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日本の作曲家 (1909-1989) ウィキペディアから
古関 裕而(こせき ゆうじ、旧字体:古關 裕而、1909年(明治42年)8月11日[1][2] - 1989年(平成元年)8月18日[1])は、日本の作曲家。本名は古関 勇治(旧字体:古關 勇󠄁治、読み同じ)。妻は声楽家で詩人の古関金子。
福島に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、青年期には金須嘉之進に師事。1929年に国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品として、自身の作品がノミネート。これを日本の新聞で「チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの流行歌、歌謡曲、映画音楽、軍歌の作曲を手掛け[2]、音丸の「船頭可愛や」、中野忠晴・伊藤久男らの「露営の歌[注釈 1]」、伊藤久男の「暁に祈る」、霧島昇・波平暁男の「若鷲の歌」、渡辺はま子の「愛国の花」などを発表した。戦後は、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」や、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」、藤山一郎の「長崎の鐘」[2]、伊藤久男の「イヨマンテの夜」、織井茂子の「君の名は」、岡本敦郎の「高原列車は行く」[2]ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。
他方で、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」[2]、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、名城大学応援歌「真澄の空に」、三重県立四日市高等学校応援歌「希望の門」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」[2]、阪神タイガースの球団歌「大阪(阪神)タイガースの歌(六甲おろし)」[2]、読売ジャイアンツの球団歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」[2]、中日ドラゴンズの旧球団歌「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」、東京五輪の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」[2]、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手がけ、和製スーザと呼ばれた。巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関本人はスポーツが苦手で、プロ野球にもあまり興味がなかったため、球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた[4]。
また、母校である福島商業高等学校の校歌「若きこころ」を始め、北海道から九州に渡る多数の学校で校歌を作曲している[5]。
1909年8月11日、福島県福島市大町にあった老舗呉服店「喜多三(きたさん)」の8代目当主だった父・古関三郎次[注釈 2]と母・ヒサの長男として誕生[2]。なかなか子供ができず養子をもらおうかと思っていたところに誕生したため、両親から溺愛された[8]。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつも浪曲、民謡、吹奏楽などのレコードをかけていた[8][2]。古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく[2]。
同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年が住んでおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる[9]。
1916年(大正5年)、福島県師範学校附属小学校(現福島大学附属小学校)へ入学した[2]。小学3年生の時、母ヒサは古関に3オクターブの鍵盤がある卓上ピアノを買い与えた。また、小学3年生から6年生のときの担任であった遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。音楽の授業では、詩に曲をつけさせたり、遠藤が作曲した歌を歌ったりした。古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになった。ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を作って古関に作曲を依頼してくるようになる。こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。
1922年(大正11年)、旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)に入学した[2]。同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた[2]。年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。初めて自分の作品が披露された出来事であった[10]。しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った[2]。
1923年、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。傾倒したのは、リムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』とストラヴィンスキーの『火の鳥』、ドビュッシー、ムソルグスキーなどである。このレコードコンサートには頻繁に通っていたという[10]。
1927年頃に、本名の「勇治」では勇ましすぎると感じ、ペンネームを「裕而」に変更している[11]。
