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日本古来の弓射技術・文化 ウィキペディアから
弓術(きゅうじゅつ)は、弓を用いて矢で的を射る技術、武術である。以降は日本古来の武術、弓の中でも長弓に分類される和弓を用いて矢を射る日本の弓術のことを述べ、またこれを指して弓術とする。
日本の弓術は独自の発展を遂げ、ヨーロッパでの短弓を用いる技術体系を元に成立した現代スポーツのアーチェリー等とは全く異なり、日本独特の技法・文化・歴史を持つ。歴史的にはほぼ同義語的に弓術、射術、射芸等とも呼ばれていたが、現在では日本における伝統的な弓射文化を総称して「弓道」と呼称されており、「弓術」とは「弓道」へ改称する以前の古武術との意味合いで使われることが多い。ただし現在でも「弓術」を名乗り古流を厳格に維持する流派や、また古流を維持しながらも「弓道」とする流派・団体も有り、「弓道」「弓術」の境界は必ずしも明確にあるものではなく、思想・技術面から見ても明確に分類できるものではない。本項では、現代武道としての弓道の母体となった日本古来の弓射技術・文化を指して「弓術」とし、明治維新までを中軸とした一部弓道改称時点までの事情を記述する。
日本の弓術がいつ頃『術』として体系化されたか、また起源など弓矢の始まりが先史時代という事もあり明確な史料に乏しく定かにはなっていない。弥生時代には現在の和弓の原形(長尺・上長下短:後述)が現れ戦争に使用される等、何らかの射術技法があったと推察する事も可能だが、やはり詳細は不明である。弥生時代中期(前2-前1世紀)とされる銅鐸に、鹿を狙って弓を引く人が描かれている[1]。文字として書かれたものとしては『魏志倭人伝』(3世紀)に記載が見られる[2]。
礼射思想については飛鳥時代末期には文武天皇により『大射禄法[3]』が定められたものに起源が見られ、朝廷の間で次第に弓射に関する礼射、礼法が整理され、また同時に技術も体系化、単なる射術から『弓術』として成立していったものと思われる。
7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争において大和側に帰服した蝦夷(俘囚)から騎射の技術が伝わったとされるが、和人の射術への影響は不明である。
一方で弓は武器として狩猟、戦場で用いられた事は勿論だが、人々の間で弓矢には霊妙な力があると信じられており、奈良時代には弓矢の奉納[4]、弓射神事が行われ、またそれらを起源とした祭りや神事が現在でも各地に残っている。平安時代には弓術流派が興り、各種流派にはそれぞれに独自の技術・教え・作法が存在した。戦場、祭礼行事、朝廷での故実・年中行事などに於いて弓術流派はそれぞれに活躍、発展していく。
戦国時代には優れた武将を「海道一の弓取り」と呼ぶなど、武芸の代表格でもあった。中期頃には鉄砲の登場により弓は戦場の一線から退くが、実戦から離れても弓術は武術としての地位は変わることなく、泰平の世となった江戸時代においても弓術は表芸として、また心身鍛錬の道として依然人気は高かった。また、勧進的という、神社でトーナメント方式で行なわれる弓術大会ももようされた。時代と共に技術、道具共に研鑽が重ねられ、また同時に諸流派それぞれに独自、或は相互に発展を遂げた。流派によっては実際の戦場を想定した稽古もあるなど、その稽古内容は今日に見る弓道よりも多彩である。ただし、幕末頃には弓術の基本的な技術体系は各種流派それぞれに通じる所もあり、特徴としての差異はあっても和弓を用いる根本的な弓射技術は各種流派とも大同小異である。今日の弓道に繋がる弓術は技術、道具共に江戸時代に大成したと言っても過言ではない。
明治維新後、幕府崩壊と明治政府による近代化政策の煽りから、武術は時代遅れとされ衰退する。これを重く見た当時の武術家有志により明治28年(1895年)大日本武徳会が結成され、弓術含め各武術の普及を図る。大正8年には弓術は弓道へと改称、武徳会は幾度か射法統一を試みるが普及せず、第二次世界大戦後に解散。その後当時を代表する弓道家らにより、射の過程をその推移に順応して8つの節に分けて説明される「射法八節」が定められ、弓道は現代武道として復活を遂げる。(戦後の弓道史は弓道#歴史を参照されたい。)弓道においても弓術とほとんど変わることはなく続いているが、弓術に至っても昔のまま引き継がれている場合があり、現在でも伝統のある流派などが存在している。
