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日本の映画監督 ウィキペディアから
実相寺 昭雄[注釈 1](じっそうじ あきお、1937年3月29日 - 2006年11月29日)は、日本の映画監督、演出家、脚本家、小説家。元東京藝術大学演奏芸術センター教授。妻は女優の原知佐子。
キネマ旬報社『キネマ旬報』7月下旬号(1962)より | |||||
別名義 | 實相寺昭雄、万福寺百合、川崎高 | ||||
生年月日 | 1937年3月29日 | ||||
没年月日 | 2006年11月29日(69歳没) | ||||
出生地 | 日本・東京府東京市四谷区 | ||||
死没地 | 日本・東京都文京区 | ||||
民族 | 日本人 | ||||
ジャンル | 映画監督、演出家、脚本家、小説家 | ||||
活動期間 | 1959年 - 2006年 | ||||
配偶者 | 原知佐子 | ||||
主な作品 | |||||
テレビ 『ウルトラマン』 第14話「真珠貝防衛指令」 第15話「恐怖の宇宙線」 第22話「地上破壊工作」 第23話「故郷は地球」 第34話「空の贈り物」 第35話「怪獣墓場」 『ウルトラセブン』 第8話「狙われた街」 第43話「第四惑星の悪夢」 第45話「円盤が来た」 『ウルトラマンティガ』 第37話「花」 第40話「夢」 『ウルトラマンダイナ』 第38話「怪獣戯曲」 『ウルトラマンマックス』 第22話「胡蝶の夢」 第24話「狙われない街」 映画 『無常』 『曼陀羅』 『帝都物語』 『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』 『屋根裏の散歩者』 『D坂の殺人事件』 『姑獲鳥の夏』 『シルバー假面』 | |||||
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現在までのところ、デビュー作(長編映画第1作)『無常』でFIAPF公認の国際映画祭(ロカルノ国際映画祭)の最高賞を獲得した唯一の日本人監督である。 海外では非常に多く見られる、映画監督から継続的なオペラ演出を手掛けた人物としても日本で唯一であった[1]。[要検証]
1937年(昭和12年)3月29日、東京府東京市四谷区(現・東京都新宿区四谷)に生まれ、中国青島で育つ。曽祖父は臼杵藩士であった。日本の敗戦を満州で経験してから戦後に帰国し、東京都滝野川区(現・北区)で育つ。
1959年(昭和34年)、早稲田大学第二文学部(在学中に第一文学部から転籍)仏文科卒業後、在学中に国家公務員試験に合格したこともあり、外務省に勤務[2][3][4]。その後、ラジオ東京(KRT・現 TBS)に入社[2][3][4]。演出部のADに配属され、テレビ演出家として活動[2][3][4]。
1961年(昭和36年)、『歌う佐川ミツオ・ショー』の中継演出でデビュー[2][3]。続いて『さようなら1961年 日劇ビッグパレード』を演出。以後、スタジオドラマや音楽番組の中継で演出に腕を振るう[3]。しかし、タレントの背後のみを撮影したり、スチールを多用したり、ショー中に街頭インタビューを挿入したりと、実相寺のイメージ優先のシュールな演出技法は局の理解を得られず[2][3][4]、テレビドラマのラストシーンで唐突に暗転させて雪を降らせたところ、「なぜいきなり雪を降らすんだ!」と大目玉を喰らった。しかしこの時「なかなかいい演出だったね、でももっと雪は多いほうが良かったな」と、好意的な評価を送ったのが円谷英二監督だった。
