたことなどが挙げられる。また、初代塾長岡本周吉(幕府海軍艦長)らが海軍兵学校の教官を務めたほか、明治期の卒業生は海軍関係者も多く、築地の海軍兵学寮や海軍主計学校に転じた者も多い。
海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、まず1943年12月の学徒出陣が挙げられる。文系学生の徴兵猶予が無くなり、在学中でも20歳に達すると徴兵されたことから、校舎のほとんどが空き教室となっていた。小泉信三の長男小泉信吉の同級生が軍令部第三部第五課に在籍しており、本土空襲に備えて移転先を探していた軍令部の依頼を取り次ぐ形で、日吉校舎の貸与を小泉学長に願い出ている。また文部省からも各大学に余裕のある建物を国に貸与するよう通達もでていたことから小泉学長もこれを承諾した[46]。
一方、連合艦隊は1944年4月に軽巡洋艦大淀を連合艦隊旗艦と定め木更津に停泊していたが、6月のマリアナ沖海戦の敗北後、司令部の陸上移転を進めることとなった。候補地には大倉山の精神文化研究所、町田の玉川学園、横浜海軍航空隊、そして日吉の慶應義塾校舎が挙がったとされている。連合艦隊司令長官豊田副武大将に通信参謀附士官が意見を求められた際に、自分が寮生として過ごした日吉の寄宿舎を推薦したところ、早速上陸して参謀長草鹿龍之介中将とともに視察した。また連合艦隊情報参謀だった中島親孝中佐も、親戚に塾員がいて運動会の見物で現地を知っていたことから日吉移転を強く勧めた[47]。
ここで言う慶應義塾の寄宿舎とは、1937年に完成した谷口吉郎東工大助教授の設計によるもので、鉄筋コンクリート3階建て、セントラルヒーティングと各階に水洗トイレを備えた北寮・中寮・南寮の3棟の寮舎と、炊事・浴室・娯楽室を含む別棟からなり、ローマ風呂と称された浴室からは綱島や川崎が一望できたという。寄宿舎が鉄筋コンクリート製で堅固なこと、高台で電波状態が良いことから最終的に日吉が選定され、1944年9月21日、連合艦隊司令部は日吉寄宿舎に移転、将旗を掲げた。南寮の2階に長官執務室と寝室が、中寮の1階食堂が作戦室に充てられたという[48]。
連合艦隊司令部移転に先立つ1944年8月より寄宿舎近辺より蝮谷 (まむしだに)に向けて連合艦隊司令部地下壕の建設が開始された。10月には海軍省人事局が記念館の東側に海軍人事局地下壕を建設し、完成を待つこと無く12月に海軍省経理局とともに日吉に移転、翌年2月に壕内に移転した。また線路を挟んで反対側、普通部校舎の南側、現在の日吉の丘公園のある高台にも1945年1月から艦政本部が地下壕を建設している。1945年7月、それまで第一校舎で業務していた軍令部第三部が蝮谷東側の地下壕に移転、空襲で焼け出された東京通信隊、航空本部も同居した[49]。
カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾であり、これは福澤諭吉の発案である[15][16]。また、古来日本の風習にはなかった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた[50]。
東京都と神奈川県に6キャンパスを擁するほか、全国各地にタウンキャンパスなどを展開している[196]。
歌 | 備考 |
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慶應義塾塾歌 | 作詞:富田正文、作曲:信時潔。1940年に完成し、翌年1月三田大講堂で発表が行われた[197]。慶應義塾関係者は「塾歌」と呼び、大学のみならず、一貫教育校(高等学校、普通部、幼稚舎など)を含め、慶應義塾社中で広く歌われている。幼稚舎の授業では塾歌が扱われるため、一貫教育校出身者のほとんどが歌えるようになるが、歌えない外部の塾生も増えてきている。式典で塾歌が必要なときは全員に楽譜が配られる。酒席などで歌われることはないため、塾生同士の結婚式などでは、代わりに「若き血」が歌われる。 |
旧塾歌 | 現塾歌が制定されるまで使用された。作詞は角田勤一郎(塾員)、作曲は金須嘉之進による。1904年発表。なお、旧塾歌制定の前年に「慶應義塾之歌」(いわゆる旧々塾歌)がすでに歌われていた[198]。 |
若き血 | 若き血(わかきち)は応援歌。作詞・作曲とも堀内敬三。1927年に発表。東京六大学野球連盟の応援では1得点挙げるごとに観客が肩を組み若き血を合唱するなど、スポーツの応援では定番の曲となっている。「塾歌よりも若き血を歌える」という塾生もいる。歌詞の最後にある「陸の王者」は藤山一郎が「りくのおうしゃ(清音)」と歌っていたことから濁らないのが正式である、と塾関係者の一部ではいわれている。しかし、ほとんどの塾生・塾員は「おうじゃ」と濁音で歌っている。なお、携帯電話の着信メロディとしてダウンロードできる。 |
天は晴れたり | 作詞桜井弥一郎。ワシントン頌徳歌の替え歌[199]。初期の慶早戦以来の長命の応援歌である。 |
丘の上 | 作詞青柳瑞穂、作曲菅原明朗。1928年に発表。慶早戦に勝った時にのみ歌われる。 |
我ぞ覇者 | 我ぞ覇者は応援歌。作詞は平戸市の作詞家藤浦洸、作曲は福島市の作曲家古関裕而によるもの。1946年に発表。 |
ダッシュケイオウ | ダッシュケイオウは応援歌。1966年に発表。高校野球など慶應義塾大学とは関係ない学校でも使用される機会もある。 |
その他、戦前の六大学野球黄金期には「三田に輝く三色旗」「独立自尊は我等が誇」「Blue, Red and Blue!」「幻の門」「踊る太陽」「三色旗の下に」も作られた[200]。