1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に勤務した[2]。町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた[12]。この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている[10]。古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組に出演する。この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していた金須嘉之進に和声法を師事することになった[13]。金須は正教徒で、正教の聖歌を学ぶため革命前のペテルブルクの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んでいた。
1929年(昭和4年)、イギリスロンドン市のチェスター社が発行する音楽雑誌『ザ・チェスターリアン』第10巻第77号[14]に掲載された管弦楽作品の懸賞募集を見て、同年7月に管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』を含む5つの作品を応募した。『竹取物語』はストラヴィンスキーの『火の鳥』から影響を受け、商業学校5年生の時に書き始めた作品であった。同年12月に福島商業学校の恩師、丹治嘉市に「2等に5曲共入賞致しました。協会からは既に旅費、及びその他の費用として、£400の金が送金されて来ました。」と手紙で報告し[15]、1930年(昭和5年)1月23日の福島民報新聞、福島民友新聞など各紙で入賞を大々的に報道された[16][2]。これらを典拠として『竹取物語』を日本人初の国際的作曲コンクール入賞作品とする文献があるが[12]、この作品が二等に入賞したとされる作曲懸賞募集の詳細は明らかになっていない。これは国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある[17]。日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのは外山道子の「やまとの声[18]」である。
『竹取物語』は、色彩的で斬新なオーケストレーションがなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。
この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で愛知県豊橋市在住[注釈 3]の内山金子(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も100通を超える熱烈な文通を経て1931年2月9日、古関21歳、金子18歳で入籍し、同年5月19日に結婚式を挙げた[19]。古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。
この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。『竹取物語』の所在も知れないという[注釈 4]。
1930年9月、コロムビアの顧問山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した[12][2]。東京では菅原明朗に師事した。菅原とは同年9月から11月頃に出会い、童謡歌手の古筆愛子の自宅で開かれた勉強会で菅原からリムスキー=コルサコフ著『実用和声法』を教科書として学んだのち、1933年から1934年頃までの2年間、菅原から個人教授を受けた[20]。菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関には深井史郎よりも才能があったと、後年まで称賛している。師と仰いだ菅原明朗のほかに、橋本國彦とも親交が厚かった。
しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、自身の内気な性格と当時の不況などが重なりそれは叶わなかった[15]。東京に移ってからのオーケストラ作品には、関東大震災を描いた交響詩『大地の反逆』があり[21]、これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。
1934年(昭和9年)、古関が25歳の頃、「利根の舟唄」(詩:高橋掬太郎、唄:松平晃)が自身初のヒット曲となり、作曲家としての地位を確立[22]。翌年の1935年(昭和10年)には新民謡調の「船頭可愛や」(詩:高橋掬太郎、唄:音丸)が26万枚を売り上げる大ヒットを記録し、人気作曲家の仲間入りを果たす[23][2]。「船頭可愛や」は瀬戸内海をイメージした長調の曲で[注釈 5][24]、1939年(昭和14年)には世界の舞台でも活躍したオペラ歌手・三浦環もレコードに吹き込んでいる[25]。
この頃、声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校へ進んでいた。金子は後に声楽家のベルトラメリ能子(よしこ)及びその師のディーナ・ノタルジャコモの教えを受けた[26]。また同時期に古関は伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。作曲家の古関と作詞家の野村俊夫(福島市出身)、歌手の伊藤久男(本宮市出身)の三人はいずれも福島県出身で「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれた[9]。
太平洋戦争中の古関は数々の名作軍歌、戦時歌謡を発表した[2]。
1944年(昭和19年)4月、大本営は特別報道班員派遣を企画し、文壇から火野葦平、画壇から宮本三郎、楽壇から古関を指名していたが、宮本は出発前日に急病となったため向井潤吉に急遽交代することとなった(なお古関は1942年にもラングーンを慰問している)[27]。
古関は自伝(『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』)で「インパール作戦従軍記」として一章を割いて詳細を記している[27]。ビルマには3人に朝日新聞記者の石山慶二郎(従軍記では慶次郎)を加えた4人で入り、ラングーン到着後、火野と向井が先に現地の様子を見に行くことになり、火野から歌詞の原稿を渡された[27]。古関は現地の軍楽隊とともに各地を慰問し、市内や近郊で住民のため演奏会を開いた[27]。また各部隊では部隊歌の作曲を依頼されることも多く、現地のビルマ舞踊団の歌や踊りの採譜、日本語学校への訪問なども行った[27]。
火野から託された歌詞はペストが蔓延する状況の中で「ビルマ派遣軍の歌」として完成した[28][29]。
古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「愛国の花」「暁に祈る」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「露営の歌[注釈 1]」に結びついたと証言している。また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。
