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イングランドのロックバンド ウィキペディアから
キング・クリムゾン(King Crimson)は、イングランド出身のプログレッシヴ・ロック・バンド[6][7][2]。
キング・クリムゾン | |
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UNCERTAIN TIMES JAPAN TOUR 2018 (2018年) | |
基本情報 | |
出身地 | イングランド ロンドン |
ジャンル |
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活動期間 |
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レーベル |
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公式サイト | DGMディストリビューション・ジャパン (@DGM74921370) - X(旧Twitter) |
メンバー |
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旧メンバー | 別記参照 |
同国のミュージシャン、ロバート・フリップが主宰を務めていることで知られ、同分野で重要な位置に格付けられているグループの一つ。活動は中断期間を挟みながら50年以上に及び、ロック史に大きな足跡を刻んでいる。
1968年12月に結成。アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』で1969年にデビュー。以降、リーダーのロバート・フリップはバンドのメンバーを次々と替えていき、音楽性も多様に変遷を辿った。
活動は、大きく4つの時期に分けられる。
プログレッシブ・ロック形成の時代。演奏ジャンルに明確な線引きもなく、バンド史上最も実験性(エクスペリメンタル)に富んでいた。
ヘヴィメタル路線を推進したプログレッシブ・メタルを展開。メタル・クリムゾンとも呼ばれ、独自のヘヴィサウンド「ヌーヴォメタル」を創り出した。
公演活動にシフトし、ライブサウンドに特化。過去の作品を高度なレベルで演奏する、洗練かつ円熟した時代。
【補足】
各期の細かな分類については諸説ある。構成メンバーを基準に、“第1期”、“第2期”……などと分類する点は共通しているが、「デビューからファースト・アルバムのリリース当時」のメンバーを“第1期”、サード・アルバム『リザード』のころを“第2期”、4thアルバム『アイランズ』のメンバーを『第3期』……とする分類や、『リザード』までを“第1期”、『アイランズ』のころを“第2期”、『太陽と戦慄』から1974年解散までを“第3期”……とする分類などといったように、「アルバム自体や、その時のメンバー単位で分類する方法」と、「デビューから1974年の解散時まで」を“第1期”、「1980年代再結成からの活動期間」を“第2期”、「1994年からの活動期間」を“第3期”……と、「連続活動期間で分類する方法」などがあり、統一がなされていない。音楽評論家の市川哲史は、『太陽と戦慄』の時期を「再結成」、1980年代の『ディシプリン』から『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の時期を「再々結成」、1990年代のダブル・トリオの時期を「再々々結成」として、キング・クリムゾンのCDのライナノーツでもその様に記述している。ここでは、前者の分類方式に準じて述べていくが、「デビュー当初の“第1期”」後については、極力、構成メンバーやアルバム・タイトルなどで記述することとする。
1968年、ジャイルズ兄弟(マイケル・ジャイルズ、ピーター・ジャイルズ)とロバート・フリップの3人によるバンド「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」から発展。同年6月にマルチプレイヤーのイアン・マクドナルド、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド、女性ボーカルのジュディ・ダイブル(元フェアポート・コンヴェンション)が加わる。しかし翌7月にダイブルが抜け、同12月にフリップの古くからの友人であったボーカリスト兼ベーシストのグレッグ・レイクが参加。同11月末にピーター・ジャイルズが脱退し、フリップ、Mジャイルズ、マクドナルド、レイクとなり陣容が正式に固まった。
