秋山 恒太郎(あきやま つねたろう[1] / こうたろう[2]、1844年(弘化元年6月)[3][4]? - 1911年(明治44年)6月7日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。号は不羈斎[5]。
官立長崎師範学校、官立東京師範学校(筑波大学の前身の1つ)をはじめ、各地の県立師範学校・中学校校長を歴任した。
越後国長岡に生まれる[6]。長岡藩校崇徳館初代都講秋山景山の嗣子・四郎左衛門の孫にあたり、四郎左衛門の婿養子・左内の養子となって秋山家を継いだ[7]。安政初年(1855年頃)、幕府の老中を務めていた藩主牧野忠雅の命により小林見義、藤野善蔵、武謙斎の3名と江戸に遊学[8]。儒学者・安井息軒の門に学んだ[9]。また慶応2年(1866年)頃、帰郷していた長岡藩出身の幕臣・鵜殿団次郎(春風)と親しく交際。蘭学・英学を修め測量術・航海術・兵学に通じていたこの先輩から門弟同然に教えを受けた[10]。鵜殿が目付の職に就いていた慶応4年(1868年)には秋山も出府しており、江戸開城・北越戦争開戦後の同年初秋、幕職を辞した鵜殿とともに江戸を出発。長岡城落城ののちようやく帰藩したが、鵜殿はほどなく病により38歳の若さでこの世を去った[11]。
その後秋山は新都東京に戻り、山東氏の塾の教師を経て、明治2年(1869年)6月に同郷の稲垣銀治、藤野善蔵らに続き福澤諭吉が主宰する慶應義塾に入社[12]。8月には藤野、稲垣とともに汐留の中津藩邸内に設けられた義塾出張所の教師となり、文典素読を担当した[13]。明治3年(1870年)8月、稲垣が伊予松山藩の藩校・明教館に新設された洋典科の教師として招かれると、秋山も稲葉犀五郎、中村田吉とともに義塾から派遣され、廃藩置県にともない明教館が閉鎖される明治5年頃まで英語、数学を教授。中島勝載、杉山重義、山路一遊らが教えを受けた[14]。
松山から帰京後は谷中に下宿し翻訳に従事していたが、明治6年(1873年)10月、出版免許事務を担当する文部省准刻課の雇となり、明治7年(1874年)2月に文部省七等出仕、翌年5月に文部省六等出仕に進んだ。七等出仕に進んでからは、すでに准刻課長を務めていた慶應義塾の先輩・肥田昭作と並んで課長に就任。同年9月に肥田が学校長に転出すると単独の課長となったほか[3][15]、12月には文部大輔田中不二麿、学務課長九鬼隆一、医務局長長与専斎とともに、前年に福澤らが設立した学術団体・明六社に加入している[16]。しかし明治8年(1875年)7月、自身が反対していた准刻事務の内務省移管ならびに新聞紙条例の制定が実施されたことにより、内務省に移らず職を辞した[3][17]。
文部本省を去った秋山は以後各地の師範学校・中学校校長を歴任。明治9年(1876年)3月から11月まで、学校騒動が発生し前任校長が更迭された官立長崎師範学校の校長を務め、臨時卒業試験の実施により学業専心を奨励した。次いで明治10年(1877年)2月から翌年10月まで官立東京師範学校に、明治12年(1879年)11月から明治14年(1881年)5月まで静岡県の浜松中学校に勤務[3][18]。明治15年(1882年)1月には、学校騒動により校長以下の職員が辞職、ほぼ全ての生徒が退学し休校状態にあった宮城中学校の校長に任じられ、学校の立て直しに尽力した。また明治17年(1884年)7月から宮城師範学校(明治19年11月に宮城県尋常師範学校と改称)校長を兼任し、明治19年(1886年)7月に師範学校専任となったのち明治21年(1888年)5月まで在職。この間、明治15年4月から翌年3月まで県学務課長心得を、明治19年11月から県学務課長を、明治18年(1885年)2月から宮城県書籍館長を兼務している[3][19]。さらに明治23年(1890年)3月、学校騒動によりほとんどの職員が退職し休校となっていた富山県尋常中学校に招かれ、ここでも学校再建を主導。明治30年(1897年)1月、綱紀の乱れが著しかった青森県第一尋常中学校(明治32年に青森県第一中学校、明治34年に青森県立第一中学校と改称)に転じ、時間厳守の励行、喫煙の禁止、落第の厳格化などにより校風刷新を図った。明治35年(1902年)1月には福井県立福井中学校に異動となり、前任校長が取り組んだ粗野軽佻な校風の刷新をさらに強化。全校の3分の1にのぼる生徒の落第を断行するなど学力向上に努めた。明治38年(1905年)11月に職を辞した後も、青森時代に県庁の幹部であった神山閏次群馬県知事に請われて明治42年(1909年)2月から群馬県立前橋中学校長を務めたが、在職中の明治44年(1911年)6月7日、病により東京帝国大学医科大学附属医院で死去した[3][20]。
