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日本の学校法人 ウィキペディアから
慶應義塾(けいおうぎじゅく)は、日本の学校法人。福澤諭吉が1858年に、岡見彦三の推挙により中津藩江戸藩邸で講師となった蘭学塾「一小家塾」が起源[1][2][3][4]。シンボルマークは、ペンマーク。
中国においては、「義塾」とは公衆のために義捐金で運営される学費不要(無月謝)の学塾を意味し、14世紀半ばの元末に書かれた陶宗儀『輟耕録』にみられるという[5]。
日本における「義塾」の先駆は、天明7年(1787年)、のちに蝦夷地探検で功績を挙げる当時17歳の近藤重蔵が、同志と協力して年少子弟のために開いた私塾の名称「白山義塾」であるとされる[6][注釈 1]。また、掛川藩儒員松崎慊堂の日記「慊堂日暦」の文政8年(1825年)1月25日の条に、慊堂が桑名藩の儒者広瀬蒙斎を訪れて「義塾の事を議す」とあり、さらに、寺門静軒が天保3年(1832年)に著した「江戸繁盛記」4篇学校の項には、「官学外儒門の義塾」との用例があるという[7]。
1868年(慶應4年)4月、福澤諭吉は築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で預かっていた「一小家塾」[8]の芝新銭座(現・港区浜松町)への移転と、新しい近代学塾としての学校組織の創設に際し、慶應義塾の独立宣言とも言うべき『慶應義塾之記』を著し、その中で慶應義塾の命名とモデルとした学校について以下を記した[9][10]。
今爰(ここ)に会社を立て義塾を創め、同志諸子相共に講究切磋し、以て洋学に従事するや、事本と私にあらず、広く之を世に公にし、士民を問はず、苟も志あるものをして来学せしめんを欲するなり。(中略)蓋(けだし)此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与(あととも)に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く — 「慶應義塾之記」より
「彼の共立学校の制」とは、英国国教会が設立したパブリックスクールであるキングス・カレッジ・スクール(KCS)を指すものとされ、1862年5月(文久2年4月)に文久遣欧使節としてイギリス滞在中の福澤が、医師のトーマス・チェンバースの案内で訪問した同校をモデルとして、およそ6年後の1868年(慶應4年)4月に英学塾の慶應義塾が創設された[9][10][11][注釈 2]。創設の際の校名に、当時の年号である「慶應」とパブリックスクールの訳語である共立学校を意味する「義塾」の名が冠された[9][10][11]。また、慶應義塾のスクールカラーはモデル校であるKCSと同じ紺と赤となっている[10]。
従って、上述のことから、慶應義塾の「義塾」とは、中国伝統の語に福澤が模範とした英国のパブリックスクールの概念を付加したものと解されている[5][12]。
明治時代には、慶應義塾の影響により日本全国で「義塾」を称する私塾が設立されたが、『慶應義塾百年史』 下巻によれば[13]、同塾以外にも、幕末期に「義塾」を称する私塾が少なからず創立していたことが判明している。「明治時代の義塾の一覧」を参照
従来の日本の門閥制度や官僚主義を良しとせず、欧州において政府から独立した中産階級(「ミッヅルカラッス」)が国家を牽引し発展させるあり方に独立国のモデルを見た福澤諭吉は「一身の独立なくして一国の独立なし」[14]と論じ、まずは各人の独立を旨とし、塾訓とした。これは、「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」などと説明されている(修身要領第2条[15])。独立自尊という言葉は、福澤諭吉の人となりを端的に示すものとされ、また、福澤の教えの根本をいい表すものともされる[注釈 3]。
