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日本のテレビドラマ番組 ウィキペディアから
『大忠臣蔵』(だいちゅうしんぐら)は、全52回にわたり、1971年(昭和46年)1月5日から12月28日まで、NETテレビ(現在のテレビ朝日)系列ほかで(毎週火曜午後9時)に放送されたテレビドラマである。 三船敏郎のテレビ初主演作品。
民放番組としては異例ともいえる規模を誇る大作時代劇で、“民放版大河ドラマ“ともいえる作品。
当時よりNHK大河ドラマを意識した、あるいは大河ドラマに対抗するべく立ち上げられた時代劇企画は少なくなかったが、下記の点が当作について、NHK大河ドラマに匹敵する大作として語られる所以となっている。
物語は浅野内匠頭の祝言から始まり、江戸城松の廊下の刃傷事件によりおこる赤穂藩の悲劇を経て、多くの名場面を綴りながら討入りに向かっていくという、大石内蔵助たち赤穂浪士を中心に描く、定番の忠臣蔵作品。
江戸城松の廊下の刃傷沙汰については、原因は播州秘伝赤穂塩の製塩法を巡る播州浅野家と吉良家との軋轢が元との解釈を採っている。一年間放映の長丁場を生かして刃傷までの経緯も丁寧に描かれ、事件発生は第5回であった。
既に多くの時代劇で剣豪を演じて固まっていた主演・三船の“強い侍“のイメージを生かし、彼が得意とする殺陣を番組の売りのひとつにする狙いもあって、大石が東軍流剣術の心得があった史実を取り入れ、三船演じる大石を剣の達人に設定、大石が刺客や隠密たちと自ら渡り合う場面がふんだんに描かれた。
既存の原作は用いず、オリジナル脚本で制作することと、忠臣蔵で一般によく知られている挿話については洩らさず取りあげて長丁場を生かすこと、という2点が物語面での方針として徹底されていた[1]といい、公儀隠密を束ねる柳生家が柳沢の意を受けて赤穂浪士たちの討入り阻止のため諜報作戦を展開、その活動が多くのお馴染みの名場面にも絡んでいくという、企業スパイの横行した放映当時の世相も取り込む形[1]で、スパイサスペンスの趣向も盛り込まれた。このため赤穂浪士たちが諜報作戦にも立ち向かいながら本懐を目指す物語[2]となっており、多くの名場面を盛り込んだ、全体として定番の忠臣蔵作品でありながら、挿話それぞれの描き方においてはかなり特徴的な展開がみられ、本作の個性となっている。
最高視聴率は、第50回「討入り その一」の32.8%(「テレビ朝日開局60周年記念 年代別にすべて発表!! 番組視聴率ランキング」の1970年代視聴率ランキング 7位)で、この回は実際の討入りの日であった12月14日に放送されている。
後述のとおり、討入り場面の撮影前に上野介役の市川中車が急逝してしまったため、第47話以降は実弟の市川小太夫が後任として上野介を演じた。
DVD版が発売されており視聴可能である(全13巻・レンタルもあり)。
話
数 |
放送日 | サブタイトル | 脚本 | 監督 |
---|---|---|---|---|
1 | 1971年1月5日 | 風雲はらむ赤穂城 | 高岩肇 | 土居通芳 |
2 | 1971年1月12日 | 渦巻く黒い霧 | 高岩肇
土居通芳 | |
3 | 1971年1月19日 | 美しき士魂 | 宮川一郎 | 村山三男 |
4 | 1971年1月26日 | 耐えがたき日々 | ||
5 | 1971年2月2日 | 元禄の一番長い日 | 高岩肇
土居通芳 |
土居通芳 |
6 | 1971年2月9日 | 悲報赤穂へ | 宮川一郎 | 西山正輝 |
7 | 1971年2月16日 | 大いなる決断 | ||
8 | 1971年2月23日 | 暗躍する隠密群 | 池田一朗 | 古川卓己 |
9 | 1971年3月2日 | 大評定 | ||
10 | 1971年3月9日 | 葬られた嘆願書 | 村山三男 | |
11 | 1971年3月16日 | 神文血判 | ||
12 | 1971年3月23日 | 赤穂城の落日 | 土居通芳 | |
13 | 1971年3月30日 | 下級武士 | 村山三男 | |
14 | 1971年4月6日 | 瑤泉院の持参金 | 丸輝夫 | |
15 | 1971年4月13日 | 髷斬り魔 | 土居通芳 | |
16 | 1971年4月20日 | 柳生の隠密 | 村山三男 | |
17 | 1971年4月27日 | 公儀への一戦 | 柴英三郎 | 土居通芳 |
18 | 1971年5月4日 | 分裂 | 西山正輝 | |
19 | 1971年5月11日 | 静かなる対決 | ||
20 | 1971年5月18日 | 哀しき士情 | 土居通芳 | |
21 | 1971年5月25日 | 女間者 | 村山三男 | |
22 | 1971年6月1日 | 第一の脱落者 | ||
23 | 1971年6月8日 | 大石伏見に遊ぶ | 池田一朗 | 西山正輝 |
24 | 1971年6月15日 | 見えざる魔手 | 土居通芳 | |
25 | 1971年6月22日 | 悲恋お軽勘平 その一 | 柴英三郎 | 西山正輝 |
26 | 1971年6月29日 | 悲恋お軽勘平 その二 |
NET所属の勝田康三プロデューサーが当作の現場指揮を任された際、制作局長・田中亮吉より、作品について、既存の原作は用いず、オリジナル脚本で制作することと、忠臣蔵で一般によく知られている挿話については洩らさず取りあげる、という先述の方針を指示された。勝田はエラい仕事が来た、と思いつつ肚を決め、脚本家たちを選んで、メイン格に選んだ池田一朗[9](後の作家・隆慶一郎)と共に、東京で旅館に籠もって企画を練った。旅館で資料として約200冊の関連書を読み込んだが、既存作を取り入れないとの上記の条件もあっただけに、作家が創作した挿話を知らずに脚本に取り込む形になるのを避けるため、読破したうえで物語造りを進める意図が大きかったとのこと[10]。
制作は三船率いる三船プロで、同プロにとってもテレビへの本格進出に乗り出した正念場の作品だったが、東映がNETでの三船プロ制作に反発したため[11]、NETの田中制作局長が東映・大川博社長と交渉、結局、三船を東映作品に出演させる約束をして、三船プロ制作を納得してもらった。田中はその上で、佐久間良子(当時東映所属)の当作への出演を大川に了解させ、粘り腰を見せた[12]。
大物俳優を集めたためにそれぞれのスケジュール調整が困難だったこともあってか、序盤ないし中盤にレギュラー或いはセミレギュラーとして四十七士役で出演していた何人かは、終盤の討入りの回に登場しないという事態が起きている[13]。
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