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山中 恒(やまなか ひさし、1931年7月20日 - )は、日本の児童文学作家、ノンフィクション作家。
『間違いだらけの少年H』などの共著者である山中典子は現在の妻である。
北海道小樽市で8歳まで育った。父親の仕事の関係で神奈川県平塚市に転居するが、戦争中縁故疎開で再び小樽に戻った。1944年に旧制小樽中学校(現、北海道小樽潮陵高等学校)の面接試験を受けたとき、戦争の現状を問われて「負け戦です」と答え、付き添いの教師をうろたえさせる。彼としては苦戦しているという率直な気持ちを述べたつもりだった。付き添った教師は不合格をおそれたが、結局は合格した。
日本の敗戦が決まった際、当時まだ14歳ながら敗戦を天皇に詫びるため、真剣に自決しようと考え辞世の句まで練っていたが、友人から「連合艦隊司令長官や軍司令官でもないお前が、どうして自決など考えるのか」と呆れられ「それもそうだ」と我に返ったという。この時期に強烈な皇民化教育(恒は「錬成教育」と表現する)を受けたが、それを指導した教員達が日本の敗戦とともに、正反対の教育を平然と始めたことに激しい違和感を覚える。この体験が大人や教員に対する不信感を生み、その後の恒の作品にも影響を与えることとなる。
小樽中学を卒業後、早稲田大学第二文学部演劇科に進学、卒業後は百貨店宣伝部に勤める[1]。在学中に早大童話会に所属したことを機に卒業後から児童文学の創作を始める。1960年の『赤毛のポチ』で児童文学者協会新人賞を受賞し、児童文学作家として本格的にデビュー。この頃、古田足日・鳥越信・神宮輝夫らと児童文学の同人誌「小さい仲間」を刊行していた。
その後『とべたら本こ』『ぼくがぼくであること』などを発表し、児童文学作家としての地位を不動のものとする。
1960年より著述に専念[2]。放送台本、映画シナリオも執筆[2]。1970年佐野美津男らと“六月社”(後・六月新社)を結成[2]。
少年時代に受けた戦時教育へのこだわりから、克明な資料と自らの体験をもとに当時の教育状況を明らかにするシリーズ。1974年より刊行。全5部と補巻を合わせて原稿は6000枚にのぼった[3]。執筆のために購入した戦時中の資料一式は、購入時の領収書とともに故郷の小樽市立小樽文学館に寄贈されている。購入した資料は当時の価格で40万円の特別高等警察資料をはじめ、全部で3000点にのぼった[3]。花森安治による創作説が流布していた標語「欲しがりません、勝つまでは」の作者が、実際は当時東京に在住していた女子小学生(より正確には父親が創案し、彼女の名前で投稿した)であった事実を、同シリーズにおいて明らかにした[4]。
山中はこのシリーズの流れをくむ戦時期の教育・国民生活を題材にしたノンフィクションも数多く手がけており、妹尾河童の『少年H』にある事実誤認を批判した『間違いだらけの少年H』は話題となった。妹尾の自伝的小説がたとえ反戦を訴えることが主眼でも、当時の少年たちが「少国民」として戦争の大義を信じていた事実(上記の恒自身のエピソードも参照)を隠蔽し、戦争に疑問を抱く少年を描いたことも批判の対象となった。
執筆中、自宅に若い右翼が脅しにやってきたが、当時の夫人が「じゃあなた教育勅語を暗唱できる?」と尋ねて退去させた[3]。山中が同世代の「戦友」と呼び、「私はお父さんのこやしよ」と言ってシリーズの執筆にも助力した彼女はクモ膜下出血で1980年秋に48歳で急逝した[3]。
あばれはっちゃくシリーズ
1980年代以降、大林宣彦監督により自作が続けて映画化された。それらが原作とは無関係に尾道を舞台とした映画になったため、大林は恩返しのため恒の郷里・小樽を舞台として、『はるか、ノスタルジィ』を映画化した。
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