1962年(昭和37年)、単発ドラマシリーズ『おかあさん』の「あなたをよぶ声」でテレビドラマ初演出[2][3]。映画『愛と希望の街』に感銘し、脚本を大島渚に依頼。作品自体は当の大島から酷評されたが、これがきっかけで彼と親交を持つ。
1963年(昭和38年)、歌番組中継にて、大スターの美空ひばりを執拗にアップで狙って喉の奥まで映したり、逆に豆粒のように小さく映したりと奇抜な演出を行ったため、局やファンから抗議が殺到した。さらに1964年(昭和39年)のスタジオドラマ『でっかく生きろ!』が不評を浴び、途中降板。半ば干された[5][6]形で「局でぶらぶらしていて、フランスあたりで映画の勉強でもするかなと漠然と考えていた」ところ、これを見かねたTBSの先輩で円谷英二の息子である円谷一に「映画部へ来いよ、その前に暇だろうから特撮の脚本でも書かないか?」と誘われ、テレビ映画畑に転身。当時のTBSはフィルムによる劇映画の監督を局内映画部で養成するスタンスを採っており、局員助監督、監督として円谷特技プロダクションや京都映画に出向しながら作品を発表していた。円谷特技プロを初訪問したのは、同年秋だったという。この年に原知佐子と結婚し、自動車免許を取得する。
1965年(昭和40年)、TBS映画部に異動[2][3][4]。ここは、フィルムを用いたテレビ映画を担当すると同時に、その外注先に社員ディレクターを監督や助監督として派遣し、ノウハウを蓄積するという役割の部署だった。『ウルトラQ』の脚本2本を執筆するが没となり[2][3][4]、円谷一監督のドラマ『スパイ 平行線の世界』のチーフ助監督を務める。
1966年(昭和41年)、初夏に『現代の主役 ウルトラQのおやじ』で、円谷英二にドキュメント・ルポをする[2][3][4]。これが好評を得て円谷特技プロに出向し『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』の演出で名を高める。なお話の内容が現実味を含んだ夢幻なのか、幻想のような現実なのかよく分からない世界を舞台にした話が多く、映像効果もマッチしたものが多いため、その演出スタイルは後に実相寺マジックと呼ばれた。
1969年(昭和44年)、中篇映画『宵闇せまれば』(大島渚脚本)を自主製作し、映画監督デビュー[4]。
1970年(昭和45年)、ATG提携映画の製作に専念するためにTBSを退社し、フリーの監督として活動を開始。美術監督・池谷仙克を社長とする映像制作会社「コダイグループ」(現:「株式会社コダイ」)の設立に参加。同じ円谷プロ出身スタッフで興した「日本現代企画」とは提携関係にあった。コダイには死去に至るまで所属している。長編映画第1作『無常』でロカルノ国際映画祭グランプリを受賞。
1971年(昭和46年)、TBSの『シルバー仮面』(宣弘社)に「コダイグループ」として演出参加。
1981年(昭和56年)、小説『怪盗ルパンパン』(徳間ノベルズ)を上梓。著述家としても活躍する。同年、演出を務めたスペシャル番組『カラヤンとベルリンフィルのすべて』において、カラヤンとのディスカッションで後の音楽関連の造詣にも関わるほどの影響を受ける。
1983年(昭和58年)、日本テレビドラマ『波の盆』で文化庁芸術祭大賞を受賞。他にカンヌCM映画祭グランプリも受賞している。
1985年(昭和60年)、西崎義展の依頼で『交響曲宇宙戦艦ヤマト』を演出。NHKの外部制作番組の先駆けとなる。
1987年(昭和62年)、小説『星の林に月の舟 怪獣に夢見た男たち』(大和書房)を上梓。円谷プロ時代を、虚実の間で熱く綴る。
1988年(昭和63年)、『帝都物語』(荒俣宏原作)を演出。旧知のスタッフを総動員、ハイビジョンなども用い、大ヒット作となる。