翌1969年初頭、バンド名は加入前にマクドナルドとシンフィールドが共作した曲「クリムゾン・キングの宮殿」から採られ、「キング・クリムゾン」に決定。シンフィールドは、メンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えている。本格化した活動が始まり、公開リハーサルの後、ライブ活動とアルバム制作を並行した。当初、バンドローディだったピート・シンフィールドは、作詞やライヴのライティングでの貢献から演奏に不参加ながらも正規メンバーとなった。
同年10月、デビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』を発表。それは今後のロック・ミュージックを左右する雛形が詰まったと言える作品で、業界からも非常に高い評価を得る[8]。全英アルバムチャート5位まで上昇したが、当時から雑誌のレコード・レビューなどで「1969年に、ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から転落させたアルバム」といった内容で日本盤LP帯に紹介されてしまった。[注釈 1]。
このファースト・アルバム制作当初、「ムーディー・ブルース」のプロデューサー トニー・クラークがプロデュースを担当する繋がりで、同バンドのレーベル「スレッショルド」からリリースする話もあったが、結局はクラークと制作面の相違で決裂。最終的にバンド側がセルフプロデュースして「アイランド・レコード」からのリリースとなった。また、現在はフリップがバンドリーダーを務めているが、この当時の作曲やアレンジを含めた音楽面では、マクドナルドが優勢であったとされる。特に、キーボード(メロトロン)、サックス、フルートを導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいとされている。
1stアルバム発表後、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは同年末で脱退し、ロック・デュオ「マクドナルド・アンド・ジャイルズ」結成に向かう。これによりオリジナル・ラインナップは早くも崩壊し、アルバム僅か一枚の短命で終わる。
バンドは崩壊後も契約消化のため、アルバム・リリースを継続せねばならなかった。1970年からの新アルバム制作にサックス及びフルート奏者 メル・コリンズが正規加入、脱退していたジャイルズ兄弟らの協力やゲストプレイヤーを招いて、セカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』を完成させた。ただし、グレッグ・レイクが4月以降からレコーディングに来なくなり、そのまま脱退。「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」結成に動き出していた。そのためライブツアーは実施されていない。その後、ボーカリスト兼ベーシスト ゴードン・ハスケルとドラマー アンディ・マカロックを正規メンバーに迎えた上に、ゲストプレイヤーの協力も仰いで、サード・アルバム『リザード』を制作して同年末リリース。ライブツアーを実施しようとしたが、リハーサル段階でハスケルとマカロックが脱退したので頓挫した。
1971年初頭、残った正規メンバー フリップ、コリンズ、シンフィールドは、ライブ活動ができる状態を模索する。まずボーカリスト ボズ・バレルとドラマー イアン・ウォーレスを獲得。そしてベーシストは適任者探しが難航した末、バレルが兼任するという形に決まり、フリップがベースギターの素人であったバレルに奏法を教授した。新作アルバムの制作に入る前に、4月からドイツや英国ツアーで1年以上ぶりのライブ活動を行う。
同年夏、新作アルバムの制作に着手し、並行して英国ツアーを継続。11月からは北米ツアーに入る。この間メンバー同士の確執が浮き彫りになる。特にフリップとシンフィールドの、ブレーン両名の険悪化は致命的であった。そんな中の同年末、4thアルバム『アイランズ』を発表。そしてシンフィールドは解雇された。さらに翌1972年早々のリハーサル段階でもフリップと残りのメンバーとの間の意見統一ができず、結局フリップはバンドの解散を決意。マネジメント側は既に北米ツアーの向こう2ヶ月のスケジュールを組んでいたため、4人は渋々同意して渡米し、ツアーが終了した同4月頭に解散した。