「常に学問の虚に走らんことを恐」れた福澤が慶應義塾の理念として掲げた指針。これは「実際に役に立つ学問」の意味であると誤解されがちであるが、福澤は単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している。どうやら福澤が意図したものが今日にいう「科学」のことであることは、「実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる[16]。「役に立つことを主眼に置く学問」が実学と見なされることが多く、今日その意味でも流通しているが、福澤は、新しい事物や事柄の表層だけをなぞって実際的な利便だけを追求する学問については、特に語学、工学の勉学における失敗例を挙げながら、こうしたものを軽薄な虚学として福澤は退けている。こうした、基礎学力がないとどんな知識もものにならないとの考えから福澤は学びの手順を明確に示しており(「学問の目的を爰に定め、其術は読書を以て第一歩とす。而して其書は有形学及び数学より始む。地学、窮理学、化学、算術等、是なり。次で史学、経済学、脩身学等、諸科の理学に至る可し。何等の事故あるも此順序を誤る可らず」[17])、この考え方は慶應義塾だけではなく、近代日本の学制の制定に大きく影響している。他に建学理念に「実学」を謳う大学は数多くあるが、英吉利法律学校(現・中央大学、創立者増島六一郎らと共に、馬場辰猪ら福澤門下が前身である三菱商業学校と明治義塾にて教育)、商法講習所(現・一橋大学、創設に際して福澤が森有礼に助力)、東京専門学校(現・早稲田大学、創立に際して矢野文雄が助力)には福澤の間接的影響があり、今日でも残っている例である。
ある程度学びを修めた者が後生を教え、学び合い教え合う理念であり制度。私塾としての財政圧迫を救い、塾生の学費を低く抑えるねらいがあった(「社中素より学費に乏しければ、少しく読書に上達したる者は半学半教の法を以て今日に至るまで勉強したることなり。此法は資本なき学塾に於て今後も尚存す可きものなり」[17])。やがて社中協力の重要な理念として残ってゆく。塾中に先生と呼ばれるのは福澤諭吉一人で、塾生、教員、義塾社中を、正式行事に際して、時にはニックネーム的に、みな互いに「〜君」と呼び合う習慣はここに発しており、今日も残っている。同時に、卒業者も教員も学び続けることをやめてはいけないと釘を刺す訓辞でもある(「然るに年月の沿革に従ひ、或は社中の教師たる者、教場の忙しきに迫られ、教を先きにして学を後にするの弊なしと云う可からず。方今世上の有様を察するに、文化日に進み、朋友の間にても三日見ずして人品を異にする者尠なしとせず。斯る時勢の最中に居て、空しく一身の進歩を怠るは学者のために最も悲しむ可きことなり。故に今より数年の間は定めて半学半教の旨を持続せざる可らず」[17])。
元々慶應義塾の経営難に際して資金を調達するために苦肉の策として作った結社としての制度であり、一私塾を法人化するきっかけともなった(当時福澤は「会社」と命名)。これが教員、塾生、塾員を慶應義塾社中として助け合い協力するという理念に発展した。これは、たびたびに渡る慶應義塾の廃学の危機を救うとともに、日本中の大学が同窓組織を作る先駆的な例となった。
慶應義塾では幼稚舎から大学・大学院に至るまで設置している。慶應義塾は小学校、中学校、高等学校、大学・大学院の各段階に相当する学校を複数設置している。大学の各学部学科には塾内進学者の定員が設けられており、進学希望者の数がその定員をオーバーした場合には、当該進学希望者の学業成績順で入学者が決定される。そのため、成績が足りないという理由で希望の学部学科に進学できない者もいる。その場合は、空きのある第2志望以下の学部学科へ入学することになる。なお、必ず慶應義塾大学に進学しなければならないという制約はなく、推薦を辞退した上で他大学を受験することは可能である(医学部進学希望者は慶應義塾大学(医学部のみ)への推薦入学権を留保したまま他大学の医学部・医科大学のみを受験できるなど、一定の例外はある。詳細は各一貫教育校のホームページを参照のこと。)。
慶應義塾には『塾生皆泳』という言葉があり、「泳ぐ技能を身につけることが、人として備えるべき重要な素養のひとつである」という水泳教育の理念がある。塾生は水泳技術を身につけ、泳げないことが理由で命を落としたり、溺れている人を救えないことがないように、というのがその教えである。
慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝・紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を元に、福澤自身が書き直したものである[18]。内容は以下の通り。
この一文は、福澤諭吉が門下生たちに「恰も遺言の如くに」托したもので、慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明にいい表したものと解されている[18]。
18世紀後半の中津藩江戸藩邸では、第3代藩主奥平昌鹿の下で本草学や蘭学研究が行われた。明和8年(1771年)、青木昆陽の門人である藩医・前野良沢が中川淳庵、杉田玄白と『解体新書』の底本となった解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解読を始めたのは、この中屋敷内であった[20]。その同じ中屋敷内に80年余を隔て成立した「蘭学塾」が慶應義塾の原点である。その後、藩主が変わった中津藩では主に国学、漢学が重視され、幕末の藩政改革では長崎の警備を任ぜられた。三重津海軍所を設置した鍋島閑叟侯の肥前藩や薩摩藩といった西南の雄藩から見ると中津藩は立ち遅れた状況にあった。
幕末の中津藩江戸藩邸では、当主、奥平昌服が江戸汐留の上屋敷に居住し、祖父で薩摩藩島津家より養子に入った奥平昌高が中屋敷に隠居所を構えていた。昌高は蘭癖大名と評されていたが、単なる物好き程度ではなく、日蘭辞書『蘭語訳撰』(『中津辞書』)の刊行に尽力するなど本格的な蘭学研究者であった。その影響があってか、のちに統計学者として有名になる杉亨二が中津藩に招かれ、中屋敷において藩士に蘭学教授を行っていた。しかし、1853年(嘉永6年)のマシュー・ペリー黒船来航の時、米国の開国要求に対する江戸幕府の対応をめぐって、昌高が7月に開国論を、翌月当主の昌服が鎖国論を主張した。この両者の対立は、藩の中を二分するほど大きな対立を生み、その後、杉亨二の辞任を引き起こす結果となった。このとき、中津藩砲術師範を務めていた佐久間象山の下で西洋砲術を学んだ中津藩士・岡見彦三は、蘭学教育の継続を強く望み、知人の薩摩藩蘭医・松木弘安(のち寺島宗則)に、安政2年の大地震(安政の大地震)で失った住居の代わりとして、岡見所有の築地小田原町の持ち屋を無償で貸すことを条件に、蘭学教授の仕事を依頼した。しかし、安政4年4月になると、松木は参勤交代による藩主の就国に侍医として随行することになり、蘭学教授の仕事を続けることができなくなった。そこで、当時大坂の適塾(大阪大学の源流)で塾長を務めていた福澤諭吉に白羽の矢が立ち、福澤は藩から江戸の中津藩中屋敷にあった「一小家塾」での蘭学教授の仕事を命ぜられるに至ったのである[3][4]。この一小家塾が、後の慶應義塾大学の基礎であり[3]、現在、開塾の地の近くには創立100年を記念して、『慶應義塾発祥の地記念碑』が建てられている。1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」および江川英龍の「韮山塾[21]」等の旧私塾の流れを汲んでいる。
1858年(安政5年)、中津藩より江戸築地鉄砲洲(現、東京都中央区明石町)にあった中津藩中屋敷内での蘭学教授を命ぜられた福澤諭吉は、塾長として蘭学を学んでいた適塾がある大坂から、早速中津に戻り母に報告、大坂に戻って助手を務める同行者を求め、岡本周吉(古川正雄)・足立寛・原田磊蔵らを連れて同年10月中旬、江戸に到着した。福澤の書簡(安政5年11月23日付宛名未詳)によれば、当初は3、4年の任期と心得ていたようである。汐留の上屋敷に出向いた福澤は、江戸定府の藩士・岡見彦三の支持で中屋敷の長屋を与えられ、そこで蘭学を教えた。足立寛や今泉みねの回想によると、長屋は二階建てで一階は六畳一室と台所など、二階は15畳ほどであったという。開塾当初の協力者は、村田蔵六(大村益次郎)の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介、久留米藩医・松下元芳、中定勝(大阪府仮病院医員)、山口良蔵などやはり適塾に連なる人物が多い。
