藤原工業大学(ふじわらこうぎょうだいがく)は、1939年(昭和14年)に設立された旧制大学。日本で最初に設立された私立工業単科大学であった。
概要
王子製紙社長であり慶應義塾の卒業生であった藤原銀次郎が、理工系の人材育成を目的に私財800万円を投じ、当時の慶應義塾長の小泉信三の協力も得て、将来的に慶應義塾大学へ寄付されることを前提に1939年(昭和14年)5月に設立され、校舎は日吉キャンパス内(現・日吉図書館付近)に設けられた。また大学の将来のキャンパス用地として、京浜工業地帯を見渡せる横浜市日吉の土地(現・矢上キャンパス用地)が購入されたが、この用地に校舎が移転したのは1972年(昭和47年)である。
開校当初の藤原工業大学は、機械工学科、電気工学科,応用化学科の3学科でスタートし、修業年限は予科3年・本科3年の6年制であった[1]。また大学の教育と研究は、藤原工業大学と慶應義塾との一体的な運営が行われた。具体的には、慶應義塾普通部・慶応義塾商工学校から予科への推薦入学が実施されていた他、制服・制帽も慶應と共通の仕立てであった。なお校章については、慶應義塾の学生と区別する為に独自のものが用いられた。それは、工業を象徴する「歯車」をかたどった枠の中に、「藤原」にちなんで藤の花を入れた図案であったが、校旗の地色には「慶應の三色旗」と同じ青・赤・青の縞模様が用いられ、その中央に「歯車」の校章が置かれた。
1944年(昭和19年)8月、藤原工業大学は藤原銀次郎の構想に従い慶應義塾に併合され「慶應義塾大学工学部」となった。その後、学制改革を経て1949年(昭和24年)には、新制工学部の発足、そして、1981年(昭和56年)4月には、「慶應義塾大学理工学部」に改組されて現在に至る。
また、中等教育段階での工業人育成のために藤原工業学校(夜間工業学校、4年制)も併設されたが、後に統合や学制改革、義塾の方針によって、こちらは後身校を持たずに廃校となっている。
その後、慶應義塾大学理工学部創立75周年記念事業の一環として藤原工業大学開校の地記念碑が日吉キャンパス内に建立され、2014年3月1日に除幕式が行われた[2]。
沿革
著名な出身者
脚註
参考文献
関連項目
外部リンク
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