その後、7月4日に大本営がインパール作戦の中止を発表したため、火野と向井の二人はライマナイから撤退してマンダレーで古関と合流[27]。ラングーンは毎日空襲を受け火野と向井は帰国したが、古関はサイゴンに赴いて演奏会などの活動を続けた[27]。
戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注ぎ、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「長崎の鐘」をはじめ、毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」や戦後日本の発展の象徴でもある1964年開催の東京オリンピックの開会式に鳴り響いた「オリンピック・マーチ」といったスポーツ音楽、現在も日曜以外のほぼ毎日放送されている『ひるのいこい』や『日曜名作座』といったラジオ番組のテーマ曲、その他にも「フランチェスカの鐘」「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。
テノールの美しい音色と格調のあるドイツ歌曲の唱法を基礎にした「クルーン唱法」で歌唱する藤山一郎、叙情溢れるリリックなバリトンで熱唱する伊藤久男など、古関の曲は実力派歌手にも恵まれた。
戦後は劇作家の菊田一夫と出会い、菊田脚本の戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌「とんがり帽子」を皮切りに、菊田と名コンビを組み、『君の名は』などのラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルの数々のヒット作品を世に送り出した[2]。1961年に菊田と手がけた森光子主演の『放浪記』は長期公演舞台となった。また、戦後の古関は、クラシック音楽の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。
古関は、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組にも出演。ラジオドラマ『君の名は』では放送中に、スタジオにハモンドオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め[2]、他の番組でも時折生演奏を行った。
フジテレビ系の音楽番組『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員を、1972年10月の放送開始から初代司会者の萩本欽一とともに1984年6月24日に降板するまで務めていた[2]。
1977年、「栄冠は君に輝く」制定30周年を記念して夏の甲子園の開会式に招待された。大会旗掲揚に当たり大会歌の大合唱が起こり、その光景に感激したという。また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。
1979年には最初の福島市名誉市民に選ばれ[30]、同地には1988年11月12日に「福島市古関裕而記念館」も建てられている。しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。
傘寿の誕生日を迎えて1週間足らずの1989年(平成元年)8月18日午後9時30分、古関は脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で没した(享年80)[31]。墓所は妻・金子(1980年没、享年68)と同じ神奈川県川崎市の春秋苑。古関家の墓がある福島市信夫山にも分骨された[32]。同年の秋ごろ、古関への国民栄誉賞の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。その理由について、古関の長男の古関正裕は「元気に活動している時ならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている[33]。このタイミングでの国民栄誉賞受賞をしていれば、作曲家としては1978年(昭和53年)の古賀政男に次いで史上二人目となる予定であった[注釈 6]。
古関裕而の偉業を記念し、永くその功績を後世に伝えるとともに、福島市から全国への文化の発信をめざし、『ふるさと創生事業』として平成3年(1991年)から『古関裕而記念音楽祭』が開催されている。
1998年5月、レンガ通りに古関裕而生誕の地記念碑が建てられた[34]。
2009年4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている[35]。
同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の福島駅東口駅前広場に設置された[36]。制作・施工費は約1500万円。30歳代後半の古関が、自身が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。
2020年3月30日から同年11月27日にかけて、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とするNHK連続テレビ小説『エール』が、窪田正孝の主演(子供時代・石田星空)で放送された[37][2]。
2020年6月30日、「高原列車は行く」のモデルとなった磐梯急行電鉄(出典原文では「沼尻軽便鉄道」記載)の歴史をたどり猪苗代町住民有志が作製したDVDが古関の出身地・福島市に寄贈された[38]。
2017年夏以降、出生地などで「野球殿堂」入りを応援する動きが活発になっていたが[39]、野球殿堂博物館が2023年(令和5年)1月13日、当年度の野球殿堂顕彰者(特別表彰部門)に古関を選出したことを発表した[40]。
2022年から福島市が「古関裕而のまち・ふくしま」の進展と発展のため、古関裕而の功績をレガシーとして継承し、100年の計としての福島市古関裕而作曲コンクールを開催することを決定した。将来の作曲家を目指す次世代を担う若者の育成と世界へ羽ばたく機会を創出することを趣旨とし、優秀な作品を発掘し全国の多くの吹奏楽団体で演奏されるレパートリーの開拓を目指すことを目的としている。[41]
主題歌のみのものは除く。
(以下は刑部芳則著『古関裕而―流行作曲家と激動の昭和』に基づく[59]。)
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