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日本のミュージシャン、音楽プロデューサー (1958-) ウィキペディアから
小室 哲哉(こむろ てつや、1958年〈昭和33年〉11月27日[3] - )は、日本のミュージシャン・音楽プロデューサー・キーボーディスト。東京都府中市出身。
小室 哲哉 | |
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「MTV Video Music Awards Japan 2014」にて | |
基本情報 | |
別名 |
TK t[注釈 1] t.komuro[注釈 2] TECHI KOMURO[注釈 3] TETSUYA KOMURO[注釈 4] Tetsuya Komuro Tetsuya_Komuro[注釈 5] TETSUYA "TK" KOMURO[注釈 6] 566[注釈 7] DJ TK[注釈 8] t.tek 2[注釈 9] TAN DK[注釈 10] Lifecell[注釈 11] Digital "Cheap" Snake[1] スーパーウェーブ小室 [注釈 12] |
生誕 | 1958年11月27日(65歳) |
出身地 | 日本・東京都府中市 |
学歴 | 早稲田大学社会科学部中退[2] |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 |
1975年 - 2018年 2019年 - |
レーベル |
Sony Music Entertainment /Epic/Sony Records /Antinos Record /TRUE KiSS DiSC (1984 - 2000) avex group /avex trax /avex globe (1991 - ) パイオニアLDC /ORUMOK RECORDS /factoryorumok /Tatsumaki Records (1995 - 2001) PONY CANYON /FLIGHT MASTER (1998 - 2001) R and C /gaball screen (2001 - 2007) Syn Songs (2006 - 2018) Pavilions Record (2021 - ) |
事務所 |
Jun & Kei (1975- 1994) Office TIMEMACHINE (1983 - 1994) OPERA GIG ↓ TK state /TK MUSEUM /TK state America MUSEUM /TK SEQUENCE /TK SEQUENCE America /TK ENTERTAINMENT SERVE /Prime Direction TK Room /tetsuya komuro rise (1992 - 2000) Antinos Management /Antinos Music (1993 - 2000) Rojam Entertainment (1998 - 2004) 吉本興業 (2001 - 2007) Tribal Kicks (2004 - 2007) TKCOM /Empire Play Music /イーミュージック (2007 - 2008) avex Management (2009 - 2018) a nine ↓ Pavilions /SOUND PORT (2009 - ) Music Design (2020) |
公式サイト | avex公式サイト |
著名使用楽器 | |
Roland TR-808 / TR-909 YAMAHA KX5 / Tetsuya Komuro's Mind Control YAMAHA DX7 / DX7II-FD / DX7II-D E-mu Emulator II EOS B200 / B500 / B700 Synclavier 6400 Ensoniq VFX Roland JD-800 Fantom-G6 / G7 / G8 Clavia・Nord Lead 3 Access Virus・Virus Indigo 2 Redback / Virus TI2 Polar |
3歳から12歳まで東京芸術大学教授の下でヴァイオリンのクラシック音楽の練習曲をひたすら同じフレーズを弾くレッスンを始めて、音感の基礎を学ぶ。小学生の頃からすでにクラシック音楽のインストゥルメンタルの楽曲を作っていた[7][8][9]。反面同時期に鍵盤楽器は習ったことはなく、その時の影響で後に「鍵盤楽器を弾く時に手がぺったりついてしまう」というピアノを弾く時に本来あってはならない癖を持ってしまう。しかし敢えて平たくすることで、オクターヴ奏法が楽にこなせる様になり、鍵盤楽器でベースのスラップ奏法が表現できる様になった[10]。
小学5年生のとき、母がエレクトーンを購入。これが鍵盤楽器との出会いとなる。母より先にコードを覚え、10日で基本操作をマスターし、エレクトーンの先生を驚かせた。同じ頃、母方の叔父からギターコードを習い、マスターするのが速くて叔父を驚かせた[8][11]。練習の時にフェリックス・メンデルスゾーンのメロディの歯切れの良さ・BPMの異常な速さ[12]、クラシック音楽の練習曲の子供でも飽きない多少の変化が考えられた構成[9] に影響を受けた。反面ピアノは独学であり、中学2年生の時に音楽の授業で周囲がギターを選ぶ生徒が多かった為に、あえてピアノを選ぶ形で弾き始めた[13]。プロの鍵盤奏者として改めて真剣に向き合い、自分の腕を客観視し始めたのは実に1983年に入ってからだった[14]。ただし、それが功を奏し、のちに「和音・管弦楽法を前提にした発想」より「主旋律は1本のみ、単音を目立たせる構成」という基本が小室の中で出来上がった[9]。
音楽の時間に50分で16小節を譜面に書く作曲のテストがあった際、教師が小室の作品を見て「誰かは言いませんけどこの中ですごく上手な人がいました」と言った後、その曲がピアノで披露されて、その曲を他のクラスメイトがリコーダーで吹いた。小室は当時を振り返り「目立ちたくない時期だったためものすごく嫌だった」「だけど自信にはなりました」と語っている[15][16][17]。日本万国博覧会でシンセサイザー・マニピュレーター・マルチモニター・12チャンネルステレオを背景に演奏する冨田勲を間近で見て、「もしモーツァルトの時代と同じ楽器しかなかったら僕はこの世界で勝負しなかった」と後述する程の衝撃を覚える[18][19]。