イエロー (Yellow■)、ブルー (Blue■)、レッド (Red■) の三色をブランドカラーとしている[201]。校旗(塾旗)はペンマークのイエローを含んだブランドカラー三色の色使いであることから、三色旗とも呼ばれている。しかし実際には青と赤の2色を3段に配したもので、例えば青、白、赤のフランスの国旗のように、3色からなるものではない[202]。明治27年11月26日に日清戦争における旅順口陥落の祝賀としてカンテラ行列を行った際に掲げられていたものが最初であるとされる。なお現在、大学紋章、ペンマーク、塾旗は、それぞれ特許庁に商標登録されており、慶應義塾および慶應義塾大学のサービスマークとして法的に保護されている。
エンブレムは、「ペンマーク」と呼ばれ、2つのペンを右を上にして斜めに交叉させたマークである。大学内にあるマンホールの蓋までこのシンボルマークが使われている。1990年(平成2年)、交換留学協定校である豪州クイーンズランド大学からの申し出をきっかけに、慶應義塾大学の新しい紋章が制定された。クイーンズランド大学キャンパス中庭を囲む回廊の石柱の一本一本には、それぞれ世界の著名大学の紋章が刻まれている。同大学の申し出とは、その一本に慶應義塾大学の紋章を加えたいというものであった。このような経緯により考案された新紋章のデザインは、ペンマークと塾旗の色調を基調として、英文大学名、義塾の創始年とペンマークの由来となった「ペンは剣よりも強し」という成句のラテン語表記“Calamus Gladio Fortior”から構成されている[203][注釈 43]。
マスコットは「ユニコン」。三色旗の上に描かれたものが応援の際などに使われる[146]。慶應義塾のアメリカンフットボール部や、バスケットボール部の愛称もユニコーンズである。かつて三田山上にあった大講堂正面玄関屋上に設置されていた。ただし、その姿はガーゴイル(西洋建築の雨樋彫刻)に似ており、本来のユニコーンとは著しく異なる[147]。1975年(昭和50年)に大講堂取り壊し後に保存されていた一基のユニコン像が中等部卒業生の寄附を元に修復、中等部玄関に設置された。1978年(昭和53年)には慶應義塾商工学校同窓会によって復元像が一基寄贈された。
かつて慶早戦など東京六大学野球の応援ではミッキーマウスが応援時のマスコット・キャラクターであった。しかしながら、著作権に関する意識が変化するにつれ、ディズニー社への慮りが顕在化し、現在では誰もがこのことを顧みない(忘れられた)過去のマスコットとなっている。
赤煉瓦は長年にわたり慶應義塾の知のシンボルとして大きな役割を果たしてきたとされている。幕末に伝来した煉瓦建築は、地震国である日本では、明治・大正までの期間しか造られず、その後の災害などで多くは現存していない。そのため、赤煉瓦と花崗岩による図書館旧館は、日本人によって設計された明治末年の西洋建築として稀少な建造物である。設計・監督は曾禰達蔵と中條精一郎。三田大講堂は東京大空襲で全焼し、現在は西校舎が建っている。戦後、象徴的な赤煉瓦建築の再興を図り、2000年に東館が完成した[204]。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
名称 | 所在地 | 備考 |
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日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 文学部1年生はここにて、法学部、経済学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。 |
三田キャンパス | 東京都港区 | 文学部2-4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入る。 |
環境経済学などの他の大学ではあまり開講されていない学問分野もある。Professional Career Programme (PCP) という、経済学教育を英語で行うということを特色としたプログラムが用意されている。授業はもとより、教員やTAとの連絡や会話も英語で行われている。これによって、英語力の強化と経済学を強みにしたキャリア構築の可能性を学生に提供している。PCPとしては、国内外の専門大学院進学の基礎となる力を身につけることを目標に掲げている。また、東京工業大学との単位互換を行っている。経済学部の生徒を対象に慶應義塾大学経済学部ハイド賞という公募論文大会が行われている。
名称 | 所在地 | 備考 |
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日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 経済学部1,2年生はここにて、法学部、商学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。 |
三田キャンパス | 東京都港区 | 経済学部3,4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入ることで経済学研究を行う。 |