秋山は蔵書家であり、「不羈斎図書記」の蔵書印を用いたことが知られている[5]。明治10年頃、東京師範学校が2万円を支出して珍籍を含む参考用図書を蒐集した際には小沢圭次郎らとともに尽力。これにより同校附属図書館の基礎が築かれたという[21]。
- 訳書
- 『百科全書 人種篇』 文部省、1874年3月上・下
- ウィリアム・チェンバース、ロバート・チェンバース編 Chambers's Information for the People 中の "Physical History of Man - Ethnology" の翻訳。
- 『百科全書 接物論』 文部省、1880年1月
- 『百科全書 第十七冊』 文部省 / 有隣堂
- 『百科全書 下巻』 丸善商社出版、1884年10月 / ゆまに書房、1985年2月
- 『文部省百科全書 18』 青史社、1986年2月
- Chambers's Information for the People 中の "Practical Morality - Special Social and Public Duties" の翻訳。
『上毛新聞』第7359号、『仙台人名大辞書』、『越佐人物誌 補遺編』、『新潟県大百科事典 上巻』、『福沢諭吉門下』。
生年には諸説あり、『現代人名辞典』、『国際人事典』は天保3年(1832年)、『慶応義塾出身名流列伝』は天保4年(1833年)、『新潟県大百科事典 上巻』は天保10年(1839年)、『福沢諭吉門下』は天保13年(1842年)、『上毛新聞』第7359号は天保14年(1843年)、『ふるさと 長岡のひとびと』、『長岡歴史事典』は1844年(天保15年・弘化元年)とする。
『慶応義塾出身名流列伝』、『現代人名辞典』、『新潟県大百科事典 上巻』、『福沢諭吉門下』、『長岡歴史事典』。
『上毛新聞』第7359号、『ふるさと 長岡のひとびと』、『長岡歴史事典』。
前掲 「維新の北越長岡と福沢諭吉」 306-307頁。丸山信 「草創期の慶応義塾と長岡藩士」(『福沢手帖』第22号、福沢諭吉協会、1979年9月)22頁。『慶應義塾150年史資料集 1』。
「牧才學舎」(東京都立教育研究所編 『東京教育史資料大系 第三巻』 東京都立教育研究所、1972年1月)。「思い出を語る」(大野静、武内好将編 『天放集 : 山路一遊先生遺稿』 青葉図書、1976年11月)79-82頁。内藤鳴雪 「明治初年の松山と洋学」(『伊予史談』第189〜191合併号、伊予史談会、1968年6月)37-38頁。教育史編集室編 『愛媛県教育史 第一巻』 愛媛県教育センター、1971年3月、284-286頁。
『富中富高百年史』富山高等学校創立百周年記念事業後援会、1985年10月、63-65頁、71-73頁、91-94頁。記念誌作成委員会編 『鏡ヶ丘百年史』 弘高創立百年記念事業協賛会、1983年10月、33-36頁、76頁。『福井県藤島高等学校百年史』 福井県藤島高等学校、1956年11月、57頁、180-182頁、241-242頁。前橋高等学校校史編纂委員会編 『前橋高校八十七年史 上巻』 前橋高等学校、1964年3月、519-520頁、528-531頁。なお『官報』第8392号、1911年6月14日、279頁、『時事新報』第9959号、『福沢諭吉門下』は6月8日死去とする。
『文武の藩儒者 秋山景山』 28頁、181頁、211頁。
山下重一、小林宏編 『城泉太郎著作集』 長岡市、1998年3月、261頁、269-270頁。
「秋山四麿」(内尾直二編輯 『第十四版 人事興信録 上』 人事興信所、1943年10月)。学校法人日本体育会百年史編纂委員会編纂 『学校法人日本体育会百年史』 学校法人日本体育会、1991年10月、1912-1914頁。『茗渓会七十年史』 茗渓会、1952年、140頁。