中学生の時にシンセサイザーを無性に買いたくなり、家にあったギター・ヴァイオリン・エレクトーンを家族に無断で売り、当時16万円以上したというシンセサイザー「ローランドSH1000」を購入した。家族からは叱られたものの、「当時のシンセサイザーはエレクトーンより音数も限られていて、機体も小さかった。だけど間違いなく自分が得意なものとプライドを持てる」と確信し、それを切っ掛けに改めて練習を続けると共に、オリジナル楽曲の作曲を本格的に始める。渡辺美里の「きみに会えて」「BELIEVE」「嵐ヶ丘」「I wish」・TM NETWORKの「Here, There & Everywhere (冬の神話)」等後に提供する楽曲の雛型約20曲をその頃に作曲したという[8][20][21][22]。
早稲田実業学校高等部商業科に入学。小室の作曲テクニックにクラスメイトが憧れる余り、クラスメイトの半数以上の作曲の宿題を肩代わりさせられた。音楽担任は小室が卒業するまで気づかなかったという[23]。この頃からELP・ピンク・フロイド・レッド・ツェッペリン・キング・クリムゾン・T.Rex[注釈 19]・ユーライア・ヒープ・コモドアーズ・Kool & the Gang・Earth, Wind & Fire・ドナ・サマー・ディープ・パープル・Yes等の洋楽をプログレッシブ・ロック[注釈 20]・ファンクを中心に漁るように聞いた[26][27]。その中でも影響を受けたミュージシャンとして、キース・エマーソン・リック・ウェイクマン・ジョン・ロード・キース・ジャレット・ジョー・サンプル・デイヴ・グルーシン等のジャズ畑のピアニストを挙げ、特にキース・エマーソン[注釈 21]・キース・ジャレット[注釈 22]に関しては、即興演奏中心でプレイする姿勢に感銘を受けている。新宿のロック喫茶店に毎日入り浸り、ファンとしてミニコミ誌「ロック・ボトム」に参加し、アルバムの感想と評論を書いた[28]。
早稲田大学社会科学部[2] に進学し5年ほど在籍、在学中にプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する[注釈 23]。初めての現金で支払われたギャランティーは、18歳でダンスパーティーのバックバンドでキーボードを担当した時の演奏代で5千円だった[31]。ミュージシャンとしての腕前は自他共に認める程の下手さだったが、「シンセサイザーを使っている珍しいミュージシャン」という点で注目されて、色々な所からスカウト・セッション・レコーディングへの参加の依頼につながった[28]。大学の講義にはほとんど出なかったが統計学だけは面白く感じ、統計学の講義にだけは必ず出席し「どういう人達はどこに響くかを、リサーチ・計算して考える」ことにやりがいを覚えた[32]。その後も音楽活動に没頭し、授業料を楽器代に使い廻していたために単位が取れず、小室も「授業料を払う位ならシンセサイザーを買った方がいい」と考えたために除籍となる[33]。
「真っ当な職に就くべきなのか」と焦りを感じつつも、音楽雑誌「Player」の当時の編集長の紹介でいくつかのレコード会社とつながりを持ちながら、その後も数々の数え切れない色々な人のバックバンド・スタジオミュージシャンを務め、デビュー前のTMのメンバー・スタッフのマネジメントも率先して取り仕切り、コンテストで腕を慣らした。1982年に機材運搬のための自前の自動車を売り払ってまで新しい機材を用意し、各方面に数々のデモテープを応募した。その時の志向はジョルジオ・モロダー[注釈 24]・ELO・バグルスのような「テクノポップの方面に行き過ぎず、飽くまでもポピュラー音楽の雰囲気を守り、如何に高級な機材を使わずに巧くダンス・ミュージックの音色を作るか」を考えながら入念に制作していた[35]。そうしていく内にデモテープが小坂洋二・小林和之の目に留まり[36]、本格的にTM NETWORKデビューへの下準備を進めていった[16]。
自身の音楽ユニットであるTM NETWORK(のちTMN)と並行して、三浦徳子の勧めと三浦の紹介で知り合った渡辺有三の推薦[37]、「たまには他の人の曲を作るのも勉強になる」という今野敏の後押し[38] で岡田有希子の「Sweet Planet」「水色プリンセス ―水の精―」を皮切りに、渡辺美里、伊藤かずえ、八木さおり、荻野目洋子、おニャン子クラブの福永恵規、堀ちえみ、中山美穂、松田聖子、小泉今日子、今井優子、宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂、中森明菜などに楽曲を提供し、作曲家としても活躍する。その活動はTM NETWORK・ソロ活動の際の企画・制作費・プロモーションの環境整備に一役買った。特に当時共同で作業する機会が多かった大村雅朗に関して小室は「僕が提示しようとした新しさを一番理解してくれた。その上で他の歌謡曲とどのように馴染ませるか・どうフレーズとコード進行をアレンジすればヒットするかを考えるときに随分助けてもらった」と語っている[21][39]。その活動は巡り巡って雑誌・新聞に「TMの小室哲哉が作曲」と言う形でTMの宣伝として形に表れ、その後の作曲家としての小室の動き方に大きな影響を与えた[40]。
1986年(昭和61年)に渡辺美里へ提供した「My Revolution」が、第28回日本レコード大賞金賞。TM NETWORKは、1987年に発表した「Get Wild」で一躍人気バンドとなり、1988年には第39回NHK紅白歌合戦に出場。しかし、小室は「何で『Get Wild』が1位じゃないんだ」と悔しがり、それ以来レコード会社と一緒に他の人気アーティストと発売日が重ならないように、スケジュールを自ら調整するようになる[41]。
