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日本のテレビドラマ監督 ウィキペディアから
野長瀬 三摩地(のながせ さまじ[注釈 1]、1923年8月30日[2] - 1996年5月23日[2])は、日本のテレビ監督、脚本家。京都府京都市出身[2]。別名:南川 竜、南川 龍。
野長瀬氏の末裔で、本名の三摩地は仏教用語のサマディー(三昧)にちなんで名付けられた[3]。
幼少より父に連れられてよく映画を観に行き、映画制作の道を志す[2]。
1946年に日本大学芸術学部映画学科を卒業し、東宝に入社[2][4][3]。渡辺邦男、青柳信雄、本多猪四郎らの助監督を務め、主に杉江敏男監督作品に従事[3]。黒澤明監督の『蜘蛛巣城』『どん底』(1957年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)ではチーフ助監督を務めた[4][5][3]。
1957年に、『生きものの記録』(1955年)のロケを行ったデパートに務めていた女性と結婚[2]。仲人は稲垣浩[2]。
映画界が斜陽の中では監督昇進の機会が回って来ず、1964年[注釈 2]、逸早く映画界に見切りをつけ、東宝テレビ部に移り、テレビ監督に転身[1][3]。メロドラマ『銀座立志伝』で監督デビュー[2][4][5][3]。
東宝で偶然再会した円谷英二に誘われ、円谷プロダクションの『ウルトラQ』に監督として参加[2][4][5][3]。以降は特撮番組に携わり『ウルトラマン』『ウルトラセブン』など、初期のウルトラシリーズでは多くのエピソードを監督する。また南川 竜(もしくは南川 龍)名義のペンネームで脚本も執筆している(中には自身が監督、または共同脚本)[2][6][4][5][3]。
『ウルトラセブン』『マイティジャック』撮影中に親しい映画関係者から「このままでは、子供番組のレッテルを貼られてしまう」との忠告を受け、これに反発しながらも円谷プロダクションを離脱した[2]。その後は東宝テレビ部へ復帰し、現代劇や時代劇を手掛けた[2]。後年では『円盤戦争バンキッド』や『メガロマン』などの特撮作品にも参加したが、脚本の弱さを嘆いていたという[2]。第2期ウルトラシリーズには不参加であったが『ウルトラマン80』に参加した。
1982年8月に東宝を退社[2]。その後はフリーの監督として記録映画などを撮ったほか、母校である日本大学芸術学部の講師も務めた。90年代には体力の衰えなどから、映画撮影の現場を退いていた[2]。
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