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 法学部1,2年生はここにて、経済学部、商学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。 |
三田キャンパス | 東京都港区 | 法学部3,4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入ることで法学研究を行う。 |
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 商学部1,2年生はここにて、法学部、経済学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。 |
三田キャンパス | 東京都港区 | 商学部3,4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミもしくは専攻演習(15名前後)に入ることで商学研究を行う。 |
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 理工学部1、2年生はここで他学部生と共に学ぶ。 |
矢上キャンパス | 神奈川県横浜市 | 矢上キャンパスは日吉キャンパスのすぐ北側に位置する。理工学部3、4年生および研究科生はここでより専門的な教育を受け、または研究活動もここで行う。 |
「創造性の重視」「問題発見・解決型」。今の世の中に存在する雑多な諸問題を発見・解決していく人材の創出を目的としている。そのため、従来のリベラル・アーツと専門知識の詰め込みだけではなく、研究プロジェクトを中心に置き、その中で見えてくる学生自身に不足している知識(カリキュラム)を発見・取得し、補いながら研究を進めていくという、従来とは全く違う独創的なスタイルの構築を関係者は意図している。
大学では「学問の再編成」をキーワードとして自由度の高い履修システムを使用している。基本的に各授業には学年による履修制限を課さず、学部1年生から専門的な授業を履修でき、学部と大学院で共有する授業を多く設置している。また、「半学半教」の理念から学生、特に学部生の雇用に積極的である。具体的には図書館スタッフ、コンピュータやマルチメディアの相談員、キャンパス内の設備利用ガイドの編集員、教育補助員(学部生はSA、院生はTAと称する)などである。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
湘南藤沢キャンパス | 神奈川県藤沢市 |
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
湘南藤沢キャンパス | 神奈川県藤沢市 | 看護医療学部1,2,4年生 |
信濃町キャンパス | 東京都新宿区 | 看護医療学部3,4年生 |
医学部、看護医療学部、理工学部などと連携することで、創薬から臨床までを一貫して追求できる環境が整っている。前身は共立薬科大学。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 薬学部1年生はここにて、法学部、経済学部などの学生と共に、教養科目を受講。 |
芝共立キャンパス | 東京都港区芝公園 | 薬学科2年-6年生、薬科学科2年-4年生までは、ここで本格的な薬学教育・研究を行う。 |
浦和共立キャンパス | 埼玉県さいたま市 | 体育施設と薬学部附属薬用植物園がある。 |
通信教育課程には、文学部・経済学部・法学部がある[注釈 47]。公益財団法人私立大学通信教育協会に加盟している。
慶應義塾大学本部のある三田キャンパスの北館に事務局(通信教育部事務室)がある。慶應義塾大学通信教育部学則第1章第2条より「通信教育部は、文学部・経済学部及び法学部の通信教育課程の実施に当たる」組織であり、通信教育課程そのものは正科生[216][217][218]として、各学部の通学課程と同じ学位を取得するため、各学部に属する[205]。
教員組織は通学課程と同じ教員で構成されている[219]。学生は所定の単位を修得すれば、通学課程と同じく慶應義塾大学の卒業生として学士の学位を取得できる[216][220][221]。また、卒業時には通学課程同様に各三田会に入会ができる[221][222]。卒業後は慶應義塾大学が提供する各施設・サービスも通学課程の卒業生と同様に[注釈 48]塾員として利用ができる。
文学部・経済学部・法学部の3学部に通信教育課程が置かれている。文学部は、第1類(哲学を主とするもの)・第2類(史学を主とするもの)・第3類(文学を主とするもの)に便宜上区分されている。経済学部は、カリキュラムに商学部系の科目を含んでいるが、専攻分野に基づく類は存在しない。法学部は、甲類(法律学を主とするもの)・乙類(政治学を主とするもの)に便宜上区分されている。卒業時に教員免許状の取得を希望する正科生入学者のための教職課程も併設されている[223][224]。
入学選考は書類選考によるが、当該学部に入学するための一定の読書歴と、入学後の勉学計画・研究計画について明確なプランを持っていることが求められる。特にアカデミック・ライティングのために必要な日本語能力が求められる[225]。入学は4月1日入学・10月1日入学がある。
分類 | 要件 |
---|---|
学士入学 |
|
通信教育課程のみで三田キャンパスにて行われる。入学オリエンテーションは各地方でも開かれる(札幌市、仙台市、名古屋市、大阪市、岡山市、福岡市)。
