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斡本(オベン)は、金の皇族。漢名は宗幹。太祖阿骨打(アクダ)の庶長子。母は側室の裴満氏(追尊光懿皇后)。爵位は遼王で、忠烈と諡された。
天会13年(1135年)に叔父の太宗呉乞買(ウキマイ)が崩御すると、族兄の晋王粘没喝(ネメガ、宗翰)と共に甥(太祖アクダの孫)で自身の養子でもある合剌(ホラ、後の熙宗)を擁立して、太宗の子の蒲魯虎(ブルフ、宗磐)や族父の撻懶(盈歌の子)と対立した。やがて蒲魯虎・撻懶が失脚すると、次の標的を、皇族の実力者である粘没喝に移す。斡本は熙宗に上奏して、粘没喝を太保領三省事という皇帝側近の名誉職に就任させて、大同を基盤としていた粘没喝の軍事権を奪った。粘没喝は次第に憔悴し、天会15年(1137年)に不遇のまま59歳で病没した。蒲魯虎・撻懶が再び権力を奪回すると、斡本は今度はこの両者と組んで、金の傀儡属国である斉帝劉豫を蜀王に降格して、内蒙古にある臨潢府に強制的に移住させた。以降も斡本は権力を握り、異母弟の瀋王斡啜(宗弼)と組んで、蒲魯虎・撻懶と再び対立した。
天眷2年(1139年)4月、蒲魯虎と撻懶が劉豫の斉国廃止後、服従を条件に陝西と河南を南宋に割譲したのを、南宋に通じたと誣告、2人を謀反の罪で処刑することに成功した。ただし、撻懶の異母弟の烏野は斡本に属しており、兄と対立していたために連座はされなかった。肩の荷を降ろした斡本は、皇統元年(1141年)5月に病没した。熙宗は、この養父の逝去を大いに悲しみ慟哭したという。
のちに、次男の迪古乃(テクナイ、海陵王)が従兄の熙宗を惨殺して即位すると、亡父に対して、徳宗の廟号と憲古弘道文昭武烈章孝睿明皇帝の諡号を贈った。しかし、海陵王が廃位されて世宗の代になると、「暴君の父」ということで廟号が削除され、帝号を明粛皇帝とされた。後に帝号も削除されて皇伯・太師・遼王に降格された。
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