2003年(平成15年)、食玩「昭和情景博物館」の監修を手がけた。
2005年(平成17年)、実相寺の作風とマッチする雰囲気を持つ、京極夏彦の『京極堂シリーズ』第1作『姑獲鳥の夏』を映画化(京極自身が熱烈な実相寺ファンだった)。以降もシリーズ続けての演出担当を期待させたが、実相寺の死により、コンビは1作のみで終わった。
2006年(平成18年)、11月29日午後11時45分、胃癌のために東京都文京区の病院で死去。享年69。戒名は「龍徳院禅徹定昭居士」。
「コダイグループ」で長年実相寺を支えた鈴木政信は、実相寺について「天才的頭脳の持ち主」とし、人柄としては「照れなのか自分を隠す方で、本音はなかなか言わず、みんながいると“これ嫌だ"とか言う」と語っている。池谷仙克は「非常に多面的な人物で、一個の人格として矛盾も多く、知らない人には誤解されそうで、どうも伝えにくい人」と評している。池谷によると、CMの打ち合わせから帰ってきて、平気で「降りた」と言われることもあり、これも「世界観のズレがあったから」という理由からだった。また反面、親しくなった相手なら、センスが合わなくとも「世界観? そんなのいいや」と依頼を受けてしまう人の良さもあったという[7]。
上原正三は、実相寺の個性の核は満州育ちに起因する「大陸的感性」だとしている。実相寺が欧州を愛するのも、数百年来変わらない大陸的風景への憧れだという。上原の執筆した『ウルトラセブン』の没脚本『300年間の復讐』(予定監督は野長瀬三摩地)は、沖縄生まれの上原が虐げられた者の視点で描いた内容だが、実相寺は興味を示さなかった[8]。
実相寺自身は、満州で見た大陸の地平線に沈む真っ赤な夕陽に強い印象を受け、その後日本へ引き上げる際に貨車から見た夕陽には不安や悲しみ、寂寥感などを感じたと、池田憲章との雑談の中で述べている[9]。この発言を受けて池田は夕陽を背負う怪獣の描写について、怪獣が少年時代の実相寺と同じ悲しみの中にあったのだと解釈している[9]。
人が撮った映画には興味を示さずに、一言「あれはイモだよ」で片づけていた。寺田農は相米慎二を実相寺に紹介したが、唯一相米とは気が合って、よく一緒に呑んだりしていたという。寺田が『でっかく生きろ!』で実相寺と知り合ったのは、久世光彦の紹介からだったが、オシャレな久世とは対照的に身なりに拘らない実相寺の格好から、初見の印象は「大道具さん」だったという。寺田は後々までこのことで「君は人を見る目が無い。大道具さんと間違えて驚いたあの顔は終生忘れないよ」と実相寺にからかわれ続けたと述懐している。また、後に独創的な演出でTBSから度々叱責される実相寺がなぜ演出部門で出世できたかについて、寺田は「演出助手の有能さに加え、上司に対してのお世辞が異常に上手かった」と述べている。
実相寺を語るうえで外すことのできないATGでの映画製作だが、実相寺がTBSを退職してATGに専念できたのは、後記されているCM制作を数多くこなして収入を得ていたからである。これには実相寺の知り合いが電通に勤めていたから可能であったことで、この伝手が無ければATGでの映画製作は早期に行き詰まっていたと考えられている。実際ATGでの映画作品は批評的に評価はされたものの、興行成績は『無常』こそヒットしたものの、作品を出す度に悪化し「生活か製作か」でスタッフ内部で対立することもあった。
