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江戸時代前期の旗本 ウィキペディアから
吉良 義周(きら よしちか/よしまさ)は、江戸時代前期の高家旗本。米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男として生まれ、祖父である吉良義央の養子となり高家吉良家を継ぐが、元禄15年12月14日(1703年1月30日)の赤穂事件で、赤穂浪士らに義央を討たれて自身も負傷する。その後、江戸幕府から事件当日の対応が「仕方不届」であることを理由に改易されて配流先の諏訪高島藩で21歳にて病死、高家吉良家は断絶した。
貞享3年(1686年)2月22日に出羽国米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男春千代として誕生[2]。綱憲は吉良義央の嫡男であったが、母・富子が上杉綱勝の妹であった関係から綱勝急逝後に上杉家を継いでいた[3]。その後、吉良家では義央の次男・三郎が嫡男となったが、貞享2年(1685年)に夭折した[2]。代わりに上杉春千代を養子とする願いを提出し、元禄2年12月9日(1690年1月19日)に許可され、春千代は吉良左兵衛義周と名を改めると、元禄3年4月16日(1690年5月24日)、米沢城から江戸鍛冶橋の吉良邸に入った[4]。時に5歳。
元禄9年11月21日(1696年12月5日)、5代将軍・徳川綱吉に初御目見する[4][5]。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)、義父(祖父)義央が浅野長矩から殿中刃傷を受け、12月12日(1702年1月9日)、義央は事件の影響で隠居した。
赤穂浪士らによる本所吉良邸への討ち入り(赤穂事件)があった元禄15年12月14日(1703年1月30日)の際、義周は18歳であった。義周も自ら薙刀をとって応戦し、武林隆重(「左兵衛様疵ハ、武林唯七手に御座候由」『米沢塩井家覚書』より)に面と背中を斬られてそのまま気絶した。不破正種に薙刀を奪われた[6]重傷の義周はその場に放置され、殺害されることはなかった。
事件後吉良家は、すぐに家臣の糟谷平馬を使者とし、赤穂浪士による討ち入りの旨を老中・稲葉正通邸に届け出ている(『検使宛吉良左兵衛口上書』)。
年が明けて元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府評定所に呼び出された義周は、荒川定昭[7]や先手組猪子一興[8]に付き添われながら、麻布邸を出て評定所に出頭した。大目付仙石久尚より、当日の対応に際する「仕方不届」を理由に吉良家は改易の上、義周は信濃国諏訪高島藩藩主諏訪忠虎の国元での預け処分が申し渡された。諏訪家は予め預人を渡される際の指図を受けていた。諏訪高島藩は前もって評定所前に家臣を用意しており、義周の身柄は徒目付により引き立てられ、諏訪家家臣に引き渡された[9]。義周は網の掛けられた乗り物(罪人用の籠)に乗せられて、本所にあった諏訪高島藩邸へ移送された[9]。
元禄16年2月11日(1703年3月27日)、諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発し、預かり先の信濃国諏訪藩へ向かった。随行の家臣は左右田孫兵衛重次と山吉盛侍の2名のみ、また荷物も長持3棹と葛籠1個だけであった[10]。
2月16日夕方に諏訪高島城下に到着した。諏訪家では高島城南丸の屋敷を改装して預かり屋敷にしたが、義周は一時的に城内の志賀満矩宅に入れられた。この南丸と屋敷は、天和3年(1683年)夏まで松平忠輝を預かっていた屋敷であり、諏訪家は何度か幕府に伺いを立てて南丸の預かり屋敷を完成させ、義周が南丸に移されたのは4月16日のことだった[10]。
吉良義周や左右田、山吉の居場所について緘口令が敷かれ[11]、吉良義央や上杉家の批評も禁じた。一方で高い身分であった義周は「左兵衛様」と敬称されていた[12]。たばこや衣類、蚊帳は許されたが、通信はすべて検閲された[12]。自殺を防ぐ目的から、義周の前へ出る者は扇や小刀も番所へ預けさせられた[12]。
「左兵衛様さかやき髭段々長く成り候」と左右田や山吉が諏訪藩に申し出たが、小さな鋏で摘むことがやっと許され、かみそりは許可されなかった[12]。ただし、高島藩の記録に「一、左兵衛様が、爪を切る時、鋏を使う時は、利兵衛、猶右衛門、八左衛門、八郎兵衛(いずれも藩士の名前)の一人以上が付き添うこと。」とあるので定期的に髪や爪を切っていた模様である。同記録には他に「左兵衛様の部屋に炬燵を置けるように申し付けた」「菓子を江戸から届けてもらいたい」「疝気が起こり延川雲山に診てもらったところ軽い容体であったが、油断なきように」など細かな配慮が記されている[13]。
義周は配所で絵や書を良くしたが、元来病弱であり、しばしば病気になった。宝永3年1月19日(1706年3月3日)に危篤に陥った[14]。20日(4日)に死去。享年21[14]。
遺体は塩漬けにされ、防腐処理が施されたが腐臭が強かったため、よくあることではあるが香を大量に焚くなどして防臭に努めた[15]。同年2月4日(3月18日)、幕府の石谷清職の検死を受けた後、諏訪の法華寺に土葬された[15]。遺臣の孫兵衛・盛侍の両名は義周の遺言により、義周の石塔を自然石で立てて欲しいとして、代金3両を法華寺に納めている[15]。現在、同寺に自然石の墓と供養塔が残る。また、諏訪大社にも墓があり、義周の手になる書碑も建っている(画像集を参照)。
義周の死により、三河西条吉良家は断絶した[5]。
華道は池坊流立花(りっか)と抛入(なげいれ)、能は金剛流を嗜んだ。「華道の芯とは葉にて花を包む心持にて活かし、花が中心に立ちて左右長短の枝が相応する」と津軽侯継嗣の華会で述べている[16]。
赤穂事件以来、三河吉良家は断絶したが、武蔵吉良家(奥州管領家)の蒔田義俊(1420石の高家)が吉良への復姓を願い出て宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された[2]。
また三河吉良家の分家の旗本(500石)だった東条家当主東条義孚が享保8年(1723年)に吉良への復姓を幕府に願い出て認められた。
両家とも明治維新まで続き、維新後は士族となった。後者(旧東条家の吉良家)は大正元年(1912年)に吉良義道が死去した後はどうなったか不明である[17]。
両名は若くして病死の義周の分まで長生きしたが、その生きざまは対照的でもあった。
2018年(平成30年)6月、「吉良義周公慰霊会」により「吉良義周公木造坐像」が制作され[18]、開眼供養の上で諏訪法華寺の本堂奥の間に安置され、毎歳忌が営まれている。右手に笏を持った黒色の束帯姿で、大きく吉良家の家紋「五三の桐」が表わされている。
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