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内田 栄一(うちだ えいいち、1901年(明治34年)3月25日[1] - 1985年(昭和60年)7月27日[1])は、昭和期の声楽家(バリトン)、歌手、オペラ歌手、指揮者、合唱指揮者、音楽教育者。旧字体の榮一と表記されるときがある。
京都府出身[1]。1925年(大正14年)東京音楽学校本科卒業。ネトケ=レーヴェに師事。1927年(昭和2年)[2]2月[3]に開始されたNHK放送オペラのメンバー(松平佐登子(松平里子)、佐藤美子、田谷力三、内田)[3]により、同年10月[4]「オペラの研究並びに紹介をなす[4]」ことを目的として、歌劇研究グループ「レスビアン・ヴォーカル・フォア」(のち「ヴォーカルフォア」)結成。のちに田谷と佐藤が脱退する。第一次放送オペラは1930年(昭和5年)まで全18回放送される[3]。
1929年(昭和4年)7月30日(火)主催 ヴォーカル.フォア「内田栄一 独唱ノ夕」開催(ピアノ伴奏 上田仁、於 日比谷音楽堂)[5]。
1930年(昭和5年)11月15日(土)に主催ヴォーカル フォア合唱團「松平里子渡欧記念演奏會」が開催[5]され、松平は1931年(昭和6年)渡欧の際にヴォーカルフォア合唱団の運営を内田と平井美奈子に託した[6]。内田はヴォーカルフォアを運営し、第二次放送オペラ(1931年(昭和6年) - 1937年(昭和12年)全19回に出演[3]。
並行して、ソリストとして、1928年(昭和3年)近衛秀麿作曲・指揮の新交響楽団(後のNHK交響楽団)『大禮交聲曲』のバリトンソロを務める。同曲は1931年(昭和6年)に同じく新交響楽団で再演され、やはり内田がバリトンソロである。ヴォーカルフォア主催公演においては、1928年(昭和3年) - 1938年(昭和13年)の間に少なくとも8回出演。藤原歌劇団でも、1935年(昭和10年)プッチーニ『トスカ』アンジェロッティ以来ソリストを務めている[7]。1936年(昭和11年)3月には日比谷公会堂にてガブリエル・フォーレ作曲『鎮魂彌撒曲』日本初演にバリトンソロで出演[8]。藤原歌劇団への出演は1946年(昭和21年)のマスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』アルフィオまで続いた[7]。その後のオペラへの出演は、1949年(昭和24年)日本オペレッタ協會旗擧公演オッフェンバック『ブン大將』タイトルロールと、1950年(昭和25年)都民劇場第7回公演ユリウス・アイヒベルク『アルカンタラの醫者』バルタザルのみとなっている[7]。
1945年(昭和10年)ヴェルディ『リゴレット』以来、藤原歌劇団の合唱をヴォーカルフォア合唱団がつとめており、合唱指揮を内田が行っている。こちらも1946年(昭和21年)のレオンカヴァッロ『道化師』『カヴァレリア・ルスティカーナ』まで続いている[7]。(合唱はヴォーカルフォア合唱団→日本合唱團→藤原歌劇団合唱部と改称を続けて引き続き存続している)
レコードに関しては、戦前から戦中にかけてきわめて数多くの吹込みを行っており、流行歌もあるが、軍歌なども多く、国威発揚に大いに動員されている。その中には1940年(昭和15年)11月ポリドールレコード発売の『月月火水木金金』など大ヒットしたものもある。
戦後は「日本語の美しさを歌う独唱会」などの活動を長く行い、東洋音楽専門学校(現:東京音楽大学)、自由学園、日本大学講師、東邦音楽大学教授、上野学園大学講師なども務める[1]。のち、東邦音楽大学名誉教授[1]。
以下に掲出したものの他に、国立国会図書館歴史的音源だけでも65件もの音源が記録されている[9]。その中には指揮を務めているものもある。
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