講書始(こうしょはじめ)とは宮中行事の一環で、毎年1月に天皇の学問始(読書始)として学者による進講を行う。
明治2年に京都御所小御所において、玉松操らが和書を代表して『日本書紀』を、東坊城任長(大学頭)らが漢籍を代表して『論語』を講義したのが最古とされる。当時は御講釈始とも呼ばれた。明治5年(1872年)に現在の呼称が定まり、翌年には皇后も列席する事、洋書に関する進講も行う事とされた。今日では皇后だけでなく、皇太子・親王及びその妃・内親王も出席する。
正式に宮中行事とされたのは、1926年(大正15年)の皇室儀制令第5条による。第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)から、和書・漢籍・洋書[1]の形を改め、人文科学・社会科学・自然科学の3分野で、各界の権威者を招くようになった。
例年、1月10日前後に皇居正殿の松の間において行われる。平成20年の出席者は天皇・皇后・皇太子徳仁親王ほか皇族一同、衆参両院議長ほかが参列。進講時間は3分野を約15分ずつの計約45分で行われている。
明治時代
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- 1869年(明治2年)[2]
- 1870年(明治3年)[3]
- 1871年(明治4年)
- 中止
- 1872年(明治5年)[3]
- 1873年(明治6年)[4]
- 国書: 福羽美静・本居豊穎
- 漢書: 元田永孚「大学明々徳」
- 洋書: 加藤弘之
- 1874年(明治7年)[5]
- 1875年(明治8年)[5]
- 国書: 福羽美静
- 漢書: 元田永孚「書経、大禹謨首章」
- 1876年(明治9年)[5]
- 国書: 福羽美静
- 漢書: 元田永孚「論語為政首章、子曰為政以徳」
- 洋書: 西村茂樹
- 1877年(明治10年)[6]
- 国書: 福羽美静・近藤芳樹
- 漢書: 元田永孚「大学伝之二章湯之盤銘」
- 洋書: 西村茂樹
- 1878年(明治11年)[7]
- 漢書: 元田永孚「論語第五章道千乗国使民以時」
- 洋書: 西村茂樹「亜米利加学士希毅著修身学ノ国政篇」
- 国書: 近藤芳樹「古事記」
- 1879年(明治12年)[7]
- 漢書: 元田永孚「論語、顔淵篇樊遲問仁之章」
- 洋書: 西村茂樹「モンテスキウ政体論、政体三種之論」
- 国書: 近藤芳樹「書紀、孝徳天皇二年」
- 1880年(明治13年)[7]
- 漢書: 西村茂樹「詩経、国風篇関雎」「易経、泰卦」
- 1881年(明治14年)[8]
- 1882年(明治15年)[8]
- 漢書: 元田永孚「書経、大禹謨人心惟急道心惟微之章」
- 漢書: 西村茂樹「礼記坊記篇子云有、国家者之二節」
- 漢書: 西尾為忠「礼記曲礼篇首三節」
- 国書: 池原香穉「万葉集、藤原宮之役民之作歌」
- 1883年(明治16年)[8]
- 1884年(明治17年)[9]
- 漢書: 元田永孚「中庸、首章」
- 漢書: 児玉源之丞「論語子路篇」
- 国書: 池原香穉「万葉集」
- 1885年(明治18年)[10]
- 漢書: 元田永孚「書経、益稷末章帝庸作歌曰之一節」
- 国書: 福羽美静「令義解、第四巻考課令中徳義云々之章四項」
- 洋書: 西村茂樹「英国文明論ノ内気候ノ文明ニ関係スル論、地勢ノ文明ニ関係スル論、国民気質ノ文明ニ関係スル論附保守家改新家」
- 1886年(明治19年)[10]
- 国書: 福羽美静「日本書紀、崇神天皇四年ノ一段」
- 洋書: 西村茂樹「リーベル著「政道学」ノ内愛国心論」
- 漢書: 根本通明「周易、泰卦泰小往大来吉享彖辞」
- 1887年(明治20年)[11]
- 1888年(明治21年)[12]
- 漢書: 元田永孚「周易、乾卦彖ノ辞」
- 洋書: 西村茂樹「普王フレデリツク二世略伝」
- 国書: 物集高見「続日本紀、文武天皇御紀之條」
- 1889年(明治22年)[12]