クラシック音楽にも造詣が深かった。日本では浦山桐郎、山田洋次、大林宣彦ら、この趣味で知られる監督が欧米に比べ極端に少ないが、実相寺ほど全面展開した監督は海外でも珍しい。演出作品のBGMへの反映に始まり、やがて音楽番組『オーケストラがやってきた』の演出、音楽雑誌への寄稿と徐々に仕事の比率を高めるようになり、ついにはオペラ演出にも進出。『イドメネオ』『カルメン』『魔笛』と多くの舞台を手がけ、東京藝術大学演奏芸術センター教授として教壇にも立った(同大学が映像研究科を設置したのは後年のことであり、実相寺は映画監督としてではなくオペラ演出家として迎えられたのである)。1980年代には朝比奈隆指揮のベートーヴェン交響曲全集の映像収録を演出したが、これが2009年にDVDボックスとして発売された際は、この種のソフトでは映像監督の名はライナーノートの隅に載る程度が通例であるにもかかわらず、「朝比奈隆指揮 実相寺昭雄監督」と曲名や作曲者名より遥かに大きくボックス全面に大書される扱いとなった。また、自身の演出ではないオペラ公演においてもテレビ中継の映像監督(ベルリン・コーミッシェオーパー1991年来日公演など)も手掛けている。寺田農は、「映像に関しては自らの映像世界の構築を役者にまで押し付けたが、こと音楽の仕事に関しては違っていた」と述べている。実相寺が撮った最初のドラマ『おかあさん』(1962年)の音楽を担当した冬木透は、録音の時に「テストなしで滅茶苦茶なまんまでいい、下手くそな演奏でいい」と言われたという。実相寺は『ステレオ藝術』に連載していた冬木のLP批評を毎月欠かさず読んでいたといい、欧州での仕事の帰りに現地のLPを買ってきて来てくれたりもしたという。愛聴する範囲は宗教音楽からオペレッタまでクラシック全般を幅広くカバーしていたが、多くの音楽愛好家の例に漏れず最終的にバッハにもっとも強く惹かれるようになった旨エッセイに記している。また夫人によれば、晩年はドミートリイ・ショスタコーヴィチを好んでいたという。
映像関係では色々と奇天烈な手法を行ったり、約束事を敢えて破るなどした実相寺だったが、音楽に対する演出では約束事は一切破らなかった。その姿勢は評価され、前記の通り、日本音楽界の重鎮であった朝比奈隆と親交を持ったほどである。朝比奈は晩年、オペラ『魔笛』の舞台演出を実相寺に依頼していたが、直後に死去。朝比奈が指揮、実相寺が舞台演出の『魔笛』は実現しなかった。その後、実相寺は『魔笛』の演出を2回担当している。
妻は女優の原知佐子。娘の実相寺吾子も女優。また、一家の「長男」とされる愛用のアライグマのぬいぐるみちな坊も度々自らの作品に登場させている。祖父は海軍大将・台湾総督の長谷川清。日露戦争を題材とした東宝映画『日本海大海戦』(1969年、丸山誠治監督)では、撮影小道具として祖父長谷川大将の勲章類を提供。この奇縁は、同作で特技監督を務めた円谷英二にも驚かれたという。
仏文科出身でもありフランス語は堪能だった。カンヌ映画祭などでも通訳なしで出席している。熱愛するモーツァルトやバッハを産み育てたドイツ語にも通じていたが、英語は苦手で中学レベルの間違いを連発して友人を呆れさせたことがあるといわれる。また書道を独学で会得し、自身が題字を揮毫した漫画作品なども複数存在する。以前書道雑誌「墨」にインタビューを受けたこともあり、自らの書道は唐の顔真卿の影響があると述べたこともあった。鈴木政信によれば絶対音感だったといい、独学で譜面が読めた。速読法も習得していて、本はめくるだけで記憶でき、大変な読書量だったという[10]。
けろけろけろっぴのファンで、キャラクターを使用した丼・ふりかけ・預金通帳・眼鏡ケースなどを愛用し、家族から「変態ケロッピおやじ」と言われていた[11]。興味を持った物を集める収集家で、けろっぴに限らずミニカー、果てはエヴァンゲリオンやアダルトアニメのキャラクターフィギュアまで収集していたほどであった。
