新潟県中越地震
2004年10月23日に新潟県中越地方を震源として発生した地震 ウィキペディアから
2004年10月23日に新潟県中越地方を震源として発生した地震 ウィキペディアから
新潟県中越地震(にいがたけんちゅうえつじしん)は、2004年(平成16年)10月23日17時56分に新潟県中越地方を震源として発生したM6.8、震源の深さ13キロの直下型の地震[1]。1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)以来、当時観測史上2回目の最大震度7を記録した。なお、1996年の震度改正以降、震度計によって震度7が観測されたのは、この地震が初めて[G 1]。
新潟県中越地震 | |
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地震の震央の位置を示した地図 | |
本震 | |
発生日 | 2004年(平成16年)10月23日 |
発生時刻 | 17時56分0.3秒(JST) |
震央 | 日本 新潟県中越地方 |
座標 | 北緯37度17.5分 東経138度52.0分 |
震源の深さ | 13 km |
規模 | マグニチュード(M)6.8 |
最大震度 | 震度7:新潟県川口町(計測震度6.5) |
津波 | なし |
地震の種類 | 大陸プレート内地震 |
余震 | |
回数 |
震度5弱以上:18回 震度1以上:1,000回以上 |
最大余震 | 2004年(平成16年)10月23日18時34分(JST)、M6.5、最大震度6強 |
被害 | |
死傷者数 |
死者68人 (直接死16人、災害関連死52人[N 1]) 負傷者4,805人 (2007年8月23日現在) |
被害総額 | 3兆円注1 |
被害地域 | 新潟県、長野県、群馬県など |
注1:新潟県による。
出典:特に注記がない場合は気象庁による。 | |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
新潟県北魚沼郡川口町(現・長岡市)の直下を震源として発生した逆断層型の内陸地殻内地震で、震源直上の川口町では最大震度7を観測した[1]。震度7を観測したのは、1995年の阪神・淡路大震災以来9年ぶり、観測史上2回目。なお、阪神・淡路大震災では気象庁などの調査によって震度が判定されたため、震度計で震度7が観測されたのは初めて。また、M6を越える規模の大きな余震が複数回発生するなど、余震回数が多く群発地震的様相を呈したことも特徴のひとつ。
気象庁はこの地震を平成16年(2004年)新潟県中越地震(英: Mid Niigata Prefecture Earthquake in 2004)と命名した。英語圏ではNiigata Prefecture Chuetsu Earthquakeなどの表記が多く用いられた。また、新潟県はこの地震による震災の呼称を新潟県中越大震災とし、11月29日より使用している[G 2]。
震度5弱以上の揺れを観測した観測点は以下の通り[G 4]。観測点名は地震発生当時のものを使用する[G 5]。
震度 | 都道府県 | 観測点名 |
---|---|---|
7 | 新潟県 | 川口町川口 |
6強 | 小千谷市城内・山古志村竹沢・小国町法坂 | |
6弱 | 長岡市幸町・十日町市千歳町・栃尾市大町・越路町浦・三島町上岩井・堀之内町堀之内・広神村今泉・守門村須原・入広瀬村穴沢・川西町水口沢・新潟中里村田沢・刈羽村割町新田 | |
5強 | 安塚町安塚・松代町松代・松之山町松之山・見附市昭和町・中之島町中之島・与板町与板・和島村小島谷・出雲崎町米田・小出町小出島・塩沢町塩沢・六日町伊勢町・新潟大和町浦佐・津南町下船渡 | |
5弱 | 福島県 | 只見町只見・西会津町野沢・柳津町柳津 |
群馬県 | 片品村東小川・高崎市高松町・北橘村真壁 | |
埼玉県 | 久喜市下早見 | |
新潟県 | 上越市大手町・上越市木田・浦川原村釜淵・牧村柳島・柿崎町柿崎・頸城村百間町新田・吉川町原之町・三和村井ノ口・三条市西裏館・柏崎市中央町・加茂市幸町・出雲崎町川西・広神村米沢・栄町新堀・湯之谷村大沢・高柳町岡野町・西山町池浦・燕市秋葉町・弥彦村矢作・分水町地蔵堂・吉田町日之出町・巻町巻・月潟村月潟・中之口村中之口 | |
