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日本の俳優・ナレーター(1928−2010) ウィキペディアから
佐藤 慶(さとう けい、1928年〈昭和3年〉12月21日[1] - 2010年〈平成22年〉5月2日[1])は、日本の俳優、ナレーター。福島県会津若松市生まれ[2]。本名:佐藤 慶之助(さとう けいのすけ)。
さとう けい 佐藤 慶 | |||||
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本名 | 佐藤 慶之助(さとう けいのすけ) | ||||
生年月日 | 1928年12月21日 | ||||
没年月日 | 2010年5月2日(81歳没) | ||||
出生地 | 日本、福島県会津若松市 | ||||
死没地 | 日本、東京都 | ||||
職業 | 俳優、ナレーター | ||||
ジャンル | テレビドラマ・映画 | ||||
活動期間 | 1952年 - 2008年 | ||||
活動内容 |
1952年:俳優座養成所 1964年:『鬼婆』 1965年:『太閤記』 1967年:『白い巨塔』 1970年:『樅ノ木は残った』 1971年:『儀式』 1981年:『白日夢』 1993年:『炎立つ』 2010年:死去 | ||||
配偶者 | あり | ||||
主な作品 | |||||
映画 『青春残酷物語』 『鬼婆』 『儀式』 『日本の悪霊』 『白日夢』 テレビドラマ 『太閤記』 『白い巨塔』 『樅ノ木は残った』 『華麗なる一族』 『大都会』 『炎立つ』 『ほんまもん』 | |||||
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佐藤家は先祖代々会津藩士で、戊辰戦争に敗れて以降は漆器材料の卸商を営んでいた[3]。また、二・二六事件に参加し刑死した渋川善助の妻絹子は叔母。
福島県立会津工業学校(現・福島県立会津工業高等学校)染織科卒業後、会津若松市役所戸籍係に勤務するかたわら、地元で結成した新劇愛好会で演劇に打ち込んでいたが、会の発表会の日に無断欠勤をして役所を免職された[2]という「根っからの新劇人」。
その後1951年に上京し、俳優の小沢栄太郎の芝居を見て、「ふてぶてしいまでに人間の暗い面を表現している」と憧れた[2]。この頃痩せた貧弱な身体に劣等感を持っていたが、体質改善をして半年間で24kgも体重を増やす[2]。1952年(昭和27年)に小沢が所属する俳優座養成所に第4期生として入団した。同期には宇津井健・佐藤允・仲代達矢・中谷一郎らがいる。なお、このうち佐藤允、仲代、中谷の3人は、後年岡本喜八監督作品の常連として「喜八一家」と呼ばれるようになるが、佐藤慶も2本の岡本作品に出演している。
1955年以降、大島渚監督の一連の作品(1960年の「青春残酷物語」のヤクザ役、1966年の「白昼の通り魔」の強姦殺人犯役など[2])をはじめ、存在感ある悪役として本領を発揮(中でも自身の無機質な風貌を生かした、屈折した性格の悪役を得意としていた)。また、1960年代後半頃は、「個性的なアクの強さがファンを惹きつけている」と評された[2]。
1965年の『鬼婆』でパナマ国際映画祭主演男優賞、1971年の『儀式』でキネマ旬報主演男優賞を受賞。
テレビドラマでは1967年の『白い巨塔』で、前年に公開された同名映画で田宮二郎が演じた野心的な雰囲気とは違った、暗くねじれた個性を前面に出した財前五郎役を演じて代表作のひとつとなった。
低く泰然とした声でのナレーションに人気があり、1970年代から1980年代にかけて日本テレビで放送された科学ドキュメンタリー『知られざる世界』のナレーターを担当した。4時間半にわたる長尺のドキュメンタリーを劇場公開して話題になった映画『東京裁判』でも単独でナレーターをつとめている。
