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日本の脚本家 ウィキペディアから
佐々木 守(ささき まもる、1936年9月13日 - 2006年2月24日)は、日本の脚本家、放送作家、漫画原作者。
石川県能美市(旧根上町)出身、石川県立小松高等学校、明治大学文学部日本文学科卒業。
大学では児童文学研究部に所属し[1][2][3]、鳥越信、古田足日、山中恒、神宮輝夫らの児童文学研究誌「小さい仲間」の同人となる。そのころに書いた「児童文学における近代性への疑問 -- 児童文学者の戦争責任」[4](『小さい仲間』26号)「新美南吉『おじいさんのランプ』論」(『日本児童文学』通巻45号)などで注目をあびた[2]。
1955年、大学2年の際に「砂川闘争」に参加する[5][3]。大学4年の時から教育映画作家協会 (現:日本記録映画作家協会)の機関誌「記録映画」の編集者をつとめ、大島渚、松本俊夫らと知り合う[5][3]。1958年に大学を卒業するが就職はせず。米軍統治下の沖縄に行き、人形劇を上演する。
1960年にTBSラジオのコント番組のライターとなる[2][5][3]。
1961年に「小さい仲間」で知り合った佐野美津男との合作『少年ロケット部隊』で子供向けのラジオドラマにデビュー[5][3]。1963年のラジオドラマ『戦国忍法帖』を担当。1962年、佐野や阿部進らと「現代こども研究会」(後の「こどもセンター」)を創立。
1963年には、テレビドラマ『現代っ子』の脚本を執筆して、テレビデビュー[2][5][3]。脚本術を、石堂淑朗、田村孟らに学ぶ[3]。
1964年には、松竹を退社し大島が設立していた、独立系映画制作プロダクション「創造社」に参加[5][3]。『絞死刑』など、大島監督映画の脚本を手がけるようになる[5]。
同時期には大島の紹介で、当時TBSのディレクターだった実相寺昭雄と知り合う[5]。佐々木と実相寺は意気投合し、特撮テレビドラマ『ウルトラマン』をはじめとして、『怪奇大作戦』、『シルバー仮面』などコンビでの仕事を多く行なった[6][2][5][3]。また、ABCではプロデューサー・山内久司とのコンビで"脱ドラマ"を標榜した『月火水木金金金』『お荷物小荷物』を世に送るなど、テレビの世界にも活躍の場を広げたが、児童文学を知っていることもあり子供向けドラマを中心に脚本を執筆[6]。日本古代史や少数民族に着目した作品が多い。
漫画の原作でも水島新司の作画による『男どアホウ甲子園』などのヒット作がある[2][3]。
一方、鈴木清順の日活解雇反対運動に参加する中で、やはりこの運動に加わっていた映画評論家の松田政男、映画監督の足立正生と1968年に映画『略称・連続射殺魔』を制作。1970年には、この3人にジャズ評論家の平岡正明、相倉久人を加えて「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊した。
熱心なミステリーファンでもあり、推理ものの脚本も多い。特に横溝正史作品の造詣が深く、2時間ドラマなどでは横溝作品を独自の視点でアレンジした脚本を多数執筆している。
1970年代後半から出身地に近い石川県江沼郡山中町(現加賀市)で暮らした。その間に山中町を舞台としたポーラテレビ小説『こおろぎ橋』の脚本を手がけ、石川県内の新設高校の校歌の作詞を行った[7]。また、1970年代~1980年代当時、視聴可能な民放局が2〜3[8]局しかなかった町民のために広域関西圏の民放局を視聴できるケーブルテレビの開局に尽力、社長に就任[9]。また2002年11月からは同町の温泉施設と劇場が同居する複合施設の館長をも務めた[10]。
2006年2月24日午前1時10分にすい臓がんで東京都新宿区の病院で死去[2]。69歳没。亡くなる直前まで『シルバー仮面』のリメイクの脚本を企画していた[2]。
他多数
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