安政6年(1859年)の冬、福沢諭吉は日米修好通商条約の批准交換のために使節団のメンバーに加わり、米軍艦ポーハタン号とともに航行する咸臨丸に乗船して渡米した。(この時、福澤は、軍艦奉行木村摂津守の従者として同行)。使節団がワシントンを訪問している間、福澤はサンフランシスコに3週間ほど滞在し、修理が完了した咸臨丸でハワイから日本に帰国した。
文久2年1月1日(1862年1月30日)、幕府は竹内下野守を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者は松木弘安・箕作秋坪など。一行は仏・英・蘭・普・露・葡の各国を歴訪する。イギリスでは大英博物館やロンドン万博などを見学して多くの知見を得る中、1862年5月(文久2年4月)に医師のトーマス・チェンバースの案内で英国国教会のパブリックスクールであるキングス・カレッジ・スクール(KCS)を訪問した[10][11]。帰国した福澤は中津藩から預かっていた「一小家塾」を近代的な学塾として制度を整えていくことを決意するに至り[8]、KCSをモデル校として後の1868年(慶應4年)4月に、後述の英学塾である慶應義塾を創設することとなった[注釈 2]。
慶応3年(1867年)、福沢諭吉は使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会の随員として郵便船コロラド号で横浜から再渡米し、ホワイトハウスでジョンソン大統領との謁見を果たした。この間、中津藩士・島津祐太郎宛の書簡で、大量に英書や物理書を塾に持ち帰ったため、塾生が同じ版本を持って授業が受けられるようになり、それまでの教授法にも新紀元を開くに至った。
文久元年冬から同三年秋までは芝新銭座(現東京都港区浜松町)の借家に塾が置かれていた。この塾がいつ築地鉄砲洲から移転したかについては足立寛の回想にもはっきりしない。福澤は既に江戸定府の中津藩士となり、江戸幕府の外国方にも出仕しており、この時代は藩命による塾教師から本格的な学塾経営者への移行期と捉えられている。入門帳(入社張)の記録がはじまったのは、文久3年(1863年)の春からである。
文久3年秋から1867年(慶応3年)末まで中屋敷内旧藩主隠居所に塾が置かれていた時代をいう。文久3年9月23日に幕府より諸藩へ、出府藩士の江戸市中住居禁止命令が出され、これを受けて福澤も藩邸内に戻ったと推測される。この移転について『福翁自伝』には何も経緯が記されておらず、格式を重んずる中津藩としては幕府に出仕する身とはいえ、旧藩主の隠居所を許可するとは考えがたく、藩側に貸与を進める意図があった。この時代の学塾運営は、英国の公立学校を参考に、中津へ帰郷し小幡篤次郎、小幡甚三郎、服部浅之助、小幡貞次郎、浜野定四郎、三輪光五郎らを連れ、横浜の外字新聞の翻訳、諸藩から依頼の翻訳、仙台藩の大童信太夫を通じた奥羽越列藩同盟との関係などが見て取れる。また、幕府の開成所から移ってきた永田健助によるとこの頃の塾の蔵書は「経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった」[22]といい、幕府の学問所と同等の水準があった。
1865年(慶応元年)頃の塾生数を示すものとしては、同年6月6日に入塾している立田革の懐旧談にて、『私の出府当時の江戸の洋学界は、芝新銭座江川塾(江川太郎左衛門)・下谷箕作塾(箕作家)其他二三あれど、生徒の数は大抵二三人多くも五六人、義塾は二十二三人の塾生あり、先づ江戸にて一等盛な洋學塾と評して差支ない。』とある。入塾生の傾向からみて、元治元年までの入塾生数がごく少なく、尚且つ九州出身者がその七割を占めるといった傾向を示していたのに比較して、この頃は入門者も月平均四・三八人となり、藩別にみても九州の比率が相当低くなってきている点などから推察すると、この頃から既に慶應義塾は江戸では最大の洋漢學塾の観を呈し始め、九州出身者中心の塾といった傾向から、全国的學塾に移行したとみられる。