達筆で知られ、スタッフが手描きのメモの判読に苦しむことが多々あったが1992年頃からワープロを使うようになり、この問題が解決した逸話がある。
友人だった脚本家の石堂淑朗によれば、実相寺は若い頃は酒が飲めない下戸で、コマーシャル撮影で訪れたフランスで当時在住していた岸惠子から貰ったコニャックを石堂に贈るなどしていた。だが中年になってから、そのコニャックを愛飲するストレート専門の酒豪になったのだという。石堂は「中年からの食習慣の変貌は危険だ」と忠告したが、実相寺は是正せず、後年に癌を患って手術する際に、「失敗した、胃腸に過信があったね」と嘆いたという[12]。
盟友の美術監督・池谷を社長とする「株式会社コダイ」を連絡事務所として活動し続けたが、その名刺には“東京市赤坂区…”と戦前表記が併記されていた。
TBSの先輩アナウンサーの吉村光夫や後輩アナウンサーの松宮一彦らと同様に鉄道ファンであった。特に路面電車ファンとしても知られ、雑誌「東京人」などにコラムなどを度々寄稿していた。また、実相寺の鉄道好きは吉村同様にTBS局内でも知られていた。自署「昭和電車少年」では、鉄道友の会の前身であった交通科学研究会当時からの会員あったことを公表していた。また、座席をスタンションポールにより着座区分を物理的に区切るという発想が、乗客の自発的なマナーに期待していないという理由で、JR東日本の209系電車がお気に入りであることを明かしている。また切符収集もしていた。
元TBSアナウンサーの山田二郎は小中学校の同級生である[13]。高校では進路が分かれ、大学も同じであったものの学部が異なる(最初は同じ文学部。実相寺は途中で第二文学部に転籍。もっとも、当時の早大文学部は1学年千人を超える大所帯である)ため会うことはなかったが、TBSで偶然再会したという[13]。
フェンダーミラー仕様の4代目ホンダ・アコードを愛車としていたことがあり、後にその個体は2023年公開の『シン・仮面ライダー』にて登場したことがある[14]。
映画監督としては日本人特有の民族性・風土をテーマにした作品で有名。大島渚グループとの親交が深く、劇場用デビュー中篇『宵闇せまれば』の脚本を大島が執筆したほか、田村孟・佐々木守・石堂淑朗といった脚本家と組んだ。ヤマト王権以前のまつろわぬ神々、日本原住民的なものへの興味は、こうした脚本家たちとの間で醸成され『ウルトラQザ・ムービー』『帝都物語』にまで受け継がれている。とりわけ石堂とは、デビュー長編『無常』以下『曼陀羅』・『哥』のATG三部作でタッグを組み、京都・滋賀・福井にかけての陰鬱な景色を切り取りながらの強烈なディスカッションは、当時の日本映画に大きな衝撃を与えた。1974年刊行の小学館万有百科事典第3巻「音楽・演劇」内の「日本映画」の項目では黒澤明・木下恵介・市川崑・山田洋次と並べて挙げられた現役(当時の)有力監督5人の一人となっている(執筆は滝沢一)。
エロティシズムへの拘りから、容赦の無い性描写も話題を呼び「膣掃除」の異名を奉られたこともある。女優のオーディションをする際にも「2万回くらいヤってやり疲れたような女が欲しい」と嘯いていた。寺田農は実相寺のエロティシズムの本質はSMであると語っている。池谷仙克によると、酒を飲んでも映像論を語るようなことはしなかった。ウルトラ怪獣も女性も「異形の物が全般的に好きだった」と語っている。