長野県 | 三水村芋川 |
北は青森県東津軽郡蟹田町(:現外ヶ浜町)、西は兵庫県神戸市灘区、南は和歌山県那賀郡打田町・粉河町(どちらも現:紀の川市)で震度1を観測するなど、東北地方から近畿地方にかけて震度1以上の揺れを観測し、北海道の函館市でもビルの高層階では揺れを感じた。また、防災科学技術研究所が運用している強震観測網によれば小千谷市で震度7相当(計測震度6.7)の揺れを観測した[G 6]。
本震の震源の深さが地下13キロで、余震も地下20キロ以浅で発生し、大きな有感地震が続いた。
新潟県内では、本震発生後2時間の間に3回の震度6(弱が1回、強が2回)、地震発生日に計164回の有感地震、翌24日も計110回の有感地震を観測。その後も余震が続き、10月31日までの間に計600回、11月30日までの間に計825回の有感地震を計測した。10月25日以降は、大学の共同研究チーム、気象庁、防災科学技術研究所などにより臨時の地震計(149台)、GPS変位計(17台)、電磁気(9台)の観測機器を設置し、余震活動を記録して地下構造の解析を行った[5]。兵庫県南部地震をきっかけに整備された高感度地震観測網と臨時地震観測機器群の活躍により阪神・淡路大震災の際に記録した余震の2倍、三河地震に匹敵する回数の余震を観測している[6]。震度6強の強い揺れをともなった地震が短時間に連続して発生しており、余震の規模と時空間分布からみると群発地震的な特徴を持っている[7]。地震から7年以上経った2011年でも最大震度が2 - 3の余震が時折発生している。
新潟地方気象台によると、2006年(平成18年)5月2日に発生した小千谷市で最大震度2を観測した余震により、震度1以上の余震は1,000回を超えた。
気象庁の発表によると、最大震度5弱以上の余震は12月28日までに19回起きている(下記の時刻はすべて日本標準時)[G 7]。
発生日 | 発生時刻 | 震央 | 震源の深さ | 最大震度 | 規模 | 備考 |
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2004年10月23日 | 17:56 | 北緯37度17.5分 東経138度52.0分[2] | 13 km | 震度7 | M6.8 | 本震 |
17:59 | 北緯37度18.7分 東経138度51.3分[8] | 16 km | 震度5強 | M5.3 | 余震 | |
18:03 | 北緯37度21.2分 東経138度59.0分[9] | 9 km | 震度5強 | M6.3 | ||
18:07 | 北緯37度20.8分 東経138度51.9分[10] | 15 km | 震度5強 | M5.7 | ||
18:11 | 北緯37度15.1分 東経138度49.7分[11] | 12 km | 震度6強 | M6.0 | ||
18:34 | 北緯37度18.3分 東経138度55.8分[12] | 14 km | 震度6強 | M6.5 | 最大余震 | |
18:36 | 北緯37度15.3分 東経138度56.4分[13] | 7 km | 震度5弱 | M5.1 | 余震 | |
18:41 | 北緯37度14.3分 東経138度54.4分[14] | 9 km | 震度5弱 | M4.2 | ||
18:57 | 北緯37度12.3分 東経138度51.8分[15] | 8 km | 震度5強 | M5.3 | ||
19:36 | 北緯37度13.0分 東経138度49.4分[16] | 11 km | 震度5弱 | M5.3 | ||
19:45 | 北緯37度17.7分 東経138度52.5分[17] | 12 km | 震度6弱 | M5.7 | ||
19:48 | 北緯37度17.8分 東経138度50.1分[18] | 14 km | 震度5弱 | M4.4 | ||
2004年10月24日 | 14:21 | 北緯37度14.7分 東経138度49.5分[19] | 11 km | 震度5強 | M5.0 | |
2004年10月25日 | 0:28 | 北緯37度12.1分 東経138度52.2分[20] | 10 km | 震度5弱 | M5.3 | |
