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日本の俳優(1912-1992) ウィキペディアから
田中 春男(たなか はるお、1912年3月25日 - 1992年2月21日)は、日本の俳優。名脇役として日本映画界を支えたバイプレイヤーである。娘は女優の宇治みさ子。
1912年3月25日、京都府京都市中京区で染色業を営む家に二男二女の次男として生まれる。教業小学校卒業後、同志社中学校を受験して合格するが、家の都合で大阪府大阪市の泉尾中学校に入学した。
1925年、映画俳優になるため、日活大将軍撮影所所長の池永浩久の自宅を訪ねて入社を懇請した。ようやく許されると中学校を中退し、日活に入社した。2年間ほど仕出しを務め、1928年に『出世二人小僧』で準主演に抜擢される。1931年の『かんかん虫は唄ふ』で初主演し、以降二枚目スターとして活躍する。1933年に現代劇部から時代劇部に移るが、1934年に友人で日活京都の製作部長だった永田雅一が興した第一映画社に参加、脇役として活躍した。
1936年、第一映画社が解散後、永田について新興キネマに入社し、主演・準主演で活躍した。しかし、1940年に現代劇部革新を叫んで会社と衝突、同志の菅井一郎、河津清三郎、清水将夫らと共に退社して俳優団体・第一協団を結成した。以降はフリーとなり戦中は主に東宝の映画に出演したが、完全に脇役に回っていた。
戦後は、東宝・新東宝などの映画に出演するが、次第に独特の個性を発揮して、黒澤明や小津安二郎、溝口健二、豊田四郎など日本映画史を彩る数々の巨匠の作品に出演し性格俳優として活躍した。
特に腹に一物ある関西人(商人など)を演じさせたら天下一品の名優であった。分けても清水次郎長で知られる『次郎長三国志』シリーズの登場人物である法印大五郎は、自らもって適役と任ずる当たり役で、監督や配給会社が変っても自ら志願して可能な限り演じ続けた。東宝で9本、東映で4本の同映画を残し「次郎長ものの神様」とも称されたマキノ雅弘監督などは、彼の意志と演技力を高く評価していた。1975年に、やはりマキノ雅弘が監督したテレビドラマ『マチャアキの森の石松』でも、法印大五郎を熱望したが、先に岸部シローが決まっていたため、マキノ監督に断られた。
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