1988年初春から、「CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」等の制作・海外の動向を探り、最新の音源に直接触れるために小室一人の仕事で費用をペイすることを条件[42] にロンドンに渡り、半年程をアパートで過ごした[注釈 25]。部屋に置いたCP-80で曲を作り、製品盤のイメージが見えてきたらトンプソン・ツインズのプライベートスタジオに足を運んでデモテープを作り、それを郊外のレコーディングスタジオで仕上げるという現地のミュージシャンと同じスタイルでの制作活動を繰り返した[45]。あわよくば現地にて女性ボーカリストをスカウトし「TM international」というTMの姉妹ユニットを結成・世界デビューさせて、「ディスコアルバム」「既存のTMの楽曲の英訳版」を制作・発売する計画があった[46]が、カイリー・ミノーグの1stアルバム「Kylie」の売り上げ規模をみて、日本と海外のマーケットの差が如何に隔絶しているかを思い知らされたこと[42]・「キック・ハイハットがシンクロしていない。これでは踊れない」と現地のミュージシャンに忠告され、自分の無力さを痛感したこと・ユーロビートのプロデューサー集団PWL(ストック・エイトキン・ウォーターマン)の仕事を間近で見たことによりスタジオワークの面白さを知ったこと[注釈 26]・ジャングルのロンドンでの浸透にショックを受けたこと[注釈 27]・日本との連絡手段として、直接話すときは国際電話、企画書のチェックにはFAX、デモテープの配送には郵便と用途別に使わなければならず、無駄な時間と通信費がかかり、本来の仕事に支障をきたしたことで白紙になった[52][53]。この件がきっかけでそれ以降、1年に最低でも1回、多くて4~5回はスタジオの設計と機材の研究も兼ねて、ロンドンの複数のスタジオでレコーディング・ミキシング作業を行うようになる[44][54][55]。その他にもミュージカル作曲家のアンドルー・ロイド・ウェバーの次から次へめくるめく感覚にも影響を受け、研究した[注釈 28]。
1989年(昭和64年/平成元年)にシンガーソングライターとしてソロデビュー。リードボーカルを担当した「RUNNING TO HORIZON」、「GRAVITY OF LOVE」が連続でオリコンシングルチャート1位を記録。1985年 - 1992年の間には、アニメーション映画の「吸血鬼ハンターD」、実写映画の「ぼくらの七日間戦争」、「天と地と」、月9テレビドラマの「二十歳の約束」、舞台ミュージカルの「マドモアゼル モーツァルト」の劇中音楽を手掛けた。
1991年頃、松浦勝人と対面した際に松浦からTMの楽曲をユーロビート調にアレンジしたリミックスアルバム「TMN SONG MEETS DISCO STYLE」の企画を持ちかけられた時に「TMの作品が初回プレスは売り切っても、バックオーダーが発生しないから楽曲がファン以外に広がらず、カラオケでもディスコでも渡辺美里さんの曲しかかからない」という危惧・諦めからTMの固定ファンを「15万個の消しゴム」と例えるようになり、当時新興で軌道に乗り始めていたエイベックスからの誘いには最初は及び腰だった。だが松浦の「だったらTMの楽曲がかからないような所をターゲットにすればいいじゃないですか。絶対格好悪くならないようにしますから」「ヨーロッパでは一つの音で、ダンスフロアがぶわっと盛り上がる。そういう作り方の音楽も面白いですよ」と勧められたこともあり、1992年から自分のベースの一つであるダンス・ミュージックが「どうしたらそのジャンルが大好きな固定ファンから不特定多数の大衆に広がるか」をDJとして全国を回り音色・出演メンバーに対する若者の反応を確かめ、オーディションの審査員を務め、地道にスタジオで作曲活動をする等の試行錯誤をしていた[57][58][59][60]。ダンス・ミュージックを主軸に専念した理由として、「カラオケとディスコが流行りだしていて、ディスコの後にカラオケに行く人が多かった。でも、歌う曲はサザンオールスターズ・松任谷由実さん・ZARDのような熱唱しなければいけない型ばかりで、ただタンバリンを持ってメロディに合わせて踊るだけでは無理がある曲が多かった。だから、歌うか・踊るかどちらに行っても楽しめる曲がもっとあってもいい。僕から見るとそこがマーケットとしての空白だった」と語っている[20]。しかし、1970年代 - 1980年代のシンセサイザーだとどうしても難しいプログラミングができないため、やむを得ず「メロディーとリズムが戻ってくる」パターンを作って繰り返さなければならず「流れが流暢でドラマチックで起承転結のある日本の歌謡曲」「尾崎豊さんのような涙・汗・エモーショナルな楽曲が名曲」と若者に受け入れられていた世間に対して、どうやったら反復が多くて無機質なダンス・ミュージックにロック・ミュージックに対抗できるパワーを持たせるか、音楽業界に入り込むかを考えていた[33]。
しかし、小室がavex traxとライセンス契約を結んだ際、EPIC内では「他社のアーティストをプロデュースするなんて契約違反だ!」「法的には何の問題もないが義理としてはどうか」「EPICはロックのレーベルなのに、ダンスなんて軽薄だ」と議論が巻き起こった。これは当時の音楽業界では「音楽プロデューサーはレコード会社の社員・元アーティストの専属契約」であることが多かったためといわれる。その問題に対応するためにtrfデビューの際、TMのメンバー・ソロミュージシャンとしての契約は引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてはフリーランスであるために、個人事務所「OPERA GIG(後にTK stateに改名)」を設立し、小室は音楽に関する全てのコンセプトを立てた。それをスムーズに実行させるために、丸山茂雄は「アーティスト主導・レパートリーの管理に特化した芸能事務所」をコンセプトに「アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)」を設立、小室は第一号契約者となった[注釈 29][62]。それと同時に丸山が小室の個人事務所とフリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めた[63][64]。形態として「avexに小室を貸している」[65]「演奏権は確かにEPIC側が持っているが、打ち込まれたデータの再生は演奏ではない」[64]と丸山が体裁を保障することで契約問題を乗り越え、その見返りとして本来小室に支払われる活動収入・印税の内「原盤権で生じる印税」「実演家としてのアーティスト印税」を丸山が[64]、「エイベックスとの仕事で生じた小室の収入の数%」をEPICが頂く[65]形をとり[注釈 30]、「作詞・作曲・編曲・プロデュースを中心とした売上中1~5%の著作権印税」[44][67]「音楽プロデューサーとしての活動で生じる収入」[注釈 31]「テレビ・イベント等への出演料」[66]は小室の取り分になった。