6:04 | 北緯37度19.8分 東経138度56.8分[21] | 15 km | 震度5強 | M5.8 | ||
2004年10月27日 | 10:40 | 北緯37度17.5分 東経139度02.0分[22] | 12 km | 震度6弱 | M6.1 | |
2004年11月4日 | 8:57 | 北緯37度25.8分 東経138度54.9分[23] | 18 km | 震度5強 | M5.2 | |
2004年11月8日 | 11:15 | 北緯37度23.7分 東経139度01.9分[24] | 0 km | 震度5強 | M5.9 | |
2004年11月10日 | 3:43 | 北緯37度22.1分 東経139度00.0分[25] | 5 km | 震度5弱 | M5.3 | |
2004年12月28日 | 18:30 | 北緯37度19.3分 東経138度58.9分[26] | 8 km | 震度5弱 | M5.0 |
最大余震は、本震からおよそ40分後の10月23日18時34分に発生したM6.5(最大震度6強)の余震である[27]。この余震で川口町では2515.4galの最大加速度を記録し(南北成分1639.9gal・東西成分2035.6gal・上下成分548.5gal)[27]、当時の強震観測史上最大値となった。この最大余震で震度5弱以上を観測した地点は以下の通り(観測点名は当時のもの)[G 5]。
震度 | 都道府県 | 観測点名 |
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6強 | 新潟県 | 小国町法坂・十日町市千歳町・川口町川口 |
6弱 | 川西町水口沢・小千谷市城内・六日町伊勢町・広神村今泉・中里村田沢・安塚町安塚・入広瀬村穴沢・堀之内町堀之内・松代町松代・大和町浦佐 | |
5強 | 三島町上岩井・越路町浦・塩沢町塩沢・湯之谷村大沢・高柳町岡野町・和島村小島谷・三和村井ノ口・小出町小出島・長岡市幸町・浦川原村釜淵・与板町与板・上越市大手町・守門村須原・出雲崎町米田・牧村柳島・西山町池浦 | |
5弱 | 群馬県 | 白沢村高平・片品村東小川・北橘村真壁・昭和村糸井 |
新潟県 | 大島村上達・栃尾市大町・清里村荒牧・出雲崎町川西・広神村米沢・松之山町松之山・吉川町原之町・上越市木田・津南町下船渡・板倉町針・栄町新堀・頸城村百間町新田・柏崎市中央町・中之島町中之島 |
このほか、東北地方から近畿地方にかけての広い範囲で震度4から震度1を観測した。兵庫県加古川市では、本震では体に感じる揺れ(震度1以上)は観測されなかったが、この余震では震度1の揺れが観測されている[12]。
防災科学技術研究所により整備・運用されている高感度地震観測網(Hi-net)のデータを利用した、地震動が伝播する様子を色の変化で表現した静止画と動画。揺れが広がっていった様子がわかる。
1983年から1986年および1994年から本震の直前まで震源域を中心に地震の静穏化現象が生じていた[G 8][G 9][G 10]。
本震発生より約1か月前の2004年9月7日夜から8日夜までの間に、長岡市の南東約10 km(震源の深さは2 - 5 km)を震源地とする有感地震が7回連続して発生しており、7日20時18分にはM 3.8の地震(最大震度は山古志村の震度3)、21時41分にはM 4.3の地震(山古志村で震度4、長岡市などで震度3)の地震があったが、9日以降は沈静化しており、新潟地方気象台は同月10日時点で今後、連続して発生する可能性は低く、これ以上大きな地震が発生する可能性はほとんどないという見解を示していた[28]。
この地域は、ユーラシアプレートと北米プレートが衝突する日本海東縁変動帯の陸域の新潟-神戸歪集中帯の中でも、強い褶曲を受け複雑な応力場を生じている地域である。北北東 - 南南西方向の軸を持つ複背斜構造があり、震源域となった新潟堆積盆地の東縁(信濃川の東岸)の東山丘陵と魚沼丘陵は、中新世以降に堆積した5,000メートル以上の堆積物が堆積している[29]。地震発生直後の調査では、地表地震断層が出現した小平尾断層と六日町盆地西縁断層の北部が活動したと考えられていたが[30]、その後の調査で前述断層帯が原因となった可能性を否定する結果が得られている[31]。阪神・淡路大震災のように明瞭な断層線が地表に出現しないことから、従来知られていた活断層(小平尾断層、六日町盆地西縁断層、信濃川低地西縁断層、信濃川低地東縁断層など)の活動ではなく、厚い堆積層下の未知の断層の活動による地震と考えられている。メカニズムとしては、北西 - 南東圧縮の逆断層型の地震である。本震および余震の振動波形や余震分布の解析結果によると、本震を発生させた滑り面とは別に並行する別な滑り面と本震と直交する合わせて3つの滑り面が存在した[32]。
