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日本の俳優 (1946-) ウィキペディアから
田村 亮(たむら りょう、1946年5月24日 - )[1]は、日本の俳優。本名:田村 幸照(たむら ゆきてる)[1]。京都府京都市右京区太秦出身[2]。YST所属。阪東妻三郎の四男。男4兄弟の末っ子で、唯一の戦後生まれである。成城学園中学校~成城学園高等学校、成城大学経済学部卒業[1]。兄弟には俳優の田村高廣(長男)、俳優・田村正和(三男)がおり、田村三兄弟それぞれで息長く活躍してきた[注釈 1]。異母弟に俳優の水上保広。既婚者で息子は俳優の田村幸士。
1953年、京都市立嵯峨小学校1年生7歳のとき父を亡くす[2][3]。一家は京都を引き払い[2]、東京世田谷へ移住[2]。世田谷区立明正小学校に転校する[2]。成城学園高校時代にはバスケットボール部に所属し、インターハイにも出場した[4]。英語が好きで貿易関係に仕事に就いて、世界各国を回りたい等の夢があり、役者になりたくはなかった[2]。1965年、成城学園高等学校3年生の時に、阪妻13回忌企画『破れ太鼓』につきあいのつもりで出演したが[2][5]、これを映画関係者が見逃す筈もなく[2]、映画会社の獲得合戦が激しくなった[2]。稲垣浩監督から「101本記念の映画を撮るので出演しないか」と声をかけられ[2]、断れる相手ではなく「やらせてもらいます」と返事をせざるを得なかった[2]。稲垣監督の映画『暴れ豪右衛門』にて映画デビュー[1]。ただ、最初は大学卒業後はサラリーマンとして就職するつもりでいたので、本名のままで出演したら就職試験を受ける上で「何かとまずい」と思ったことから、『暴れ豪右衛門』の稲垣監督に芸名を付けることを願い出た。この芸名には「嘘をつかない正直な男」という意味が込められているという[2][6]。役者になることになかなか踏ん切りがつかず、大学卒業後の1969年に俳優小劇場養成所へ入所[1]。一年通って踏ん切りがつき、養成所卒業と同時に[2]、東宝と専属契約をした[2][7]。
1970年に主演作品『無常』がスイスのロカルノ国際映画祭でグランプリ(ゴールデンジャガー賞)を受賞するなど日の目を見た[8]、1974年に前年の作品『狼無頼控』で京都市民映画祭テレビ部門男優賞、1978年舞台、『東宝二月特別公演 阪妻を偲ぶ』では父妻三郎の代表作である『雄呂血』(正和とダブル主演)[8]と『無法松の一生』(高廣主演)にそれぞれ出演した。1980年には日本民間放送連盟賞 優秀賞大賞を受賞[注釈 2][1]。
1984年、田村3兄弟が共演して話題となった『乾いて候』では大岡忠相を演じ、その後『暴れん坊将軍』でも2代目・大岡忠相を演じた。兄らとは異なり、いわゆる「2時間ドラマ」に多くキャスティングされており、1986年頃からは山村美紗原作番組にほぼ毎年出演している[注釈 3]他、年に数度の舞台にも出演している。
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