後期鉄砲洲時代に、紀州藩から藩命を受けて同藩が建築費用を負担して設けた塾舎。藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲洲時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[23]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称していた[24]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名、慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授、立教学院総理)、米国人のウィリアム・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている[注釈 4][25][26][27][注釈 5]。
慶応4年4月から明治3年末までの再び芝新銭座に塾が置かれた時期をいう。塾舎は前期とは異なった場所で、新に越前丸岡藩有馬家の土地四百坪を購入した。慶応3年6月に鉄砲洲一帯が外国人居留地に指定され、中津藩中屋敷も立ち退かねばならなくなったため[28]、木村摂津守とその用人大橋栄二の世話で有馬屋敷を購入することができた。この拠点の移動に際して、1868年(慶應4年)4月に、英国国教会のパブリックスクールであるキングス・カレッジ・スクールをモデルに新しい近代学塾として英学を教える『慶應義塾』を創設。元号の「慶應」とパブリックスクールの訳語である共立学校を意味する「義塾」を合わせた名称とした[9][10][11]。同年4月頃までに奥平屋敷の長屋をもらい受け、約百五十坪の塾舎を四百両ほどの費用で完成した。
開設当初の教科はすべて英学で、科目として経済・歴史・地理・窮理(物理学)・人身窮理(生理学)・文典を設置し、授業は七曜制が用いられた。講義科目の詳細は下記の通りである。使用された教科書であるパーレーの万国史は、キリスト教第一主義の観点で書かれており、本書によって旧約聖書の内容も教授された[29][30]。また、1868年(明治元年)の初秋には、福澤諭吉は科学入門書である窮理図解を著し、慶應義塾から和装の3巻本として出版し、「数理」を色濃く反映した授業体系を確立していった。
科目名 | 使用された教科書の著者 | 講師名 | 授業日程 | 備考 |
---|---|---|---|---|
経済書講義 | フランシス・ウェーランド | 福澤諭吉 | 火曜日木曜日土曜日朝第十時より | ウェーランドは牧師、教育者および経済学者であり、ブラウン大学学長も務めた。 |
合衆国歴史講義 | カッケンボス(George Payn Quackenbos) | 小幡篤次郎 | 月曜日水曜日金曜日朝第十時より | |
窮理学講義 | カッケンボス(George Payn Quackenbos) | 村上辰次郎 | 月曜日木曜日午後第一時より | |
万国歴史会読 | パーレー(本名:サミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ) | 小幡甚三郎 | 火曜日金曜日午後第一時より第四時迄 | 万国史は内容の大部分が旧約聖書の抜粋。実際の執筆者はナサニエル・ホーソーン。コモンスクール向け教科書。 |
窮理書会読 | カッケンボス(George Payn Quackenbos) | 永嶋貞次郎 | 水曜日土曜日午後第一時より第四時迄 | |
人身窮理書会読 | コヲミング | 松山棟庵 | 月曜日木曜日午後第一時より第四時迄 | |
地理書素読 | コルネル | 小幡篤次郎 | 日曜日の外毎日朝第九時より第十時迄 | ハイスクール向け教科書。 |
万国歴史素読 | パーレー(本名:サミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ) | 永嶋貞次郎 | 日曜日の外毎日朝第九時より第十時迄 | 万国歴史会読の備考欄と同様。 |