1981年には『白日夢』で武智鉄二監督の演出のもと愛染恭子と本番行為を行い、一躍話題になった[2]。
1980年代から1990年代中盤頃にかけては「卒業」などテレビドラマを中心に主人公の厳格な父親役を数多く演じ、その重厚な演技が人気を博した。
2000年以降も体調をみながら仕事を続け、2004年に衛星劇場より配給製作された短編オムニバスホラー映画『日常恐怖劇場・オモヒノタマ〜念珠 七ノ珠 ECHOES』では主演級の老人役も演じきった。
体調面も含め、80歳を超えてからは仕事を控えるようになっていた。2010年5月2日午後4時19分、肺炎のため都内の病院で死去した[4]。81歳没。亡くなる前年の2009年に公開された映画『カイジ 人生逆転ゲーム』(2008年11月撮影)が遺作となり、貫禄のある役を最後まで演じきった。佐藤の死去の報を受けて、市川森一(脚本家)、仲代達矢(俳優)など演劇関係者が追悼のコメントを発している[5][6]。生涯で出演した映画は、190本に上る[2]。
本人は生前、「常識的な役にはあまり魅力を感じません。犯罪者とか権力者の方が食指が動きますね」と語っていた。別の時には、「善人ってのには興味がないんですね。全然つまんない。ワルの方が面白い」とも語っていた[2]。また、「どうして役者をやっているかを一言で言えば、“人間とは何か?”ということを突き詰めて表現したいと思っているからです」と語っていたという[2]。
70歳を迎えた頃に「今の夢は?」と聞かれた際、「徹底的なワルがやりたい。誰かそういう脚本を書いてくれないかなあ」と答えたという[2]。
崔洋一からは、「佐藤さんは勉強家で役柄に対する理解力が高い。その一方で時に予想のつかない演技になることもある。作り手側に新たな想像力を湧かせる怪優でした」と評されている[2]。
子供の頃からガリ版(謄写版)に文字を刻むことが得意だった。小学生の頃から古いガリ版を使って、時間割表をガリ版刷り[注釈 1]して友達に配っていた[2]。俳優座時代はこのガリ版刷りの腕を買われ、所属役者の名簿、授業で使うテキストや案内状、滞納した授業料の督促状まてガリ版で作っていた[2]。本人は下積み時代の生計を支えてくれたガリ版への感謝を忘れず、有名になってからもガリ版用具を大切に保管していた[2]。
生前、ガリ版で制作した印刷物は全てファイリングして保存していた[2]。愛用の謄写器は使うたびに磨いていたため、後年になっても新品のようにピカピカだった[2]。また、出演した映画、舞台、テレビの全作品を年代別に整然とした字でノートに記していた[2]。
ガリ版印刷の保存運動をする中央印刷(山形市)がダメ元で佐藤に手紙を出したところ、謄写器や本人の印刷物のいくつかが寄贈され[2]、同社が運営する山形謄写印刷資料館に対してもコメントが寄せられた[7]。
月刊誌『噂の真相』を愛読しており、創刊準備号から最終号まで1号も欠かさず読みつづけたという。
ダジャレ好きで、古村比呂によると「チョッちゃん」で主人公の父親役を演じた(この時も厳格な役柄)際には、臨終の撮影シーンでもカメラが回る直前にダジャレを連発、共演者が笑いすぎて撮影にならなくなったこともあったといい、容貌や役柄からくる厳格なイメージとは異なる、意外な茶目っ気も持ち合わせていた。
かなりの酒豪でもあり、ベロベロに酔った状態で撮影所に現れることもよくあったが本番ではちゃんと演技ができていたという。共演者・スタッフからは、フランケンシュタインのような見た目から“ベロンケンシュタイン”と呼ばれていた[2][注釈 2]。
1981年の映画「白日夢」での愛染恭子との性交シーンでは、スタッフ30人ほどが見守る中で6時間かけて撮影が行われ、愛染に勃起させてもらって何とか演技を終えた[2][注釈 3]。
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