都道府県 | 死者・負傷者数 | 住宅被害棟数 | その他 | ||||||||
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死亡 | 重傷 | 軽傷 | 全壊 | 半壊 | 一部損壊 | 火災 | 非住家損壊 | 道路損壊 | 崖崩れ | ブロック塀損壊 | |
新潟県 | 68 | 632 | 4,172 | 3,174 | 13,810 | 104,619 | 9 | 41,738 | 6,064 | 442 | 15 |
福島県 | 1 | ||||||||||
群馬県 | 6 | 1,055 | |||||||||
埼玉県 | 1 | ||||||||||
長野県 | 1 | 2 | 7 | ||||||||
合計 | 68 | 633 | 4,181 | 3,174 | 13,810 | 105,682 | 9 | 41,738 | 6,064 | 442 | 15 |
強い揺れに見舞われた小千谷市や十日町市、長岡市、見附市を中心に、全体で68名が死亡した。この内、建物の倒壊などによる直接的な死者は16人で、他の52人は避難中のストレスやエコノミークラス症候群によるものであったため[N 1]、同症候群が広く認知されるきっかけとなった。
家屋の全半壊はおよそ1万7000棟に上ったものの、建物火災の発生は9件に留まり「新潟県・特別豪雪地帯等における高床式住宅の特例基準」が施行された2001年10月以降の高床式住宅は比較的被害が軽微であった[33][34]。
一方で、山崩れや土砂崩れなどで鉄道・道路が約6,000か所で分断された。2004年(平成16年)は7月13日に新潟県地方で大規模な水害が起こり(平成16年7月新潟・福島豪雨)、また夏から秋にかけて台風が過去最多の10個上陸するという例年にない多雨に見舞われた年であった。このため、もともと地滑りの発生しやすい地形であったところに降雨によって地盤が緩み、地震が発生した際に多くの土砂崩れを引き起こした。
山古志村芋川流域では842か所で崩落が起き、52か所で自然ダム(河道閉塞)を生じ、一部では湛水による被害を生じた[G 12]。
こうした河道閉塞により、村内の複数の集落で大規模な浸水の被害が出ており、下流域では土石流が発生する危険性があるため、ポンプによる排水や、河道付近の民家を撤去するなどの措置が取られた。
また地震発生当時、幸いにも水位が低かったため、被害は発生しなかったが、信濃川の堤防の一部にも亀裂が生じた。
電気・ガス・水道・電話・携帯電話・インターネットなどのライフラインが破壊されたほか、新潟県への電話が集中したため、交換機が輻輳し、発信規制がかけられた。また、山間部へ続く通信ケーブルや、その迂回路も破壊され、外部からの情報にも孤立する自治体が出た。被災地での情報源はテレビ・ラジオが主となり、停電地域は携帯ラジオか避難所に設置されるテレビのみとなった。
発災当時はEメール(キャリアメール)機能付きフィーチャーフォン携帯電話が一般的に普及していた時期であり、以前から普及していたショートメールサービス(SMS)とともに電話不通時の連絡手段として利用された。しかし、阪神・淡路大震災以降、災害に強いと思われてきた携帯電話については、震源地周辺では基地局の設備損壊や長期停電などがあり、基地局の機能維持のために非常用として蓄電されていた予備のバッテリーも、通話の集中によって1日あまりで使い果たされてしまうなどしたために、基地局そのものの機能が停止し通話不能となるなど広範囲で使用不能となった。基地局が機能していても、モバイルバッテリー等が無いために停電復旧まで携帯電話が不通となる被災者も多数いた。
