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日本の兵学者 ウィキペディアから
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉[1][注釈 1] - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉[2])は、幕末期の日本の政治家、軍人、医師、学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。
エドアルド・キヨッソーネが死後に関係者の説明を基に描いた肖像 | |
生年月日 | 文政8年5月3日(1825年6月18日) |
出生地 | 周防国吉敷郡鋳銭司村字大村(現在の山口県山口市鋳銭司) |
没年月日 | 明治2年11月5日(1869年12月7日)(44歳没) |
死没地 | 日本、大阪府東大組鈴木町(現在の大阪市中央区法円坂2丁目) |
出身校 | 適塾 |
前職 | 武士(長州藩士) |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 贈従二位 |
配偶者 | 琴子 |
親族 |
大村松二郎(養子・山本藤右衛門の子) 大村寛人(孫・松二郎の養子・亀山教霖の子) 大村徳敏(曾孫・寛人の養子・毛利元徳公爵の子) 大村泰敏(玄孫) |
初代 兵部大輔 | |
在任期間 | 1869年7月8日 - 1869年11月5日 |
天皇 | 明治天皇 |
戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。
周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現在の山口県山口市鋳銭司)に村医村田孝益と妻うめの長男として生まれた。生家の村田家については大村益次郎家を参照。
天保13年(1842年)、防府にてシーボルトの弟子梅田幽斎に蘭方医学・蘭学を学び、翌年4月、梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。天保15年(1844年)まで漢籍・算術・習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍中に長崎の奥山静叔のもとへ1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。
嘉永3年(1850年)帰郷し、四辻で開業して村医になり、村田良庵(りょうあん)を名乗った。この名は、すでに弘化3年(1846年)の適塾入門時の名簿「適々斎姓名録」に自筆で記入している。
翌年、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚した。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど蘭学者の知識が求められる時代となり、益次郎は伊予宇和島藩の要請で出仕する。ただし宇和島藩関係者の証言では、益次郎の来藩はシーボルト門人で高名な蘭学者二宮敬作への訪問が目的で、藩の要請ではないとされる。
宇和島に到着した益次郎は、二宮や藩の顧問格であった僧晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合い、一流の蘭学者として藩主に推挙される。このとき藩主伊達宗城は参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。宇和島藩の役人らは、益次郎の待遇を2人扶持・年給10両という低い禄高に決めた。しかし、その後帰藩した家老は役人らを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人からすれば、高待遇の約束という事情も説明せず、汚い身なりで現れた益次郎に対して、むしろ親切心をもってした待遇であったらしい。
益次郎は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。イネは後年、益次郎が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。宇和島では提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではないとされている(国産第1号は薩摩藩)。益次郎はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃に、村田蔵六(蔵六は亀の意)へ改名した。
安政3年(1856年)4月、藩主宗城の参勤に従い江戸に出る。同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える(塾頭は太田静馬)。同16日、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給される。安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。その内容の素晴らしさは同僚の原田敬策が「当時講武所における平書翻訳のごときは、先生(益次郎のこと)の参られてからにわかに面目を一新した次第で……新規舶来の原書の難文も、先生の前に行けばいつも容易に解釈せられ」と記しているように、当時では最高水準のもので、安政5年(1858年)幕府より銀15枚の褒章を受けた。同年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書を講義、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。文久元年(1861年)正月、一時帰藩する。西洋兵学研究所だった博習堂の教授課程の改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。同年4月、江戸へいったん帰り、文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語・数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。江戸滞在中は箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった蘭学者・洋学者や旧友とも付き合いがあった。
