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『金史』(きんし)は、元朝のトクト(脱脱)らの撰になる金代の歴史書(紀伝体)である。本紀19巻・志39巻・表4巻・列伝71巻の通計135巻。女真族の興起から金朝の建立と滅亡に至るまでが記述されている。後に『金国語解』1巻が付けられた。
本書編纂の由来は、元朝のクビライの統治する中統2年(1261年)に、遼朝と金朝の二史の編纂が審議されたことに始まる。朱子学の正統論が問題となり、なかなか史書の形式が決まらず、書物の完成には時間がかかった。
その後、トゴン・テムルは至正3年(1343年)3月に遼朝・金朝・宋朝の三史の編纂を命令の後、中書右丞相トクトを都総裁官(最高責任者)、翰林学士欧陽玄ら6人を総裁官(実質上の責任者)とすると、編纂に従事させることになった。こうして至正5年(1345年)10月、遼朝・金朝・宋朝の三史が完成した。
中国の歴代正史がそうであるように、『金史』もまた多くの史書を下敷きとして成立している。その主だったものを挙げておくと、以下のようになる。
金・遼・宋の三朝史のうち『宋史』『遼史』は慌ただしく編纂され、多くの誤りが存在する。『金史』は、
などから、比較的綺麗にまとめられた。そのため、三朝史のうち『金史』が最良といわれている。しかし『金史』にも前後矛盾した記事があり、ほかにも重複や史実の誤り、過度の省略、年次の逆転、人物名の混乱などが存在しないわけではない。後に、清の施国祁は『金史詳校』10巻を著すと、『金史』の4000条あまりを校勘・補正し、学界に便益をもたらした。
『金史』の版本はいくつか存在する。既に元の至正年間に印刷出版されたほか、明朝には南北両監本(南監本と北監本)が生まれ、次いで清朝にも四庫本(『四庫全書』収録)や武英殿本(『武英殿聚珍版』所収)が生まれた。清朝の編纂物は、一般に原本の改竄があり、版本としては不適当であるとされる。
近代以後、1935年に商務印書館の出版した百衲本『金史』は、至正年間の135巻(そのうち80巻が初版、55巻が復刻本)と同じ構成であり、長い間最高権威としての地位を保持していた。ただ1975年に中華書局から、新式校点を施した『金史』が出版され、以後にはこの中華書局本が利用されることになった。中華書局本は、百衲本『金史』を底本に、監本・殿本などの各種版本によって校訂を加えたほか、各種資料による補正も附されたものである。また百衲本以前の版本と異なり、句読点を附した点も画期的であった。
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