ツアー終了後フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は遠征先で意気投合したアレクシス・コーナーとバンド「スネイプ」を結成。その後バレルは、ポール・ロジャースのバンド「バッド・カンパニー」のベーシストとして参加。シンフィールドはグレッグ・レイクの呼びかけに応じて「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」に作詞で協力し、ソロ・アルバム『スティル』を制作した。後年にフリップは、この時期のバンド解消を「彼らとではアイデア(後の『太陽と戦慄』路線)を具体化できなかったから」と説明している。
同年6月、初のライブ・アルバム『アースバウンド』を廉価版にてリリース。これは北米ツアーの音源でカセットテープによって収録された劣悪な音質でありながら、対立が深まるメンバー同士の爆発寸前の驚異的な演奏であり、後々まで批評を受けた[注釈 2]。
解散が決定した1972年初頭からの北米ツアーの期間中フリップは、既に次期クリムゾン再開に向けての青写真を描いていた。同年夏、ドラマーのビル・ブルーフォードを「イエス」から獲得。「ファミリー」のベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットン、デレク・ベイリーが主宰しクリムゾンが影響を受けた即興集団「カンパニー」のパーカッショニスト ジェイミー・ミューア、そして新鋭のキーボード兼ヴァイオリニスト デヴィッド・クロスが集結し夏からリハーサルを重ね、同年10月から再始動。即興演奏(インプロビゼーション)を主体に、新たな楽曲を生み出す技巧派集団に生まれ変わった。
ここで再びバンドとしてのピークを迎え、5th『太陽と戦慄』6th『暗黒の世界』7th『レッド』の3枚のアルバムをメンバー変遷を経ながらもリリースし、ライブ・ツアーも精力的にこなした。
しかし、ミューアは『太陽と戦慄』発表前の早々に脱退。1974年にはデヴィッド・クロスとヘヴィ志向のウェットンとの間で音楽的衝突が浮き彫りになり、クロスを一方的に解雇し、アルバム『レッド』制作の頃は正規メンバーがフリップ、ウェットン、ブルーフォードの3人に減少していた。
ウェットンの呼び掛けにより、数名の旧メンバーがゲスト参加してアルバムを完成させたが、リリース直後にフリップは解散を宣言。直前まではメディアに、ゲストで参加したかつての創設メンバー イアン・マクドナルドを再度迎えてのバンド継続も匂わせていたが、フリップは自身だけでも脱退するつもりでいた。実際の裏側では、スティーヴ・ハケット(ジェネシス)を自分の後任候補に据えての存続をフリップは提案していたが、マネジメント側に却下されていた事実が後年に明かされている[10]。
解散後の1975年に、北米ツアーのライブを収録したアルバム『USA』をリリース。元音源にはヴァイオリン兼キーボード(主にメロトロン)担当のデヴィッド・クロスが参加していたが、数曲が編集段階でエディ・ジョブソンの演奏に差し替えられている(またこの頃、「太陽と戦慄 パート2」(5thアルバム『太陽と戦慄』収録)に酷似した曲が映画「エマニエル夫人」で使用され、フリップの訴えによる裁判が行なわれている。裁判後に和解)。
解散から7年後の1981年、フリップは、かつてのメンバーであるビル・ブルーフォードと共同で、「ディシプリン」という名のプロジェクトを開始した。アメリカ人ベーシスト、トニー・レヴィンが加入[注釈 3]。2人目のギタリスト兼ボーカリストに、アメリカ人のエイドリアン・ブリューが参加した。この4人からなる新グループは、契約しているレーベルの商業的意向もあって再び「キング・クリムゾン」の名義で活動を再開する。
しかし1970年代までのスタイルからは打って変わり、管弦楽器を廃してギター・ロックに徹し、ポリリズムや当時ムーブメントになっていたニュー・ウェイヴの要素を取り入れるなど、音楽性が劇的に変化していた(2本のギターとスティックによる複雑なアルペジオの絡みが特徴的)。このような形での再結成に対して批判の声も聞こえ、「キング・クリムゾンがトーキング・ヘッズ化した」という批判も一部から出た。旧メンバー ジョン・ウェットンも当時、「英国人以外が参加しているこのラインナップを、クリムゾンとして認めない」旨の発言をしている。
