古関正裕

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古関 正裕(こせき まさひろ、1946年昭和21年〉7月10日[1] - )は、日本の著作家[2]音楽家[3]。古関裕而音楽事務所代表[4]。父は作曲家古関裕而、母は声楽家詩人古関金子。著述業での筆名は真佐 裕哉(まさ ひろや)で、著書に『緋色のラプソディー』(2008年)がある[4]東京都出身。成城学園初等学校成城学園中学校高等学校早稲田大学理工学部卒業[5][6]

概要 古関 正裕(こせき まさひろ), ペンネーム ...
古関 正裕
(こせき まさひろ)
ペンネーム 真佐 裕哉
誕生 (1946-07-10) 1946年7月10日(78歳)
東京都
国籍 日本
最終学歴 早稲田大学理工学部卒業
活動期間 2008年 -
代表作 『君はるか 古関裕而と金子の恋』
デビュー作 『緋色のラプソディー』
親族 古関裕而(父)、古関金子(母)
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概要 古関正裕, 担当楽器 ...
古関正裕
担当楽器 キーボード、ピアノ
共同作業者 喜多三
公式サイト 古関裕而を歌い継ぐライブユニット「喜多三(KITASAN)」
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経歴

姉が2人の3人姉弟の家庭環境で、ビートルズの流行する世代で育つ[7]。父譲りの音楽好きで、小学1年生から12年間、ピアノを習う[5]。高校時代は、ビートルズやエルヴィス・プレスリーに夢中で、父の曲にはほとんど関心がなかったが、1964年(昭和39年)開催の東京オリンピック行進曲『オリンピック・マーチ』のみはレコードで繰り返し聴き、後年に「思い出の一曲」と絶賛している[8]

学生時代に、グループ・サウンズヴィレッジ・シンガーズ」にキーボードで参加し[7]カントリーバンドでもピアノで活動する[5][9]。一時はプロを考え、「父の曲は古い」というイメージも持つ[5][7]。しかし、自作の音楽を父の古関裕而に聞かせたところ「頭で考えて作っているね」と言われ、音楽では何をやっても父を超えられないと考えたこと、また「親の七光り」と思われるのを嫌ったことで、「音楽は趣味で楽しもう」と考えて、敢えて異なる道を選ぶ[5][10]。早稲田大学理工学部では数学を専攻。卒業後は日本経済新聞社に就職し[11]、電子メディア局などで[7]、オンライン情報システムの設計などに取り組む[5]

1998年(平成10年)、52歳で早期退職[5][12]。実家が呉服屋だった縁からか、ブティックを始めた後[12]小説の執筆にも取り組む[5]。やがて、学生時代のバンド仲間が次々に退職し、中年男性同士でのバンドを組むとの話が持ち上がり、「父の曲を自分で演奏するのも良い」と考え、「もう一度音楽を勉強しよう」と、ピアノ教室での勉強を再開する[7][12]

2009年(平成21年)、父の生誕100周年を記念して、出身地である福島市に記念碑が設置されたことを機に、父の音楽の魅力を伝えるのが自分の務めと考えて、CD全集を企画・監修する[7]。同2009年、このCDの企画監修で日本レコード大賞の企画賞を受賞する[5]。父の没後の25年後にあたる2013年平成25年)、音楽仲間の勧めもあり[5]、父の音楽を中心とした音楽ユニットを結成[11]、生家である喜多三呉服店から「喜多三」と命名し、福祉施設などでの演奏で活動している[7][13]

両親をモデルとしたNHK連続テレビ小説エール』の放映年度である2020年令和2年)の2月には、両親の生涯を小説仕立てとして著した作品『君はるか 古関裕而と金子の恋』(集英社インターナショナル)を発表[14]。また、同年、福島民報企画による父・古関裕而のベストアルバム『あなたが選んだ古関メロディーベスト30』の監修も務める[15]。同2020年10月出版の、母・古関金子の生涯を紹介する『豊橋生まれの声楽家・古関裕而の妻 古関金子』(豊川堂)では監修として、両親の写真の提供も手掛けている[16]

出演

脚注

外部リンク

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