多くの作品でタッグを組んだ美術・池谷仙克、撮影監督・中堀正夫、照明監督・牛場賢二らとともに独特な構図・照明を行い(彼らは助手時代を含めると約40年実相寺作品に関わり続けており、初参加する俳優はその一糸乱れぬチームワークと映像作りに驚嘆したという)、また終生つきあい続けた岸田森・寺田農を筆頭に個性の強い「実相寺組」の俳優陣(田村亮・小林昭二・草野大悟・堀内正美・清水綋治・東野英心・嶋田久作・佐野史郎・桜井浩子・加賀恵子・吉行由実・大家由祐子・三輪ひとみなど)の魅力と相俟って何とも言えない陰翳・情感を醸し出している作品が多い。ことに岸田森は『怪奇大作戦』で恋愛話を撮り、担当ドラマで「レギュラーに対する共感をもったのは岸田森から」と述べている。演出姿勢として自らの画に集中し、役者がどう演技するかは拘らなかった。寺田農は「最期まで役者の芝居を信じなかった人だった」と語っている。このため「まるで小道具扱い」と捉え、実相寺作品に出るのを嫌がった俳優も多かった[16]。
特撮関係では特技監督で大木淳・デザイナーとしては池谷仙克・プロデューサーとしては鈴木政信らが円谷特技プロ時代からコダイグループ結成後まで、長年実相寺作品を支えて名スタッフとされた。
作風はとにかく「エキセントリック」の一語に尽きる。特にアリフレックスなどの16mmキャメラの軽さを生かし、斜めからのアングル・「なめ」・「レフ板」を極端に排除して逆光を浴びる登場人物、ワイドレンズを使っての画面が歪むほどの接写といった特異なカットを多用した。『現代の主役 ウルトラQのおやじ』での対談シーンでは、部屋の隅や鳥籠など物越しに撮る「なめの手法」に拘り、円谷英二監督に「ずいぶん変なところから撮るね。鳥籠どけたげようか?」と言われ、東宝の森岩雄プロデューサーにも「窮屈なところにカメラが入ってて大丈夫ですか?」と声をかけられたと述懐している。この際に円谷監督に、「パララックス(視差)のあるミッチェルキャメラだと、対象に集中して撮影が出来るんだよ。一度ミッチェルで撮らせてあげたいな」と言われたといい、後年に『宵闇せまれば』で35mmのミッチェルを使用し「初めて円谷監督の言葉の意味が分かった。ミッチェルの横綱相撲の前に、小賢しい16mmのポジション撮影が馬鹿らしくなった」と語っている。
TBS時代は、欧州でヌーヴェルヴァーグの隆盛期でもあり、キャメラを手持ち用に改造させたり、13尺高の真っ白いセットを組んで下からマイクを入れる『大人は判ってくれない』(1959年、フランソワ・トリュフォー監督)のストップモーション技法に触発され、芝居のタイミングに合わせてフリップにしたスチール写真を映し、同様の効果を狙うなど、ビデオ撮りの映像で様々な技法を試している。が、結果としてこれらの前衛姿勢が局の理解を得られず、干される原因となったのは来歴の通りである。
また、実相寺は円谷特撮の醍醐味は「ミニチュアや物への質感の拘り、フェティシズムである」と論じ[17]「CGで暴れるゴジラなど見たくもない」とも述べている。「お涙頂戴の難病物や凡百の心理ドラマよりも、職人性が発揮される特撮フィクションが格下とみられがち」なテレビ界の風潮を残念がり「僕はダイニングキッチンが出てくると見ないようにしている」、「馬鹿馬鹿しいけど面白い、それがフィクションだ」と語っている。差別や階級あってこそのドラマであり「貴族のいない社会に芸術は生まれない」とも述べている。
実相寺の撮影現場は一種独特な雰囲気であり、スタッフと友達のような関係を築きながら自らの世界に引き込み、スタッフは実相寺の高度なイメージの謎に魅せられながら仕事を共にするという、カリスマめいたものがあった。これを上原正三は「いわば実相寺という宮司を中心とした、神事か祭のような現場だった」と表現し「実相寺教の儀式めいた雰囲気があった」と述べている。これを受けて池谷仙克は「創作者は一人で狂気の中に入って行くもの、また映画は大勢で狂気の世界に入って行く。そのある意味狂った儀式の中心に実相寺監督はいた」と語っている[7]。
