日本の中国哲学者 ウィキペディアから
加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - 1978年8月3日)は、中国古代学者、東京大学文学部名誉教授。東大退官後は二松学舎大学文学部中国文学科教授。号は「維軒」。
1894年、愛知県中島郡大里村で生まれた。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進んだ。支那哲学文学科で学び、1920年に卒業。
卒業後は、静岡高等学校教授に就いた。その後、京城帝国大学として勤務。1933年、広島文理科大学教授となった。1938年(昭和13年)、学位論文『爾雅釈親を通じて見たる支那古代家族制度研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得[1]。
1947年(昭和22年)、高田眞治の公職追放による退職に伴って東京帝国大学中国哲学科教授となった。ジェームズ・フレイザー「金枝篇」など文化人類学の成果を援用して古代支那の実相を明らかにしようとした。 1951年(昭和26年)には、宮中講書始の儀で漢書を進講[2]。1955年(昭和30年)に定年退官。退任後は、1957年(昭和32年)より二松学舎大学教授として教鞭をとった。1962年(昭和37年)からは第3代二松学舎大学学長を務めた[3]。学界では、日本中国学会理事長、斯文会理事長を務めた。
門下生らとの座談での回想は、『東方学回想Ⅵ 学問の思い出〈2〉』(刀水書房、2000年)に収録されている。なお、講義で白川静の『漢字』(岩波新書)を酷評していたことも知られている[4]。
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