他国の弓術と比較した時にまず目を引くのが、人間の身長より遥かに長い和弓である。和弓は世界最大とも言われる標準で七尺三寸(221cm)[注 1]の長さを持つ。これは高い弾性限界を持つ動物素材を用いる短弓と違い和弓は弾性限界の低い木・竹を張り合わせる植物素材で作られているため、耐久性と威力を求めた結果、長大になったとも言われる。またもう1つの目立つ特徴として弓幹中央より下側に握りが来るように造られている。この上下非対称の構造のため握りの上下で弓の反発力に差が生じるが、この反発力の差を利用した弓術独特の技術が生まれ、またその技術をより活かすための造りをしている。
また世界の射術を見ると概ね弦を首元までしか引かないのに対し、日本の弓術は弦が耳の後ろに来るまで大きく弦を引き取る。従って矢の長さもそれに応じて長く造られている。
矢を番える際は、矢を(身体から見て)弓の右側に番え、取り掛けは右手親指根で弦を引っ掛けるようにして保持する『蒙古式(モンゴル式)(図Fig.3)』を採る。(洋弓は人指し指から薬指を使って弦を保持する『地中海式(図Fig.1)』を採る)蒙古式の取り掛けはトルコ・モンゴル・中国・朝鮮など短弓を使用する地域にも共通して見られ、また蒙古式を採る射法では多く矢を弓の右側に番える。これは一説では疾走する馬上で向かい風を受けても矢を取りこぼさないように工夫したためとも言われる。ただし、笠懸や犬追物などでは進行方向右側に向かって矢を放つ場合もあり、一様に当てはまる根拠ではない。世界的には馬上での弓はその取り回しのし易さから短弓が用いられるが、日本では例外的に長弓の和弓が使用されてきた。和弓には弓の右側に位置する矢を真っ直ぐに押し出すための『入木』という反りが付けられており、射法もそれを活かすために『角見(つのみ)』の技術が発達してきた。また江戸時代以降は右手に嵌めるゆがけの構造が大きく変化し、これも日本独特の構造、独特の技術を生む切っ掛けとなった。
弓矢は古くから軍事・狩猟に使用され、競技・遊戯・神事にも使用された。日本弓術の特徴は、中国の影響を受けて弓射の文化的要素が発達したことである。以下弓射をいくつかの視点で分類する。
弓術には流派間の違いやその特徴によって様々な射法、様式が存在するが、これらの特徴を弓射の「理念」および「射法」に着目して整理した以下の分類が一般的である。
実際には各流派には様々な歴史的経緯の上で、上記(1)・(2)の各種に重点を置いた思想・教えがあり、それが流派の特徴となっている。
「文射・礼射」・「武射」の2側面。ただし近世の弓術はこの両側面を備える場合が多く、単純に二分できるものではない(#近世弓術の特徴参照)。
文射とは礼射ともいい、弓射の儀礼としての側面である。射は古代中国において 六芸の一つに数えられ、貴族層に必須の素養とされた。論語には「君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲して升り、下りて飲ましむ。その争いや君子なり。[5]」とあるなど、支配者層の弓射が文化的・儀礼的性格を強く持っていた。
こうした弓射思想は古くから日本にも伝わり、その後も一貫して存在し続け、現代の弓道の思想にまで大きな影響を与えている。
朝廷では天智朝(7世紀後半)には既に年中行事として大射(射礼〈じゃらい〉)が行われる[6] など、種々の“儀礼の射”(「礼射」)が行われた。
武家社会においては、弓射の実利的側面が重視されたのは当然であるが、同時に儀礼的側面も重んじられ、公家の弓射儀礼を基礎としつつ[7] 様々な礼式が発達した。特に年初の的始(後には射礼と称された)は重要とされた。こうした礼式には逸見・武田・小笠原・伊勢・吉良などの家々に独自の伝があったという[8]。室町時代中期以降は京都小笠原氏が武家故実の中心となった。
その伝統を受け継ぐ小笠原流は武家社会での礼式に則った射の流れを汲む流派であり、今日の弓道で「礼射系」といえば、小笠原流に由来する作法や射法のことをいう[9]。