柏崎刈羽原子力発電所・福島第一・第二原子力発電所(東京電力)と女川原子力発電所(東北電力)を含めた発電所への被害はなかったが、新潟県中越沖地震では柏崎刈羽原子力発電所で火災が発生した。
鉄道は上越新幹線で「とき325号」が脱線(上越新幹線脱線事故を参照)したほか、線路や橋脚が破壊され、それに加えてトンネルの路盤が盛り上がるなどの被害が発生した。新幹線の営業運転中の脱線事故は開業以来初めて(詳細は鉄道事故の項を参照のこと)。また在来線も上越線・信越本線・飯山線・只見線・越後線も路盤の崩壊など甚大な被害を受けた。また27日午前に発生した余震の際には、JR長岡駅大手口の外壁が崩壊する可能性があるとして一時閉鎖された(その後安全が確認され、同日夕刻から営業を再開した)。
道路は北陸自動車道や関越自動車道などの高速道路、国道17号や国道8号などの多くの一般国道、多くの県道や生活道路も亀裂や陥没、土砂崩れ・崖崩れによって寸断された。このため山間部の集落の一部はすべての通信・輸送手段を失って孤立した。とりわけ古志郡山古志村(現:長岡市山古志地域)は村域に通じるすべての道路が寸断されたため、ほぼ全村民が村内に取り残され、自衛隊のヘリコプターにより長岡市・小千谷市などへ避難させる作業が行われた。主要地方道の新潟県道71号小千谷川口大和線の木沢トンネルも損傷したが[35][36]、崩落箇所を修復し復旧した[37]。
新潟県は富山県、長野県、群馬県、福島県、山形県と隣接しているが、ほとんどの県境が山間部であるため前述の道路不通と、高速道路迂回車両が重なったため県外から被災地へのアクセスも大幅に制限されていた。
農業は大きな被害を受けた。川口町や小千谷市では、地震の影響で水田が液状化したり、棚田が崩壊するなどの被害も見られた。これにより、翌年の米の耕作作業と収穫量に大きく影響した。
闘牛(牛の角突き)の盛んな山古志村には多数の牛がいたが、地震発生時に牛舎が倒壊して約半数が死んだ。生き残った牛も全村民の避難時に村に置き去りとなったが、まもなく住民が余震の続く中を村に戻り、山道を移動したりヘリコプターで空輸したりするなどして数日内に全頭を救出した[38]。山古志村では錦鯉も養殖されていたが、地震により棚池の底にひび割れができて水が失われたり、棚堤防が決壊して流失したり、土砂崩れに埋まったりするなどして約80パーセントの錦鯉が死んだ[39]。生産者らは生き残った錦鯉を救出し、ヘリコプターで村外へ搬出した[G 13][40]。
影響は震源地周辺だけではなく、長野新幹線(現:北陸新幹線)や首都圏の私鉄や地下鉄も運転を見合わせたり、遅れが発生したりした。また、首都圏のJR各路線で使用する電力の半分は被災地周辺の水力発電所で賄われており、小千谷市や川西町にまたがるJR東日本保有の信濃川発電所(44万9000キロワット)に大きな被害が発生したため、発電不能となった。このため、ほかの発電所の発電量を増やしたり、東京電力から電気を購入したりするなどして対応で凌いだ(2006年3月14日に復旧工事が終了し、通常の発電出力に戻る)。
この地震では長周期地震動による被害も発生した[41][N 2]。震源から200キロ離れた東京では有感震度は3であったが、六本木にある森タワーのエレベーター6基が緊急停止、うち2基で乗客各1名が一時閉じこめられた。原因は地震動によるワイヤの共振とみられ、うち1基では8本あるワイヤの1本がエレベータ坑側壁の金具に接触し切れていた。
地震発生後、下記のような二次的な被害が多数報告された。
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車の中で長期間寝泊りすることで、下記のような症状を起こし、今回の地震で52名が災害関連死と認定された。
また風邪や肺炎が流行したほか、避難所生活およびその後の仮設住宅における生活で仕事を失い、あるいは畑仕事などの作業ができなくなり、運動不足と孤立により高齢者の心身が急速に衰える廃用症候群が広がっている。11月以降、小千谷市など被災地では病死が例年の2倍程度になっており、震災の影響が指摘されている。
