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礼(れい、旧字体:禮、拼音: )とは、さまざまな行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称。春秋戦国時代、儒家によって観念的な意味が付与され、人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範をも意味するようになった。
前史として、孔子が体系化する以前、その源流となった周王朝における礼とは「宗法」を指し、祖先祭祀・嫡長子相続・同姓不婚などから成り、これらの宗法=礼を守ることで社会の安定をもたらすとした礼政一致の封建制度が形成された[1]。その前代の殷では、上帝の意思を一方的に占う祭政一致の神権政治を行っていた[2]が、孔子が理想としたのは周における礼政一致であった(後述)。
孔子は礼について「克己復礼」(こっきふくれい。自己に打ち克って礼に復帰する)することが仁であると説き[3]、仁を表現するうえで礼と仁は不可分のものと考えた[4]。孟子も同様に、仁・義を美的に整え、飾るのが礼であると説いた[5]。
儒家の礼の基本精神は供犠であり、「正しい」方法を守るという倫理的な支持以外の見返りを期待しない贈与である[4]。孟子は「礼にかなっていなければ、どんなに飢えたひとであっても、施しの食事を受け取ることはない[6]」と述べ、礼は人間のあり方として訓練されるべき規範であると説いた[5]。
礼は規範であるが、法規範のように客観的・普遍的なものではなく、感情を様式化した主観的で特殊な規範である[4]。礼の具体的な適用場面は王朝や時代に応じて適切な形に見直され、変形している。
孔子の礼制による既成の秩序維持は周王朝期の礼制であり、春秋時代に国土を拡大した諸国がこれに従えば、国によっては国土を縮小しなければならず、これを指摘し、合理的に批判したのが、楚国の子西であった[7](以降、孔子は諸国の政治になぜ登用されなかったかの自覚をもつに至る)。 孟子は礼を国家の行動規範として想定し、殷の湯王が葛伯を伐った葛伯征伐について、礼を行わない葛伯に対する正義の戦争であったと考察し正戦の論理を説いた[8]。19世紀の思想家章炳麟は、礼が範例的な規範である以上、それを普遍化して押し付けることはできず、特定の礼を特権化してそれを拒むものを悪とする孟子の正戦論理は侵略戦争や植民地戦争の論理に他ならないとして批判した[5]。
『儀礼』が扱っている礼
後には「冠礼」・「婚礼」・「葬礼」・「祭礼」を四礼と呼んだ。
『周礼』大宗伯には礼が五つに分類されている。
礼は儒家によって観念化され、秩序原理にまで高められた。荀子によって理論的整備がなされ、六経の一つとして挙げられると、礼を研究・実践する学問である礼学が起こった。
秦代、焚書坑儒によって礼に関する多くの書物が散佚し、漢代に伝えられた『礼』は士礼17篇(現在の『儀礼』)のみであったという。高堂生がこれを伝え、后蒼が武帝の時、博士となり、その弟子、戴徳(大戴)・戴聖(小戴)・慶普の三家に分かれて学官に立てられた。また『礼』に対して注釈や補充説明をした「記(礼記)」がある。『漢書』芸文志には『記』131篇・『陰陽明堂記』・『王史氏記』、后蒼が著した『后氏曲台記』が記載されている。現在に伝わっている礼記は戴徳が伝えた『大戴礼記』、戴聖伝えた『小戴礼記』(現行本『礼記』)である。
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