通信教育課程の在学生が、学生間の学習上の啓発を目的として自主的に結成している学生団体で、北海道から鹿児島、海外まで、現在その数は50団体以上に及ぶ[226]。
特に表記のないものは、修士課程ならびに博士後期課程がある。
慶應義塾大学では図書館をメディアセンターと呼び、主要6キャンパスのメディアセンターで様々な書籍やデジタルコンテンツの公開を行っている[231]。
慶應義塾大学の出版部門として慶應義塾大学出版会がある。慶應義塾大学出版会は組織的に独立した株式会社であり、大学の附属機関ではない。しかしながら慶應義塾大学関係の書籍を出版するなど、大学本体との関わりが深いので、本節においてまとめた。詳細は該当記事を参照のこと。
日本学術振興会 (JSPS) 事業
年 | 分野 | 内容 |
---|---|---|
2002年 | 生命科学 | システム生物学による生命機能の理解と制御 |
化学・材料科学 | 機能創造ライフコンジュゲートケミストリー | |
情報・電気・電子 | アクセス網高度化光・電子デバイス技術 | |
人文科学 | 心の解明に向けての統合的方法論構築 | |
学際・複合・新領域 | 次世代メディア・知的社会基盤 | |
2003年 | 医学系 | 低侵襲・新治療開発による個別化癌医療確立 |
医学系 | 幹細胞医学と免疫学の基礎・臨床一体型拠点 | |
数学、物理学、地球科学 | 統合数理科学:現象解明を通した数学の発展 | |
機械、土木、建築、その他工学 | 知能化から生命化へのシステムデザイン | |
社会科学 | 市場の質に関する理論形成とパネル実証分析 | |
社会科学 | 多文化多世代交差世界の政治社会秩序形成 | |
社会科学 | 日本・アジアにおける総合政策学先導拠点 |
年 | 分野 | 内容 |
---|---|---|
2007年 | 生命科学 | In vivoヒト代謝システム生物学拠点 |
情報、電気、電子 | アクセス空間支援基盤技術の高度国際連携 | |
人文科学 | 論理と感性の先端的教育研究拠点形成 | |
2008年 | 医学系 | 幹細胞医学のための教育研究拠点 |
機械、土木、建築、その他工学 | 環境共生・安全システムデザインの先導拠点 | |
社会科学 | 市場の高質化と市場インフラの総合的設計 | |
社会科学 | 市民社会におけるガバナンスの教育研究拠点 |
年 | 分野 | 内容 |
---|---|---|
平成19年 | 中央アジア | 中央アジアにおける環境共生と日本の役割-価値創造に基づく地域研究のあり方 |
年 | 分野 | 内容 |
---|---|---|
平成20年 | 人文社会学系 | 社会イノベータ育成コースの創設 |
医療系 | 創薬に向けた医薬科学を先導する人材の養成 |
年 | 内容 |
---|---|
平成20年 | メディカルプロフェショナリズム教育の推進 |
ユビキタス社会の問題発見解決型人材育成 |
この記事は、全部または一部が他の記事や節と重複しています。 具体的には慶應義塾大学#キャンパス_2との重複です。 |
学部生が学ぶキャンパスは総合政策学部/環境情報学部を除き学年で分かれている。
同大学で最も多くの学部が設置されているキャンパス。学部・学科での学習のほかに一般教養を学ぶ。
同大学の本部や学校法人の法人本部も置かれ、「慶應義塾の代名詞」と呼ばれている。
日吉キャンパスの近隣、神奈川県 横浜市 港北区 日吉に所在する。
理工学部・研究科の学生が通う。
東京都 港区 芝公園に所在する。
薬学部・研究科の学生が通う。
医学部を中心に医療系3学部の学部生が学ぶ。
看護医療学部の学部生および大学院生。総合政策学部/環境情報学部の全学年および大学院生が学ぶ。
三田祭含め各キャンパスごとに開催されている。このうち、三田祭以外は有志によるイベントに過ぎないとされているが、実質的には「学園祭」として認知されており、慶應義塾大学の受験生向けパンフレットなどにも紹介されている。なお、日吉キャンパスで行われる日吉祭は高等学校の文化祭で、大学との関係はない。
名前 | 開催場所 | 概要 |
---|---|---|
三田祭 | 三田キャンパス | →詳細は「三田祭」を参照 三田祭は、毎年11月23日前後に例年4日間行われる。運営しているのは三田祭実行委員会。三田祭の規模は大学祭では日本国内最大規模である。慶應義塾大学が公式に「学園祭」としているのは三田祭のみである。 |
四谷祭 | 信濃町キャンパス | |
矢上祭 | 矢上キャンパス | |
七夕祭 | 湘南藤沢キャンパス | →詳細は「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス § 七夕祭」を参照 湘南藤沢キャンパスで七月の第一土曜日に毎年開かれる学園祭。湘南藤沢キャンパス開校時から続いており、学生有志による七夕祭実行委員会が運営している。花火や縁日のような出店、御輿などの夏祭りをテーマとした企画が中心。また学生と大学周辺地域との協力を目的としていることが特徴である。 |
共薬祭 | 芝共立キャンパス |
体育会の正式名称は「慶應義塾體育會」(けいおうぎじゅくたいいくかい)である。「慶應義塾大学体育会」としている文献が存在するが、正式名称では「大学」の語は使用しない。
2023年現在、43部59部門が所属しているが[236]、大学スポーツ協会には非加盟。
