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日本の劇作家、演出家 (1946-2003) ウィキペディアから
岸田 理生(きしだ りお、女性、1946年3月10日[1] - 2003年6月28日[2])は、日本の劇作家、演出家、シナリオ作家、小説家、翻訳家。 本名︰林 寛美(はやし ひろみ)[2]。
小劇場運動の旗手の一人と目された。怪奇幻想的な作風で、小説も書いたほか、テレビドラマのシナリオを多数執筆した。
1974年(昭和49年)、寺山修司が選考委員を務めていた第1回新書館フォアレディース賞を『不眠症の猫』で受賞[注釈 1]。それをきっかけに劇団天井桟敷に参加[3]。1983年(昭和58年)に寺山が病没するまでの間、寺山との共作で戯曲『身毒丸』『奴婢訓』『レミング』などを執筆[4]、他に映画『草迷宮』『ボクサー』などの脚本も手掛けた[5]。
一方で、1977年(昭和52年)に早稲田大学演劇研究会で岸田の『墜ちる男』が上演されたのをきっかけに、樋口隆之らと「哥以劇場(かいげきじょう)」を結成し座付き作家となる[6]。1981年(昭和56年)に哥以劇場が解散した翌年には岸田理生事務所を設立[2]、和田喜夫の演出で『ハノーヴァの肉屋』を上演する[6]。それをきっかけに1983年(昭和58年)、和田の率いる「楽天団」と合併し「岸田事務所+楽天団」として活動をはじめる[6]。1984年(昭和59年)に上演した『糸地獄』で第29回岸田國士戯曲賞を受賞[3]。
1988年(昭和63年)には『終の栖・仮の宿』で第23回紀伊國屋演劇賞を受賞[7]。1992年(平成4年)には『糸地獄』がオーストラリアのパース演劇祭、アデレード演劇祭で上演され好評を博す[3]。同年、第1回アジア女性演劇会議に参加する[4]。
1993年(平成5年)に「岸田事務所+楽天団」解散後は「岸田理生カンパニー」を主宰する。1994年、オーストラリアで開催された国際女性劇作家会議に参加する[4]。
2001年(平成13年)2月、前年12月に急逝した如月小春の代理として、第3回アジア女性演劇会議(AWT)の実行委員長を務める[8]。同年12月、世田谷パブリックシアターのシアタートラムで開催された如月小春追悼の記念シンポジウムに参加、その数日後に自宅で倒れ、闘病生活に入る[9]。2003年(平成15年)6月28日、大腸癌で死去[10][2][注釈 2]。
2005年(平成17年)、岸田理生カンパニーのメンバーを中心とした「演劇集団 ユニットR」が結成された[11]。また、「理生さんを偲ぶ会」主催の「岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス)」が、2007年(平成19年)より毎年6月から7月にこまばアゴラ劇場などで開催されている[12][13][14]。
上記の出典は「岸田理生略歴」による[15]。
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