撒改
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撒改(サガイ、生年不明 - 1121年)は、金の宗室。子に粘没喝(ネメガ、完顔宗翰)[注釈 1]・阿懶(アラン、完顔宗憲)がいる。
人物・略歴
金の世祖劾里鉢(ヘリンボ)の長兄の韓国公劾者(ヘテェ)の子。金の建国者の阿骨打(アクダ)が遼から自立して金朝を立てた際、サガイは1115年7月、国論勃極烈(国務大臣に相当)に任じられ[注釈 2][原史料 1]、大臣職に就いた。9月には国論忽魯勃極烈に改められた。
『金史』「撒改伝」には「太祖(アクダ)は撒改(サガイ)と諸部を分治す。匹脱水以北は太祖がこれを統べ、米流水の人民は撒改がこれを統ぶ」と記されており、金朝の政府はアクダを首長とすると言いつつも、完顔氏の権力は2つの中心をもっていたと考えることができる[4][原史料 2]。1121年死去。死後、燕国王に追封された。海陵王の正隆年間(1156年-1161年)には陳国公に降封されている。大定3年(1163年)、金源郡王を改めて贈られ、阿骨打(アクダ)の宗廟を受けて「忠毅」の号が授けられた。
脚注
参考文献
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