武射とは弓射の武器としての側面であり、実際の戦場を想定した弓術の系統である。鉄砲伝来まで弓矢は最有力の武器であったことから重んじられており、土佐物語巻第二には「武士は国家を護持するを道とし、弓矢を業とす」と記述されている。的中と矢の威力を高めるため、技術の発展と道具の改良がなされてきた。戦国時代初期に発生した日置流により歩射を中心とした弓射技術は大きく進歩し、様々な実戦的技術、たとえば遠矢や矢合せ、槍の脇からの射、狭間からの射などが工夫された。泰平の世となった江戸時代以降も流派によっては実戦的価値に重きを置き、弓射戦術や甲冑を着用しての稽古が行われてきた。
江戸時代、太平の世にあって弓矢が武器としての役割が消える中で、武射系統も礼法を摂取することにより文武の側面は融合し、弓術は武芸としての一面が目立つようになっていった。この時代の弓術の概観を示す物として、江戸時代初期の大和流流祖・森川香山のよる五射六科がある[11]。五射は代表的な射法を、六科は弓術家として身につけるべき事項を挙げたものである。
射に「真行草」あり、として各種の射が分類されることもあった[12]。
また、定められた作法に則り、礼法に従って射を披露することを射礼や体配などという[13](「体配」とは日置流系の用語)。今日では全日本弓道連盟により「一手射礼」「巻藁射礼」などいくつかの射礼が定められており、現存の各流派もそれぞれ独自の射礼(体配)を伝えている。
ただし江戸時代には「礼は小笠原、射は日置」といわれ、礼法については小笠原流が、射法については日置流が専門であると認識されていた。
弓射は伝統的に、騎乗か徒立(非騎乗)かにより騎射と歩射に分けられてきた。また日置流誕生以降、歩射技術が様々に発展したが、その中でも江戸時代に隆盛した通し矢(堂射)は独自の発展を遂げた。様々な射法は「五射」(上述)に挙げられている。
騎射(きしゃ・うまゆみ)とは歩射に対しての用語で、騎乗して行う弓射。武士の表芸ともされたことから「弓馬」は武芸一般や戦そのものを指すようになり、「弓馬の道」とは「武士の守るべき道」を意味した。中世前期まで戦場での主要な戦闘法であったが、南北朝時代頃から弓射の主体は歩兵となり、騎兵も下馬して射るようになったため、騎射戦闘は消滅していった[14]。騎射の訓練としては狩猟が盛んに行われ、また儀式・競技化された流鏑馬、笠懸、犬追物(総称して騎射三物という)も流行した。技術的には歩射射法とかなり異なる。騎射を伝えた流派としては小笠原流、武田流が有名[15]。ただし、江戸時代では弓馬自体の言葉もあまり使われなくなり、それに追い打ちを掛けるように騎乗に制限が加わった。そのため、騎射や流鏑馬を行えた者は少数であった。
歩射(ぶしゃ・かちゆみ・「ほしゃ」は正式な読みではない)とは騎射に対しての用語で、騎乗せずに地面に立って行う弓射。南北朝時代以降、戦陣において歩射が一般化すると[14]、戦国時代初期には歩射弓術を基礎とする日置流が発生し、矢を遠くへ飛ばす繰矢・尋矢(くりや、遠矢とも)、速射をする指矢(さしや、数矢とも)など様々な技法が発展した(五射参照)。武射系では、膝を着いて弓を引き、的(敵)を射る射術が基本であり、その他にも様々な体勢の技術が伝わる。
堂射とは江戸初期に京都三十三間堂、江戸三十三間堂、東大寺などで盛んに行われた通し矢競技の射術。弓射の分類は伝統的に騎射と歩射の二分類であるが、江戸時代に堂射が隆盛し独自の発展を遂げたので、射法の系統としては堂射を加えた3分類とされることが多い。堂射は高さ・幅に制限のある長い軒下(三十三間堂は高さ約5.5m、幅約2.5m、距離約120m)を射通す競技で、低い弾道で長距離矢を飛ばし、さらに決められた時間内で射通した矢数を競うため、独自の技術的発展を遂げた。江戸時代中期以降堂射ブームは沈静化したものの、堂射用に改良された道具(ゆがけ等)や技術が後の弓術に寄与した面は大きい。日置流尾州竹林派、紀州竹林派の射手が驚異的な記録を残した事で有名。
日本の弓射には遊戯的側面をもったものも存在した。朝廷行事の賭弓(のりゆみ)では、的中場所により賞品が支給され、敗者には罰杯を課すなど遊戯的性格を持っていた。鎌倉時代発祥の「草鹿」も「遊射」とされ[16]、厳格な儀式の射とは異なるものであった。江戸時代には賭弓(かけゆみ)は厳しく規正されたが、一部には免許のもと営業する矢場があった。明治以降も料金を取って弓を引かせる店が繁華街を中心に多く存在したが、今日では数えるほどしか存在しない [17]。