1993年に音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。東京・芝のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作ができて、スムーズに海を越える態勢を整え[69]、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」と述懐する程に、楽曲のストックを増やす制作活動に徹した[70][注釈 32]。その時の目標となったのが、ジ・オーブの作品群・活動スタイルであり[注釈 33]、「TM・trfに共通する僕のすごくポップな部分が生まれる切っ掛けになった」と話している[73]。その時の状況を「世の中は既に仕事を分担してシステム化していくのに、全てを自分一人で決めていくなんて時代に逆行しているのではないか、やっていることは家内制手工業と同じだ」と迷いを見せたが[74]、反面作詞・作曲・編曲の内、小室の担当する作業がどれか1つだけだと制作に行き詰まり、敢えて3つ兼ねれば「メロディとコード進行が同じでも、音色と作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞に行き詰ったときにコード進行をマイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジをダンスミュージックからロックに簡単に様変わりできる」等仕事の組み合わせが3つ以上あった方がかえって仕事がやりやすいことに気付き、「大量のアイディアのライブラリーになるし、アーティストのキャラクターの色分けにもつながる」と語っている[75]。
そうした要領で創作活動を行いながら企画書を練っていく内に、「TMでできることはもうないんじゃないか」「女性ボーカリストのための曲をプロデュース・ワーク的な部分で作りたい」とその内容は小室を含むTMの3人では到底収めることができるものではなくなってしまったために1994年、TMの活動停止を決意する。その際のキーワードとして「解散」ではなく「終了」を全面的に押し出したのはその間際になってもなおTMの次のイメージと可能性[注釈 34]を見つけた自分に気付き、それを尊重するために「飽くまで第1期プロジェクト終了」「ニュース・ドキュメンタリー・モニュメントとしての『終了』という言葉のプロデュース」[78] というコンセプトから来たものである。小室が後に「どう聞いてもわがまま」と振り返るほどの申し出を受け入れてくれた宇都宮・木根には感謝の意を示している[79]。
1994年のTMN終了前後から、観月ありさ、篠原涼子、trf、hitomi、内田有紀、H Jungle with t、dos、globe、華原朋美、安室奈美恵など、多数の作詞、作曲、編曲と音楽プロデュースを兼任して行った。1994年から1999年の間に数々のミリオンセラーやヒット曲を打ち立て、各メディアにおいて「小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされる、自身の少年時代からの夢だった小室ブームという社会現象を起こした。ソニー・ミュージックエンタテインメントの丸山茂雄が小室のプロデューサー活動を支援するためにアンティノスレコードを設立し、マネジメント業務もアンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)とエージェント契約を締結した[80][68]。
作詞家・作曲家としての小室は音楽出版社「アンティノス・ミュージック」と専属契約を結んだ。例えば、エイベックスに所属するTRFのプロジェクトに小室がプロデューサー・作詞家・作曲家として参加すれば、プロデューサー料はマネジメント会社「アンティノス・マネジメント」に入り、著作権印税は原則的に「アンティノス・ミュージック」を経由して、「アンティノス・マネジメント」に入っていった[68]。
プロデュース手法の構築においては1980年代に、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸として世界的大ヒット曲を量産したストック・エイトキン・ウォーターマン・レコード会社をチェーンストアと考え、市場の要求とカラオケに通うファンのニーズに応えたソフトを自ら製造していく姿勢に対して「サウンドプロデューサーとして同じ志とノウハウ・戦略を持っている」と感じ取り、同時に「数字とクオリティに負けたくない」と悔しさをもらしたビーイングの長戸大幸のプロデュース手法[注釈 35]・スティーヴン・スピルバーグの制作現場マネジメントの手法[注釈 36]を参考にしたとされる。実際に、小室本人がJ-POP向けにプロデュースした楽曲は、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸とした明確なサビのある歌モノであり、音楽に詳しくない一般層に対しても分かりやすいという特徴を持っていた[80][68][83]。松浦は「ぱっと聴いて、すぐ耳に残る分かりやすいフレーズ」を優先して作るように指示し[60]、その延長線上でミュージシャン・エンジニアとして様々な実験的演出を行った[84]。
1994年から、EUROGROOVEという多国籍メンバーによるユニットを結成して海外進出を図った。小室ブームを迎え、日本の音楽が世界に通用しない現実を覆す試みとして開始されたが、日本国内で絶大なブームを迎えた小室本人の多忙により1996年に終了している。
1995年から4年連続でプロデュースした曲が日本レコード大賞を受賞[85]。この頃から「提供する歌手本人に一度も会わないこともある、音にこだわればそれでいい、その場限りの関係の単純な楽曲のオファー」より「まずテレビ番組とのタイアップがあって、それに向けた楽曲のプロデュースをして欲しい。部分的に見て頂いても構わないし[注釈 37]、最初から最後まで見てくれてもいい。アーティスト・発売先・音色・曲順・タイトルもお任せしますので好きにして構いません。レコーディングの予算・ジャケット写真・PV・ポスター・宣伝素材・キャッチコピーと取材を行う雑誌と放送等のメディアもプランの段階からコストを管理して、版下チェックして下さい。ライブの内容やスケジュールも監修してください。製作費まで全部お預けします」といった全権委任のオファーが殺到するようになり[44][49][70][88][89][90]、アーティストとしてステージに立ち、プロデューサーとしてレコード会社のマーケティング会議からCDショップでのセールスプロモーションまで時間の許す限りどんな場所にも顔を出し[91]、「相手のオファーの内容が分かりにくくなる」という理由から第三者を通してのやり取りはしないで代理店のスタッフを同伴してテレビ局・スポンサーに対して直接ディスカッション・売り込みを行い、お互いの透明性を確保した上で要求を呑みつつも「作り手が直に交渉している」という事実を突きつける形で念押しし、出来上がった作品に対してスポンサーが断れないように持って行った[44][92]。小室が一番神経を使ったのが出稿量であり、「自分にくれるお金があるなら、その分スポットCMの本数を増やしてほしい」との思いから、テレビCMに提供した楽曲の著作権使用料は一切受け取らなかった[93]。