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電話で警察、消防、自衛隊などを騙るなどして「救出活動の経費負担を」などと持ちかける振り込め詐欺、日本赤十字社や共同募金など実在の団体名を騙り全く無関係の振込先口座番号に振り込ませようとする義援金詐欺、「ボランティアで来ている。家の補修工事を手伝わせてほしい」などと称してごく簡単な応急的な作業を行った後に多額の代金を請求する詐欺が発生している。[要出典]また、退避勧告中の家の中から貴重品が盗まれたり、被災地の銀行・郵便局のATMが荒らされた形跡があったりした。[要出典]
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新潟県は世界有数の豪雪地帯であるため、冬の積雪は毎年、多い場所で3メートルに達する。そもそも地震による屋根融雪設備の破損は多く、被災地一帯で人力での雪下ろしの必要性が高い状況にあった。2005年(平成17年)の1月下旬から2月上旬にかけて記録的な大雪(19年ぶりの豪雪)となり、場所によっては4メートルを越える積雪量となり、地震で傾いたり被害を受けた建物が積雪の重みで倒壊したりする例が出た。山古志村で6棟など、最終的に77棟が雪の重みで倒壊し、うち長岡市など6棟で地震との因果関係が認められた。
気候が温暖になるにつれ、融雪が始まった。特に2005年(平成17年)は地震により地盤が緩んだところに例年にない大雪が降ったため、雪崩による地震の二次災害が発生する事例があった。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
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都市ガスが供給停止となった長岡市内向けに、北陸ガスがカセットコンロ1台と専用ボンベ1本(ボンベの追加購入は自己負担)を貸し出していた[47]。
2004年(平成16年)12月27日に全在来線、12月28日から上越新幹線を含む全鉄道路線が運転を再開した。
一般車両の通行止め状況:
新潟市を中心に県内外各方面へ路線網を有する新潟県内の高速バスは、地震発生直後から10月26日にかけて、一部を除くほぼ全路線で運休した。また大積バスストップ、片貝バスストップ、越路バスストップは施設損壊により供用を休止した。その後の復旧により新潟県内線・県外線とも段階的に通常運行を再開し、損壊した前述の3か所の高速バス停留所も復旧後に順次供用を再開した。
日本プロ野球では、地震発生当時は中日ドラゴンズと西武ライオンズの日本シリーズの真っ最中であったが、地震発生翌日の10月24日の第6戦では試合前の黙祷などは行われず、試合前にナゴヤドームのオーロラビジョンに日本野球機構(NPB)・中日ドラゴンズ・西武ライオンズ名義での「新潟県中越地震で被災された皆様にお見舞い申し上げます」という掲示に留められた[N 7]。また、日本シリーズ勝者の西武はビールかけを自粛せず予定通り実施した。なお、中日の選手会は24日、被災地に寄付金100万円を贈ると発表した。中日の井端弘和選手会長(当時)は「できる限りのことはしたかった。新潟にも中日ファンはいると思いますので、あとはいいゲームを見せたい」と話した[N 8]。
Jリーグは、10月30日に新潟スタジアム(ビッグスワン)で開催する予定だったアルビレックス新潟対柏レイソルの試合について、余震活動への警戒と復旧作業との同時進行での混乱(スタジアムの駐車場を自衛隊が災害支援拠点として使用していたため)を考慮して延期、代替試合を11月10日に国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で開催した。また、同じく新潟開催で予定されていた天皇杯4回戦湘南ベルマーレ戦を平塚競技場での開催に振り替えた。なお、同月20日のFC東京戦、28日のセレッソ大阪戦の第2ステージのホーム2試合は新潟スタジアムで開催された。また、Jサテライトリーグで10月31日に開催予定だったアルビレックス対大宮アルディージャ戦(新発田市五十公野公園陸上競技場)の開催中止と、Jユースカップの出場辞退を発表した。なおJユースカップについては、すでに開催している試合の記録は有効とし、残り試合は0-3でアルビレックスの敗戦扱いとみなした[要出典]。