同1981年9月、当初のバンド名をセルフタイトルとした8thアルバム『ディシプリン』リリース。同1981年(昭和56年)12月に初来日し、渋谷公会堂、浅草国際劇場を始めとする全国ツアーを行なった。
1982年、9thアルバム『ビート』を発表。元々『ディシプリン』のみのプロジェクトであったため新素材がほぼ皆無で、準備不足のなか創作に苦労したエピソードを、後に明かしている。
1984年リリースの10thアルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』に至っては、メンバーのモチベーションはもはや低下した中で制作された。同年(昭和59年)春に再来日し、北米ツアー後の7月に解散を決定する。フリップは「レーベルとの契約は、アルバム3枚リリースが条件であった。本来意図したアイデアは『ディシプリン』で完結している」と後年に明かしている。
1980年代末頃からフリップの活動も活発になり、再び再結成の機運が高まっていく。1992年にフリップは音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、自身が管理する独立レーベル「Discipline Records (後のDiscipline Global Mobile。通称 DGM)」を設立。
さらに、デヴィッド・シルヴィアンとの共作などで手応えを感じたフリップは、1994年から遂にバンドを再始動させる。1980年代のメンバーから更に増員して6人編成となり、3人二組のユニットを配置するスタイルを構築(通称 ダブルトリオ)。サウンド面では、1974年作『レッド』で片鱗をみせたヘヴィ路線を継承し、プログレッシブ・メタルを推進した。
このラインナップでEP『ヴルーム』を制作。慣らし運転も兼ねた南米ツアーを開催し、翌1995年に11年ぶりの11thアルバム『スラック』を発表。そしてフリップは、キング・クリムゾンが実践するヘヴィサウンドを「ヌーヴォメタル (Nuovo Metal)」と名付けた。アルバムに伴うワールドツアーを開始し、数多くのライブ音源をアーカイブ化していく。
長期のライブ・ツアーを終え休息した後の1997年、集合したバンドはリハーサル段階で相違が大きく内紛状態になってしまう。また、メンバーそれぞれ自身の仕事を掛け持ちしており、スケジュールの確保も影響していた。そこでフリップは6人編成を一旦棚上げにして、次作へのアイデアを蓄積させていく意味も含め「プロジェクト (ProjeKct)」という名義の小ユニット活動に一時シフト。これを2000年まで断続的に続ける。またこの期間、グレッグ・レイクもしくは、ジョン・ウェットンを含む4人のクラシックメンバー再結成が企図されたが、これは計画段階で頓挫している。
2000年、プロジェクトで培ったアイデアを結集した「ProjeKct X」名義のアルバム『ヘヴン・アンド・アース』をリリース。ただし、ビル・ブルーフォードが、電子ドラムを使用したいフリップの方針に難色を示し、また自らのバンド「アースワークス」の活動に専念を希望し、1997年に脱退していた。トニー・レヴィンも先約のスケジュールを優先し、1998年から離脱したまま復帰はしなかった。
2000年(平成12年)、ダブルトリオ瓦解後の残る4人による12thアルバム『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』をリリース。結果的にセールスは大きく振るわなかった。来日公演や北米ツアーを開催するが早くも次作に向けた構想に取り組み、バンド独自のヘヴィサウンド「ヌーヴォメタル」を、これまで以上に推し進める。
2001年から次作に向けた短期ツアーとレコーディングを並行して実施。同年にEP『レヴェル・ファイヴ』、翌2002年にもEP『しょうがない (Happy with What You Have to Be Happy With)』をリリース。そして2003年、ヌーヴォメタルの集大成となる13thアルバム『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』を発表。同年に来日公演を含むワールドツアーを開催する。