体育会各部間の意見交換や、体育会全体に関わる会議・行事の企画・進行や広報活動を行う組織として、體育會本部を置く。体育会部員から選出された常任委員がこうした業務に携わっている。また、体育会事務室という慶應義塾大学の部署が設置され、専任の大学職員が常駐している。体育会事務室は学生主体の體育會本部と連絡を取りながら体育会の運営をサポートしている。
野球部(硬式野球部)は東京六大学野球連盟に加盟している。東京六大学野球が発祥する大元となった慶早戦の盛り上がりがきっかけとなり、ラグビー部や端艇部(ボート競技)等でも慶早戦が行われるようになった。詳細は「慶早戦」参照。
ラグビー部は蹴球部が正式名称。1899年創部であり、日本ラグビーフットボール協会は「日本ラグビーのルーツ校」としている[237]。関東大学ラグビー対抗戦グループに所属している。1910年(明治43年)に綱町グラウンドにて日本最初の蹴球対校試合を第三高等学校(現:京都大学)との間で開催した。
端艇部は1889年創部。1905年から隅田川の新大橋 - 桜橋間で毎年開催されているボート競技の慶早戦(慶早レガッタ定期戦)は、毎年3万人以上が訪れる。
大学では應援指導部Majorettes、チアリーダーズUNICORNS、チア&ソングリーダーズUNICORNSの3団体が存在する。
1923年創部。毎年1月と5月に行われるホッケー部門の慶早戦が有名。
サッカー部はソッカー部が正式名称。
アメリカンフットボール部の愛称はユニコーンズ(UNICORNS)である。関東学生アメリカンフットボール連盟に所属している。
バスケットボール部の愛称もユニコーンズ(UNICORNS)。全日本学生バスケットボール選手権大会初代王者でもある。
レスリング
剣道部は1878年創部で、日本中で柔道部に次ぐ古い歴史を持つ部活動とされている。
1920年、陸軍士官学校において塾長鎌田栄吉出席の下、慶應義塾乗馬会の発会式を挙げる。以来同校馬術教官から教えを受ける。1923年4月1日、同校校庭で開かれた関東学生乗馬協会主催の第1回関東乗馬大会で優勝した。
ラクロス部は1986年に日本初のラクロス部として創設された[238]。それまで準体育会という位置づけだったが、2008年に体育会に加入。特に男子ラクロス部は全日本優勝5回、関東学生リーグ優勝15回という成績を残している。
慶應義塾大学硬式庭球同好会連盟というテニスサークル連盟がある。2018年時点で23サークルから成り立ち、公称会員数3000人強。
園遊会は、学位授与式(卒業式)の後に開催される卒業パーティーである。2008年3月までは慶應義塾大学卒業準備委員会が主催をしていた。パーティーで行われる抽選大会の1等賞品は毎年通例として外車であった。このような豪華な賞品を出すことについて、一部卒業生や大学教職員の間からは必ずしも賛同の声ばかりが寄せられるわけではなかった。2006年時点、会費は2万円強で参加は任意である。賞品はOBが役員を務める企業からの寄付が多い。卒業準備委員会の粗雑な財務管理や園遊会参加後の卒業生の行為による苦情から、2009年3月からの園遊会の開催は一旦中止となり現卒業準備委員会も解散することとなった[239]。
なお、解散した卒業準備委員会とは別の団体が、2009年3月以降も(非公式ではあるが)毎年有志により園遊会を存続させるための活動を行っている[240]。日吉記念館の工事延期に伴い2009年度卒業式の会場が、予定されていた卒業式の会場(パシフィコ横浜)から同館となる可能性が高まり、卒業式の予定そのものが不確定となった。これによって園遊会の会場となる舞浜のホテルの予約が現段階で確定できないことが判明し、2009年度園遊会は中止となることが決定された[241]。しかし、開催の声が根強く、2009年度は有志により西麻布alifeでの小規模開催となった。そして、2010年度より特別委員会として園遊会実行委員会が全塾協議会より正式承認されたが[242]、それ以後も大学・全塾協議会の調整が着かず2011年(震災の影響により最終的に中止)・2012年は卒業生有志により開催されることとなった[243]。
代 | 氏名 | 在職期間 | 在任時階級および所属 | 最終階級および後職 |
---|---|---|---|---|
1 | 大浜石太郎 | 1925年7月10日 - 1928年8月10日 | 陸軍大佐 | 陸軍少将、第10師団参謀長 |
2 | 服部保 | 1928年8月10日 - 1930年8月1日 | 大佐 | 陸軍少将、歩兵第4旅団長、予備役 |
3 | 伊藤義雄 | 1930年8月1日 - 1932年1月9日 | 大佐・第1師団司令部 | 陸軍中将、旅順要塞司令官、待命 |
4 | 石原常太郎 | 1932年1月9日 - 1933年8月1日 | 中佐・第1師団司令部 | 陸軍少将、鎮海湾要塞司令官、待命 |
5 | 栗田小三郎 | 1933年8月1日 - 1934年8月1日 | 大佐・第1師団司令部 | 陸軍少将 |
6 | 手塚省三 | 1934年8月1日 - 1936年3月7日 | 大佐・第1師団司令部 | 陸軍少将、戦傷 |
7 | 青木敬一 | 1936年3月7日 - 1937年11月24日 | 大佐 | 陸軍少将、歩兵第136旅団長 |
8 | 丸山定 | 1937年12月4日 - 1938年12月10日 | 大佐・留守第1師団司令部 | 陸軍少将、独立混成第12旅団長 |
9 | 寺田繁一 | (不明) | 大佐 | (不明) |
10 | 川生馨 | (不明) | 大佐 | (不明) |
11 | 永沢三郎 | 1941年8月10日 - 1943年3月1日 | 大佐・東部軍司令部 | 陸軍中将、豊橋陸軍予備士官学校長、第221師団長 |