- 「青森県第一尋常中学校長秋山恒太郎外一名特旨ヲ以テ位記ヲ賜フノ件」(国立公文書館所蔵 「叙位裁可書・明治三十一年・叙位巻五」)
- 「秋山恒太郎氏」(三田商業研究会編 『慶応義塾出身名流列伝』 実業之世界社、1909年6月)
- 死亡広告(『時事新報』第9959号、1911年6月9日、8面)
- 「秋山校長逝く : 献身的の老教育家」(『上毛新聞』第7359号、1911年6月10日)
- 「秋山恒太郎」(古林亀治郎編 『現代人名辞典』 中央通信社、1912年6月)
- 「秋山恒太郎」(菊田定郷編 『仙台人名大辞書』 仙台人名大辞書刊行会、1933年2月 / 歴史図書社、1974年6月 / 続「仙台人名辞書」刊行会、1981年3月 / 仙台郷土研究会、2000年5月、ISBN 4832301055)
- 「秋山不覊齋」(丸山季夫ほか編 『蔵書名印譜 第二輯』 白雲洞、1953年7月 / 朝倉治彦編 『蔵書名印譜』 臨川書店、1977年12月改訂新版)
- 中野三敏編 『近代蔵書印譜 二編』 青裳堂書店〈日本書誌学大系〉、1986年1月
- 渡辺守邦、後藤憲二編 『新編蔵書印譜』 青裳堂書店〈日本書誌学大系〉、2001年1月 / 『増訂 新編蔵書印譜 上』 青裳堂書店〈日本書誌学大系〉、2013年10月
- 「秋山恆太郎」(丸山信編著 『福沢諭吉とその門下書誌』 慶応通信、1970年5月)
- 「秋山恒太郎」(牧田利平編 『越佐人物誌 補遺編』 野島出版、1974年6月)
- 斎藤新治 「秋山恒太郎」(新潟日報事業社編 『新潟県大百科事典 上巻』 新潟日報事業社、1977年1月)
- 「秋山恒太郎」(エス・ケイ・ケイ編 『国際人事典 : 幕末・明治』 毎日コミュニケーションズ、1991年6月、ISBN 4895631605、本編4-5頁、資料編8頁)
- 「秋山恒太郎」(長岡市編 『ふるさと 長岡の人びと』 長岡市、1998年3月)
- 稲川明雄 「秋山恒太郎」(『長岡歴史事典』 長岡市、2004年3月)
- 小川和也著 『文武の藩儒者 秋山景山』 角川学芸出版〈角川叢書〉、2011年2月、ISBN 9784047021518
- 「秋山恒太郎」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月)
- 「秋山恒太郎」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 2 教職員・教育体制資料集成 基礎資料編』 慶應義塾、2016年3月)
- 小杉恒太郎 - 秋山と同じく、慶應義塾出身で師範学校・中学校校長、文部省課長を務めた明治時代の教育者、官僚(1850 - 1904)。和歌山藩出身。
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公職
|
先代 平野象一 |
群馬県立前橋中学校長 1909年 - 1911年 |
次代 福井彦次郎 |
先代 尾原亮太郎 |
福井県立福井中学校長 1902年 - 1905年 |
次代 隈本繁吉 |
先代 青森県第一尋常中学校長 増島文次郎 |
青森県立第一中学校長 1901年 - 1902年 青森県第一中学校長 1899年 - 1901年 青森県第一尋常中学校長 1897年 - 1899年 |
次代 横沢文也 |
先代 大谷津直麿 |
富山県尋常中学校長 1890年 - 1897年 |
次代 服部綾雄 |
先代 宮城師範学校長 和久正辰 |
宮城県尋常師範学校長 1886年 - 1888年 宮城師範学校長 1884年 - 1886年 |
次代 渡辺洵一郎 |
先代 館長代理 渡部久馬八 |
宮城書籍館長 1885年 - 1888年 |
次代 渡辺洵一郎 |
先代 林吾一郎 |
宮城中学校長 1882年 - 1886年 |
次代 松本廉平 |
先代 杉原正市 |
浜松中学校長 1879年 - 1881年 |
次代 校長心得 杉原正市 |
先代 小川駒橘 |
長崎師範学校長 1876年 |
次代 佐原純一 |
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