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国。24日、手当防御事務用掛に任命される。翌元治元年(1864年)2月24日、兵学校教授役となり、山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、5月10日からは鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満する攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。一方では語学力を買われ、8月14日には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。26日の外国艦隊退去後、29日に政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の12月9日、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。
長州藩では、その風貌から「火吹き達磨」とあだ名された(周布政之助あるいは高杉晋作が付けたとされる)。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。同年、益次郎は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ渡っている。ただし、この公式文書は残されておらず、わずかに残された益次郎本人の覚書があるのみで仔細は不明。
福沢諭吉は自伝『福翁自伝』で、1863年の江戸における緒方洪庵の通夜の席での出来事として、
と、長州藩士になりたての益次郎が過激な攘夷論を吐いたことに驚き、
と解釈している。益次郎自身が攘夷について言及した記録がほかには見当たらないので真相は不明であるが、諭吉と益次郎は元来そりが合わず、長州藩を攘夷の狂人扱いする福沢の物言いに立腹して口走ったのではないかという説もある[3]
晋作らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、益次郎にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、益次郎は馬廻役譜代100石取の上士になり、藩命により大村益次郎に改名した。「大村」は故郷の地名から、「益次郎」は父親の「孝益」の「益」をそれぞれとっている。
このころ、益次郎は精力的に明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に益次郎の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここで益次郎はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。
慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然としたなか、明倫館が再開される。桂小五郎は同年5月に藩の指導権を握り、益次郎、晋作、伊藤博文、井上聞多(のち井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。すでに3月13日、益次郎は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが5月には近代軍建設の責任者となり、閏5月6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され名実共に藩士となる。
益次郎は桂の意見を参考に、四方からの攻撃に備えるには従来の武士だけでなく、農民、町人階級から組織される市民軍の組織体系確立が急務であり、藩はその給与を負担し、あわせて兵士として基本的訓練を決行しなければならぬと述べ、有志により結成されていた諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、5月22日には1600人の満16歳から25歳までの農商階級の兵士を再編した。さらに旧来の藩士らの再編を断行し、石高に合わせた隊にまとめ上げて、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせた軍を作るかたわら、隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えた。さらに、5月26日、青木群平を長崎に派遣して最新のライフル銃であるミニエー銃を購入させようとするが、これは幕府の横槍で不調に終わり、7月に桂が伊藤と井上を長崎のイギリス商人グラバーと交渉して、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入する。
6月の戦闘開始に際して益次郎は石州口方面の実戦指揮を担当。その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なもので、旧態依然とした戦術に捉われた幕府側をことごとく撃破するなど、その軍事的才能が遺憾なく発揮された。6月16日、益次郎は中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃する。7月18日に浜田城を陥落させ、のち石見銀山を占領。このとき、炎上する城を見て部下が出雲藩の救援を心配したが、益次郎は赤穂浪士の討ち入りの故事を引き合いにして「決して雲州そのほかから無闇に応援に来るものではない、それでは事情が許さない」と論理的に戦況を分析して断言し、皆を安心させた。長州藩の旧知の蘭学者青木周弼は益次郎を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦した。
益次郎は征討終了後、山口に帰還し、12月12日海軍用掛を兼務。海軍頭取前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐した。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることがなかった。
慶応3年(1867年)、討幕と王政復古を目指し西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩側から長州藩に働きかけが行われた。藩内では討幕か否かに分立したが、益次郎は禁門の変や下関戦争の失敗から、薩摩の動きには用心すべきで、今一度力を蓄え十分に戦略を立てた後、兵を動かすべきと慎重論を唱えた。しかし、9月に大久保が長州に訪れ討幕を説得したことで藩内世論は出兵論に傾く。10月27日、益次郎は掛助役に左遷され出兵の実務に携わるが、「ああいう勢いになると、十露蕃(そろばん)も何も要るものじゃない。実に自分は俗論家であった」と時局を見抜けない無知を反省する弁を残している。