1996年の1月から2月にかけて、スキャンダル報道が過熱し、複数のレコード会社の利害が錯綜した創作活動、複数の営業窓口が発生したCM等のタイアップ活動、マスコミ対策等、小室・丸山が対応できる範疇を超えてしまい、仕事量の膨大さと対処の煩雑さから、アンティノス・マネジメント独自のA&Rシステムは事実上崩壊する。それをカバーするため、マネジメント業務をエイベックス子会社のプライム・ディレクション(現:エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ)が新設した「TKルーム」に移管。音楽業界以外の芸能界にも精通した小回りの効くスタッフが集められて、松浦をリーダーとするチーム体制での新しいマネジメントシステムがスタートし[94]、同時期に制作・生活拠点をロサンゼルスに移した[95]。
この時点で、「タイアップが決まらないと曲を書かない」と公言する程[33]のタイアップありきのプロデュース手法に対して表立った批判が目立ちだしたが小室は「まずスポンサーに気に入られて、初めて僕の曲になるんです」[96]「プロのミュージシャンは売れることで、やっと自分の好きな音楽ができるようになる。自分の好きな音楽よりも、売れる音楽を優先して作らないと駄目」[68]「聴いてもらえないということは『ポピュラー』の根幹に関わる。『大衆に迎合しすぎる』とか、『売ることばかりを考えている』との批判を聞くが、これは大衆音楽なのに」[93] と割り切った意見を述べた。
Mr.Childrenなどのプロデューサーとして知られる小林武史とイニシャルが同じことから「TK時代」「ダブルTK」「哲武ミリオン時代」と呼ばれた[97][98]。小室は「仕事の仕方は鏡に映る自分を見るようで、そっくりです。ただ小林さんは男性ボーカル・ロック・バンド系をプロデュースする。僕は女性ボーカル・ダンス・打ち込み系をプロデュースと対極にあるんです。この二つが互いに刺激し合ったおかげで、お互いにミリオンヒットが生まれたんだと思います」と語っている[97]。
1996年4月15日にはオリコンシングルチャートにおいてプロデュース曲がトップ5を独占した[85]。1996年はglobeのアルバム「globe」が当時のオリコン記録を更新し、歴代1位となる売り上げ400万枚以上を記録。安室奈美恵のアルバムも330万枚を超え、華原朋美のアルバムも250万枚を超えるなど、この年だけでプロデュース曲の総売上枚数は1,500万枚以上を記録した[99]。さらに1996年から2年連続で高額納税者番付において全国4位を記録、1997年の納税額は11億7000万円で推定所得は約23億円だった[99]。1996年末には海外進出を狙いルパート・マードックと組み、100万ドルを出資して香港に合弁会社TK NEWS(後のRojam Entertainment)を設立した[99]。
1997年、スピード2のテーマ曲のリミックスを手掛ける等の世界展開を行った[99]。8月にマネジメント業務をプライム・ディレクションからアンティノス・マネジメントへ戻し、活動拠点をアジアに定めた。「インターネットを駆使しての他所との円滑なスタジオワークのやり取り・近況報告」「アジアのマーケットの新たな開拓と米国への浸透」「米国のサウンドをアジアに持ち込み、『米国のサウンドと比べてアジアのサウンドはどうなのか?』というリサーチの繰り返しによる、アジアのサウンドの水準の維持・向上」を目的にしていた[95][100][101] が、後に「技術革新のスピードを読み違えてしまい、日本・ヨーロッパ・アメリカ・香港等、国毎にデータ転送の速度や通信環境などに格段の差があり過ぎて、すれ違いが起こってしまった」「『自分が今まで築き上げたブランドと成績を求められている』と過大評価していて、現地のリスナーやシンガーと密着して共に音楽の質を育てていく活動を意識していなかった」[102][103] と語っている。
1997年前半まではミリオンセラーを連発していたが、この頃から既存の小室ファミリー向け楽曲の曲調がポップテイストからエレクトロへ変化している点(特に安室奈美恵の楽曲が顕著)、同年夏に小室とエイベックスの関係性の急速な悪化によりglobeが一時活動停滞したことや翌年1998年にはTRF・hitomiらのプロデュースが無くなり、小室ブーム全盛期の中心にいた安室奈美恵は出産のため休業し、ミリオンセラーを叩き出した華原朋美も恋愛関係の清算による離脱等の複合的要因で小室ファミリーの規模が縮小。同時期に新たな音楽性をもつJ-POPアーティスト(R&B本格シンガーとして登場したMISIA、バンドブームを牽引したGLAY・L'Arc〜en〜Ciel、若年層のアイドルブームを牽引したSPEED、エイベックス内で脱小室派閥が進んで勢いをつけたEvery Little Thingなど)が台頭し始め、小室ブームは少しずつ落ちていく。エイベックスと絶縁後はTM NETWORK時代の古巣であるソニーと専属プロデューサー契約を結び、マネジメントも委託。さらに、数十億円を報酬金(印税)の前受金として受け取る。
1998年にはtohko・鈴木あみ・未来玲可をプロデュースさせたものの、1996年前後の小室ブーム全盛期と比べて勢いは劣っていた。
翌1999年以降は明確なサビを持たせた楽曲展開をやめ、globeやTRUE KiSS DESTiNATiONらを使って小室本人が次世代のダンス・ミュージックとして注目していた、トランスなどを日本のJ-POPに導入しようと試みたが、時代の先取りであった為、一般には受け入れられなかった。しかし、そこですでに最新の音楽を日本に取り入れていたのは、ある意味での功績とも言える。また、更なる世代交代で新しいアーティスト(若干15歳ながら数々の金字塔を打ち立てた宇多田ヒカル、エイベックスの脱小室派閥による戦略で女子高生を中心にブレイクした浜崎あゆみ、鈴木あみと同じオーディション番組ASAYANからデビューし、つんく♂のプロデュースでブレイクしたモーニング娘。、自称新宿系を称し独自の世界観で魅了したシンガーソングライター椎名林檎など)のCDがヒットチャートの中心となり、小室プロデュースのCD売り上げは落ち、それ以後はglobe関係の活動がほぼ小室のウエイトを占めるようになった。