1980年代以降は、戦前・戦後の東京を舞台とした作品を多く手掛けている[9]。特に江戸川乱歩作品については、実相寺自身が東京の変化に気づいた時に乱歩の作品で描写される戦前の情景を印象的なものと感じるようになり、ミステリー部分に並ぶ重要な要素と位置づけている[9]。TBSのディレクター時代は東京が大きく変化する東京オリンピックの渦中にいたため、乱歩作品を映像化することは考えていなかったという[9]。
晩年は病も重なって言語によるスタッフへのコミュニケーションが度々不自由になり、叱責することなど多分になかった実相寺が苛立つことが多くなった。ある晩年時の撮影の最中、カメラのフレームに撮影機材が映り込みスタッフの一人が退かせようとしたが、実相寺は激怒してそれを止めたという。脚本のト書きに虚構と書いてあるから退ける必要はないというのがその理由だったが、撮影現場の全てが虚構の対象であるという実相寺独自の持論が垣間見えた逸話である。
脚本執筆時には「万福寺 百合(まんぷくじ ゆり)」、「川崎 高」のペンネームも使用していた。ともに当時の居住地の川崎市麻生区万福寺と小田急電鉄小田原線百合ヶ丘駅に因んでいる。「川崎 高」は元々貴族的な名をイメージして「川崎 高氏」の筆名で脚本に署名していたのだが、タイトルクレジットに起こす際に「氏」を尊称の氏と勘違いされて省かれてしまい、この名になってしまったと語っている。
ウルトラシリーズの監督、または脚本を担当する際は、ウルトラ戦士の光線技を使って怪獣を倒させるといった行為を嫌っていた傾向があり、実相寺が担当する話でウルトラマンたちが敵を倒す時、ほとんど光線技を使っていない。ただし『帰ってきたウルトラマン』のように、「使用はするが決め技とならない」という場合も度々見受けられ、1997年には30年ぶりにウルトラシリーズのメガホンをとった『ウルトラマンティガ』では光線技が決め技となっている。
ストーリーをまとめるために、手間をかけた特撮カットを編集で割愛することも多く、特撮スタッフと揉めることも多かった。合成が苦手で、よく合成技術者の中野稔に「少しは飯島敏宏監督を見習ったらどうだ」と言われたといい、光学合成部での打ち合わせが次第に億劫になり、作中で合成をあまり使わなくなったと語っている。
『ウルトラマン』『ウルトラセブン』のメイン脚本家・金城哲夫について「金ちゃん(金城の愛称)が直球をビシビシ決めてくれていたからこそ僕(と佐々木守)は安心して変化球狙いで行くことが出来た」と後に述懐していた。円谷プロの社屋移転が決まった際、実相寺は満田かずほに「旧社屋を残そう」と強く主張した。その後も取材を受ける際にはなにかとこの旧社屋を取材場所に指定していた。満田は「円谷は自分の故郷という感覚があったのだろう」と語っている[18]。
ウルトラシリーズの監督としては、ファンタスティックコレクションなどのマニア向け書籍が刊行され始めた1978年頃の第3次ウルトラブームから知られるようになった[19]。1979年には実相寺の監督作品を再構成した『実相寺昭雄監督作品ウルトラマン』が制作され、その後も実相寺の名を冠したビデオ『怪奇大作戦 実相寺昭雄監督作品集』やLD『怪奇大作戦 実相寺昭雄スペシャル』が発売されるなど、円谷プロダクション作品に参加した監督の中でも別格の扱いとなっている[19]。
佐々木守とのコンビで活躍。ウルトラマンがスペシウム光線や八つ裂き光輪を使わない、地球人の一方的な都合だけで怪獣を倒すことの是非をテーマに掲げるなど、他の監督の演出とは一線を画す内容となっている。