徳川慶喜による大政奉還後の明治元年(1868年)1月14日、鳥羽・伏見の戦いを受け、毛利広封が京へ進撃、17日に益次郎は随行するかたちで用所本役軍務専任となる。22日に山口を発ち、2月3日に大阪、7日に京都に到着。その際、新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したとみられる。2月22日、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。益次郎は京・伏見の兵学寮で各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始する。翌3月、明治天皇行幸に際して大阪へ行き、26日の天保山での海軍閲兵と4月6日の大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮する。
4月には、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなるも、旧幕府方の残党が東日本各地で反抗を続けており、情勢は依然として流動的であった。このころ益次郎は岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べており、その意見を受け入れるかたちで益次郎は有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられた。21日には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任する。
このころ江戸は、天野八郎ら旧幕府残党による彰義隊約3千名が上野寛永寺に構え不穏な動きを示したが、西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化し、新政府は益次郎の手腕を活かして混乱を収めようとした。益次郎は制御不能となっていた大総督府の組織を再編成すべく、目黒の火薬庫を処分し、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却、奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを図るなど、矢継ぎ早に手を打っていった。さらに5月外国官判事大隈重信の意見を受け、幕府が注文した軍艦ストーンウォール購入費用25万両を討伐費に充てた。また5月1日には江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲され、同日には江戸府知事兼任となり、市中の全警察権を収めた。
こうして満を持した益次郎は討伐軍を指揮し、5月15日、わずか1日でこれを鎮圧する。この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で益次郎が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたことなどが、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。佐賀藩出身で軍監の江藤新平は自藩への手紙で「まことにもって天運なり。大武力御立て遊ばされ候らへば、これよりは御号礼も、さきざき相行われ申すべくと存じ奉り罷りあり候。西郷の胆力、大村益次郎の戦略、老練、感心に耐へ難く御座候」述べているように、この戦闘はそれまで世間には無名であった大村益次郎の名を広く世間に知らしめるものであった。
同年6月4日、鎮台府の民政会計をも兼任し従四位に叙任される。関東北部での旧幕府残党勢力を鎮圧する一方で、事実上の新政府軍総司令官として江戸で指揮を執った。前線からの応援部隊や武器補充の督促に対し、独自の合理的な計算から判断し、場合によっては却下もした。また、白河方面の作戦をめぐって益次郎は西郷と対立し、以降益次郎単独での作戦指導が行われた。戦争は官軍優位のまま続き、10月2日に軍功として益次郎は朝廷から300両を与えられる。同日の、妻・琴への手紙に「天朝より御太刀料として金三百両下し賜り候。そのまま父上へ御あげなさるべく候。年寄りは何時死するもはかりがたく候間、命ある間に早々御遣わしなさるべく候」と記し、父らへの配慮を示している。
明治2年(1869年)、函館五稜郭で榎本武揚ら最後の旧幕府残党軍の降伏により戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が確立し、明治時代が開かれた。
明治2年(1869年)6月2日、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通とならび新政府の幹部となった。10月24日、軍務官副知事に就任、軍制改革の中心を担った。
同年6月21日から25日にかけて開催された兵制会議では、大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開し、藩兵に依拠しない政府直属軍の創設を図る益次郎らと、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保らとの間で激論が戦わされた。
益次郎は諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成など、のちに実施される日本軍建設の青写真を描いていた。そのための第1段階として3年間のうちに現在の藩兵を基にする軍の基礎づくり、第2段階として大阪に軍の基地、兵学校や武器工場を置いてハード面での組織作りを行った後、徴兵、鎮台制を置くという考えであった。大阪に着眼したのは、当時、東北の動向を心配する関係者に対して、益次郎が「奥羽はいま十年や二十年頭を上げる気遣いはない。今後注意すべきは西である」と答えたように、西郷らを中心とする薩摩藩の動向が気になっていたためといわれ、すでに西南戦争を予想していたとされる。だが、国民皆兵を目標とする益次郎の建設的な意見は周囲の理解を得られなかった。大久保は戊辰戦争による士族の抵抗力を熟知していたため、かえって士族の反発を招くと考え、岩倉具視らは農民の武装はそのまま一揆につながるとして慎重な態度をとった。
この兵制論争中、6月21日段階での争点は、京都に駐留していた三藩の各藩兵の取り扱いをめぐってのものであった。益次郎を支持する木戸も、論争に加わり援護意見を述べたが、23日に大久保の主張に沿ったかたちで、京都駐留の三藩兵が「御召」 として東下することが決定され、この問題については大久保派の勝利に終わった。また23日の会議では、先の陸軍編制法の立案者であり、大久保の右腕ともいえる吉井友実も議論に加わり、今後の兵卒素材についての議論が始まった。ここでも大久保・吉井らの主張する「藩兵論」と益次郎や木戸が主張する「農兵論(一般徴兵論)」が激しく衝突し、議論は翌日も続いた。しかし会議の結果、兵制問題は後日改めて議論することとされ、益次郎の建軍案の事実上の凍結が決定され、この日、25日まで続く兵制論争がほぼ決着した。
