大阪府吹田市生まれ[1][2]。父の転勤により和歌山市へ移住し、小中学校期を同地で過ごす[1]。
1953年に家族とともに大阪に転居し大阪市立田辺中学校に編入[1]。
1958年、大阪府立天王寺高校卒業。東京藝術大学を受験するが不合格となり[1]、東京に居をかまえ独学で創作を開始[1]。
1963年、南画廊(東京・日本橋)で初個展。
1965年、「新しい日本の絵画と彫刻」展(MoMA、NY)出品。この年に見つけた『ライフ』誌上のワッツ暴動の写真から抜き出した4人の人型を、翌年の自作に用いる。
1967年、第5回パリ青年ビエンナーレ(パリ市立近代美術館)、1972年、第36回ヴェネツィア・ビエンナーレ参加、他多数。
1970年、「Expo'70」鉄鋼館では美術監督を務めた。
1989年、第22回日本芸術大賞を受賞。
2002年、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
2012年3月に開催された個展「制動・大洪水」(大岡信ことば館)が最後の展覧会となった[2]。
多摩美術大学助教授、武蔵野美術大学教授、京都市立芸術大学教授などを歴任。
2012年10月19日、72歳で死去[3]。死因は心不全[3]・食道がん[1]。
絵画
- 還元 No.2(1963年)(東京国立近代美術館蔵)
- 作品 1963年4月17日(1963年)(新潟市美術館蔵)
- アクション・フィールド(1964年)(国立国際美術館蔵)
- ハード・トレーニング(1964年)(大原美術館蔵)
- ジョイント(1968年)(大原美術館蔵)
- ゴースト・プランNo.1(1969年)(セゾン現代美術館蔵)
- Exchange No.1(1971年)(国立国際美術館蔵蔵)
- ゴーストプラン・イン・プロセスⅠ〜Ⅳ(1972年)(目黒区美術館蔵)
- 積層 No.1(1974年)(東京国立近代美術館蔵)
- 積層 No.2(1974年)(国立国際美術館蔵)
- プロフィールのこだま:積層(1976年)(目黒区美術館蔵)
- やがて総ては一つの円の中にNo.2(1982年)(大原美術館蔵)
- やがて総ては一つの円の中にNo.3(1982年)(セゾン現代美術館蔵)
- 霧の街に沈む(1984年)(新潟市美術館蔵)
- ビッグ・バン(1987年)(愛知県美術館蔵)
- 半透明吹き抜け屋台(1988年)(京都国立近代美術館蔵)
- 時の橋を渡る(1988年)(セゾン現代美術館蔵)
- 三十三間堂呼吸(1988年)(大原美術館蔵)
- きのこ雲の上で(1988年)(広島市現代美術館蔵)
- どこで生きていますかと問われて洛中洛外と答える(1991年)(セゾン現代美術館蔵)
- 杜子春(1991年)(セゾン現代美術館蔵)
- 煉獄・泡の塔(1994-97年)(セゾン現代美術館蔵)
- ドーム・内なる外(1997年)(東京国立近代美術館蔵)
- 道行きNo.1(1997年)(セゾン現代美術館蔵)
- 旅・After Hiroshima(2005年)(セゾン現代美術館蔵)
- 大洪水へ(2007年)(セゾン現代美術館蔵)
- 制動・大洪水(2011-12年)(セゾン現代美術館蔵)
壁画
- 東京大学生協中央食堂壁画作品《きずな》(1977年) - 東大生協創立30周年記念事業の一環で、募金の使途として、高階秀爾(同大学名誉教授・当時文学部教授)の推薦で制作を依頼し、寄贈された作品だが、2017年9月14日、建物改修工事に伴い、価値が認識されなかったことや手違いなどで廃棄処分された[4]。関係者は保存については指示されていたものの情報共有がなく、「壁面に固定されていて移設不可能だった」などと釈明をしている。
- 慶応義塾大学図書館ロビー壁画作品《やがて、すべてが一の円の中に》の ための 1/9 カルトン No.2(1982年)
- 御坊市文化会館壁画作品《グラデーション・時の廻廊》(1984年)
- 倉敷中央病院壁画作品《半透明吹き抜け屋台 No.1》(1988年)
- 三重県総合文化センター壁画作品(1994年)
- 三共株式会社研修センター壁画作品(1995年)[5]
「MEMORIAL 追悼 宇佐美圭司」美術手帖 2013年1月号