同年秋、ダブルトリオ編成からのメンバーであったトレイ・ガンが脱退を表明。入れ替わりに、トニー・レヴィンが復帰した。翌2004年から新ラインナップでリハーサルを重ねるが、想像以上に上手くいかず頭打ち状態に陥った。多額の経費をかけた割に実りの無さを痛感したフリップは、今後のプランを白紙としバンドは長期の活動休止に入る。
2008年4月、今後の活動計画を話し合う会合とリハーサルが再開。更に新メンバーとして「ポーキュパイン・トゥリー」のドラマー、ギャヴィン・ハリソンの加入が明らかになった。同年8月に北米ツアーを実施。その後、更なるツアーが予定されていたが、エイドリアン・ブリューが自身のソロツアーとダブルブッキングしてしまったことで頓挫。翌年のデビュー40周年記念ツアーも視野にあったが、フリップとブリューの確執も取り沙汰され、また全てが白紙になった。
2011年、バンド休止中の間フリップは、以前に「21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド」でも活動していた旧メンバーのメル・コリンズ、ジャッコ・ジャクジクらと新たなキング・クリムゾン・プロジェクトを立ち上げ、アルバム『ア・スケアシティ・オブ・ミラクルズ』を発表。次期クリムゾンに向けた活動を再開する。
ところが、翌2012年にフリップが音楽業界からの引退を表明し、バンドの活動終了を宣言。「ユニバーサル・ミュージックと出版権について問題が勃発し、法廷闘争に専念するため」と明かしている。
2013年、自社レーベル「DGM」のブレーンでもあるデヴィッド・シングルトンが、キング・クリムゾンのトリビュートバンド結成を企図する。これはクリムゾン・プロジェクトらのメンバーに、旧メンバー ジョン・ウェットンを加えた「クリムゾンDNA」という新グループ構想であった。フリップはシングルトンの構想に賛同し、裏方からの支援に着手しようとする[11]。
しかしフリップは、ユニバーサル・ミュージックとの係争に一段落ついていた事情もあって、次第に復帰の意欲が湧きはじめ引退の前言を撤回。紆余曲折を経た後 オフィシャルサイト上より、かつてのフリップ主催「ギタークラフト」に参加して知己であったビル・リーフリンの加入による編成で、正規のクリムゾン再始動を表明した[12]。
2014年6月、ライブ活動の再開を発表。メンバー構成は、フリップ、メル・コリンズ、トニー・レヴィン、ジャッコ・ジャクジク、そして3人のドラマー、パット・マステロット、ギャヴィン・ハリソン、ビル・リーフリンを前列に配置した「トリプルドラム」の編成で、9月9日よりアメリカにて17回公演のツアーを開始した。
2015年(平成27年)12月、約12年ぶりに日本公演を開催[13]。
2016年、リーフリンが一時降板し、代役にジェレミー・ステーシーが9月の欧州ツアーから参加[14]。12月、創設メンバーのグレッグ・レイクが死去[15]。
2017年、ビル・リーフリンが復帰して、キーボード担当に変更。ジェレミー・ステーシーはそのまま正規メンバーに昇格し、8人編成に拡張する[16]。そしてフリップは、ラインナップ構成の呼称を「ダブルカルテット・フォーメーション」と命名した。
同年5月、昨年他界したデヴィッド・ボウイ追悼のトリビュート作品EP『ヒーローズ』をリリース[17]。その後から全米ツアーを開始[18]。
同年10月、リーフリンが秋公演に不参加となり、代役サポートにマルチ奏者クリス・ギブソンがキーボードを担当して全米ツアーを再開。
2018年4月、リーフリンが再復帰し、欧州ツアーを開始。同年(平成30年)11月末、結成50周年を記念した来日ツアーが開幕し[19]、集大成となるライブを翌12月まで開催する[20]。
2019年4月、デビュー50周年記念欧米ツアーの概要を発表し、今年一杯はリーフリンが再度の休養。代役サポートとして、フリップと共演歴のあるサックス奏者セオ・トラヴィス(ソフト・マシーン)のキーボード担当が内定していたが[21]、リハーサルが芳しくなかったため白紙に戻した。結果、今シーズン以降は現行メンバーのみの7人編成で対応し、ジェレミー・ステーシーがキーボードを兼任する。
2020年3月、長期休養中だったビル・リーフリンが病没[22]。さらに新型コロナウイルス感染症が世界的に大流行した影響で、年内のスケジュールを翌年に延期。
2021年夏から北米ツアーを再開[23]。そしてジャッコ・ジャクジクは北米ツアーについて、バンドにとって最後になる可能性を示唆する。各種イベント延期分のしわ寄せで会場確保が今後困難になること、正常に戻った頃には年長メンバーの高齢化が進行している健康事情を説明した[24]。
