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戦国時代の武将・守護大名。室町幕府 管領代、近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏14代。従四位下・弾正少弼。六角高頼の次男。子に六角義頼 ウィキペディアから
六角 定頼(ろっかく さだより)は、戦国時代の武将・守護大名。室町幕府管領代、近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏14代当主。官位は従四位下・弾正少弼。
明応8年(1499年)、京都にある相国寺鹿苑院において景徐周鱗の門人として剃髪、一旦近江に帰国するものの、文亀3年(1503年)までには再び周鱗の下に戻り、文亀4年(1504年)4月に同寺慈照院にて正式に得度、名を光室承亀、号を江月斎と称した[1]。
永正13年(1516年)、兄・氏綱が細川氏との戦いで受けた戦傷が原因で病床に伏し、永正15年(1518年)に早世したため、定頼が還俗して家督を相続することとなった。室町幕府10代将軍・足利義稙の近侍として仕え、細川政賢を破るという武功を挙げている[要出典]。
永正17年(1520年)、細川高国に合力し細川澄元配下の武将である三好之長を破り(等持院の戦い)、両細川の乱を終結に導いた[注釈 1]。後に義稙が高国と対立して出奔すると、12代将軍・足利義晴の擁立に高国と共に貢献し、天文15年(1546年)に義晴からその功績により管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなった。
また、一方で足利将軍家の後ろ盾として中央政治にも介入し、三好長慶とも戦っている(江口の戦い)。さらに北近江の領主・浅井久政が暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしているのを見て、浅井家に侵攻して事実上従属下に置くなど、六角家の全盛期を築き上げた。
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