また大弓(通常の長さの弓)より小さい弓を用いるものとして、楊弓という吊り的を射る遊びも上流階級を中心に、後には庶民に親しまれた。江戸時代の楊弓場では矢取りのために女を置き、密かに売春させる例もあった。
宮崎県飫肥(おび)地方(現日南市)発祥の四半的弓道は、戦国時代に農民が半弓を持って戦闘に参加して勝利に貢献した功により、領主から遊戯用として使用を許されたと伝わるもので、同地で愛好されてきた。近年、娯楽・スポーツとして各地に普及しつつある。
現在でも各地の神社では「奉射(ぶしゃ)」・「御弓神事」などと称する弓射行事が行われている。多くは単なる競技ではなく、年占的性格を持つ宗教儀礼として行われている[18]。こうした行事は朝廷や幕府の弓射儀礼に由来するとされる。
弓矢の歴史は石器時代にまで遡る。石鏃、簡素な造りの木弓が用いられた。日本では縄文時代草創期(13000年〜10000年前)には既に登場し、狩猟の道具として使用される。漆塗りに装飾を施した弓が狩りとった獲物と共に埋葬されるなど、呪術的・霊的用途に使われた形跡が既に見られる。弥生時代に入ると狩猟生活から稲作へと人々の生活が変化、それに伴い土地や水源確保のため領地争いが盛んになり、戦いの場で弓矢も武器として使用される。この時弓矢により強い威力を求めた改良がなされ、長尺、弓幹下側を握る弓となる。古墳時代には魏志倭人伝の記述から既に和弓の原型が見て取れる。
飛鳥時代、『日本書紀』に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜に看す。乃ち馬的射させたまふ」、他にも「騁射」「馳射」との記述があるなど神事としての騎射の原型も読み取れ、また飛鳥時代末期には文武天皇により『大射禄法』が定められ[3]、展覧されたとの記述もある。『続日本紀』には奈良時代には盛んに騎射が行われていたとの記述がある。室城神社の『矢形餅の神事』[4] などは起源が奈良時代まで遡り、既に弓矢の霊妙な力が信じられていた様子が窺える。古代までにはなんらかの弓術、礼式の形はあったと考えられるが、しかし史料も乏しく史実としての古代の弓射の実体は解っていない。またこの頃から存在していたという流派が伝承などで見られるが、史実としては後世の創作である可能性が高い。従って当時の流派の実在や、その発祥起源も不明である。
この数百年の間に和弓の構造は大きく進化(詳細は和弓#歴史欄参照のこと)、江戸時代初期には堅帽子ゆがけの発明(ゆがけ項参照のこと)、さらに技術面では「角見」「弓返り」の技術が発明される等、この時期に弓術は現在の弓道に繋がる大きな進歩を遂げる。
平安時代の10世紀頃、武家が登場した後、馬術・弓術(併せて騎射)は武芸として弓馬の道とも言われた。馬術・弓術は実戦武術としての稽古も盛んに行われるなど、戦国中期までは戦での主戦力であり非常に重要となった。また、弓矢は邪を祓う力があるとされ、霊器・神器として、精神性の高いものとして扱われていた(現在でも破魔弓として信仰の名残や各地で弓道、流鏑馬神事が行われている)。鎌倉時代には「騎射三物」と言われる、流鏑馬・犬追物・笠懸が武芸の一つとして、また行事ごとにおいて盛んに行われたが、室町時代・安土桃山時代と時代が進むにつれ一時的に衰退する。戦国後期に「弓」が戦場の主戦力から後退するが、依然「弓射」は武芸として、心身鍛練の道として流派と射術は発展していく。江戸時代に入ると流派単位の活動が盛んになる。江戸初期には三十三間堂の軒下(長さ約120m)を射通す「通し矢」が次第に盛んとなっていった。寛文9年(1669年)星野勘左衛門(日置流尾州竹林派)によって総矢数10,242本・通し矢数8,000本、貞享3年(1686年)和佐大八郎(日置流紀州竹林派)によって総矢数13,053本・通し矢数8,133本という大記録が生まれる。江戸中期、徳川吉宗により一時衰退していた流鏑馬が奨励され、以降、復興した流鏑馬が全国の神社等で神事として行われる。