地震のシーンが多いテレビ番組は放送を中止または延期するなどした。たとえば、地震の2日後の10月25日に放送予定だった読売テレビ制作の『ブラック・ジャック』の第3話「Karte03:ひったくり犬」は本編に地震のシーンが多かったことから放送延期とされ、冒頭で事情を説明したうえで『Karte00:オペの順番』の再放送を行った。なお、「ひったくり犬」は2006年に放送された[要出典]。また、11月4日放送予定だったテレビ東京制作の『ポケットモンスター アドバンスジェネレーション』でも地震のシーンがあったことから、新潟県の一部でテレビ東京が視聴できる地域があることも配慮して翌週(11月11日)放送予定だった回を繰り上げて放送した。なお、現在でもこの話は放送されていない[要出典]。(いわゆる欠番。また、ポケモン図鑑から封印されている[要出典]。)
このころに紀宮清子内親王(現・黒田清子)と東京都職員黒田慶樹との婚約内定発表が予定されていたが、被災者に配慮して発表を延期した[N 9]。
応急対策に一定のめどがついた平成20年4月4日、「新潟県中越大震災災害対策本部」は解散した[G 18]。
地震から6年後の2010年10月までの復旧費用の総額は2,000億円以上で、内訳は道路や河川や土砂災害復旧などの公共土木施設に約1,293億円、農地や農業用施設に約341億円などである[要検証][N 10]。
その他、各国の民間による義援金が送られている。
このほかスパーク3人娘(園まり、中尾ミエ、伊東ゆかり)が自立支援目的で山古志村内の田畑に米を植え、その田畑で稲刈りした米を特別に販売し売上の一部を復興基金にあてるなどの援助もあった。
2005年5月21日と22日の両日にわたり松戸競輪場で開催された、全日本プロ選手権自転車競技大会記念競輪のサブタイトルに『新潟県中越地震復興支援』がつけられ開催[70]。
復旧費用にあてるため新潟県中越大震災復興宝くじが発売された(2005年4月11日 - 4月26日)[71]。
この新潟県中越地震で被災・避難した2頭の犬が、書籍が刊行されるなどして広く知られている。1頭は山古志村にいた「マリ」で、全村民が村外避難を余儀なくされたことで、マリをはじめとする犬などのペットは置き去りとなった[38]。地震後4日目からは獣医師などがヘリで村に入り、犬や猫への給餌を開始した[N 11]。マリは地震当日の朝に出産していた3匹の子犬を守りつつ16日後に救助された。しかし避難所にはペットは入れず、マリと子犬たちは一時飼い主と離れることとなった[N 12]。マリの話は絵本で紹介され、2007年には『マリと子犬の物語』として映画化された[38]。もう1頭は小国町にいた盲導犬の「クララ」で、視覚障害者の女性とともに避難所に入った。避難所での動物の受け入れについて定めたマニュアルはなかったが担当職員が許可し、避難所にいた住民も犬を受け入れた。クララは避難所に盲導犬が入った日本初の事例であり[N 13]、2005年に出版された『震災にあった盲導犬クララ』で紹介された[72]。新潟県中越地震で被災した犬は約2,000頭、猫は約3,000匹と推定されている[G 19]。
地震発生後から、平原綾香のデビュー曲「Jupiter」が新潟県内のラジオ局でたびたびリクエストされた[G 20]。被災地の復興を応援する歌となっていることを知った平原は、その後たびたび被災地を慰問に訪れた。こうした縁から、2007年公開の新潟県中越地震を題材とする映画『マリと子犬の物語』の主題歌の作詞と歌唱を平原が手がけることとなった[73]。
被災翌年の2005年(平成17年)以降の長岡まつり大花火大会で打ち上げられている復興祈願花火「フェニックス」では、「Jupiter」がBGMとして使われている[G 20][73]。「Jupiter」は約6分の歌だが、「フェニックス」の打ち上げ時間に合わせて約3分に短縮されている(地震から10年目の2014年はフルバージョンで演奏し、打ち上げ時間が5分強となった[74][75])。2005年(平成17年)8月の花火大会には平原が来場し、この曲をライブで歌った[G 20]。
震災後、以下の4つのメモリアル拠点施設が整備され、メモリアルパークとともに「中越メモリアル回廊」が形成されている[76]。
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