Loading AI tools
日本の雑誌 ウィキペディアから
『テレビランド』は、1973年2月1日から1997年1月1日まで刊行していた児童向けテレビ番組雑誌。通称:テレラン。
企画が東映株式会社、発行元を黒崎出版として1973年2月1日創刊された[1][2][3]が、黒崎出版の経営難に伴い、同年11月発行号から発行元を徳間書店に移管した。徳間書店としては『アサヒ芸能』、『問題小説』に次ぐ定期刊行物で[4]、初の児童誌の獲得で文芸書籍などの出版と合わせ、業界でも大手老舗に迫る勢いがついた[5]。また『テレビランド』はそれまで大人向け出版社だった徳間書店のイメージをガラリと変える切っ掛けを創り[6]、徳間書店としても大きなエポックを画することになった[4]。競合誌は、講談社の『テレビマガジン』、秋田書店の『冒険王(1984年まで)』、1976年からは小学館の『てれびくん』も加わる。
特に全盛期(1975年頃 - 1991年頃)は、徳間書店では唯一の子供向けキャラクター雑誌であった。玩具面では、東映の提案でポピー(後に、バンダイボーイズトイ事業部へ改名。)へタイアップし、キャラクターのマーチャンダイジングを行なうことにより様々なキャラクターが世の中へ送り出されていった。1983年頃から後楽園ゆうえんち(現:東京ドームシティアトラクションズ)とのタイアップを行なっていた。
漫画の面では、競合誌と対峙するにあたり、仮面ライダーの原作者である石ノ森章太郎(石森プロ)の関係者とそのアシスタント出身の漫画家によるタイアップ作品を軸に基盤をつくっていった。
東映の多角経営化は1971年8月の大川博没後、後を継いだ岡田茂のもとでその本領が発揮された[7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17][18][19]。映画部門への依存度が高かった大映と日活が事実上脱落し[20][21][22]、その二社に似た体質を持つ東映は[23][24]、映画部門以外から収益を出すことが求められた[20][24]。岡田は「あくまで映画が本業だが、映画だけでは将来は難しい」と[9]、「これからの東映は犯罪にならないもので儲かるものは何でもやる」と[9]、定款を変更してあらゆる職種に積極的に取り組んでいくと宣言した[9][10][25]。岡田は1972年6月に映画会社で初めて事業部制を敷き[23][26][27]、関連事業室を作り[27]、「すべての事業をファンに結びつけ、大衆向けの低額なものを狙う」とアピール[12]。「映画だけでなく附帯事業をいろいろやれ」と社員に指示するなどの根回し後[23]、温泉ホテル買収[17]、催事[11][19][28]、ゴルフ場[10][12][28]、軽井沢別荘販売[14]、パチンコ(東盛商事)[28][29]、サラ金[23][28][30]、ゲームセンター[28]、スポーツ事業[28][31]、進学塾[12][28]、葬儀屋[8][23][28]、ジャズ喫茶[28]、ラーメン店[30]、焼肉屋[30]、サンドイッチ店[28]、スターのポスター制作・販売[11][15][23]、映画主題歌のレコード販売[23]、仮面ライダーのキャラクターグッズ販売[23][19]、複製画[28]など新規事業に手を拡げ[14][23][28]、福富太郎にクラブを経営させたりし[32]、"映画からラーメンまでの東映"と揶揄された[33]。この事業部制は東映関西支社にも敷かれ[34]、同事業部が始めたアニメ関連商品の販売が発展し[34]、1980年に大阪梅田東映会館3階への開設を皮切りに全国展開したのが元祖アニメショップ[35]アニメポリス・ペロ[34]。
1973年2月1日にあった東映の全体会議で[1]、岡田は「東映の全部門をさらに伸ばし、10年後には全事業に全国的なネットワークを張り巡らせて東映の三角マークを日本全国津々浦々に貼り付けたい」と、"東映NN計画"(Toei Nationwide Network Program)なる大風呂敷を広げた[1]。中でも岡田が新規事業として一番意欲的だったのが出版事業で[1][15]、「出版事業は社長就任の時から考えていたんだ。出版界は大手によって支配され、あとはインディペンデント・プロみたいなもんでな。また配給も日販、東販の二社で独占され、新規では入り込めない業界なんだな。そこで私が考えたのは、将来に野望を抱く出版社と手を組み、地固めをしていくということなんだ」などと話し[1]、タバックを設立した同じ1973年2月1日に設置したテレビ関連事業室に[1][36]、最初にやらせたのが黒崎出版との提携と「テレビランド」の創刊だった[1][23]。岡田は「考えてみれば、ウチが長い間手掛けて来た、劇映画、教育映画、テレビ映画の製作配給というのと、出版というのは同じようなセンスなんだ。そこでまずテレビ事業室で『テレビランド』を手掛けたわけだ。これは"東映は損をしない"といういつもの手(笑)、損をしないという範囲で始めたから、そのかわり利も薄いよ。まあ何ぼか入ってくるでしょうよ(笑)。必要なら別の会社も作ろうと考えてる」などと述べた[1]。単行本の出版なども岡田の最初からの構想で[1]、「私はこの出版という事業を、二、三年のうちに必ずものにして全国ネットを組めるようにしたい」という計画を立てていた[1]。