同11月末から3年ぶりの来日ツアーを開催[25]。そしてトニー・レヴィンも前述の北米ツアーと同様に、ツアーの形態による開催はこの日本公演をもって最後を示唆した。ロバート・フリップから『ツアーの全行程を「日本で幕を閉じる」』と説明された話を明かし、コロナ禍で開催実現に奔走してくれた関係者に謝意を伝えている[26]。
2022年2月、創設メンバーのイアン・マクドナルドが死去[27]。3月、バンドのドキュメンタリー映画『In the Court of the Crimson King』を公開上映[28]。
同年4月、メンバーのギャヴィン・ハリソンが音楽メディアの取材で、バンドの状況を自分なりに語った。昨年末の最終ツアーは『2013年からのプロジェクトが完走し、あくまで一つのサイクルが終了したに過ぎない』『ロバート・フリップは物事をプロジェクト単位(○○年周期)で考えるため、その度に白か黒か(継続なのか解散なのか)といった判断はしない』と私見を述べ、今後どんなケースもあり得ると説明している[29]。
そして同年7月、ロバート・フリップ本人が取材に答え、『我々の年齢の現実からすれば、今後のツアーは難しい』『キング・クリムゾンのギターパートは演奏オリンピックのようなもので、若い頃のようなアスリート能力を求められても応えるには困難』と、ツアーの再開は明確に否定した[30]。
※2022年2月時点
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ディシプリン・グローバル・モービル(Discipline Global Mobile)は、バンドを主宰するロバート・フリップが1992年に設立した独立系レコードレーベル。共同責任者はエンジニアを兼任するデヴィッド・シングルトン。名前の由来およびロゴは8thアルバム『ディシプリン』から。
キング・クリムゾンはデビュー時から「E.G.マネージメント」に籍を置き、音源も同社のレーベル「EGレコード」が管理していた。しかし1990年頃から同マネージメントが経営難に陥り、ロイヤリティの支払いが滞りはじめ、さらに版権をヴァージン・レコードとBMGに売却されてしまう。この状況に反発していたフリップは、原盤の所有権を主張し訴訟にまで発展する[31]。
その間の新譜リリースに対応させるため、1990年代初頭から仕事を共にしていた音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、新たなレーベル「Discipline Records」(現行の『Discipline Global Mobile (通称 DGM)』)を設立。裁判は1999年まで7年間続いた末に勝訴し、旧レーベル側と和解して旧譜の原盤権を全て認められた。
以降、バンドに関連する音源は全て同レーベルが発売元となり、外部アーティストとの契約・管理も業務とするようになった。また、海賊盤対策も徹底しており、1990年代以降からは(キング・クリムゾンの)ほぼ全てのライブを自前で録音しアーカイブ化。過去の海賊盤音源も独自にリマスターを施してオフィシャルでリリースし、違法販売の芽を潰している。
2022年、日本の供給販売元であったWOWOWエンタテインメント(旧WHDエンタテインメント)がレーベルを閉鎖。その後の受け皿として同社のディレクターであった音楽ライター深民淳(元BURRN!編集者、元METAL GEAR編集長など)らがスタッフとなり[32]、DGMの日本支社「DGMディストリビューション・ジャパン」を設立した[33]。
TOKYO FM出版は1995年(平成7年)10月25日に書籍『キング・クリムゾン』〈地球音楽ライブラリー〉を発行したが[36]、キング・クリムゾンのメンバーに無断で発行したため、ロバート・フリップはパブリシティ権を侵害されたとして出版元のTOKYO FM出版を訴えた。これを「キング・クリムゾン事件」という[37]。第1審ではフリップの勝訴となったが[38]、控訴審ではTOKYO FM出版が逆転勝訴し[39]、以後、記載内容の多くのミスが修正されないまま2007年(平成19年)にも再版されている[40]。
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