この会議の結果、益次郎の建軍構想はことごとく退けられ、さらに25日には、大久保が益次郎の更迭を主張し始めた。益次郎はほどなく辞表を提出したが、当時の政府内には、軍事に関して益次郎に代わるべき人物はなかった。そのため、木戸も二官八省への官制改革が行われる前日の7月7日に益次郎と面会し、益次郎を慰留するとともに改めて支持を約束し、軍務官を廃して新たに設置される兵部省に出仕することを求めた。その結果として、翌日益次郎は兵部大輔(今の次官)に就任することとなった。益次郎は「御一新は旧習を脱し、公家方を武家の風にいたし、強気にやる様のはずなしつるに、またまた卿とか大輔とか相唱へ、自然軟弱に陥り、追々武家も公家の方に引きつけらるべし」と皮肉を述べている。
当時の兵部卿(仁和寺宮嘉彰親王)は名目だけの存在で、事実上、益次郎が近代日本の軍制建設を指導した。戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞に推薦し、山田に下士官候補の選出を委任した。山田も山口藩諸隊からを中心に約100名を選出し、9月5日からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。
また、益次郎は明治2年(1869年)6月の段階で大阪に軍務官の大阪出張所を設置していたが、9月には同じく大阪城近くに兵部省の兵学寮を設け、フランス人教官を招いてフランス軍をモデルとする新しい軍の建設を始めた。このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することも決定された。このように益次郎が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、益次郎が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある。
このように着々と既成事実を構築していた明治2年(1869年)、益次郎は軍事施設視察と建設予定地の下見のため京阪方面に出張する。京都では弾正台支所長官の海江田が遺恨を晴らすため、新軍建設に不平を抱く士族たちを使って益次郎を襲うよう煽動する、などの風説が流れるなど不穏な情勢となっていた。木戸孝允らは襲撃の危険性を憂慮し反対したが、益次郎はそれを振り切って中山道から京へ向かう。
益次郎は同年8月13日に京に着き、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませ20日に下阪する。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分することとなった。9月3日、京へ帰るも翌4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、益次郎の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われる。静間と安達は死亡、益次郎も重傷を負った。その傷は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、右膝関節に及んだが、特に右膝の傷が動脈から骨に達するほど深手であった。
兇徒が所持していた「斬奸状」では、益次郎襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあったことが示されている。益次郎は一命をとりとめたが、重傷で7日に山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。9月20日ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪府医学校病院(現在の大阪大学医学部附属病院)に転院と決まる(跡地には現在も別の医療機関、国立病院機構大阪医療センターが所在する)。
10月1日、益次郎は河東操練所生徒寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれ、高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後、10月2日に大阪八軒家に到着、そのまま鈴木町の大阪府医学校病院に入院する。ここで楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなる。だが、手術のための勅許を得ることで東京との調整に手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)とあるように手遅れとなっていた。10月27日手術を受けるも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化、5日の夜に死去した。享年45。
臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」と船越衛に後事を託した後、「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓のかたわらに埋めておけ」と遺言していた。
益次郎の死去の報を受けた木戸は「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」(11月12日の日記)「実に実に痛嘆すべきは大村翁の不幸、兵部省もこの先いかんと煩念いたし候」(槙村正直宛の12月3日付の書)と、その無念さを述べている。
11月13日、従三位を贈位し、金300両を賜る宣旨が下された[4]。遺骸は妻・琴子によって郷里にもたらされ、11月20日に葬儀が営まれた。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。明治21年(1888年)に孫(養子の嫡男)の大村寛人は益次郎の功により子爵を授爵、華族に列せられた。
益次郎の軍制構想は山田顕義、船越衛、曾我祐準、原田一道、大島貞薫らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。益次郎の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省(のち陸軍省)内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵をうたった徴兵令が制定されることとなる。
※日付=明治4年までは旧暦
参考:大村益次郎先生伝記刊行会「大村益次郎」マツノ書店 1999年
関係者の証言では益次郎の容貌は「人となり、短驅黎面(小柄で色黒)にして、大頭、広額、長眼、大耳、鼻梁高く、双眉濃く、髷を頭頂にいだき、常に粗服半袴をまとい」(水戸藩士鈴木大)とある。エドアルド・キヨッソーネによって描かれた肖像画があるが、死後に関係者の証言や意見をもとに描いたものである。益次郎を写した写真は発見されていないが、靖国神社の銅像を見た夫人はそっくりであると証言している。
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