12 | 木原義雄 | 1943年3月1日 - 1944年12月16日 | 大佐・東部軍司令部 | 陸軍少将、独立混成第67旅団長 |
配置された配属将校は軍隊内で出世する主流コースにはないが、平時であっても全員が閣下たる将官(勅任官)まで昇進していることは特筆に値する(戦間期には陸軍少将任官と同時に待命・予備役となっている者も何名か見受けられる)。
配属将校が赴任してからは「野外演習」として、正課の授業の一つとして取り扱われるようになった。戦時下の慶應義塾大学は最も自由な大学の一つで、学内では配属将校や特高警察がいても比較的自由であったことはよく知られている。他の旧制大学などでは、靖国神社・護国神社に参拝することを配属将校が激しく迫るというようなことがあったが、慶應義塾ではそのような問題はまったく起こらなかった[244]。逆に来るときは兎に角、去るときは慶應義塾に好感を抱いていく者ばかりであったという[245]。
教練関係のほかに軍人としては工学部長・谷村豊太郎海軍造兵中将がおり、谷村は東京帝国大学総長・平賀譲の推薦によって藤原工業大学の初代学部長に就任している。満20歳に達した男子は徴兵検査に合格すれば軍隊に入る義務があったが、学生は優遇されて卒業まで徴兵が延期された[246]。
Shanghai Ranking Consultancy の『世界大学学術ランキング 2021』(ARWU, The Academic Ranking of World Universities) によると、総合301-400位(日本10位)である。『QS World University Rankings 2022』によると、世界ランク201位[247](アジア45位・日本9位・私大1位)である。The Center for World University Rankingsが発表した『CWUR世界大学ランキング 2021-22』では、世界97位(日本4位)である[248]。トムソン・ロイターが発表した論文の引用動向からみる日本の研究機関ランキング(1999年 - 2009年)では、被引用数で国内13位。ISI-トムソン・サイエンティフィックの論文引用度指数は材料科学分野で日本国内1位(2004年 - 2008年)。分子生物学、遺伝学、精神医学、心理学、人文社会科学の各分野がトップ10入り(2002年 - 2006年)する他、高被引用論文では神経科学、臨床医学、生物学・生化学の各分野がいずれもトップ7以内に位置している[249]。「特許資産規模」では国内の大学・研究機関で4位に位置している[250]。
慶應義塾では、在学生を「塾生」[注釈 50]、卒業生を「塾員」(慶應義塾規約 第30条)、この二者に加えて教員などを合わせた関係者全てを「(義塾)社中」と呼ぶ。また、福澤諭吉を除いては敬称を「君(くん)」とする習慣がある[注釈 51]。これは、慶應義塾において「先生」は創立者たる福澤諭吉ただ一人であるという思想から発生したもの[251]で、現在も構内掲示などの教員名は「-君」表示になっているほか、慶應義塾の公式文書においてもしばしば「君」表記が使用される[251]。明治期においては生徒は教師に向かっては「さん」付けが一般で、それ以外は塾長、教頭、その他の古参教員でも等しく「--さん」が一般に用いられた[252]。
慶應義塾における「塾長」とは、慶應義塾大学の学長と慶應義塾(学校法人)の理事長を兼ねており[注釈 52][253]、内部において「学長」や「理事長」といった呼称が使われることはまずほとんどない。
三田と日吉キャンパス間の交通については、かつては東急東横線・渋谷駅経由で都バスもしくは山手線を乗り継いで1時間近く掛かったが、東急目黒線の日吉延伸後は日吉駅から直通で都営地下鉄三田線に乗り入れられ、白金高輪駅経由で30分弱での行き来が可能になった。
名称 | 所在地 | 使用学部・研究科 | 付属施設 | 備考 |
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三田キャンパス | 東京都港区 三田2-15-45 |
文学部2-4年 |
三田メディアセンター |
最寄り駅:田町駅(東日本旅客鉄道〈JR東日本〉山手線・京浜東北線)、三田駅(東京都交通局〈都営地下鉄〉浅草線・三田線)、赤羽橋駅(都営地下鉄大江戸線) |
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 港北区日吉4-1-1 |
文学部 |
日吉メディアセンター |
最寄り駅:日吉駅(東急東横線・東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン) |
矢上キャンパス | 神奈川県横浜市 港北区日吉3-14-1 |
理工学部3ー4年 |
理工学メディアセンター |
最寄り駅:日吉駅(東急東横線・目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン) |
信濃町キャンパス | 東京都新宿区 信濃町35 |
医学部2-6年 |
慶應義塾大学病院 |
最寄り駅:信濃町駅(JR中央・総武緩行線)、国立競技場駅(都営大江戸線)、青山一丁目駅(東京メトロ銀座線・半蔵門線、都営大江戸線) |
湘南藤沢キャンパス (SFC) | 神奈川県藤沢市 遠藤5322 |
総合政策学部 |
慶應義塾大学湘南藤沢学会 |