窮理初歩 | スミス | 村上辰次郎 | 日曜日の外毎日朝第九時より第十時迄 | |
文典素読 | 不明 | 小幡甚三郎、松山棟庵、小泉信吉 | 日曜日の外毎日朝第九時より第十時迄 |
慶應義塾を創設してから間もない慶應4年(1868年)5月15日に、上野彰義隊の戦いを迎え、江戸の市中は混乱の最中となり、福澤は『福翁自伝』の中で、「芝居も寄席も見世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇(やみ)、何が何やらわからないほど」であったと伝えており、この際に授業をしている学校などあろう筈のない状況であった。しかし、こうした中で、福澤はいつもと変わらず土曜日の日課であるウェーランド経済書(Francis Wayland: The elements of political economy,1866)の講義を続けた。福澤は世の中にいかなる変動があっても、慶應義塾の存する限り、わが国の学問の命脈は絶えることはないのだと塾生を励まし、それが塾の大きな誇りとなっていった。1956年(昭和31年)5月15日には、学問教育の尊重を他の何ものよりも優先させた福澤の精神を義塾の伝統として長く伝えたいとする趣旨により、この日を記念して、「福澤先生ウェーランド経済書講述記念日」が制定された[32][33]。
福澤が発疹チフスに罹ったことから明治4年初頭から三田へ移転を開始。三田は島原藩邸のあった広壮な地域で、これまで新銭座を中心として奥平屋敷や吉田賢輔の上杉麻布邸、柏木忠俊の斡旋による江川太郎左衛門長屋や、その他寺院などに分散していた宿舎を一つに統合できた。在学生323名、東京府下における最大の私塾となった[22]。移転後芝新銭座の校地を近藤真琴の攻玉塾へ譲り、現在は『福沢近藤両翁学塾跡』(港区浜松町)の碑が立っている。明治6年5月、慶應義塾を訪れた福山藩の藩儒江木鰐水も「塾本、島原公邸、在三田、地勢高爽、前臨品川海、砲台在目前、右望品川後之山、左望江戸諸勝、皇居亦左近、(中略)而与諭吉氏登楼並講堂之楼、皆勝景、眺望雄豁美麗」[22]と嗟嘆している。
新銭座時代から慶應義塾医務部が既に設けられており、薬品や医学者を揃えた。近藤良薫(のちの横浜十全病院長)・安藤正胤、印東玄得(のちの大学東校教授)・田代基徳(のちの軍医医監、陸軍軍医学校長)・栗本東明(長崎病院眼科医長兼内科医長)といった医学者を育てている。
西南戦争が起きた1877年(明治10年)頃から慶應義塾は経営難に陥った。福澤は政府要人などへの維持資金借り上げ運動を展開したり、自らの私財を投じたり、教員への給与をカットするなどの努力を重ねたが経営改善には至らなかった。万策尽きた福澤は廃塾を真剣に考えたが、義塾存続を望む門人らの尽力により1880年(明治13年)に「慶應義塾維持法案」を作成して財政立て直しを行い[34]、翌年には「慶應義塾仮憲法」が制定され、慶應義塾は福澤の個人経営から福澤を含めた理事委員21名による組織経営へと移行した。社頭と塾長に関する規定が成文化されたのもこの時である[35][36]。さらに1889年(明治22年)には「慶應義塾規約」が制定されて社頭と塾長の職掌が明確化されたほか、今日まで続く評議員会の制度が設けられるなどの組織改革が行われた。
各教育機関の詳細な沿革については、各教育機関の記事を参照。
慶應義塾の三藩(けいおうぎじゅくのさんぱん)とは、幕末 - 維新期に慶應義塾を支えた所縁のある3つの藩[93][94]。紀州藩・越後長岡藩・中津藩の三藩を指す。入塾した藩士はのちに塾長や要職を歴任しているため、慶應義塾の基礎となっている。廃藩置県後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、越後長岡藩・紀州藩・中津藩(慶應義塾の三藩)を中心とした士族が十中八九であった[95]。
