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奈良市の寺院 ウィキペディアから
法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある光明宗の本山の寺院。山号はなし。本尊は十一面観音。開基は光明皇后である。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。元は真言律宗に属したが、1999年(平成11年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。
藤原不比等の邸宅跡に造られた光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる[1](門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが文書で確認できるのは、2年後の天平19年(747年)からである。
聖武天皇は天平13年(741年)2月14日、国分寺・国分尼寺建立の詔を発した(詔の日付は『類聚三代格』による)。法華寺は、この詔に基づいて建立整備された国分尼寺である。ただし、前述のように、法華寺の前身である皇后宮を宮寺としたのは4年後の天平17年(745年)5月のことであり、国分尼寺を意味する「法華寺」の寺号の使用が確認できるのは、天平19年(747年)正月の「法華寺政所牒」(正倉院文書)が初見である。国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられてからの数年間、大和国の国分尼寺は存在しなかったのか、存在したとしたらどこにあったのかなど、創建経緯の細部については不明な点が多い。福山敏男は、天平16年(744年)6月8日付けの「金光明寺写経所文書」(正倉院文書)に「法花寺」という寺名が見えることに着目し、現・法華寺の創建以前に別の場所に「法花寺」すなわち国分尼寺が存在したこと、それは東大寺の前身寺院である金鐘寺に属していた阿弥陀堂であろうという説をとなえた[2]。
法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。天平宝字6年(762年)の「作金堂所解(さくこんどうしょげ)」および「造金堂所解案」という文書を見ると、この時点で金堂の建立工事がまだ続いていたことがわかる。なお、法華寺造営のための役所であった造法華寺司は延暦元年(782年)に廃止されており、遅くともこの頃までには伽藍整備が完成していたと見られる。
発掘調査の結果、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北3町、東西2町に及んでいたことがわかった。創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南門のさらに南に位置し、金堂の南に中門、その南には東西両塔があったことがわかっている。さらに、境内南西部には天平宝字3年(759年)から翌年にかけて建立された阿弥陀浄土院があった。阿弥陀浄土院は、丈六の阿弥陀三尊像を本尊とし、『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761年)、光明皇太后の一周忌がここで営まれている。
法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録からうかがえる。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。
鎌倉時代に入り、東大寺大仏殿の再興を果たした僧・重源は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊によって本格的な復興がなされた。
その後、明応8年(1499年)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされると、永正3年(1506年)7月、再び攻め込んできた赤沢朝経によってまたも焼き討ちされた。そのうえ文禄5年(1596年)には慶長伏見地震にもあって、最終的には東塔以外の建物を失った。
現在の本堂、南門は慶長6年(1601年)に豊臣秀頼と母の淀殿が、鐘楼も翌慶長7年(1602年)に豊臣秀頼と淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。
江戸時代になり、後水尾天皇の養女・高慶尼が入寺して以来、当寺は尼門跡寺院となった。
宝永4年(1707年)、これまで兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔が地震によって倒壊している[3][4]。
法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、1999年(平成11年)に創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ離脱・独立した。
2010年(平成22年)5月6日 - 8日には光明皇后1250年大遠忌法要が実施された。
国宝。法華寺の本尊。像高1.00メートル。本堂の厨子内に安置する。平素は非公開で、春と秋に期日を限って開扉される。「天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった」という伝承をもつが、実際の制作は平安時代初期、9世紀前半と見られる。この伝承は『興福寺濫觴記(らんしょうき)』にみられるもので、それによると、乾陀羅国(今のパキスタン北部、ガンダーラ)の見生王は生身(しょうじん)の観音を拝みたいと熱望していた。王はある夜の夢で「生身の観音を拝みたければ日本の光明皇后を拝めばよい」と告げられたので、問答師という仏師を日本へ遣わした。問答師は光明皇后をモデルに3体の観音像を造り、そのうちの1体が法華寺の観音であるという。
像はカヤ材の一木造。保存状態もよく、平安時代彫刻を代表する作品の1つである。制作当初から彩色や金箔を施していない素木像で、髪、眉、ひげなどに群青、唇に朱、白目に白色を塗り、瞳、肩に垂れる髪、冠や腕釧などに銅板を用いるほかは、木肌の美しさを生かした素地仕上げとする。両手首から先や天衣の遊離部分など、ごく一部を別材とするほか、頭・体の主要部から、蓮華座の中心部分、その下の心棒まで一材から彫り出した一木造である。経典には十一面観音像は檀像、つまり香木のビャクダン(白檀)を用いて造るべきことが説かれているが、ビャクダンを産しない日本では、カヤ材で素木仕上げの像を檀像とみなしていた。本像も檀像として造られたものと思われる。台座は像の蓮華の下を1本の細い茎で支える、珍しい形式のものである。光背も他にほとんど例をみない形式のもので、ハスの未開の花と葉を表している。この光背は1905年(明治38年)の補作だが、古い光背を踏襲して造ったものである。
像は左脚に重心を置き、右脚を遊ばせ、右足の第1指がやや持ち上がって、歩み出そうとする瞬間を表現したかのようである。右腕を極端に長く表現するのは、仏の三十二相八十種好の一つである「正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましつそう)」を表したものである。本像の顔貌表現、胸部と大腿部の量感を強調したプロポーション、太いひだと細く鋭いひだを交互に刻む翻波式衣文(ほんぱしきえもん)などは平安初期彫刻特有の様式である。和辻哲郎(『古寺巡礼』)、亀井勝一郎(『美貌の皇后』)はいずれもこの像の表現を豊満な女体に例えて賛美している。
本像は当初からの本尊ではなく、近世初頭に本堂が再興された際に本尊とされたものと考えられている。建保4年(1216年)頃成立の『諸寺建立次第』という史料によると、当時法華寺の本尊は大日如来であり[8]、その背後に白檀の観音像があると記されている。近世の地誌である『和州寺社記』(寛文6年・1666年)には、現在と同様、本堂の本尊とされている[9][10][11]。
出典:2000年までの国宝・重要文化財指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
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