最寄り駅:湘南台駅(小田急江ノ島線・相鉄いずみ野線・横浜市営地下鉄ブルーライン)、辻堂駅(JR東海道本線・湘南新宿ライン)からバス →詳細は「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス」を参照 |
芝共立キャンパス | 東京都港区 芝公園1-5-30 |
薬学部薬学科2-6年 |
薬学部附属薬局 |
最寄り駅:浜松町駅(JR山手線・京浜東北線および東京モノレール羽田空港線)、御成門駅(都営地下鉄三田線)、 御成門駅、大門駅(都営地下鉄浅草線・大江戸線) |
浦和共立キャンパス | 埼玉県さいたま市緑区 |
附属薬用植物園 |
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K2タウンキャンパス | 神奈川県川崎市幸区 |
新川崎タウンキャンパス、神奈川県川崎市と共同設置 | ||
殿町タウンキャンパス[256] | 川崎市殿町地区 |
ウェルビーイングリサーチセンター |
||
鶴岡タウンキャンパス (略称はTTCK[257]) |
山形県鶴岡市 |
致道ライブラリー |
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慶應大阪シティキャンパス (略称はKOCC) |
大阪府大阪市北区 |
2008年5月、大阪大学医学部附属病院跡地に整備されていた再開発地域(ほたるまち)にある「堂島リバーフォーラム」に「慶應大阪リバーサイドキャンパス」が開設された[258]。明治8年まであった「大阪慶應義塾」以来となる大阪での拠点である。慶應義塾を創立した福澤の学んだ適塾(後の大阪大学)が大阪に所在していたことから、ゆかりの地でのキャンパス開設といえよう。2013年5月、大阪駅北口のグランフロント大阪ナレッジキャピタル内に移転し、慶應大阪シティキャンパス(KOCC)と改称している。 | ||
慶應丸の内シティキャンパス (略称はMCC) |
東京都千代田区 丸の内三菱ビル |
社会人向け教育機関として開設。株式会社慶應学術事業会が運営。 |
慶應義塾では三田移転前の芝新銭座時代から食堂があり、塾生はそこで単に食事をとるだけでなく西洋式のマナーも学んだとされる[259][260][261]。
慶應義塾大学には、日吉寄宿舎、日吉国際学生寮、下田学生寮、大森学生寮、元住吉宿舎、元住吉国際学生寮、綱島学生寮、綱島SST国際学生寮、高輪国際学生寮、湘南藤沢国際学生寮、Hヴィレッジの計11の寮がある[264]。
その歴史は古く慶應義塾の創設期(19世紀末)にまでさかのぼる。
現在の設備は、慶應義塾大学予科が神奈川県横浜市日吉に移転した際に併せて設置された。谷口吉郎に設計を依頼し、日吉キャンパス南側台地に1937年(昭和12年)建設された。高台の頂上にあり建物からは絶景が望まれた。完成のもので北寮、中寮、南寮の3棟があり、さらに当時としては大変珍しい自家熱による寮生向けの円形浴場棟(通称「ローマ風呂」)が設置された。風呂からは遠く横浜の桜木町に至るまでの広大な田園風景が見えたといい、東洋一の学生寮」と呼ばれるにふさわしいものであったという。これには、慶應義塾を開いた福澤諭吉が学生寮と学生自治を重視していた点が影響されている。
第二次世界大戦末期には大日本帝国海軍軍令部・連合艦隊司令部のための地下壕が日吉台一帯に掘られ、慶應義塾大学の日吉キャンパスも軍部の諸施設に転用された。日吉寄宿舎も例外ではなく、海軍幹部の宿舎として利用された。ちなみにこのとき、戦艦大和の沖縄への出撃を発令する電報が日吉台から九州南部に向けて発信されている。また、ポツダム宣言放送など大戦末期の重要電文を送受信した基地として、戦争の痕跡を今にとどめる数少ない重要な施設という側面もある。付近には防空壕や高射砲台座跡が点在している。
終戦後は進駐軍に接収され、進駐軍将校のための宿舎として用いられた。その際、ローマ風呂は浴槽を埋められ即席のダンスホールに作り替えられた。ホールからの眺望が人気を博し、特に夜間のそれは米兵達を喜ばせたとされる。サンフランシスコ講和条約に伴い、寄宿舎は大学に復した。以後現在に至るまで学生の宿舎として用いられている。浴槽自体は老朽化しているが、浴室それ自体は貴重な近代建築として保存されて今に残っている。現在は中寮のみが活用されている。
一般に慶應の学生寮は体育会および留学生を対象としたものが主であるが、本寮に限っては一般の学生でも入寮可能である。
学生による自治を原則としているが、大学当局ともその支援を受けながら良好な関係を保っている。創立以来、寄宿舎内での政治活動や宗教活動は厳しく禁じられており、学生たちに設立の趣意が徹底され1960〜70年代の学生運動の時代においても他の大学寄宿舎のような紛争は一切生じなかった。寮生のOBの親睦団体に「寮和会」がある。
慶應義塾大学は以下の国宝と重要文化財を所有している[266]。
以上の文化財はメディアセンター貴重書室、および、文学部民族学考古学研究室が保管する。
慶應義塾大学と海外の協定校の両方で学び、修了時に二つの学位が取得できるプログラム[269]。
慶應義塾大学の海外オフィスは、交流協定校を含む各地域にあるトップレベルの諸大学・機関との様々な教育・研究交流を積極的に促進していくことを目的としている[270]。具体的には義塾研究者による学術セミナーや講演会の開催、留学中の塾生の学習・生活支援に取り組んでいる。また、新規協定校の開拓や義塾への留学招待など、広報活動を展開している。
機関 | 連携内容 |