単身上京して新銭座に入塾した藤野善蔵(のち塾長、長岡洋学校主催)の影響が大きいと伝えられている[96]。長岡藩は戊辰戦争後に藩校崇徳館などで教育改革を進めて江戸の慶應義塾に多くの学生を送った。この結びつきは、大参事として維新後の長岡を指導した三島億二郎が福澤諭吉の思想に共鳴し交流が密であったことも一因であった。
藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲洲時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[97]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称していた[24]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名.慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている。
中津藩は福澤諭吉の出身藩であり、いうまでもなく学問の主流を成した藩である。藩主奥平昌邁、藩校進脩館、豊前国から多数の藩士が塾生となった。
2006年11月、慶應義塾は学校法人共立薬科大学と合併についての協議に入った[98]。その後両学校法人の間で協議が重ねられた結果、2007年3月に両学校法人の合併を決定し、合併契約書を締結した[99]。これに伴い、両学校法人では2007年9月までに文部科学省から合併認可を得、その後に共立薬科大学の廃止認可申請および慶應義塾大学薬学部、同大学院薬学研究科の設置認可申請を実施。これらの手続きを経て2008年4月に両学校法人は合併し、慶應義塾大学に薬学部と大学院薬学研究科が設置された。両学校法人は「この合併には双方にメリットがある」としている。慶應義塾大学にとっては、既存の医学部、看護医療学部に薬学部、薬学研究科が加わることにより、同大学の医療分野の教育、研究の一層の充実を図ることができる。一方共立薬科大学にとっては、慶應義塾大学病院を使って実習を行えるようになるなど、より充実した環境のもとで薬学に携わる人材を育成できるというメリットがあるとしている[100]。
1881年の社頭職制度化後の歴代社頭一覧。塾員のうちから理事会および評議員会の議決により推薦することとされているが[101]、1947年以降は空位となっている[102]。
1881年の塾長職制度化後の歴代塾長一覧。慶應義塾評議員会において選出される。慶應義塾規約により塾長は慶應義塾の理事長と慶應義塾大学の学長を兼ねるとされる[103]。
現在の塾長の任期は4年で、2011年の規約改正により再任は通算2期までとなった[104]。
氏名 | 就任時期 | 略歴 | |
---|---|---|---|
浜野定四郎 | 1881年− 1887年 | 慶應義塾仮憲法による初代塾長 | |
小泉信吉 | 1887年− 1890年 | 横浜正金銀行支配人 | |
小幡篤次郎 | 1890年− 1897年 | 英学者 | |
鎌田栄吉 | 1898年− 1922年 | 貴族院議員、衆議院議員、文部大臣 | |
福澤一太郎 | 1922年− 1923年 | 福澤諭吉長男 | |
林毅陸 | 1923年− 1933年 | 元・大学部政治科学長、衆議院議員 | |
小泉信三 | 1933年− 1947年 | 経済学者 | |
高橋誠一郎 (代理) | 1946年− 1947年 | 元・経済学部長、文部大臣 | |
潮田江次 | 1947年− 1956年 | 元・法学部長、福澤諭吉孫 | |
奥井復太郎 | 1956年− 1960年 | 元・経済学部長、都市社会学者 | |
高村象平 | 1960年− 1965年 | 元・経済学部長 | |
永沢邦男 | 1965年− 1969年 | 元・法学部長 | |
佐藤朔 | 1969年− 1973年 | 元・文学部長 | |
久野洋 | 1973年− 1977年 | 元・工学部長 | |
石川忠雄 | 1977年− 1993年 | 元・法学部長 | |
鳥居泰彦 | 1993年− 2001年 | 元・経済学部長 | |
安西祐一郎 | 2001年− 2009年 | 元・理工学部長 | |