特にヴィジュアル系[注釈 38]・つんく♂[注釈 39]・宇多田[注釈 40]の台頭には、価値観と感覚の相違・引退を意識させられた程の衝撃を受け、「今とは違った形のプロデューサーにならなければ」「作りたいときに作れて、鍵盤を弾けるときに弾ける作曲家に戻りたい」と自分の将来の立ち位置に悩んでいた[108]。
この頃になると「売れなくてもいい」「売れるに越したことはないけど、この時代にどれだけ人の心に届くかを重視している」[109]「小澤征爾さんの作品の大ヒットを見て、メガヒットに頼らないセレクトショップのような音楽を目指したいと思った」[110] と心境の変化を語った。長年小室のマネージャーを務めた丸山茂雄も「権限を与えすぎたことは大きな誤りだった。小室さんとアーティストには音作り・楽曲選び・歌に専念させるべきだったのに、アーティストの選定、テレビCM・ドラマ・映画等の出演先のマネジメントまで一切を任せてしまった。その範囲にまで2人で『どれを選ぶか』を悩んでいると立ち止まってしまう。映像部門専門のマネージャーを別に用意すべきだった。実際に初期の鈴木あみはその辺を全く別の事務所が担当して上手くいっていたのに、それ以降のほとんどの活動に小室さんがマネージャーとして首を突っ込ませたのはいけなかった」と後悔と反省を多分に含んだコメントを出している[111]。
2001年1月にソニー・ミュージックエンタテインメントとの専属プロデューサー契約を解除し、前受金のうち未消化であった18億円を返還。背景には、当時小室プロデュースの稼ぎ頭であった鈴木あみが芸能活動休止に追い込まれたことがあげられる。同月、多数のミリオンセールスを出した安室奈美恵が『think of me/no more tears』を最後に小室ファミリーから独立した。5月にASAMIと再婚。
5月に香港のベンチャー株市場「GEM」にRojamが上場し小室は70億円以上を出資して筆頭株主となるが、これにより現金の手持ちがなくなる。さらに、2週間後には公開価格の半値を割り2002年決算は12億円の赤字となった。同時期にfactoryorumokを清算後、マネジメント契約をアンティノスマネジメントから吉本興業所属に移す。かたわらでタレントとしても活動し、同年のバラエティ番組「笑う犬の冒険」のコントに『超ハンサム侍』として出演する等の話題はあったが、プロデュース業は好転しなかった[99]。9月、ソニーへの返済に追われる一方で現金の手持ちが無くなった小室は富士銀行から日本の銀行として初めて本人所有の著作権を担保に10億円の融資を受ける[112]。さらに、前年の2000年12月にはエイベックスからもglobeの活動再開を条件に印税の前受金として10億円を受け取っていたことが判明。これらの融資金は先述の専属プロデューサー契約解約による前受金返還に充てたことが後の5億円詐欺事件の公判で明らかにされた。このため、ソニーからの負債は完済できたが、以後はエイベックスおよび富士銀行への返済に追われるようになる。
2002年3月にASAMIとわずか10か月でスピード離婚(実子あり)。5月には吉本興業が設立したアール・アンド・シー・ジャパン(現:よしもとミュージック)の株式70%強をRojamが買収し、吉本との関係を強化した。そして11月22日にはKEIKOと再婚[113]。TBSで結婚披露宴が特別番組で生中継されたことは話題となった[99]。しかし、ASAMIとの間で合意した約7億円の慰謝料を一括で払うことはできず分割で支払うことになったが、その支払いも資金繰り悪化のために2004年8月頃には滞るようになったという[99][114]。
この頃より所有していた別荘、株券、高級車、クルーザーなどの資産売却を行うようになった[99]。2004年にRojam Entertainmentの全株式を5億円で売却し出資・経営から撤退したが、約70億円の株式評価損が生じた[115][99]。同年末までにおいてエイベックスからの前受金は3億1000万円しか消化されず、さらに2005年9月には大分トリニータへのスポンサー料7000万円を滞納していることも明らかとなった[114]。
2007年に吉本と契約終了となり、詐欺グループが中心となって新たに設立したイーミュージックと契約。この際、夫婦で田邊昭知のもとを訪れ、「何でもするのでテレビに出させてほしい」と懇願したという。2008年11月1日にNACK5の開局20周年番組に出演した際には自らの活動を振り返り「98年からの10年はなかなか曲が出てこなかった」[116]「もうやれることはやりつくした気がして貪欲になれなかった」[117] と語っていた。
2006年8月6日、小室は日本音楽著作権協会に自分名義で登録している全楽曲806曲の著作権を10億円で譲渡する仮契約を関西地方在住の個人投資家男性と締結。前妻のASAMIが著作権使用料を差押さえているとして、その解除費用として5億円の先払いを要求し、8月29日までに5億円を受け取った[118]。
しかし実際には仮契約段階で既に著作権の一部は、エイベックス・エンタテインメント・バーニングパブリッシャーズ・ライジングバブリッシャーズといった音楽出版社に譲渡(音楽業界では著作者である作曲家や作詞家が音楽会社に著作権を譲渡して管理を任せる代わりに印税を受け取ることが慣例となっている[118])されており、小室には著作権がなかった[118]。だが小室は返金に応じなかったため、男性は2008年2月に小室に対し逸失利益を含めた6億円の損害賠償を求め提訴[118]。小室が全額を支払うことで和解が成立したが、期日であった9月末までに小室は支払わなかった[118]。
このため男性は地方検察庁に刑事告訴した[118]。検察側は小室が受け取った5億円を差し押さえ解除ではなく借金返済に使っていたことを把握。当初からお金を詐取する目的だったと判断し、2008年11月4日午前7時40分頃に大阪地検特捜部は小室とトライバルキックスの社長、広告会社の実質経営者の計3名を5億円の詐欺容疑で逮捕した[119]。なお、前日に大阪地検特捜部から任意出頭の要請を受けたため新大阪駅前のシティホテルに滞在しており、逮捕時はみのもんたの朝ズバッ!など一部の朝の情報番組が特別編成となり、逮捕容疑の解説とホテル上空の空撮映像を交えてホテルエントランス前から連行される様子を生中継していた。
11月21日に起訴され、同日に保釈保証金3,000万円を支払い保釈された[120]。保釈保証金はレコード会社のエイベックスと妻のKEIKOが支払った[121]。