『テレビランド』に続いて岡田と徳間書店社長・徳間康快とで企画したのが成人向け劇画雑誌『コミック&コミック』(『別冊アサヒ芸能 コミック&コミック』1973年5月20日創刊)で[1][37][38]、岡田と徳間が構想したのが、映画監督と劇画家を組ませた映画作品を映画化するというものだった[37][38][39]。当時最も熱気があった劇画と東映映画の二つのサブカルチャーを強引に結びつける力業で創刊された『コミック&コミック』は読書にも歓迎され二十数万部を記録した[1][37]。映画と劇画を平然と往復しようとする大胆な感覚は、以降のスマートなメディアミックスを先取りしており野心的であった[37][38]。『コミック&コミック』に掲載された東映監督の劇画原作のうち、唯一映画化されたのが鈴木則文監督の『聖獣学園』[38][39]。鈴木敏夫は『アサヒ芸能』の特集部に配属の後[40]、この『コミック&コミック』編集部を経て[37][40][41]、『アサヒ芸能』に一旦戻り、その後『テレビランド』編集部に自ら志願して加わり[4][6]、主にまんがを担当[42]、その後『アニメージュ』編集部に移った[40]。鈴木の『コミック&コミック』時代の仕事は、東映の気難しい監督たちと若手劇画家を繋ぐ調整役もあったといわれ[37]、「胃が痛くなる思いだったのではないか」と大塚英志は指摘している[37]。大塚はまた「岡田茂と徳間康快という二人の怪物による『劇画』と『映画』という『コミック&コミック』の近さは、やはり『ナウシカ』における『まんが』から『映画』への近さの問題と地続きだと私には思える」などとと論じている[43]。『テレビランド』創刊と同じ1973年に大ヒットした東映映画『山口組三代目』は、岡田がやはり徳間に先に原作の連載を持ち掛け[44]、岡田と徳間で話し合い[44][45]、田岡一雄の自伝という形を採り、実際は『アサヒ芸能』の編集長に書かせたものを『アサヒ芸能』で連載しそれを原作に映画化したものであった[44][45]。『アサヒ芸能』はこの連載で発行部数を伸ばした[46]。元々仲がよかったといわれる岡田と徳間は[47]、ビジネス上でも付き合いを深めていた。
前掲の多くの事業がシロウトの悲しさで失敗し撤退していったが[28]、出版事業は、映像との相乗効果、宣伝、制作とも東映グループの組織力をバックにし順調に伸びた[8]。出版事業以外の失敗・撤退事業について岡田は、「ドンドン勇ましくやったということで社員の士気をインスパイヤ―したわね。やろうという気がだんだん出て来た。試行錯誤した中で本モノだけが生き残った。社員が一生懸命勉強しましたね。失敗して改めるに憚りなしだよ。どういう商売ならやれるか、分かっただけでもいい勉強になったと思う」などと話した[28]。
創刊号には東映社長・岡田茂と黒崎出版社長・秋田君夫によるメッセージが掲載された。創刊日と同じ日に設置されたテレビ関連事業室の室長に抜擢されたのが渡邊亮徳取締役テレビ企画営業部長で[1]、初代編集長にはテレビ関連事業室課長の飯島敬が据えられた[1][3][48]。飯島はそれまで15年間東映動画に在籍し、漫画原作者や競合する出版社とも付き合いがあったことからの抜擢[1]。しかし雑誌のノウハウを持っていなかった黒崎出版は本誌を持て余し[49]、そのうえオイルショックの影響で経営困難に陥ったため、岡田は1973年11月号から[2]、黒崎出版の編集スタッフごと全てを徳間書店に移して刊行した[37]。これは岡田と徳間が2人で銀座のクラブで決めたという[6]。岡田と徳間は古くから仲がよかったといわれ[47][50][51]、徳間は岡田を"刎頸の友"と表現している[22]。岡田は当時、大映を再建中の旧制広島高校の先輩・坪井一郎トリオ社長と徳間を支援していたが[47]、映画関係者は当時は徳間をよく知らないため[50]、岡田が映画素人の徳間と坪井を操って[50]、新大映と日活を組まして、第二東映のようにするのではと見られていた[50][51]。大映は永田雅一が劇場を全部売ってしまっていたため[52]、配給網のない製作だけしか出来ない独立プロのようなもので[51]、岡田にとっては都合がよく、新大映が製作した映画を東映の劇場で流す構想を持っていたと見られた[50][51]。逆に出版事業に関しては、岡田や東映側は素人であった。
社の決定で児童誌部門開拓が決定したが、徳間書店内部では他所からの新参者で社内の扱いは冷たく、当初は会社全体で『テレビランド』を育てていこうという熱意はほど遠かった[4]。大人向け雑誌を主に刊行している徳間書店の知識では子供向け書籍のノウハウは皆無で、編集部は社内でも肩身が狭い存在だったという[4]。