清家篤 | 2009年− 2017年 | 元・商学部長 | |
長谷山彰 | 2017年− 2021年[105] | 元・文学部長 | |
伊藤公平 | 2021年[105]− | 元・理工学部長 |
慶應義塾の事務は、塾監局が中心となって担当している。形式的には学事センターも塾監局に属する組織であって、大学に属する組織ではない。三田以外の各キャンパスに所在する事務室も塾監局の支部の扱いである。ただし、大学病院のある信濃町キャンパスについては、従前は医学部事務局が塾監局の支部として存在していたが、病院経営改革に伴い、大学病院事務局(病院経営ボードに直属)と信濃町キャンパス事務室(塾監局の支部)とに分割されている。
塾監局の系統に属さない組織としては学生総合センターやメディアセンター(図書館)等があり、これらは主として大学に属する組織である。
近年は上記以外にも塾監局の系統に属さない組織(塾長室、広報室、研究支援センター等)が増加している。
なお、慶應義塾の職員は、大学病院や信濃町キャンパス、矢上キャンパスの技術系の職員を除いて、上記の組織の系統の違いに関わらず異動がありうる。
慶應義塾は日本の教育機関として有数の歴史を持ち、関東大震災や東京大空襲、戦後の大規模な建替えを伴う再整備事業を経た現在もなお由緒ある建造物が多数現存している。この節ではそうした建築物の中から特筆すべきものを紹介している。
1871年(明治4年)芝新銭座より三田(島原藩中屋敷跡)に校舎を移転した。これ以降三田キャンパスは慶應義塾の中心地となる。三田演説館(1875年)、慶應義塾図書館旧館(1912年)など歴史的にも重要な建造物が存在する。
日吉キャンパスは1934年(昭和9年)に大学予科を設置したのが始まりである。第二次世界大戦中は建物のいくつかが海軍の施設(軍令部第3部、人事局、建設部隊等、連合艦隊司令部、海軍総隊司令部、航空本部等)として活用された。移転直後から敷地の地下に地下壕が建設され現在も残るが、立ち入り禁止となっている。
キャンパスの入口に門は存在せず、キャンパスを囲む塀はなく一部においては市街地と境界が入り組んでいる場所もある。キャンパスは敷地面積10万坪を誇り、構内には貴重な自然が温存されている。日吉駅から日吉記念館に至る幅22m、長さ220m中央道路脇には100本の銀杏並木があり、黄葉の季節には市民の憩いの場となっている。銀杏並木は1997年第7回「横浜市まちなみ景観賞」を受賞。
1917年(大正6年)医学科予科が三田に開設され、その後医学部の拠点を信濃町に移転する。1945年(昭和20年)5月24日の空襲で医学部・病院施設の多くを焼失し、終戦後は登戸分校(川崎市)や武蔵野分校(北多摩郡武蔵野町)などを一時使用した(1956年に信濃町への復帰完了)。1995年(平成7年)までは四谷(地区)と呼ばれていた[245]。東門と西門を貫く通路を挟んで、北側に教育施設、南側に臨床施設が設置されている。臨床施設は1号棟、中央棟を中心に枝の様に各種臨床施設が付随していた。
施設は老朽化が進んでいる建物もあり、医学部開設100年記念事業の一環として建て替え工事が進められ、2022年(令和4年)5月にグランドオープンを迎えた[246]。2023年(令和5年)秋には予防医療センターの麻布台ヒルズへの移転が予定されている[247]。
日吉台の北東部に位置する。もともとこの地は1940年(昭和15年)から藤原工業大学の学部用地として入手済みであったが、資材不足のため本格的な建築は行われず[263]、戦後は大部分が農地と化していた[264]。慶應義塾大学工学部(旧藤原工大の合併により発足)は1949年(昭和24年)から小金井の横河電機工場跡地をキャンパスとして使用していたが、1968年(昭和43年)5月に開かれた評議員会は工学部の矢上移転を承認。1972年(昭和47年)3月に移転を完了した[265]。
これにより芝キャンパス、浦和キャンパスが慶應義塾の施設として新たに加わることになった。
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