明治維新後は幕府の崩壊、各制度が廃止され武術は武芸としての目的を失う。文明開化、欧化思想の中で武術そのものが『時代遅れ』とされ、弓術もその例に漏れず衰退の一途をたどり、大衆の意識では『弓』と言えば賭け弓等の娯楽・性風俗の弓を指す程までにかつての弓術は影を潜める。その世相の中、一部の弓術家らは各々自宅道場を開く等、根強く弓術の存続に力を注ぎ、やがて武芸において再認識がされるなど次第に庶民の間でさらに武術が普及・見直され、明治28年(1895年)当時の武術家有志により大日本武徳会が結成され、弓術も奨励され心身鍛錬を目的として学校教育に取り入れられる等普及を図る。大正8年(1919年)に弓術は弓道へと改称、弓道含め各武道の普及は日本の内地(日本国内)に留まらず外地(日本が統治する国外の土地)にまで及んだ。ただ、当時の歴史的世相を反映して、武道は次第に国家の影響を受けるようになっていったとされる。
武徳会の目的の一つに剣道形・柔道形など形の体系化があり、弓道もそれに習う形で射法統一が試みられた。昭和9年(1934年)様々な流派を代表する弓道家や武徳会弓道部役員が集まり、武徳会本部で射形統一が話し合われ、喧々囂々の議論の末「弓道要則」を制定した。しかし、流派関係者や文化人からの批判が相次ぎ、新聞紙上でも論争が起きて「鵺的射法」とまで揶揄されるまでに不評であった。武徳会が政府の外郭団体として再出発する際に再度射型改善の声が上がり、昭和19年(1944年)に「弓道教範制定委員会」の手によって「弓道教範」が作成され、「弓道要則」の射法と、従来の正面・斜面の射法を併せて認めるに至り終戦を迎える。第二次世界大戦後、GHQにより武徳会は解散(昭和21年(1946年))させられ武道全般禁止となるが、時の弓道家の尽力により昭和24年(1949年)日本弓道連盟設立。弓道は『修養の道』として復活し、当時を代表する弓道家らにより『射法八節』が定められ、現在に至る。(詳しい経緯やその後は、弓道#歴史を参照のこと。)
日本の弓術は古代より、騎乗して行う弓射・騎射(きしゃ/うまゆみ)、騎乗せず立って行う弓射・歩射(ぶしゃ/かちゆみ。近年では武射との混同を避け「ほしゃ」とも。)に分類されてきた。これに加え、江戸時代に流行した三十三間堂の通し矢・堂射(どうしゃ)も一大分野である。各時代で騎射・歩射・堂射それぞれにあわせた射法が研究されてきた。この基本的な分類は明治期まで一般的であったが、時代が経つにつれて射手の多くからは忘れられていった。「歩射」「騎射」「堂射」の概念を根本に置くと流派の性格を理解しやすい。(ただこれらの分類は射法の違いであって、必ずしも流派の違いに直結するものではない。)小笠原流では歩射と騎射は別物であり、「歩射」「騎射」「礼法」と分けて考えられ免許もそれぞれ別にある。日置流諸派では歩射と堂射の両方を行った系統もあるが、歩射を重んじて敢えて堂射を行わなかった系統もある。
弓術の流派には様々な名称のものが伝わるが、古い流派は実体が不明なものが多く、「流」とは称していても今日的な流派と同様のものではない。『現代弓道講座』では主な流派として尊流、神道流、日本流、鹿島流、太子流、伴流、紀流、秀郷流、逸見流、武田流、日置流、大和流、小笠原流をあげているが、そのうち近世以降に見られる流派は小笠原流、武田流、日置流、大和流である。これらを大別すると、故実を中心とする弓馬故実の流派と、射法を中心とする弓術の流派に分けられる。
なお、現在では弓道を礼射系・武射系と分類しているが、実質的に礼射系は小笠原流、武射系は日置流系に該当する。
小笠原流・武田流は「もっぱら法式を第一とする」(「弓術要覧」『古事類苑 武技部』)とされ、弓馬に関する故実(弓馬故実)の流派である。騎射を行うのはほぼこの系統の流派であり、流鏑馬・笠懸などの騎射のほか、歩射の諸儀式などを伝える。武家社会においては伝統的に弓馬術が重んじられ、鎌倉~室町時代には弓馬の諸式が盛んに行われた。室町時代には故実の整備が進み、これらの流派に伝えられた。
日置流、大和流など。日置流祖の日置弾正正次は射術の祖とされ、日置流は後の弓術の中核となる[20]。
安土桃山時代から江戸初期にかけて多くの分派に分かれた。礼の小笠原に対し、「射の日置」と称されてきた。三十三間堂の通し矢に参加した射手は日置流系であった。
以下、各派とその始祖を示し、系統関係を字下げで表す。系統は代表的な説によるが、実際の系統は複雑、不明確な点もあるため、各派の関係を完全には示していない。
その他の流派
明治時代以降に成立した諸流派。弓術ではなく弓道を名乗る流派も含む。
この節の正確性に疑問が呈されています。 |
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