2009年1月21日に大阪地方裁判所にて初公判、3月12日に第2回公判が行われる。第2回公判直前の3月10日、解決金を含めて6億5000万円をエイベックス・グループ代表の松浦勝人がポケットマネーで立て替え、被害者に完済した。被害者側に謝罪の手紙を送っているが受取りを拒否されている[122]。なお、この被害者に送るつもりだった謝罪文は第三回公判の際に、小室自身により読み上げられた[122]。被害者側との示談交渉においては、情状証人として出廷した松浦は「示談を申し込んだが“できない、誠意が足りない”と弁護士から聞かされた。“誠意が足りないとはどういうことか”と代理人に尋ねたら“お金だ”と聞き、非常にショックを受けた。」と証言した[123] が、被害男性は「そのようなことは一切言っていない」と否定し、「民事裁判で和解が成立して決着している。」と話している[124]。なお、SNSのmixiでは2008年11月から「小室哲哉氏の復活を願う会」というコミュニティが457人を集めたり、mixiのサポートを受けての紙ベースの署名活動も行われていた。(署名TVでも行われていた。)さらに小室の母親やマネージャー、弁護士の了解を得た上で署名活動と平行して裁判所への提出もありうるという大前提で小室に対して手紙を書く「小室哲哉さんへの手紙」という活動も行われていたりと、復帰待望論が起き、[注釈 41] 小室の減刑を望む動きは、音楽業界や音楽業界関係者からもあり、実際に減刑嘆願書を出した音楽業界関係者もいた[125]。第3回公判は4月23日に行われて結審。
2009年5月11日、大阪地方裁判所より懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が言い渡され、弁護側・検察側共に控訴はせずに、同年5月25日午前0時をもって刑が確定した。
2010年5月に復帰第一作としてAAAの楽曲「逢いたい理由/Dream After Dream 〜夢から醒めた夢〜」をプロデュース。また、翌6月には森進一への提供楽曲が発売されることがマスメディア、および5月2日付の小室のtwitterにて明らかとなった[126]。『眠らないラブソング/道標』の楽曲提供が決まり、作曲の他作詞、編曲も手掛けることとなった。その後もレコード会社を問わず超新星、SMAP、北乃きい、浜崎あゆみらへ楽曲を提供している。小室は、アイドルなどにたくさんの楽曲を提供していた80年代の頃に感覚が似ていると語っていた。一方で2010年9月29日にはglobeのベスト盤がリリースがされ、未発表曲や、パッケージによっては未公開映像や小室のサインも提供された。また、11月にやしきたかじんへ楽曲「その時の空」を提供した。
2011年6月13日、宇川直宏の主催する音楽動画配信サイトDOMMUNEにてストリーミング配信ライヴを行う。瞬間最大視聴者は2万7000人を超え、合計視聴者数は14万4000人を記録した。12月23日、ラフォーレミュージアム原宿にて開催される「HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE」の4日目に出演。冨田勲とのトーク&ライヴを開催した[127]。
2012年3月20日、幕張メッセで行われた東日本大震災復興支援チャリティコンサート『ALL THAT LOVE-give&give-』に、TM NETWORKとして参加したのをきっかけに、約4年ぶりにTM NETWORKの活動を再開、日本武道館コンサート、新曲「I am」リリース、2013年にはさいたまスーパーアリーナ公演を開催。
TM NETWORKがデビュー30周年を迎える年である2014年にはツアーやリリース、テレビ出演など活動を活発化させた。春にはおよそ6年ぶりとなる全国ツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 the beginning of the end』がスタート。過去楽曲をリメイクしたアルバム『DRESS2』や新曲『LOUD』もツアーのスタートに先駆けてリリースされた。同年10月29日には7年ぶりとなるオリジナルアルバム『QUIT30』をリリースし、オリコン初登場8位を記録した。同時に秋から冬にかけて行われたツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30』もスタート。
2015年2月にアリーナ公演『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA』、3月に横浜アリーナにて単発コンサート『TM NETWORK 30th FINAL』を行い2012年から続いたシアトリカルなライブを完結させ、2012年から続いたTM NETWORKとしての活動も充電期間に入ることが発表された[128]。
その後坂本美雨とのコンサートやglobe20周年、多岐に渡る楽曲提供や各種イベント出演、ソロアルバムや脇田玲とのインスタレーションの制作、配信番組の司会や浅倉大介とのユニット・PANDORAの結成など精力的に活動していたが、2018年1月19日、前日発売の『週刊文春』の報道をうけ記者会見を行い、音楽活動からの引退を表明した[129]。小室は会見で女性との不倫関係を否定し、妻の介護をする中での自身の精神の疲労を述べ、C型肝炎や左耳の突発性難聴といった病を患って左耳がほとんど聞こえなくなり身体的な能力が低下したことで、自身の創作能力の限界を感じていたことを明かした[130][131]。後に離婚調停に入っていることが報じられた[132]。
2019年より、ピアノ・シンセサイザーを駆使して制作した空間音楽を建築・芸術関係の企業に向けて提供する仕事を、自身の名前を出さずに始めることでミュージシャンとしての制作活動を再開する[133][134]。
2020年、秋元康や関係者の後押し・オファーによって乃木坂46の「Route 246」に作曲・編曲として参加し2年3ヶ月ぶりに公での楽曲提供を行い[134]、ストリーミングは1週間で300万再生を超えた[135]。父母ヶ浜での野外コンサート、TM NETWORKとしてのラジオ出演や3人でのステージなど活動を再開、翌年2月26日にはKEIKOとの離婚が成立[136]。
2021年、D4DJLynx Eyes(Raychell&梅村妃奈子)に新曲『#ALL_FRIENDS』を提供[137]、自身はNFT作品を公開収録しローンチ[138]、faniconにてファンコミュニティー「TETSUYA KOMURO STUDIO」を開設し[139]アルバム「JAZZY TOKEN」をvinylで限定リリース、ビルボードワンマンライブを開催[140]、TM NETWORKは6年ぶりの再起動となる無観客ライブ作品「How Do You Crash It?」を3回に分けて配信[141]。