実相寺は前作『ウルトラQ』では脚本を2本執筆したが没となり干されていたといい、本作品では撮らせてもらえるなら何でも良いという想いであったという[20]。
劇中で柴俊夫演じる万城目淳が、高樹澪演じる物語のキーパーソン・星野真弓と竹藪にて邂逅する場面は、竹藪で照明を下から焚いただけの野外ロケだったのだが、できあがった映像が暗すぎたために、セット撮影したものだと勘違いした業界関係者から、「あれだけの量の竹を良く(セットに)持ち込めたな。随分と金がかかっただろう」と称賛されてしまったことがある。
脚本は両作とも小林雄次が担当。小林が『ウルトラQ dark fantasy』でコダイの服部光則の監督回を担当した縁で組むこととなった[33]。当初は「胡蝶の夢」と実相寺自身も気に入っていたという「星座泥棒」を担当する予定であったが、実相寺からメトロン星人の続編を提案しこちらを担当することとなった[33]。
この節の加筆が望まれています。 |
タイトル | 主な出演者 |
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宵闇せまれば(1969年) | 斎藤憐、清水綋治、樋浦勉、三留由美子 |
無常(1970年、ATG) | 田村亮、司美智子、岡田英次、佐々木功、寺田農、小林昭二 |
曼陀羅(1971年、ATG) | 岸田森、田村亮、清水紘治、桜井浩子、草野大悟、小林昭二、原保美 |
哥(うた)(1972年、ATG) | 篠田三郎、八並映子、桜井浩子、田村亮、岸田森、東野英心、内田良平、嵐寛寿郎 |
あさき夢みし(1974年、ATG) | ジャネット八田、花ノ本寿、寺田農、原知佐子、岸田森、篠田三郎、天田俊明、毒蝮三太夫 |
歌麿 夢と知りせば(1977年) | 岸田森、山城新伍、成田三樹夫、岡田英次、東野英心、緑魔子、岸田今日子、桜井浩子、平幹二朗、堀内正美、永野裕紀子 |
実相寺昭雄監督作品ウルトラマン(1979年) | 小林昭二、黒部進、毒蝮三太夫、二瓶正也、桜井浩子 |
帝都物語(1988年) | 勝新太郎、嶋田久作、西村晃、高橋幸治、佐野史郎、寺田農、平幹二朗 |
悪徳の栄え(1988年) | 清水紘治、李星蘭、石橋蓮司、寺田農、前原祐子、佐野史郎、原保美 |
ラ・ヴァルス わたし暴行されました(1990年) | 樹まり子、山本竜二、加賀恵子、前原祐子、寺田農、堀内正美、小林ひとみ |
ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説(1990年) | 柴俊夫、荻野目慶子、風見しんご、中山仁、高樹澪、堀内正美、加賀恵子、佐野史郎、小林昭二、毒蝮三太夫、黒部進、寺田農 |
屋根裏の散歩者(1992年) | 三上博史、宮崎ますみ、六平直政、加賀恵子、嶋田久作、鈴木奈緒、寺田農、堀内正美 |
私、なんでもします!(1993年) | 加賀恵子、芹沢里緒、村松克巳、堀内正美、戸浦六宏、高樹澪 |
D坂の殺人事件(1998年) | 真田広之、岸部一徳、嶋田久作、大家由祐子、六平直政、三輪ひとみ、寺田農、堀内正美、東野英心、岡野進一郎、原知佐子 |
姑獲鳥の夏(2005年) | 堤真一、永瀬正敏、阿部寛、原田知世、田中麗奈、いしだあゆみ、堀内正美 |
乱歩地獄『鏡地獄』(2005年) | 浅野忠信、成宮寛貴、市川実日子、寺島進、原知佐子、堀内正美、寺田農 |
シルバー假面(2006年) | ニーナ、渡辺大、水橋研二、石橋蓮司、嶋田久作、ひし美ゆり子、堀内正美、寺田農 |
ユメ十夜『第一夜』(2007年) | 小泉今日子、松尾スズキ、堀内正美、寺田農 |
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