---|---|
大阪大学大学院医学系研究科・医学部 | 適塾を源流とするとの認識に基づき、研究・臨床を行う[273]。 |
東京工業大学 | 学生交流に関する協定を締結。文理の枠組み、国立私立の壁を越える人材育成を推進。 |
一橋大学 | 教育・研究上の連携・協力により研究や実務の世界で活躍するグローバルリーダーの育成を推進。(文部科学省戦略的大学連携支援事業)[274] |
理化学研究所 | 人間知性の解明研究など[33] |
宇宙航空研究開発機構(JAXA) | システムエンジニアリング分野 |
ニューサウスウェールズ大学 | |
シドニー大学 | |
インド工科大学ハイデラバード校 | |
延世大学校情報科学・統治研究センター | |
フランス国立科学研究センター | |
フランス原子力・代替エネルギー庁 | |
フランス国立保健医学研究機構 | |
アーヘン工科大学 | |
ジュネーヴ大学 | |
ウィーン大学歴史文化研究学部 | |
ウィーン大学心理学部 | |
アメリカ国立老化研究所(NIA) | |
マサチューセッツ工科大学、ハーバード大学ブロード研究所 | |
ジョージア工科大学(GIT) | |
カリフォルニア大学バークレー校機械工学科精密製造センター | |
セントルイス・ワシントン大学医学部 | |
日本電信電話株式会社 (NTT) | 情報通信分野(特にブロードバンド通信、ユビキタス、IPネットワークなど)の分野 |
日立製作所 | 国際的かつ分野融合的な技術の発信を目指した連携協力 |
国連開発計画 (UNDP)[275] | 国際平和と世界の開発課題解決のために貢献できるリーダーの育成 |
山梨県および富士吉田市 | 富士山北麓の森林文化を基軸にした、イノベーションによる新たな価値の創造と地域づくりおよび国際社会に貢献する人材づくり |
中津市(大分県) | 福澤諭吉の学問に対する考え方を基にした次世代を担う人材の育成と、それを育む地域づくり |
京都市教育委員会 | 京都市における教育の充実・発展 |
港区 (東京都) | 地域社会および教育・研究の発展。芝地区“昭和の地域力再発見事業拠点”「芝の家」が2008年10月オープンした。 |
長崎県 | 活力ある地域の形成と実学の促進 |
川崎市 | 地域社会、研究、産業の振興 |
静岡県 | 先端農業プロジェクト事業の推進 |
小田急電鉄・神奈川中央交通[276] | バスの自動運転技術など |
沖縄県・グラクソ・スミスクライン株式会社 | 沖縄県の健康・医療情報産業の振興等 |
連携の名称 | 連携機関 | 備考 |
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「4大学ナノ・マイクロファブリケーションコンソーシアム」 | ||
(名称なし) |
|
大学院生を対象に、多様な教育・研究指導を受ける機会を提供し、学術の発展と有為な人材を育成。 |
日米研究インスティテュート[277] |
|
|
EUインスティテュート・イン・ジャパン (EUSI) | ||
医療系産学連携ネットワーク協議会 (medU-net) | ||
全国私立大学FD連携フォーラム | ||
文部科学省がんプロフェッショナル養成プラン9大学共同事業体 | ||
東アジア研究プログラム (Three-Campus Comparative East Asian Studies Program) |
慶應義塾の各教育機関は、大学とそれを頂点とする附属学校という関係ではなく、あくまで同一学校法人が運営する独立した学校の集合体という形態をとっている。
慶應義塾では自らの設置する以下の学校へ入学した場合、大学まで全員が進学することを前提に統一したカリキュラムを組んで教育を行っている。そこで、慶應義塾では以下の学校についてはまとめて「一貫教育校」と呼んでいる。以下の学校を卒業すると全員、無試験で大学へ推薦入学できる(エスカレーター式)。これらの学校から推薦入学する生徒は、大学全体の2割以上を占める。
戦後の慶應仲通り界隈にある床屋で、顔をあたっていた一人の学生が、壁に掲げてあった福澤翁の写真を見上げながら「福澤の野郎は俳優の小沢栄太郎に似ていやがる」[信頼性要検証]といった。そこに運悪く隣りで同じように顔をあたっていた寺尾琢磨教授がたしなめた。学生も反抗的な態度に出た末に当該学生の退学問題にまで発展し、さらに、学校内外を巻き込んだ「福澤精神」の存亡論争にまで及んだ[278][信頼性要検証]。
同大学文化団体連盟に所属する経済新人会というサークルが、2002年11月、台湾から前中華民国総統の李登輝を迎える講演会を企画した[279]。中国共産党の介入で、日本政府が来日に必要なビザ発給を拒否する構えを示したため、李登輝は訪日を断念して実現しなかった。
日経ラジオ社にて1958年より『慶應義塾の時間』(月曜-木曜 22:00-22:30。第2放送18:30-19:00の時代もあった)を放送していた。冒頭で吹奏楽団が演奏する「若き血」のインストルメンタルが流れていた。2008年に放送60年を迎えた[280]が、2013年度をもって廃止され、ネットによる受講者向けのオンデマンド配信に移行した。その後、2014年4月から9月にかけては木曜日に「キャンパス info. DOCTORS」と題し、慶應義塾大学卒業の医師によるトークや講義を放送していた。
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