創刊当初は東映が直接編集に関わっていたことから、創刊号では仮面ライダー1号とキカイダー、1973年7月号では仮面ライダーV3とキカイダー01とロボット刑事Kの共演写真が掲載されるなど、シリーズ・著作権・製作局・系列が異なる東映特撮ヒーローとのクロスオーバーグラビアが掲載されていた[53][注 1]。『マジンガーZ』は競合誌である「テレビマガジン」ではダイナミックプロの作家が起用されていたのに対して[注 2]、本誌では東映動画(現・東映アニメーション)が描き下ろしたセル画を中心に掲載していた[3]。
1974年、映画『マジンガーZ対暗黒大将軍』と『五人ライダー対キングダーク』の公開に合わせた「増刊テレビランド」を発行[3]。以後、「テレビランド別冊(1975年2月号)」を皮切りに、別冊2(1975年4月号)から別冊19「ルパン三世登場(1978年1月号)」まで、「別冊テレビランド」として隔月ペースで定期刊行された。
1977年、「別冊テレビランド」(上述の隔月刊の「別冊テレビランド」シリーズとはまた別)として『宇宙戦艦ヤマト』を特集した「ロマンアルバム」シリーズを出版。好セールスを記録し、アニメ雑誌『アニメージュ』の創刊に多大な貢献をした。
1979年に入ると競合誌より遅れる形で『仮面ライダーシリーズ』のリバイバル特集に重点が置かれ、同年に放送を開始した『仮面ライダー (スカイライダー)』に受け継がれることになる。また、この頃には第三次怪獣ブームの波に乗る形で『ウルトラシリーズ』を短期的に掲載している。
なお、同誌は当時の徳間書店で唯一の子供向け雑誌だったことから、利益率が低かったため、休刊の話は当初から何度も出ていたという[要出典]。
1980年代から、別冊のカラーグラフシリーズが刊行される。
本誌では、後楽園ゆうえんち(現在の東京ドームシティアトラクションズ)で実施されるスーパー戦隊シリーズショーの特集や、過去に掲載した特撮作品を取り上げた『テレラン名作劇場』など、充実した企画が多数展開され、イメージキャラクターであるドンちゃんもこの時期に登場した。
また、バンダイのオリジナル玩具シリーズ『マシンロボ』の記事のタイアップも組まれ、テレビアニメ2作品『マシンロボ クロノスの大逆襲』、『マシンロボ ぶっちぎりバトルハッカーズ』についても掲載された。
創刊20年目を迎えた1992年2月号から雑誌のサイズを拡大し、競合誌の『テレビマガジン』、『てれびくん』の2誌と同様のA4ワイド判となる。
翌1993年から『ウルトラシリーズ』の掲載が再開されたが、基本的に『ウルトラマン80』までの昭和期に制作された実写テレビシリーズのみで固められた記事内容になっており、新作系統の記事が展開されたのは、1996年公開の劇場映画『ウルトラマンゼアス』のみであった。
1997年2月号を最後に、予告なしの突然の休刊。当時徳間書店はバブル崩壊、大映関連の大作映画の不振など、多額な借金を抱えていたため、リストラの一環で雑誌の休刊が続いており、テレビランドの休刊も徳間社長の鶴の一声だったという[54]。徳間は「若者の活字離れが進む中で、雑誌の世界も流れが速くなっている。時代にあわせて、内容や形をどんどん変えて出していかなければなりません」と話した[55]。 休刊時には、元編集長の尾形英夫とつきあいのあったバンプレスト社長・杉浦幸昌から「テレビランド」買い取りの打診があったが、尾形が徳間書店を離れていたためにこの話は実現しなかった[54]。
休刊後もカラーグラフシリーズだけは刊行を続け、「徳間テレビグラフ」として存続していたが、2007年の『仮面ライダー電王』、『獣拳戦隊ゲキレンジャー』の2作品を最後に発売されていない。また、末期の編集スタッフにより、『ハイパーホビー』が創刊されている。完全に対象年齢こそ異なるものの、事実上の後継雑誌であり、徳間書店に保管されているテレビランドに使用された宣材写真の抜粋掲載も行っている。ハイパーホビーはもともとカラーグラフシリーズの別冊扱いとして発売された。
番組本放送時に掲載されていた作品を記載。
本誌掲載の漫画作品を単行本化した時のレーベル。コミカライズ作品が多いが、読者コーナーから発展した『とよみたんとエーコたん』、本誌とは関係ない『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』(アメコミスタイルでのコミカライズ版を景山民夫が邦訳した)なども存在した。
徳間書店のアニメ・特撮関連の出版物はテレビランドの別冊として刊行されることが多い。初期のロマンアルバムやアニメージュもテレビランドの別冊扱いであった。その後、高学年のアニメファン向けの本はテレビランドから離れるが、特撮のムックに関してはテレビランド増刊として刊行された(他に「タウンムック増刊」となる場合もあった)。
「ケイブンシャの大百科」「小学館のコロタン文庫」などに類似した小型の百科・図鑑本。「わんぱっく」表記も使われた。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.