2022年3月1日付で国立研究開発法人「理化学研究所」の客員主管研究員に就任した。任期は2025年度まで[142]。理化学研究所所属の研究者と共に「人工知能を使った作曲支援システムの開発」「『小室哲哉を分析した人工知能』と『小室哲哉自身』による共作」[143]「AIだけで曲を作れるようになった場合、作品の権利はどこにあるのか」「何を持って『小室哲哉らしい世界観』が確立されているのか、AIを使っての検証」[144]について研究する。通常は博士号の取得者が対象だが、プロの音楽家が客員主管研究員に就任するのは初めてのケースであり、小室がこれまでにシンセサイザーの開発や音楽配信にいち早く関わる等、革新的な音楽制作を先駆的に実現してきたことが評価され、就任に至った[145]。
2022年8月30日付でTHE WHY HOW DO COMPANY株式会社(代表取締役田邊勝己)の執行役員に就任した[146]。その後、2022年12月1日付で同社の取締役に就任するも[147]、2023年7月31日付で同社の取締役を退任した[148]。その間に、同社から2億9234万円の借金をしていた[149]ことがFLASH (写真週刊誌)で報道された[150]。
※オーガナイザーを務めたライヴ等も含める。ゲスト出演等は省略。
※テレビ・ラジオの項ではレギュラー出演していたもののみ記す。
1996年4月15日付けのオリコンシングルチャートで、小室哲哉が作詞・作曲・プロデュースした楽曲が1位から5位までを独占した。同一作曲家、兼プロデューサーによる上位5曲の独占は、日本のみならず世界の音楽チャートにおいても史上初めてのことである。
1995年度のJASRAC発表の著作権使用料の分配額ランキング(JASRAC賞)では、小室哲哉が作詞・作曲した楽曲が国内作品の1位から3位までを独占した。同一作曲家による上位3曲の独占は、同ランキング史上初めてのことである。
1998年10月19日付けのオリコンシングルチャートで、小室がリーダーを務めるglobeの楽曲4曲が同時にベスト10入りし、当時として史上初の記録を達成した。この記録は「発売日が異なる再発でない同一アーティストによるシングルの複数チャートイン」として現在も記録が保持されている。
下記は一部に過ぎない。詳細は小室哲哉提供楽曲一覧を参照。
1994年、小室哲哉は、trfの「survival dAnce 〜no no cry more〜」で初めて100万枚以上のヒットを達成。
1997年の華原朋美の「Hate tell a lie」まで20曲のミリオンヒット曲を世に送りだした。(小室ブーム参照)。
小室哲哉がこれまでにプロデュースしたシングル・アルバムの総売上枚数は、約1億7000万枚に達する。また、日本の作曲家別シングル総売上枚数は筒美京平に次ぎ第2位[85]、作詞家別シングル総売上枚数は第4位である[286]。
※下記は主な小室哲哉プロデュース作品であり、一部にすぎない。☆ … ミリオン ☆☆ … ダブルミリオン
元尚美学園大学芸術情報学部教授[注釈 49]
国際麻薬統制委員会(UNODC)親善大使[177]
肝炎対策大使
東京多摩振興特命武蔵国府中大使[188]
親は福島県出身。福島県中島村村長を務めた小室康彦は遠縁にあたる[注釈 50]。自身のTwitterで、佐久間象山と柴田勝家の血をひいている可能性があることを明らかにしている[287]。
愛称は「てっちゃん」「先生」「TK」など。身長167cm、体重57kg。血液型O型。左腕下部に入れ墨が2つある。1990年代にTKロゴを、2000年代にその上に別のマークを彫った[288]。
早稲田実業学校高等部商業科卒業後、早稲田大学社会科学部に進学・在籍するが除籍、しかし現在は推薦校友になっている。2001年に早稲田実業学校開校百周年記念に百周年記念歌『ワセダ輝く』を作曲(作詞は奥島孝康)。母校の早稲田実業には『小室哲哉記念ホール』がある。年齢も職業も異なる人たちと異業種交流を行う会である「異能会」を主催し、定期的に行っている[289]。
自他共に認める「怒らない性格」であり[290]、阿川佐和子は「淡々とした語り口、やさしく、腰が低く、親しみやすい雰囲気」[291]、久保こーじは「殴り合いはもちろん、怒鳴りつけている所も見たことがない。ブツブツと文句を言うこと位はありますけど、温厚な人なんですよ」[292]、岩佐俊秀は「自分の不注意で大切なデータを消してしまったのに、『仕方ないね』の気楽な一言で済ませてしまう性格は真似したくてもできない」[293] と語っている。
また自他共に認める「ワーカーホリック」であり[16]、1年の内の8割をテレビ・コンサート・CM等のメディア出演がない限り、スウェット姿でスタジオを兼ねた自宅で一日中過ごし[294][295][296]、特に年末年始を世間の喧騒から逃れられる貴重な時間として好んでいる[297]。小室は「スタジオが好き。『メロディが出来て、こんなアレンジで完成して、このような広がり方で売れて、こんなコンサートがあって』と夢を膨らませることができる」と語っている[298]。
節税対策のため1998年に拠点をアメリカ・ロサンゼルス近郊マリブに移したことから[299]、1996年から2年連続で全国4位を記録していた高額納税者番付から外れた。しかし、のちに米国で生活することが困難となったため日本に拠点を戻している。小室ブーム以降、自身の異常な金銭感覚に触れられることが多く、特に逮捕時に頻繁に報道された[300][301][302][303][304]。
音楽活動の作風について、2018年引退後の週刊誌の直撃に「自分では最新鋭のことをやったつもりなのに曲への評論として“小室っぽいね”と言われるのが僕にとっては苦痛でした」と語ったが[305]、活動復帰した2021年の12月TOKYO FM「Blue Ocean」出演時には「前はもう飽き飽きだよいいよと思われてるのかと感じてきたけど、それって小室哲哉っぽいねと言われるのは大事なこと良いこと特徴があるってこと〜やり尽くしているけど〜作曲家で誰々っぽいと言われるのって今のこの時代で難しいみんな色々な曲があり過ぎる、それを追求していきたい」と述べている[306]。
※太字は2011年現在使用しているスタジオである。
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