- 漢書: 元田永孚「大学、平天下之伝首一章」
- 国書: 高崎正風「万葉集、八之巻元正天皇御製一首」
- 洋書: 西村茂樹「ウールジー公法便覧ノ内偃武論」
- 1890年(明治23年)[12]
- 漢書: 元田永孚「周易、泰ノ卦二支包荒用憑河ノ一支辞」
- 洋書: 西村茂樹「ウエルテル万国史独逸史中ノ一章」
- 国書: 物集高見「続日本紀、慶雲四年夏四月壬午ノ詔詞」
- 1891年(明治24年)
- 中止
- 1892年(明治25年)[13]
- 洋書: 西村茂樹「英国人ダルケン著「普王弗勒得力二世ノ事蹟」」
- 漢書: 川田剛「詩経、下巻周頌清廟ノ章」
- 国書: 本居豊穎「日本書紀、巻六垂仁天皇二十五年春二月丁巳朔甲子之詔ヨリ同文ノ続伊勢大神宮創建ノ條」
- 1893年(明治26年)[13]
- 洋書: 西村茂樹「英国志第四約翰紀」
- 漢書: 川田剛「礼記、礼運篇」
- 国書: 物集高見「万葉集、十八之巻賀陸奥国出金長短歌」
- 1894年(明治27年)[14]
- 1895年(明治28年) - 1898年(明治31年)
- 中止
- 1899年(明治32年)[15]
- 洋書: 細川潤次郎「米国憲法制定当時ノ景況」
- 国書: 本居豊穎「日本書紀、巻十四雄略天皇猟干葛城山ノ條」
- 漢書: 三島毅「周易、泰卦」
- 1900年(明治33年)[15]
- 洋書: 細川潤次郎「普王フレデリツク第二世ノ逸事」
- 国書: 本居豊穎「万葉集、巻三詠不尽山歌」
- 漢書: 三島毅「大学、契矩章第二節」
- 1901年(明治34年)
- 中止
- 1902年(明治35年)[16]
- 洋書: 細川潤次郎「英国国会改革ノ顛末」
- 国書: 本居豊穎「日本書紀、巻三神武天皇御紀戊午年秋八月ノ條」
- 漢書: 三島毅「書経大禹謨ノ篇」
- 1903年(明治36年)[17]
- 1904年(明治37年)[17]
- 1905年(明治38年)[18]
- 洋書: 細川潤次郎「「クリミア」戦史」
- 漢書: 重野安繹「詩経、豳風東山篇四章」
- 国書: 木村正辞「万葉集、巻十八賀陸奥国出金詔書歌」
- 1906年(明治39年)[19]
- 洋書: 細川潤次郎「埃及ト英国ノ関係」
- 漢書: 三島毅「詩経大雅蕩之什江漢篇」
- 国書: 猪熊夏樹「日本書紀神武天皇四年二月ノ條」
- 1907年(明治40年)[18]
- 洋書: 細川潤次郎「伊太利統一ノ歴史」
- 漢書: 重野安繹「尚書、虞書、堯典」
- 国書: 猪熊夏樹「万葉集、大伴家持喩族歌」
- 1908年(明治41年)[18]
- 1909年(明治42年)[20]
- 洋書: 穂積八束「羅馬皇帝ジユスチニヤン大法典発布ノ詔書」
- 漢書: 重野安繹「易経、繋辞下伝井居其所而遷一句」
- 国書: 猪熊夏樹「禁秘御抄上巻、賢所ノ條凡禁中作法ヨリ然而不憚之マテ」
- 1910年(明治43年)[20]
- 洋書: 穂積八束「「タキトウス」ノ「ゲルマニヤ」ニ依ル「古ゲルマン」民族の建国」
- 漢書: 三島毅「論語、泰伯篇末章「子曰禹吾無間然」云々章」
- 国書: 猪熊夏樹「祝詞式新年祭第一祝詞集、侍神主祝部等ヨリ朝日能豊逆登爾称辞竟奉久登宣マテ」
- 1911年(明治44年)[21]
- 洋書: 穂積八束「希臘及羅馬ノ古典ニ顕ハレル祖先崇拝ノ事蹟」
- 漢書: 三島毅「周易、大有ノ卦」
- 国書: 猪熊夏樹「出雲風土記国引ノ條「所以号意宇者ヨリ蘭之長浜是也マテ」」
- 1912年(明治45年)[21]
- 洋書: 穂積八束「アリストテレス政治書」
- 漢書: 星野恒「周易、上経観卦彖辞及象伝「観盥而不薦有孚顒若」、「象曰風行地上観先五以省方観民設教」」
- 国書: 猪熊夏樹「古語拾遺、天石窟ノ章「爾乃太王命以広厚称詞啓曰ヨリ爾乃二神倶請曰勿復還幸マテ」」
- 渡辺幾治郎『明治天皇の聖徳 教育』(千倉書房、1941年)
- 『天皇皇后両陛下が受けた特別講義 講書始のご進講』(KADOKAWA、2020年)、10年分の講書始を収録