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張 邦昌(ちょう ほうしょう)は、北宋末・南宋初期の政治家。字は子能。永静軍東光県張家湾(現在の河北省衡水市阜城県碼頭鎮大龍湾)の人。一時、金朝が建てた傀儡国家楚の皇帝に擬せられた[注釈 2]。
進士出身で、大観4年(1110年)に高麗へ使行した。様々な官職を経て大司成となったが、訓導を誤って崇福宮提挙に左遷された。その後、地方官として光州・汝州・洪州知州を歴任し、礼部侍郎となって復帰した。宣和元年(1119年)、尚書右丞を拝命され、後には尚書左丞、中書侍郎に移った。欽宗が即位すると、宰相職である少宰(尚書右僕射)、ついで太宰(尚書左僕射)兼門下侍郎に任ぜられた。
靖康元年(1126年)、金軍が首都の開封に迫った時に康王趙構(後の南宋の高宗)とともに金軍の人質となり和解条件を整えて帰還するが、主戦派の弾劾を受けて左遷される。靖康2年(1127年)、戦いが再開されて結局開封は占領され、太上皇徽宗と欽宗をはじめ、数多くの皇族や官僚たちが連行された(靖康の変)。金軍は傀儡として異姓の賢人を立てて旧北宋領を統治させる方針を立て、張邦昌を「大楚皇帝」に擁立した[2][3]。名目上の首都は、金陵(現在の江蘇省南京市)に定められた[2][3]。しかし金軍が撤収すると、張邦昌は帝位を放棄し、哲宗の皇后で廃位されていた孟氏(元祐皇后)を迎えて尊奉し、自身を太宰として事務を管掌した[1]。
同年5月、孟氏による垂簾聴政の形式を整え、その指名の形で康王趙構を皇帝に擁立させた[1][注釈 3]。これにより、楚は32日で滅亡した。その後、張邦昌は高宗のいる応天府に出頭した。高宗は張邦昌を許すつもりで太保・同安郡王としたが、宰相の李綱が張邦昌の処刑を強硬に主張したため、彼の身柄は潭州に安置され、尚書省の監視を受けるようになった。9月25日には詔書が下され張邦昌を自殺させた。
張邦昌の廃位後、金朝は代わって劉豫を擁立し、同じく漢人を皇帝に戴く傀儡国家の斉を建て、引き続き旧北宋支配地域の間接統治を試みていくことになる。
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